草原には、再び静けさが戻っていた。
つい先ほどまで怒号と悲鳴が飛び交い、地面が揺れ、大岩が砕けたとは思えないほど、辺りは穏やかだった。
風は何事もなかったかのように草原を渡り、倒れた草を撫でながら、細かな土埃を街道の外へ運んでいく。遠くでは鳥が鳴き、青い空の下を数羽の影がゆっくりと横切っていた。
その平穏の中に、砕けた岩と倒れ伏した盗賊たちだけが、先ほどの出来事が現実であったことを物語っている。
商人は、しばらくその場から動くことができなかった。
腹を押さえたまま、呆然とブラックを見つめている。目の前で起きたことを理解しようとしているのだろうが、あまりにも常識から外れた光景に、思考が追いついていなかった。
人が蹴り一つで何十メートルも吹き飛ばされ、大岩ごと砕かれた。
別の男は、拳を一度受けただけで地面へ沈められた。
最後に残った盗賊へ向けられた黒い光は、放たれることはなかった。だが、ただそこに存在するだけで周囲の空気を震わせ、馬すら狂ったように怯えさせた。
あれほどの力を持つ者を、商人はこれまで一度も見たことがなかった。
高位の魔法使いも、名の知れた騎士も、旅の途中で何度か目にしたことはある。それでも、彼らが纏う力とは根本から違っていた。
技が優れているのではない。魔力が多いというだけでもない。存在そのものの位が違う。そうとしか思えなかった。
やがて、商人は大きく息を吸い込み、震える足へ力を込めた。蹴られた腹にはまだ鈍い痛みが残っていたが、それでもゆっくりと立ち上がる。
「父さん……」
少年が心配そうに腕を支える。
「大丈夫だ……大丈夫だから」
商人は息を詰まらせながらそう答え、少年の肩を抱き寄せた。無事であることを確かめるように、細い身体を強く引き寄せる。
少年も父の服を掴み、しばらく顔を伏せていた。
恐怖は、まだ消えていない。
掴まれた髪の痛みも、父親が蹴り飛ばされた瞬間の光景も、簡単に忘れられるものではなかった。
それでも、目の前にはもう剣を向ける盗賊はいない。
自分たちは生きている。
その事実を実感したのか、少年の目から新しい涙が零れ落ちた。
商人は息子の頭を一度撫でてから、ブラックへ視線を向けた。
黒衣の男は、既に彼らへ背を向けていた。
戦いを終えたという様子すらない。呼吸も乱さず、肩一つ上下させることなく、ただ街道の先を眺めている。
彼にとって、先ほどの出来事など、旅の足をほんのわずかに止めた障害でしかなかったのだろう。
商人は少年を連れ、慎重な足取りでブラックへ近づいていった。
一歩進むたび、緊張で喉が渇いていく。
助けてもらった。
その事実は間違いない。
だが、同時に恐ろしくもあった。
盗賊を前にした時より、むしろ今の方が足が震えているような気さえする。あの黒い光を自分たちへ向けられれば、命乞いをする時間すら与えられず消えてしまうのではないか。そんな想像が、どうしても頭から離れなかった。
それでも礼を言わずに立ち去ることなどできない。
商人はブラックから数歩離れた場所で立ち止まり、深々と腰を折った。
「あ、ありがとうございます!」
声が裏返った。
恐怖と安堵が入り混じり、上手く言葉が出てこない。それでも商人は、頭を下げたまま必死に続ける。
「あなた様がいなければ、私も、この子も……荷も、すべて奪われていました。本当に、何とお礼を申し上げればよいか……!」
少年も父親の横に立ち、小さな身体を折って頭を下げた。
「ありがとうございました……!」
二人の声には、偽りのない感謝が込められていた。
ブラックは、その言葉を聞いてもすぐには反応しなかった。振り返ることもなく、ただ前を向いている。
風が黒い上衣の裾を揺らし、赤い帯の端をわずかになびかせた。
やがてブラックは、ひどく不快そうに眉を寄せる。
「勘違いするな」
冷たい声が、静かな草原へ落ちた。商人の身体が僅かに強張る。
「貴様らを救ったわけではない」
「え……?」
思わず顔を上げた商人へ、ブラックはゆっくりと視線だけを向けた。
そこに優しさはない。
感謝を受け入れる様子も、礼を言われて満足する様子もなかった。
むしろ、自分の行動を善意と解釈されたこと自体を不快に思っているようだった。
「目障りな虫を払っただけだ」
淡々とした声音だった。それ以上の意味はないのだと分かる口調だった。
盗賊たちは彼の進路を塞いだ。無礼な言葉を吐き、武器を向けた。だから、排除した。
