空が、あまりにも青かった。
どこまでも高く、どこまでも深い。
果てという概念すら、その色の中へ呑み込まれてしまったかのような蒼穹が、広大な世界を覆っている。
薄く流れる雲は、白い羽毛を空へ溶かしたように淡く、輪郭を緩やかに崩しながら音もなく彼方へ流れていた。
澄み切った風が大地を渡る。陽光を浴びた草原を優しく撫で、葉と葉を擦れ合わせながら、湿った土と若い草の青い香りを遠くまで運んでいく。
空の下には、白い山脈が連なっていた。
地平の向こうから幾重にも重なる峰々は、巨大な刃を天へ突き立てたように鋭い。その頂には一年を通して消えることのない雪が積もり、雲間から差し込む光を受けて白銀に輝いている。
山々の麓からは、果ての見えない草原が広がっていた。低くなだらかな丘が幾つも連なり、その表面を埋め尽くす草が、風を受けるたび一斉に同じ方向へ身を倒す。
緑の波は近くから遠くへ、遠くからさらに彼方へと伝わり、まるで大地そのものが静かに呼吸しているかのようだった。
ところどころには、小さな白い花や淡い黄色の花が咲いている。名も知らぬ蝶がその間を舞い、小鳥が草の穂へ降り立っては、また軽やかに空へ飛び立っていく。
世界は静かだった。
穏やかで、広大で、美しい。
争いも、怒号も、悲鳴もない。
目に映るもののすべてが平穏の中にあり、まるでこの場所だけが、あらゆる醜悪なものから切り離されているかのようだった。
その広大な景色を切り裂くように、一本の街道が伸びている。
石畳ではない。
整えられた道標もなければ、街灯や柵が設けられているわけでもない。
幾人もの旅人が歩き、荷馬車が通り、長い年月をかけて踏み固められた土の道だった。乾いた地面には深い轍が残り、ところどころに馬の蹄の跡が刻まれている。
その細長い痕跡だけが、この果てしない大地にも人という営みが存在していることを、静かに物語っていた。
その街道の上に、一人の男が立っていた。
黒い髪。
灰色がかった黒の上衣に、それ以上に暗い色の道着。腰には、鮮血を思わせる赤い帯が巻かれている。
風が吹くたび、衣の裾がわずかに揺れた。だが男自身は、石像のように微動だにしなかった。
整った顔立ちは、冷たい彫刻のように端正だった。
だが、その印象は一瞬で塗り潰される。
瞳。
その双眸だけが、ひどく異質だった。
深い闇を閉じ込めたような黒。
光を映しているはずなのに、どこまでも底が見えない。冷たく、昏く、生あるものへ向けられる温度を一切宿していない眼差しだった。
そこには怒りもなければ、喜びもない。
見知らぬ世界へ放り出された戸惑いも、未知の景色を前にした驚きさえ存在しなかった。
あるのは、ただ静かな無関心だけだった。
同時に、目に映るものすべてを、自分より遥か下にあるものとして見下ろす絶対的な傲慢さだけだった。
その視線が、ゆっくりと空へ向けられる。
彼はしばらく空を眺めた後、ほんのわずかに目を細めた。やがて、その口が静かに動く。
「……くだらん。目を覚ました先が、これほど退屈な世界とはな」
低い声だった。
大きな声ではない。誰かへ聞かせるために発した言葉でもなかった。
それでも、その声は不思議なほど明瞭に響き、草原を渡る風の中へ冷たく溶け込んでいった。
感動も、驚きもない。未知の世界へ対する好奇心すら存在しない。
ただひたすら、冷淡だった。
世界そのものへ何の価値も見出していない者だけが持つ、乾き切った響き。
目の前に広がる美しい景色さえ、彼にとっては取るに足らない背景の一つでしかないのだと、その短い言葉だけで理解できた。
彼は、この世界の住人ではない。
ほんの少し前まで、彼はまったく異なる世界にいた。
否。
本来であれば、こうして再び空の下へ立っていること自体があり得なかった。
彼という存在は、既に消滅しているはずだった。
人間という忌まわしき存在を滅ぼすため、神の正義を掲げて人間ゼロ計画を遂行し、その果てに敗北と終焉を迎えた。
最後に見た光景も、耳にした声も、肉体を呑み込んだ光の感覚も、ブラックは鮮明に覚えていた。
存在そのものが消え去る、その刹那まで、記憶には何一つ欠落がない。
だが、次に意識を取り戻した時、彼はこの草原に立っていた。
身体には傷一つない。
目覚めるまでの空白だけが、まるで最初から存在していなかったかのように抜け落ちている。
理解不能な現象だった。
誰かの干渉か。
神の悪戯か。
異なる宇宙へ引き寄せられたのか。
死という概念を越え、何者かに再構成されたのか。
考えようと思えば、いくらでも仮説は立てられる。
だが、ブラックはその理由に執着しなかった。
知る必要が生じれば、その時に知ればいい。
知らぬままであろうと、今のところ何の不都合もない。
世界が何であろうと、そこに誰の意思が介在していようと、そんなものは、彼にとって本質ではなかった。
ブラックは静かに拳を握る。
指が掌へ沈む。だが骨が軋む音はなく、筋肉が強張ることもない。ただ、自らの内側へ意識を沈めていく。
肉体の奥底。血の巡りよりもさらに深い場所を流れる、膨大な気。
その流れを確かめるように、全身へゆっくりと循環させる。
瞬間。
足元に生えていた草が、さざ波を受けたように揺れた。
風ではない。
ブラックを中心として広がった、目に見えぬ圧力に押されたのだ。
周囲の空気が低く震え、土の上に落ちていた小石が、かすかな音を立てて転がった。
すぐ近くの草むらで羽を休めていた小鳥が、何かに怯えたように一斉に飛び立つ。慌ただしい羽音を響かせながら、青い空の彼方へ逃げ去っていった。
ブラックはそれを見ようともしない。目を閉じたまま、己の内側を流れる力だけを静かに見定めている。
やがて、ゆっくりと瞼を開いた。
問題ない。力は失われていなかった。むしろ、肉体は以前と変わらぬ精度で、その膨大な気を受け入れている。
重力は、元いた世界より僅かに軽い。空気の密度も異なる。大気の中に漂う気配も、生命から発せられる力の質も違っていた。
大地の奥底からは、自分の知る気とは異なる、薄く不可思議な力の流れが感じられる。それは空気中にも漂い、草木や土、遠くの山々にまで染み込んでいた。
この世界は、自分がいた世界とは別の法則によって形作られている。
理屈ではなく、神としての本能がそう告げていた。
だが、ブラックは動揺しない。
警戒はしても、恐れはしない。
たとえ世界も宇宙も異なり、その理が自らの知るものとは違っていようと。神である己が、神であるという事実に変わりはない。
むしろ、未知の法則に従うべきなのは自分ではない。
この世界の側こそが、やがて自分という存在を理解することになる。
ブラックはわずかに口元を歪めた。
それは笑みというより、人間という存在を思い出した時にだけ浮かぶ、冷たい嘲りだった。
「どのような世界であろうと、人間がいる限り、本質は変わるまい」
人間は争う。
裏切る。
憎む。
弱い者を踏みにじりながら、自分だけは善良であると信じる。
命を奪いながら、必要な犠牲だったと正当化する。
欲望に従って世界を汚しながら、それでも未来や希望という美しい言葉を口にする。
それこそが、人間という種族だ。
世界が一つ変わった程度で、その本質まで変化するとは到底思えなかった。
たとえ世界の在り方そのものが自らの知るものとは異なっていようと、人間が人間である限り、最後には同じ醜悪さへ辿り着く。ブラックはそう確信していた。
やがて、彼は歩き出した。
誰かとの約束も、果たすべき使命も、帰るべき場所さえ彼には存在しなかった。
それでも、迷うことなく街道へ足を踏み出した。
ただ、この世界を見る。