商人と少年がその結果として助かったことなど、彼にとっては偶然に過ぎない。
商人は何を言えばよいのか分からず、口を開いたまま立ち尽くした。
感謝を否定されたことへの戸惑い。
自分たちの命が、目の前の男にとって何の意味も持っていないという事実への恐怖。
だとしても、助けられたことに変わりはない。
「それでも……」
商人は小さく言いかけた。その続きを口にすることはできなかった。
ブラックの視線が、一瞬だけ彼へ向けられる。それだけで、それ以上の言葉を拒まれているように感じられた。
少年は、涙の跡が残る顔でブラックを見上げていた。
瞳に宿っているのは、単純な恐怖だけではない。
あれほど圧倒的な力を目の前で見せつけられた驚きと、理解の及ばない存在を前にした畏れ。
そして、自分たちを結果として救った男に対する、言葉にし難い感情が混ざり合っている。
少年にとってブラックは、英雄などではなかった。
盗賊たちより遥かに恐ろしく、決して近づいてはならない存在のように思えた。
だが、あの男がいなければ父親は殺されていたかもしれない。
自分も、どこかへ連れ去られていたかもしれない。
その事実だけは、幼い少年にも理解できた。
「……ありがとう」
少年は、もう一度だけ小さく呟いた。先ほどよりもさらに細い声だった。
ブラックは答えない。視線を向けることすらなく、その場から離れるように踵を返した。
この程度の出来事に、これ以上時間を費やす理由はない。
彼らのことは、既にブラックの興味の外へ消えかけていた。再び街道へ足を踏み出そうとした、その時だった。
「いやあー、すげえな、今の」
場違いなほど軽い声が、街道脇から響いた。
その声には恐怖も緊張もほとんど感じられない。先ほどまでこの場を満たしていた殺気や重圧を、まるで遠くで起きた騒ぎのように語る明るさがあった。
ブラックは歩みを止めた。すぐには振り返らない。ただ、わずかに目を細める。
声が聞こえた場所は、街道の脇に広がる草むらだった。人の背丈ほどまで伸びた草が密集し、その奥を隠している。
風とは異なる揺れが、草の中を走った。
がさり、と葉が擦れ合う。
続いて、一つの人影が草を掻き分けながら姿を現した。
青年だった。
ただし、人間ではない。
茶色い髪の隙間から、狼を思わせる三角形の耳が伸びている。その耳は周囲の音を拾うように僅かに動き、腰の後ろでは、髪と同じ色をした長い尾がゆっくりと揺れていた。
彼は獣人族だった。
年齢は二十代前半ほどに見える。
日に焼けた肌は健康的で、旅装束には長い道のりを歩いてきたことを示す汚れや擦れがあった。上着の袖は肘の辺りまで捲られ、腕には細かな傷跡がいくつも残っている。
腰の左右には、鞘へ収められた短剣が一本ずつ下げられていた。武器は使い込まれている。装飾はほとんどなく、実用性だけを重視した形だった。鞘の端には傷が多く、何度も抜き放たれてきたことが窺える。
顔立ちは精悍だった。金色の瞳には獣人らしい鋭さがあり、口元を引き締めれば、それなりに威圧感もあるだろう。
だが、今はその鋭さよりも、人懐っこそうな笑みの方が強く印象に残った。
青年は草むらから街道へ出ると、まず砕け散った大岩へ視線を向けた。
続いて、街道の上で動かなくなっているもう一人の男を見る。
その目は、ただ驚いているだけではなかった。
戦いに身を置く者らしい観察が、その金色の瞳の奥に浮かんでいた。
やがて、青年はブラックへ視線を戻した。
「お前、今の盗賊団を一瞬で倒したよな? 何者なんだ?」
声は明るいままだった。
敵意はない。
警戒していないわけではないが、それを前面へ出すつもりもないらしい。
ブラックは答えなかった。身体ごと向き直り、無言で青年を見つめる。
その黒い瞳を真正面から受けた瞬間、青年の狼耳が僅かに動きを止めた。
口元に浮かんでいた笑みも、ほんの一瞬だけ薄くなる。
感じ取ったのだ。
目の前にいる男が、自分の理解できる範囲へ収まる存在ではないことを。
盗賊たちを倒した力だけではない。
立っているだけで、周囲の空気から切り離されているような異質さ。
こちらを見ているはずなのに、自分という個人を見ていないような冷たい眼差し。
人と対峙しているのではなく、遥か高い場所にいる何かに見下ろされている。
そんな感覚が、青年の背筋を走った。
危険だ。
関わるべきではない。
獣人として研ぎ澄まされた本能が、静かに警告している。
だが、青年は目を逸らさなかった。
恐れていないわけではない。
むしろ、先ほどの戦いを見ていたからこそ、相手との力量差がどれほど大きいかは理解していた。それでもなお、好奇心が恐怖を上回っていた。
これほどの存在が、なぜ一人で街道を歩いているのか。
どこから来て、何を目的としているのか。
そして、本当に人間なのか。
知りたいという思いが、青年をその場へ留めていた。
ブラックは、そんな青年の様子を静かに見据えていた。
先ほどの盗賊たちとは違う。自分の力を理解できず、数だけを頼りに向かってきた愚か者ではない。
この青年は、少なくとも危険を感じ取るだけの感覚を持っている。それでも逃げず、目を逸らさず、問い掛けを続けている。
恐怖がないのではない。
恐怖を抱いたまま、その奥にある好奇心へ従っている。その在り方だけは、彼にとって僅かに珍しかった。
ブラックは青年を見据えたまま、短く言った。
「気安く話しかけるな」
冷え切った声だった。
「貴様に名乗る理由はない」
普通なら、それで会話は終わる。
少なくとも、大抵の人間はそれ以上近付こうとはしない。
だが青年は肩を竦め、小さく笑った。
「……そりゃそうか」
怒った様子もない。気分を害したようにも見えなかった。
少し困ったように頭を掻きながら、それでも口を開く。
「でもさ」
ブラックは答えない。青年は構わず続けた。
「助かったのは本当だ。この辺りじゃ、あいつら結構有名だったんだよ」
「興味が無い」
「だろうな」
あまりにも間髪入れない返答に、青年は思わず苦笑した。
「顔にも態度にも書いてある」
ブラックは沈黙したまま青年を見つめる。その視線は相変わらず冷たい。それでも青年は逃げない。
「ちなみに俺だったら、一人くらい倒せても三人まとめては無理だった」
「だから何だ」
「いや、単純に驚いてる」
青年は砕けた岩へ目を向けた。
「……あれ、人間がやることじゃない」
ブラックは僅かに目を細める。
「当然だ」
「え?」
「私は人間ではない」
一瞬、沈黙した。青年は数度瞬きをすると、小さく笑った。
「そういう冗談か?」
「冗談ではない」
返答は即答だった。その迷いの無さに、青年は笑いかけた表情のまま固まる。
「……本気で言ってる?」
「当然だ」
青年は困ったように頬を掻いた。
「変なやつだな、お前」
「事実を述べているだけだ」
ブラックは一切表情を変えない。その様子が逆におかしくなり、青年は小さく吹き出した。
「怒らないんだな」
「怒る理由が無い」
「いや、普通なら『変なやつ』って言われたら怒るだろ。」
「貴様如きの評価に、私が心を動かすとでも思ったか」
「はは……容赦ねぇな」
ブラックは静かに青年を見つめた。
妙な男だ。ブラックは、ほんの僅かにそう思った。
普通の人間であれば、自分を前にした時点で距離を取る。
先ほどの戦いを目にしていたのなら、なおさらだ。
恐れ、震え、媚び、自分へ敵意を向けられないよう、慎重に言葉を選ぶ。それが当然だった。
だが、この青年は違う。
危険を理解している。恐怖も感じている。それでも、必要以上に怯えることも、こちらの機嫌を取ろうとすることもなく、ごく自然に言葉を交わそうとしてくる。
無謀とも、愚かとも言える。
だが、先ほどの盗賊たちが見せた愚かさとは、性質が違っていた。
ブラックは青年を見据えたまま、短く問う。
「……名は?」
青年は目を丸くした。
まさか、話を拒絶した側から尋ねられるとは思っていなかったのだろう、狼耳が僅かに立ち上がる。その様子は、本人の表情以上に驚きを示していた。だが、すぐに口元へ明るい笑みが戻る。
「俺はガルド」
青年は自分の胸を親指で軽く叩き、屈託のない笑みを浮かべた。
「旅をしてる獣人だ」
ブラックは何も答えない。
ガルドも急かすことはせず、その沈黙を気まずそうにする様子もなかった。
少しだけ首を傾げると、砕けた大岩へ視線を向ける。
「いやあ……」
思わず息が漏れる。
「改めて見ると、とんでもねぇな」
足元へ転がる岩の破片を靴先で軽く転がす。拳ほどもある石が、ころりと音を立てた。
「これ、一発だろ?」
ブラックは短く答える。
「ああ」
「……嘘だろ」
ガルドは苦笑した。
「いや、見てたから嘘じゃないのは分かるんだけどさ」
そう言って、砕けた岩をもう一度見上げて言った。
「人間って、岩を壊そうと思ったら普通は工具を使うんだよ」
「そうか」