どのような理によって成り立ち、どのような生命が生き、どれほど醜い人間が住まっているのか。それを見定めるために。
滅ぼすと決めたわけでも、救うつもりもない。ただ観察し、退屈を紛らわせる程度に、この世界の価値を見る。
それだけだった。
◇
どれほど歩いただろうか。
時間という概念すら意識しないまま、ブラックは街道を進み続けていた。
頭上にあった太陽は少しずつ高さを増し、朝の草原に残っていた冷気は、穏やかな暖かさへと変わっている。
草葉を濡らしていた露は消え、街道の土も乾き始めていた。
風は絶えず草原を渡っていた。
遠くから鳥の声が届き、ときおり小さな獣が草むらから顔を覗かせた。
だが、ブラックの姿を認めた瞬間、何かを感じ取ったように身を翻し、草の奥へ逃げ込んでいく。
平和だった。
どこまでも穏やかで、退屈なほどに。
ブラックは疲労を感じない。
呼吸一つ乱さず、汗一つ流さず、初めに歩き出した時とまったく変わらぬ歩幅で進み続ける。
その姿は、目的地へ急ぐ旅人には見えなかった。
景色を楽しむ放浪者でもない。
ただ、世界の外側に立ち、その内部を冷ややかに観察する傍観者。
広大な大地の中を歩いていながら、どこかこの世界そのものから切り離されているような、異様な存在感を放っていた。
不意に、ブラックの歩みが止まった。
何かに驚いた様子はない。足を踏み出すことを、静かにやめただけだった。
前方。
数百メートルほど先に、複数の気配があった。
どれも弱く、虫けらにも劣る程度の力しか持たない。だが、その気配の中には、恐怖と焦燥が濃く混じっていた。
ブラックはゆっくりと視線を向ける。街道の先に、一台の馬車が止まっていた。
古びた木製の車体。荷台には布袋や木箱が積まれ、旅商人のものだとすぐ分かる。
その馬車の周囲を、数人の男たちが囲んでいる。
粗末な革鎧を着込み、手入れもされず、刃こぼれを起こした剣や赤錆の浮いた斧を持っている。
汚れた衣服からは長く水を浴びていないことが窺え、伸び放題の髭に覆われた顔には、獲物を前にした獣じみた笑みが浮かんでいた。
一目見ただけで、何者なのか理解できる。
盗賊。
その言葉以外に、彼らを表すものはなかった。
馬車の前には、中年の商人が立っていた。
顔は血の気を失い、額には脂汗が浮かんでいた。旅のために着込んだ厚い服は土で汚れ、両手は小刻みに震えている。
その隣には、十歳ほどの少年がいた。
二人とも顔を青ざめさせ、盗賊たちに囲まれたまま身動き一つ取れずにいる。
商人は必死に頭を下げていた。
「頼む……! これだけは勘弁してくれ! この薬草は村に届けなければならないんだ!」
声は震え、ところどころ掠れていた。
恐怖を押し殺し、必死に言葉を絞り出している。
ただ自分の命を惜しんでいるだけではない。
盗賊に囲まれ、刃を向けられながらも、商人の視線は何度も荷台へ向いていた。
そこに積まれた薬草。
何としてでも届けなければならない理由があるのだろう。
だが、
「知るかよ」
盗賊の頭目らしき男が、吐き捨てるように鼻で笑った。
その顔には、商人の懇願を聞き入れる意思など最初から欠片も存在していない。
次の瞬間。
男の足が無造作に持ち上げられ、商人の腹部へ容赦なくめり込んだ。
鈍い音が響く。
商人の身体がくの字に折れ、その両足が一瞬、地面から離れた。
「ぐっ……!」
押し潰されたような声が喉から漏れる。
そのまま商人は後方へ弾き飛ばされ、乾いた土の上を転がった。服が地面を擦り、舞い上がった土埃が身体を覆う。
「父さん!」
少年の悲鳴が草原へ響き渡る。
少年は倒れた父親へ駆け寄ろうと、一歩を踏み出した。
しかし、その細い身体が父親の元へ辿り着くことはなかった。
「大人しくしてろ!」
別の盗賊が腕を伸ばし、少年の髪を乱暴に掴み上げた。