「『そうか』じゃないって」
思わず笑いながら頭を掻く。
「お前の普通と、俺たちの普通は全然違うみたいだな」
ブラックは無言だった。ガルドは肩を竦めると、
「まあ、いいや。それでさ」
そう言って、再びブラックを見る。
「お前、一人旅なのか?」
「ああ」
「仲間はいない?」
「いるはずもない」
「即答か」
「弱者を連れ歩く意味が無い」
ガルドは口をへの字に曲げた。
「俺も弱者扱い?」
「現時点ではな」
「現時点では、ってことは、今後変わる可能性はあるのか?」
ブラックは少しだけ考えるように目を細めた。
「可能性はゼロではない」
「お」
「限りなくゼロに近いが」
「結局駄目じゃねぇか」
ガルドは大きく笑った。
ブラックは相変わらず真顔だった。冗談を言ったつもりは一切ない。だからこそ、その温度差が妙に可笑しかった。
笑いが収まると、ガルドは街道の先へ視線を向ける。
「まあ、俺はこれから王都へ向かうんだ」
「王都?」
「この国で一番大きな街だ」
ガルドは指先で街道の先を示す。
「商人も集まる。冒険者もいる。騎士団もいるし、魔法使いもいる。珍しい品も手に入るし、情報も集めやすい」
少し笑って、続きを言う。
「飯もうまいぜ」
ブラックは最後の一言だけには何も反応しなかった。
ガルドは続ける。
「旅人なら、とりあえず一回は行く場所だな」
「人間共の巣か」
「言い方!」
ブラックは黙り込んだ。
王都。
人間が集まり、欲望が集まり、争いもまた集まる場所。
ブラックは小さく目を細めた。
この世界を見定めるには、確かに最も効率がいい。元より目的地もなかった。
しばらく考えた後、静かに口を開く。
「……貴様、王都までの道は把握しているのだろうな」
ガルドは笑って答える。
「もちろん」
「そうか」
ブラックは当然のように頷いた。
「ならば案内しろ」
ガルドは一瞬固まる。
「……え?」
「王都へ向かう。貴様が案内するんだ」
頼む、ではない。
一緒に行かないか、でもない。
決定事項を告げるだけの口調だった。
ガルドは数秒間ぽかんと口を開けたままブラックを見つめる。
やがて堪え切れなくなったように吹き出した。
「はははっ!」
ブラックは怪訝そうに眉を寄せる。
「何がおかしい」
「いやいや。普通さ、そこは『頼む』とか『一緒に行ってくれ』とかじゃないのか?」
「必要ない」
ブラックは即答した。
「貴様は王都へ向かう」
「ああ」
「私も王都へ行く」
「ああ」
「利害は一致している」
「うん」
「ならば、貴様が道を示せば済む」
ガルドは天を仰いだ。
「……理屈だけ聞くと、間違ってないのが悔しい」
ブラックは当たり前だというように前だけを見据えている。その様子にガルドは苦笑し、大きく肩を竦めた。
「まあ、いいや。どうせ俺も王都へ行くところだったしな」
その言葉に、ブラックは短く頷いた。
「足手まといになるな」
そのまま歩き出しながら、淡々と言い放つ。ガルドは目を丸くしながら、
「え、もう一緒に歩く流れなの?」
と聞いたが、返事はなかった。
ブラックは一定の歩幅で街道を歩き始めている。ガルドはその背中を数秒眺めた後、困ったように笑いながら後を追った。
「待て待て。俺、今仲間になった覚えないんだけど」
ブラックは横目で一瞥した。
「違う」
「お?」
「道具だ」
一瞬、沈黙が流れる。ガルドは今まで以上に大きくため息を吐くと、
「もっとひどかった」
肩を落とし、呆れたように言った。それでも、その顔には苦笑が浮かんでいる。
本気で腹を立てているわけではない。
目の前の男が、人を傷つけようとしてそんな言葉を口にしているのではないことくらいは、短いやり取りだけでも何となく分かってきた。
本当に思ったことを、そのまま口にしているだけだった。そこには遠慮も配慮もない。それだけに、余計にたちが悪い。
ブラックはそんなガルドの内心など知る由もなく、何事もなかったかのように街道を歩き始めた。
急ぐ様子も、周囲を警戒する様子もなかった。
夕暮れの風が吹き抜けた。
昼間よりも幾分涼しさを帯びた風は、草原をゆるやかに揺らし、二人の足元で緑の波を幾重にも広げていく。
西の空では太陽がゆっくりと傾き始めていた。
青かった空は橙へ。橙は、やがて紅へ。
そのさらに向こうでは群青が静かに滲み始め、昼と夜の境界がゆっくりと世界を包み込もうとしている。街道は夕陽を受けて赤く染まり、二人の影は長く大地へ伸びていた。