「いっ……!」
頭皮を引かれ、少年の顔が苦痛に歪む。
目に涙が浮かび、小さな両手が盗賊の太い腕へ伸びる。指を食い込ませ、必死に引き剥がそうとするが、子供の力ではびくともしない。
盗賊はそれを面白がるように、さらに腕を持ち上げた。
少年の踵がわずかに地面から浮く。
父親は腹を押さえながら、懸命に身体を起こそうとしている。
「や、やめろ……息子には……!」
その声に力はなかった。
盗賊たちは笑っていた。他者の苦痛を眺め、その無力さを嘲り、自分たちの優位へ酔いしれる。
その光景を、ブラックは無言のまま眺めていた。
何の感慨も抱かなかった。
少年の悲鳴を聞いても、商人の懇願を聞いても、彼の胸には何一つ生まれない。
人間が、人間を踏みにじっている。ただそれだけのことだった。むしろ、見慣れた光景ですらある。
人間とは、そういう生き物だ。
力を持つ者は弱者から奪う。弱者は救いを求めながら、自分よりさらに弱い者を見つければ、同じように踏みにじる。
互いに争い、傷つけ、殺し合いながら、それでも自らの行いだけは正しいと信じる。
その醜さは、世界が変わっても何一つ変わらない。
ブラックは小さく息を吐いた。
「……愚かなものだ」
その一言には、飽きるほど見続けてきたものを眺めるような倦怠さがあった。
興味を失ったブラックは、視線を前へ戻す。
盗賊も、商人も、泣き叫ぶ少年も。その場に存在するすべてを、既に意識の外へ追いやっていた。
この程度の光景に、足を止め続ける価値はない。
この世界の人間も、やはり何も変わらない。
そう結論づけながら、ブラックは再び歩き出した。
馬車の脇を通り、そのまま何事もなかったかのように立ち去ろうとした。
――しかし。
「おい!」
荒々しい怒声が街道へ響いた。
盗賊の一人が、こちらへ歩いてくるブラックの姿に気付いたのである。
「そこの黒い奴! 見てんじゃねえ!」
ブラックは静かに足を止めた。振り返ることもなく、身体は街道の先へ向けたまま視線だけを男へ動かした。
その瞬間だった。
盗賊は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
理由は分からない。
目の前の男は武器を持っていない。鎧を着ているわけでもない。見るからに魔法使いと分かる装備を身につけてもいなかった。
それでも、その黒い瞳を真正面から見た瞬間、盗賊の背筋を冷たいものが這い上がった。
心臓が、理由もなく大きく脈打つ。
喉の奥が干上がり、舌が上顎へ貼りつく。
まるで人間ではない何かと、目が合ってしまったような感覚だった。
人間を獲物として見るのではなく、そもそも人間を、同じ命として認識していない存在。
遥か高みから地上を見下ろし、そこに蠢く生命を等しく塵としか捉えていない、絶対的な上位者。
そんな錯覚が、盗賊の本能を一瞬で掴んだ。
逃げろ。関わるな。その存在を刺激してはならない。
身体の奥底から、そんな警告が響いた。
だが、その恐怖はすぐに虚勢へ塗り潰された。
仲間がいる。自分たちは数で勝っている。剣も斧も持っている。
相手はたった一人だ。恐れる理由などない。
そう言い聞かせるように、盗賊は口元を歪めた。
「なんだ、その目は」
ブラックは答えず、ただ見ていた。視線の先にいる盗賊を、敵として認識した様子すらなかった。
その無言の態度が、かえって男の神経を逆撫でした。
盗賊は得体の知れない恐怖を振り払うように、声を荒げる。
「気に入らねぇな」
その言葉を聞いたブラックの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
冷笑。
あるいは、嘲笑。
どちらとも判別できないほど小さな変化だった。