ガルドは数歩遅れてその背中を眺めていた。
不思議な男だった。
盗賊を一瞬で制圧し、自らを神と名乗る異様な価値観。そして、人間という存在そのものへ向けられた、底知れぬ嫌悪。
どれを取っても普通ではなかった。
普通ではないはずなのに、不思議と嘘をついているようには見えなかった。それが、ガルドには一番奇妙だった。
「なあ」
数歩小走りになってブラックの隣へ並ぶ。
ブラックは返事をしない。それでもガルドは慣れたように続けた。
「一つ聞いていいか?」
「好きにしろ」
「お、許可はくれるんだな」
「答えるとは言っていない」
即座に返ってきた言葉に、ガルドは思わず笑った。
「なるほど。そういう返し方か」
ブラックは何も言わない。視線は街道の先へ向けられたままだ。
ガルドも少し笑みを浮かべたまま前を見る。
しばらく二人は並んで歩いた。風だけが二人の間を通り抜ける。やがてガルドは、穏やかな口調で尋ねた。
「さっきの商人さ、助けるつもり、本当に無かったのか?」
ブラックは数秒ほど沈黙した。その間も歩みは変わらない。そして、きっぱりとした口調で言った。
「無い」
返答は短かった。
「やっぱりか」
「貴様ら人間が互いに争うことなど、珍しくもない」
ブラックの口調は淡々としていた。
「弱者は奪われる。強者は奪う。ただ、それだけの話だ」
ガルドは小さく息を吐くと、
「でもさ、目の前で子供が泣いてたら、普通は助けようって思うだろ」
ブラックは横目で一瞬だけガルドを見る。
「普通、だと?」
「ああ」
「貴様らの矮小な常識を、私へ押しつけるな」
冷えた声で言った。ブラックはそのまま続けた。
「私は人間ではない」
ガルドは苦笑すると、手を腰に当てながら、
「またそこへ戻るのか」
「事実だからな」
「はいはい」
「その返事をやめろ」
「え?」
「耳障りだ」
「そんなに?」
「肯定しているように装いながら、何一つ理解していない。愚鈍な返事だ」
ガルドは目を丸くすると、
「そこまで考えて言ってなかったぞ」
「考えずに口を動かすから、貴様は愚かなのだ」
「容赦ないなぁ……」
そう言って、ガルドは肩を竦めながら笑った。その笑みはすぐに静かなものへ変わった。
「でもさ」
「…………」
「助ける気は無かったとしても、結果的には助けたわけだろ?」
「偶然にすぎん」
「偶然で人を助ける奴も、そんなにいないぞ」
「知ったことか」
「知らないか」
ガルドは苦笑した。
「お前、本当に『知るか』『興味が無い』『事実だ』の三つで会話できるな」
「それで十分だ」
「十分なのか」
「無益な言葉を重ねる必要はない」
「いやぁ……」
ガルドは呆れたように頭を掻く。
「旅してるとさ、色んな奴に会うんだよ」
ブラックは何も言わない。ガルドは構わず続ける。
「無口な奴もいた。おしゃべりな奴もいた。王様もいたし、盗賊もいた。魔法使いも、騎士もな。でも、お前みたいなのは初めてだ」
「そうか」
「それだけ?」
「ああ」
ガルドは思わず吹き出した。
「普通さ、『初めてだ』って言われたら、もう少し何かあるだろ」
「無い」
「無いのか」
「貴様がどう感じようと、私には関係ない」
「そう言われると返す言葉が無いな」
ガルドは空を見上げる。
夕陽はさらに低くなり、草原全体が赤く染まり始めていた。
風景は美しかった。思わず足を止めて眺めたくなるほどに。
「綺麗だな」
ぽつりと漏らす。ブラックは空を見上げもしない。
「何の話だ」
「夕焼けだよ」
ガルドは西の空を指差した。
「見ろよ。空も草原も真っ赤だ。昼とは全然違う景色になってる」
ブラックは一度だけ空へ視線を向けた。
「だから何だ」
「いや……。普通は『綺麗だな』ってなるだろ」
「理解できんな」
ブラックは前へ視線を戻す。
「空の色が変わっただけだ」
「それだけか?」
「ああ」
「面白くない奴だな」
「面白さを求めてなどいない」
「だろうな」
ガルドは笑った。
「でも、旅ってそういうもんなんだ」
「…………」
「腹が減れば飯を食って、眠くなれば寝て、綺麗な景色があれば眺める。町へ着けば美味い飯屋を探したり、道中で馬鹿話して笑って、気付けば目的地へ着いてる」
ブラックは鼻で笑った。
「愚かな生き方だ」
その一言にも迷いは無い。ガルドは否定しなかった。
「そうかもな。でも、悪くないぞ」
ブラックは答えない。二人の間へ、短い沈黙が流れた。やがて、ブラックが口を開いた。
「私は違う」