だが、そこには確かに、目の前の盗賊だけではなく、人間という種族そのものを見下し、嘲る色が宿っていた。
「……気に入らない?」
静かな声だった。だが、その一言だけで空気が変わる。
場の空気が変わった。
草原を渡っていた風が、まるで息を潜めるように弱まる。
騒いでいた馬が鼻を鳴らし、落ち着かない様子で地面を掻いた。
盗賊の手の中で、錆びた剣がかすかに震える。
ブラックはゆっくりと正面へ身体を向けた。
「奇遇だな。それはこちらの台詞だ」
言いながら、ブラックは一歩だけ前へ出た。
その一歩はあまりにも静かだった。土を踏み締める音すら、小さい。
それなのに、盗賊たちは揃って息を呑んだ。
距離が一歩分縮まっただけとは思えなかった。
まるで視界を埋め尽くすほど巨大な岩山が、音もなく眼前へ迫ってきたかのような圧迫感。
逃げ場のない暗い穴の中で、何か途方もなく巨大なものに見下ろされているような恐怖。
――近づけるな。
――それ以上、近づけてはならない。
盗賊たちは、その警告を振り払うように顔をしかめた。
恐怖を認めれば、その瞬間に自分たちの優位が崩れる。
だからこそ、握った武器へ力を込める。
ブラックは彼らを見下ろした。その瞳には、敵を見る意思すら宿っていない。
人を見る目ではなかった。
路傍に転がる小石を見るような。
あるいは、足元を這う虫を見下ろすような、そんな視線だった。
「虫けら風情が、神の歩みを妨げるとは。己の分際すら理解できんらしいな」
淡々とした声音だった。
怒りも、威圧する意思もない。
だからこそ、その言葉は盗賊たちの神経を逆撫でした。
一瞬の静寂が落ちた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
街道を吹き抜ける風が、草の穂先を揺らしている。馬車に繋がれた馬は落ち着きを失ったように鼻を鳴らし、蹄で何度も地面を掻いていた。
盗賊たちは、目の前に立つ男を見つめている。
黒い衣。冷たい瞳。そして、神。
そのあまりにも現実離れした言葉を、しばらく誰も理解できずにいた。
やがて、一人の盗賊の口元が、引き攣るように持ち上がった。
「……ぶっ!」
吹き出した声が、張り詰めた空気を乱暴に破る。
それをきっかけに、盗賊たちは一斉に笑い始めた。
「神だってよ!」
「聞いたか、おい!」
「頭がおかしいんじゃねぇのか!?」
下卑た笑い声が、静かな草原へ広がっていく。
先ほどまで本能が覚えていた恐怖を、笑い声で覆い隠そうとしているかのようだった。
誰もが必要以上に声を張り上げている。
目の前の男へ感じた得体の知れない恐怖を、冗談へ変えてしまいたい。
そうしなければ、自分たちの足元が崩れてしまう。
その焦りが、笑いの奥に薄く滲んでいた。
「そんな立派な服着てるってことは、金は持ってそうだな!」
「身ぐるみ全部剥いじまおうぜ!」
「女じゃねぇのが残念だかな!」
欲に濁った声が重なる。
商人は倒れたまま、苦しそうに腹を押さえていた。顔を上げ、盗賊たちの向こうに立つブラックを見る。
その表情には恐怖があった。
盗賊たちに対する恐怖。そして、それとはまったく異なる種類の恐れ。
先ほどから、黒衣の男は何一つ動じていない。
囲まれても、武器を向けられても、嘲笑されても、その顔には苛立ちすら浮かんでいなかった。
まるで、笑われていることにさえ興味がない。その姿が商人には不気味だった。
同時に、自分たちを救えるとすれば、この男しかいない。そんな淡い期待が、絶望の中でわずかに芽生えていた。
少年もまた、涙に濡れた目でブラックを見つめている。
痛みに耐えながら、髪を掴まれたまま、声を上げることも忘れたように。
三人の盗賊が剣を抜いた。
鞘の内側を擦る、耳障りな金属音。
赤錆の浮いた刃が陽光を受け、鈍く光った。
刃先には欠けがあり、何人もの血を吸ったのか、拭い切れない黒ずみが残っていた。
盗賊たちは扇状に広がり、逃げ道を塞ぐように位置を取った。
ブラックは動かない。構えもしない。拳を握ることすらせず、両腕を自然に下ろしたまま、ただ彼らを眺めていた。
その態度が、盗賊たちの最後の理性を焼いた。
「死ねぇッ!」
怒号と共に地面を蹴る。
三人が同時に駆け出した。
靴底が土を抉り、乾いた砂が後方へ弾け飛ぶ。
粗末な鎧が擦れ合い、革と金属の軋む音が重なる。
三方向から一気に距離を詰める。
正面の男が剣を振り上げる。
右側の男は胴を薙ぐように刃を引く。
左側の男は、逃げ場を潰すように低く踏み込んだ。
連携などと呼べるほど洗練された動きではない。だが、旅人や商人を襲うには十分だった。
三本の剣が、それぞれ異なる角度からブラックへ迫る。
商人は息を呑んだ。次の瞬間、何が起きるのか想像してしまったのだろう。
「に、逃げてください……!」
掠れた声が、必死に絞り出される。
ブラックは振り返らない。
返事もしない。
商人の警告など、聞こえていないかのようだった。
剣が届く。
誰もがそう思った。
三本の刃が、黒衣の男の身体へ食い込む。そうなるはずだった。
だが、刃が届くその刹那、ブラックの姿が視界から消えた。
実際に消えたわけではない。その場にいた者たちの目が、彼の動きを捉えることができなかっただけだ。
風がわずかに乱れた。
黒い残像だけが、一瞬遅れて空気の中へ残る。盗賊たちの剣が、何もない空間を斬り裂いた。
刃と刃が触れ合い、甲高い音を立てる。
「な――」
一人が、声を漏らす。
その言葉が最後まで形になるより早く、轟音が響いた。
草原の静けさを真正面から打ち砕くような、重く激しい衝撃音。
そして空気が爆ぜた。
一人の盗賊の身体が、まるで巨大な槌で横殴りにされたかのように宙へ浮いた。
否。
ブラックは、ただ軽く足を上げただけだった。
足先を持ち上げ、迫ってきた男の脇腹へ触れさせる。
それだけの動作だった。
だが、その瞬間。
盗賊の身体は、人間の肉体が本来耐えられる限界を遥かに超えた力で弾き飛ばされた。
「がっ――!」
声にならない音が喉から漏れる。
男の身体が地面と平行になる。
次の瞬間には、砲弾のような速度で街道の外へ吹き飛んでいた。
空気を引き裂く。
衣服が激しくはためき、手にしていた剣が指から離れ、遥か後方へ回転しながら飛んでいく。
男の身体は何十メートルもの距離を一息に進み、そのまま地面へ叩きつけられた。
土が爆ぜた。草が千切れ飛ぶ。だが、勢いは止まらない。
身体が地面を跳ねるたび、鈍い音が響いた。
どこから鳴っているのか分からないほど多くの骨が、乾いた枝のように砕けていく。
男の進行方向に、大岩があった。
人間が数人がかりで、ようやく抱えられるほど巨大な岩。盗賊の身体が、その岩へ激突する。
腹の底へ響くような衝撃音がした。
一瞬遅れて、大岩の表面に、細い亀裂が生まれた。
亀裂は瞬く間に枝分かれし、蜘蛛の巣のように岩全体へ広がっていく。
次の瞬間。
岩そのものが、内側から爆ぜるように砕け散った。
大小の破片が四方へ飛び散る。舞い上がった土煙が高く立ち上り、周囲の景色を白茶けた幕で覆い隠す。
砕けた岩の中心で、盗賊はぴくりとも動かなかった。
その光景を、残る二人の盗賊は、目を見開いたまま見つめていた。
理解できない。何が起こったのか。思考が現実へ追いつかない。
蹴った。
それだけは分かった。
だが、本当にただ蹴っただけなのか。
人間を何十メートルも吹き飛ばし、巨大な岩を砕くほどの力を、あの男は何の予備動作もなく放ったのか。
いや、そもそもいつ動いた。
いつ、自分たちの包囲を抜けた。
頭の中に疑問が溢れる。
だが、それに答えを出す時間は与えられなかった。