「ん?」
「歩くという行為そのものに、何の価値もない」
ブラックは街道の遥か先を見据えていた。
「見るべきものを見て、知るべきものを知る。そして、この世界が存在に値するかを見定める。それだけだ」
その声には、相変わらず感情が乗っていない。目的だけを語る者の声だった。
ガルドは隣を歩くブラックの横顔を見た。
この男は、本気なのだ。
この世界というものを観察し、その価値を量ろうとしている。まるで、世界そのものを審査する立場にいるかのようだった。
ガルドは小さく息を吐いた。
「やっぱり変なやつだな」
ブラックは横目で一瞥する。
「そう思うなら離れればいい」
「それも考えた」
「ならば、そうしろ」
「でも」
ガルドは少し笑う。
「面白そうだからやめた」
ブラックは僅かに眉をひそめた。
「やはり理解できんな」
「お互い様だ」
そう言ってガルドは笑う。
夕暮れの街道には、その笑い声だけが心地よく響いていた。
◇
ガルドの笑い声は、やがて風の中へ溶けていった。
ブラックはそれ以上何も言わなかった。
理解できない、という一言で会話を終わらせるように、再び街道の先へ視線を向ける。
二人は並んで歩き続けた。
歩幅は微妙に違った。ガルドの方が僅かに大きい。それでも、歩くうちに自然と速度が揃っていく。
街道は緩やかな丘を越え、その先へ続いていた。
夕暮れの光を受けた草原は赤く染まり、風が吹くたび、赤銅色の波が果てしなく広がっていく。
高い空では鳥の群れが巣へ帰り始めていた。長く伸びた影だけが、二人の足元から街道の先まで続いている。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ガルドは沈黙を嫌う性格ではある。だが、無理に喋り続けるほど落ち着きがないわけでもない。むしろ今は、隣を歩く男を観察していた。
ブラックは本当に周囲を見ている。
だが、その視線は景色を楽しんでいる旅人のものではない。
街道も、草原も、遠くの森も、飛び去る鳥も、風向きさえも。
それら一つ一つを淡々と視界へ収めながらも、感動も感慨も抱いていない。
世界そのものを測り、価値があるかどうかを静かに見極めているような、そんな目だった。
しばらくして、ガルドはふと口を開く。
「なあ」
「…………」
「さっき、『この世界の価値を見定める』って言ってたよな」
「ああ」
「どうやって決めるんだ?」
ブラックは歩みを緩めることなく答えた。
「見る」
「見る?」
「街。人間。文化。争い。この世界を形作るそのすべてをな」
短く答えながらも、その言葉には迷いがない。ガルドは少し考えると、
「それで? 価値があればどうするんだ? 無ければどうするんだ?」
ブラックは横目でガルドを見る。
「興味があるのか」
「まあな」
ガルドは苦笑する。
「せっかく一緒に歩くことになった相手だから」
「貴様は道具ではなかったのか?」
「そこまだ引っ張る?」
「事実だ」
「はいはい」
ブラックの眉がぴくりと動く。
「……その返事は」
「耳障り、だろ?」
ガルドが先に言った。
「覚えた」
ブラックは僅かに眉をひそめる。ガルドはその反応を見て笑った。
「少しは学習するんだよ、俺も」
ブラックは小さく鼻を鳴らす。
「余計なことばかり覚えるものだな」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてなどいない」
「分かってる」
そんなやり取りを交わしながらも、二人の歩調は崩れない。
しばらく歩いた後、ブラックは先ほどの問いに答えた。
「価値があるならば、観察を続ける」
「価値が無ければ?」
「興味を失う」
あまりにも淡々とした答えだった。ガルドは少し首を傾げる。
「終わり?」
「ああ」
「滅ぼすとかじゃなく?」
ブラックは数秒だけ黙った。その沈黙は短かった。そして、
「必要と判断すれば、滅ぼす」
静かな声でそう言った。
しかし、その一言だけで夕暮れの空気が僅かに冷えたような錯覚を覚える。
ガルドの耳がぴくりと動いた。
「必要なら、か」
「ああ」
「その必要ってのは?」
「醜悪だからだ」
ブラックは即答した。
「存在するだけで世界を穢す。そう判断すれば消し去る」
その声音には、怒りも憎しみもなかった。天候を語るように、当然のこととして語っている。それだけに、その言葉は重かった。
ガルドはしばらく返事をしなかった。