ブラックは、既に二人目の眼前へ立っていた。
男は悲鳴すら上げられない。黒い瞳だけが自分を映している。
その瞳に敵意はない。
ただ、処分する価値もない何かを見るような冷たさだけがあった。
ブラックは無造作に拳を突き出す。
速さは感じない。大振りでもない。
まるで前へ手を伸ばしただけのような、ごく自然な動作だった。
しかし、拳が腹部へ触れた瞬間、男の身体が「く」の字に折れ曲がった。
「がはっ――」
空気が肺から一瞬で押し出される。
目が見開かれ、口からは唾液が飛び散った。
衝撃は腹だけでは終わらない。拳から放たれた圧倒的な力が全身を貫き、骨を軋ませ、内臓を揺さぶり、その身体を完全に支配する。
男の足が地面から浮く。
男の身体が後方へ飛ばされようとする。
ブラックはそれより早く、一歩前へ出た。その動きに迷いはない。倒れかけた男の頭上へ片足を持ち上げた。
そして、静かにその頭へ足を乗せた。
踏みつけるというより、逃げようとするものを押さえつけるような、あまりにも淡泊な動作だった。
その身体から力が抜け、まるで糸を切られた人形のように動かなくなった。
ブラックは足をどける。
服にも、靴にも、土一つ付いていない。
草原に静寂が戻った。
残っているのは、一人だけだった。
最後に残った盗賊は、その場に立ち尽くしていた。握っていた剣が、小刻みに震えている。
腕ではない。身体そのものが震えていた。喉が鳴り、額から一筋の汗が流れ落ちる。
先ほどまでそこにあった威勢も、仲間に囲まれていた時の余裕も、跡形もなく消え失せていた。
「な……」
声にならない。
目の前で起きた出来事を、脳が理解することを拒んでいる。
三人で襲い掛かった。
ほんの数秒前まで、自分たちは笑っていた。
それが今では、一人は大岩ごと吹き飛ばされ、一人は地面へ押し潰された。自分だけが、その場へ取り残されている。
たった一人の男に、武器すらまともに振るわせてもらえず圧倒された。
盗賊は一歩後ずさる。乾いた土を踏む音だけが、小さく響いた。
「な、なんなんだ、お前……!」
震えた声だった。
問い掛けというより、悲鳴に近い。
ブラックは答えない。
かわりに、ゆっくりと歩き出した。
焦ることもなく、急ぐこともなく、逃げる獲物を追う捕食者ですらない。
ただ、自分の進む道に小石が転がっているから、それを見下ろしながら歩いている。それほど自然な足取りだった。
盗賊は息を呑む。逃げろ、と本能がそう叫んでいる。
だが、足が動かない。膝が笑っている。目の前の男から目を逸らすことさえできない。
ブラックは盗賊の目の前で足を止めた。
二人の間に流れる沈黙は、妙に長かった。
風が吹き、草が揺れる。どこか遠くで鳥が鳴いた。
穏やかな自然の音。
先ほどまでと何一つ変わらない、美しい草原。
だからこそ、目の前に立つ黒衣の男の異質さが、より鮮明に浮かび上がっていた。
ブラックは静かに口を開いた。
「貴様らのような存在を、見るたびに思う」
その声音には、怒気がなかった。
軽蔑はある。
だが、それさえも熱を持ってはいない。
感情の波をとうに越え、何度も同じ醜悪さを見続けた者の、冷え切った倦怠だけが込められていた。
「人間とは、なぜこうも醜い?」
盗賊は答えられない。唇だけが震える。口の中は乾き、声を出そうとしても、喉からは掠れた息しか漏れなかった。
ブラックは盗賊の背後にいる、すべての人間という種族そのものへ向けて、問いを投げていた。
盗賊は尻餅をついた。剣が手から滑り落ちる。乾いた金属音が街道へ響いた。
「ま、待ってくれ……!」
身体を引きずるように後退した。
つい先ほどまで商人の懇願を笑い、少年の髪を掴み、自らが命を奪う側にいると信じていた男。
今は、自分の命が失われる恐怖に、醜く顔を歪めている。
ブラックは右手をゆっくりと持ち上げた。その動作は、ひどく静かだった。指を揃え、その先端を盗賊へ向けた。
次の瞬間。
指先に、小さな黒い光が灯った。
闇を凝縮したような、豆粒ほどの小さな光点。
だが、その光が現れた瞬間、周囲の空気が震えた。
空間そのものが軋むような低い唸りが響く。
草原を渡っていた風が止まり、木々の葉がざわめきを失う。
馬が激しくいななき、荷車を繋ぐ縄を引きちぎらんばかりにもがき始めた。
商人は思わず息を呑む。
少年は父の衣へしがみつきながら、震える目でブラックの指先を見つめていた。
本能が告げていた。
あれは、命ある者が触れてよいものではない。
盗賊も理解した。
あれを受ければ、自分という存在は、この世から跡形もなく消える。
そんな確信だけが、恐怖となって全身を支配した。
「ひっ……!」
情けない悲鳴が漏れ、涙が溢れる。鼻水を垂らしながら、盗賊は必死に首を振った。
「や、やめろ……!」
声が裏返る。
「頼む……頼むから、やめてくれ……!」
命乞いだった。
無様で、醜く、誇りも何もない。
ただ、生きたい。
その一心だけが、その男を突き動かしていた。
ブラックは無言のまま、その姿を見下ろしていた。
黒い光はなおも指先で静かに脈動している。
あと少し。
ほんの少し指先を動かすだけで終わる。
世界から一つ、醜い命が消えるだけのことだった。
だが、その瞬間。
ブラックは、ふと目を細めた。
視界の端に映る、腰を抜かした商人。その腕の中では、少年が父を庇うように、必死にしがみついていた。恐怖に震えながらも、父親の前へ出ようとしている。
そして目の前には、地面へ這いつくばり、涙と鼻水で顔を濡らしながら命乞いを続ける盗賊。
そのすべてが、矮小だった。
あまりにも脆く、弱く、そして愚かだった。
その命は軽く、その覚悟は浅く、その醜さだけが無意味に肥大している。
自らが奪う側にいる時は傲慢に振る舞いながら、奪われる側へ回った途端、無様に泣き叫ぶ。
その姿を眺めているうちに、ブラックの内側にあった、僅かな殺意さえ薄れていった。
怒りでも、慈悲でもない。
ただ、取るに足らなかった。
ブラックは静かに口を開く。
「愚かな人間には、死こそが恵みだ」
淡々とした声音だった。
神が真理を語るように、そこにある事実を当然の理として告げるような声だった。
盗賊の顔がさらに歪む。
自分の死が決まった、そう理解したのだろう。喉から押し潰されたような音が漏れる。
「だが――」
その一言と共に、指先で脈動していた黒い気が、ふっと揺らぐ。
周囲を支配していた圧力が、静かに薄れていく。
「貴様のような塵には、その恵みを与える価値もない」
盗賊は目を見開いた。意味が分からなかった。
だが、その一言だけで、理解できたことがある。
自分は助かったのではない。
許されたのでもなければ、生かされたのでもない。
ただ、見限られた。
自分は、神に裁かれる価値さえ持たぬ塵だと、切り捨てられたのだ。
やがて、指先の黒い光が音もなく消える。
周囲を満たしていた重圧も、ゆっくりと霧が晴れるように消え失せた。
ブラックは静かに腕を下ろした。
盗賊は、はっと息を吸い込んだ。止まっていた呼吸が、一気に肺へ流れ込む。
「ひっ……!」
情けない悲鳴を漏らしながら立ち上がる。足がもつれる。何度も転びそうになりながら、それでも振り返ることなく街道を駆け出した。
剣も、仲間も、何も顧みない。
ただ一秒でも早く、あの男から離れたかった。
その背中は瞬く間に小さくなり、やがて街道の先へ消えていく。
ブラックは追わなかった。
追う理由がなかった。
視線だけを向けることもなく、ただ風に揺れる草原を見つめている。
虫が飛び去る。
風が吹き抜ける。
それと何ら変わらぬ出来事だった。
長いので前編と後編に分けました。