この男は、本気でそう考えている。決して、冗談ではなかった。
同時に、疑問もあった。
もし本当に滅ぼすつもりなら、さっきの盗賊も、商人も、少年も、あの場で皆殺しにしていてもおかしくはなかった。
だが、そうしなかった。
理由は分からない。
少なくとも、この男の行動は言葉ほど単純ではなかった。
ガルドは横顔を見る。ブラックは相変わらず前だけを見て歩いていた。その表情から感情を読み取ることは難しい。
「……よく分かんねぇな」
ガルドはぽつりと漏らす。
「何がだ」
「お前だよ」
ブラックは何も言わない。それを横目に、ガルドは続ける。
「人間は嫌い」
「ああ」
「でも助けることもある」
「違う」
「助けたつもりは無い、だろ?」
「当然だ」
「でも結果は同じだ」
ブラックは少しだけ考えるように目を細めると、
「結果だけを見て、都合のよい意味を与える。それが人間の悪癖だ。結果ではなく、そこへ至った理由を見ろ」
その言葉を聞いて、ガルドは肩を竦めた。
「難しいこと言うな」
「難しくなどない」
「俺には難しい」
ブラックは少しだけ息を吐くと、
「貴様が愚鈍なだけだ」
「はいはい」
また言ってしまった。ブラックが無言で横を見る。ガルドは笑いながら両手を上げた。
「悪い悪い。癖なんだ」
「直せ」
「努力はする」
「信用できんな」
「ひどいな」
ガルドは苦笑する。だが、そのやり取りはどこか自然だった。
出会ってまだ半日も経っていない。それでも、互いの返し方が少しずつ分かり始めている。
ガルドはふと空を見上げた。
夕陽は地平線へ近づき、空は赤から紫へ色を変え始めていた。
街道の先には、小さく煙が見える。人の営みだ。どこかに村があるのだろう。
「そういえば」
ガルドは思い出したように口を開く。ブラックは短く視線だけ向ける。
「お前の名前、さっきから『お前』としか呼んでなかったな」
ブラックは数歩だけ沈黙した。やがて、その口が静かに開いた。
「……ゴクウブラック」
その名を告げる時だけ、ほんの僅かに間があった。
まるで、その名を改めてこの世界へ刻み込むような、静かな間だった。
「ゴクウ……ブラック?」
ガルドは口の中で何度か繰り返す。
「変わった名前だな」
「貴様らの基準など知らん」
「まあ、それもそうか」
ガルドは笑った。
それから数歩歩く。再び沈黙が流れた。そして、ガルドは何気ない調子で口を開いた。
「そういやさ、昼間、盗賊に向かって自分のこと『神』って言ってただろ」
その言葉を聞いた瞬間、ブラックの歩みが止まった。
急ではなく、一歩進むことをやめただけだった。
それだけなのに、夕暮れの空気が、静かに張り詰めた。
風が弱まり、草のざわめきが遠のいた。
ガルドの狼耳が、無意識にぴくりと動いた。
本能が反応している。
隣に立つ男から、目には見えない何かが静かに滲み出していることを感じ取っていた。
ブラックはゆっくりと横目でガルドを見る。夕陽がその横顔を赤く照らしている。だが、その双眸だけは違った。
夕焼けの中にあってなお、底知れぬ闇だけを宿していた。
「……あれ、冗談なんだよな?」
ブラックはガルドを見据えたまま、静かに口を開いた。
「……冗談?」
その一言は、あまりにも穏やかだった。
相手の言葉の意味を確かめるような声音だった。
だが、ガルドの背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。無意識に尻尾の動きが止まる。
夕暮れの風は変わらず吹いている。草も揺れている。遠くでは鳥が鳴き、空には帰巣する鳥影がいくつも横切っていた。
景色は何も変わっていない。それでも、目の前の男が放つ空気だけが、静かに周囲から切り離されていた。
ブラックは視線を逸らさない。
その黒い瞳は、ガルドの姿だけではなく、その思考の奥底まで見透かしているようだった。
「神が、自らを神と名乗ることに、何の不自然がある?」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
信じている者の口調でも、思い込んでいる者の声でもなく、もっと根本的だった。
空は青く、風が吹き、陽が沈めば夜になる。
そうした、この世界の理を語るのと何ら変わらない調子で、自らが神であるという事実だけを口にしていた。
ガルドは何も言えなかった。
目の前の男は、本当にそう認識している。
そして、その認識は誰かへ理解してもらう必要すら感じていない。
だからこそ、ブラックの言葉には説明が存在しなかった。
神だから、神だと言っているだけだった。
ガルドは困ったように頭を掻いた。
「……本気なんだな」
「当然だ」
即座に返答して、ブラックは再び前を向いた。歩みを止めた理由など、もう無くなったと言わんばかりに街道を歩き始めた。
ガルドも慌てて後を追った。
「待て待て」
数歩で追いつき、その隣へ並ぶと、
「じゃあさ、神様って何なんだ?」
と聞いて、ブラックは歩きながら答えた。
「神だ」
「いや、そうじゃなくて。役割とかさ、何をする存在なんだ?」
ブラックは少しだけ空を見上げると、静かな口調で言った。
「世界を正す」
ガルドは首を傾げながら、
「正す?」
「そうだ。歪みを正し、秩序を保ち、世界をあるべき姿へ導く。それこそが、神の役目だ」
ブラックの声は淡々としていた。
「じゃあ、人間を嫌ってるのも、そのためか?」
ガルドは少しだけ真面目な表情になる。ブラックは即答した。
「ああ。人間は世界を汚す。欲望に従い、争い、奪い、殺し、その醜悪な行いへ正義という名を与える。己こそが善良であると思い込みながら、世界を腐らせ続ける。救い難い種族だ」
ガルドは静かに聞いていた。否定も肯定もしない。
ブラックの言葉には極端な部分もある。
だが、旅をしてきたガルドだからこそ、人間の醜さを全く知らないわけではなかった。
盗賊も、奴隷商もいた。
戦争を起こす領主もいれば、子供を売る親も見た。
人間が醜い。その言葉だけなら、完全には否定できなかった。
ブラックは続ける。
「だから、滅びるべきだった」
その一言だけで、空気が僅かに重くなった。
ガルドは横顔を見る。彼は感情を表へ出していなかった。その短い言葉だけが、今までとは違っていた。
そこには僅かだったが、確かな執着が滲んでいた。
ガルドは慎重に口を開いた。
「……だった?」
「ああ」
「過去形なんだな」
ブラックはしばらく黙っていた。街道には二人の足音だけが続いた。
風が二人の間を吹き抜け、赤く染まった草原が波のように揺れた。
やがてブラックは、小さく息を吐いた。
「私は敗れた」
事実だけを語るような口調だった。
敗北を恥じる様子もない。言い訳もない。ただ、それが起きたという事実だけを受け入れているようだった。
ガルドは目を丸くした。
「……お前が?」
「ああ」
「誰にだ?」
ブラックは答えない。再び沈黙が続いた。ガルドも、それ以上は踏み込まなかった。
聞いてはいけない話題だと感じたわけではない。ブラックが今は話すつもりがないことだけは理解できた。
代わりに、別の話をするように笑った。
「でもさ」
「何だ」
「負けるんだな」
ブラックはガルドを一瞥した。
「神様でも」
ガルドはそう続けた。ブラックは前へ視線を戻した。
「……絶対は存在しない」
その答えは意外だった。ガルドは少し驚く。
「へぇ」
「意外か?」
「ああ。お前なら、自分は絶対負けないって言いそうだったからな」
ブラックは小さく鼻を鳴らし、そして言った。
「敗北した事実は消えん。無かったことにするほど、私は愚かではない。私は敗れた。だからこそ、」
そこで一度言葉を切ると、
「次は敗れん」
短くそう言った。
だがガルドは、その言葉の重さを感じていた。
ただの自信ではない。敗北を知った者だけが持つ、静かな決意だった。
その横顔を見ながら、ガルドは小さく笑う。
「……やっぱり変なやつだ」
「そう思うなら離れればいい」
ブラックは同じ言葉を繰り返した。ガルドは首を横へ振る。
「やだね」
「何故だ」
「面白いから」
即答だった。
ブラックは眉をひそめる。
「理解できんな」
「知ってる」
ガルドは少し笑って続けた。
「でも、旅ってさ、理解できない奴と出会うから面白いんだ」
ブラックは返事をしなかった。前だけを見据え、一切迷いのない足取りで街道を進んでいく。
ガルドは、その沈黙を気まずいとは思わなかった。
むしろ、それがこの男なりの返事なのかもしれないと、少しだけ思い始めていた。
夕陽はさらに傾き、二人の影は街道の先へ、どこまでも長く伸びていった。
王都までは、まだ遠い。
だがその長い道のりは、思っていたより退屈にはならなそうだと、ガルドは静かに笑った。
この時、二人はまだ知らなかった。
この出会いが、この世界そのものの運命を、大きく変えることになるということを。