朝の草原は、まだ夜の名残を静かに抱えていた。
空は青へ染まり切っておらず、東の地平線から差し込む朝日が、薄紫色の空をゆっくりと金色へ塗り替えている。地表を覆う白い霧は風に押され、なだらかな丘の窪みへ流れ込んでは、淡くほどけていった。
朝露を宿した草葉が光を弾き、遠くの丘陵は霞の向こうへ沈み、草原と空の境さえ柔らかく滲んでいる。湿った土と冷えた草の匂いが風に混じり、夜の静けさを残す大地へ広がっていた。
澄んだ鳥の声が、朝の空気に落ちた。遠くの藪から別の鳥が応え、やがて草原のあちこちへ朝の音が広がっていった。
街道脇の小さな野営地で、毛布の塊が動いた。
「……んあ」
間の抜けた声を漏らし、ガルドがゆっくりと上半身を起こした。
狼の耳は眠たげに伏せ、髪は片側だけ大きく潰れている。金色の瞳も半分ほどしか開いておらず、普段の快活さはどこにもなかった。
目の前の焚き火は、すでに灰へ変わっている。
昨夜は王都へ向かう途中で日が暮れたため、街道から少し離れた場所で野営した。旅人にとっては珍しいことではない。ガルド自身、硬い寝台よりも、焚き火のそばで毛布にくるまり、空を見上げて眠る方が性に合うと思うことさえあった。
だが、昨夜はいつもと少し違った。隣にいる男が、普通の旅人ではなかったからだ。
ガルドは眠そうな顔を横へ向けた。
そこには、誰もいなかった。
昨夜ブラックが腰を下ろしていた場所には、踏み倒された草だけが残っている。
「…………いない」
眠気が一気に薄れた。ガルドは目を擦り、改めて周囲を見回す。
荷物も短剣も、昨夜置いた場所にある。食料袋も水袋も荒らされていない。
獣や魔物が近づいた匂いもなく、盗賊に襲われた形跡も見当たらなかった。ブラックだけが消えていた。
「どこ行ったんだ、あいつ……」
毛布を肩から落とし、億劫そうに立ち上がる。朝の冷気が服の隙間へ入り込み、眠っていた身体を一気に目覚めさせた。露に濡れた草が、靴の周囲で冷たく光っている。
ガルドは小さく鼻を鳴らした。
湿った大地と灰になった薪の匂いがした。その奥には、旅路が染みついた荷の乾いた匂いと、黒衣の男が残した僅かな気配が混じっている。
風上へ顔を向けると、なだらかな丘の上に、一つの黒い影が立っていた。
黒い髪と道着。腰へ巻かれた赤い帯。
両腕を組み、微動だにせず空を見上げる男――ゴクウブラックだった。
ガルドはしばらくその姿を眺め、大きく息を吐いた。
「朝っぱらから何してるんだよ……」
寝癖のついた髪を乱暴に掻き、丘へ向かって歩き始める。
露を含んだ草が靴と裾を濡らす。
丘を登るにつれて視界が開け、朝霧を纏った草原と、銀の糸のように流れる川が姿を現した。
さらにその先には、巨大な城壁らしき影が横たわっている。
王都アルス。まだ距離はあるが、そこに巨大な人の営みが存在することは、この場所からでも分かった。
石と木、欲望と秩序によって形作られた、人間たちの巨大な巣。
ガルドが近づいても、ブラックは振り返らない。
「起きたか。随分と惰眠を貪っていたものだな」
先に口を開いたのはブラックだった。声にはいつも通り温度がない。朝の柔らかな静けさへ溶け込まず、冷たい石を置くように落とされた。
ガルドは目を丸くする。
「起きたか、じゃねえよ」
「何だ」
「目が覚めたら、お前がいないんだぞ。さすがに驚くだろ」
「貴様が勝手に騒いでいるだけだ」
「冷たいなあ」
「今さら気づいたのか。理解が遅いな」
迷いのない返答だった。ガルドは苦笑しながら、丘の下へ広がる景色へ目を向けた。
「……いい景色だな」
「そうか」
返ってきた言葉は、ひどく淡泊だった。ガルドが横を向く。
「そうかって、お前な。この景色を見ても、本当に何とも思わないのか?」
「空は空にすぎん」
ブラックは淡々と答える。
「草は草、霧は霧だ。ありふれた現象を眺めて心を揺らすとは、実に脆弱だな」
「情緒ってもんがないなあ」
「そのような無用な感傷は、私には必要ない」
ブラックの視線は、朝霧の向こうへ向けられていた。
景色へ心を動かされているようには見えない。そこに何が存在するのかを測り、確かめているようだった。
「でも、見てるじゃねえか」
「見ているのではない」
「じゃあ何してるんだ?」
「見定めているだけだ」
「何を?」
ブラックは遠くの王都から、さらにその先へ視線を向けると、
「この世界を」
短く答えた。
空気も大地も、そこに生きる生命や文明も、世界へ満ちる力の質さえ、元いた場所とは異なっている。
この世界には、『魔力』と呼ばれる力が存在するらしい。
それは生命の内側から引き出される気とは異なり、大気や大地、自然界へ満ちる力を取り込み、術式という枠へ流し込むことで、炎や風、雷といった現象へ形を変える。
自らが持たぬものを外へ求め、名を与え、支配したつもりになる。
昨夜すれ違った人間たちから感じた魔力は、どれも小さく、浅く、不安定だった。
所詮は、人間共の浅知恵。
そう切り捨てることは容易い。
だが、未知である以上、見定める価値はあった。
どれほど矮小で未熟であろうと、自分の知らぬ法則が存在するなら、その性質を見定める意味はある。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
「俺には、ただの綺麗な朝にしか見えないけどな」
「貴様の矮小な目には、その程度にしか映らんのだろう」
「朝一番に言われるには重いな」
ブラックは返事をしなかった。王都から視線を外し、丘の斜面へ身体を向ける。
「行くぞ」
唐突に告げると、そのまま丘を下り始めた。
朝の景色も、霧の向こうの王都も、すでに確認し終えた。そう言わんばかりの足取りだった。
「おい、ちょっと待て」
ガルドが慌てて後を追う。
「せめて荷物くらい持ってから行けよ」
ブラックの足が止まった。ゆっくりと振り返り、丘の下に残された野営道具へ目を向ける。
数秒の沈黙が落ちた。
ガルドは、その横顔を見ながら口元を緩めた。
「忘れてたな?」
「忘れてなどいない」
「じゃあ、置いていくつもりだった?」
「私の荷ではない」
「ほとんど俺のだけどさ」
「ならば、持ち主である貴様が運べ」
「最初からそのつもりだよ」
ガルドは苦笑しながら丘を下りていく。その後ろを、ブラックもゆっくりと歩き始めた。
◇
昼が近づくにつれ、街道は少しずつ賑わいを増していった。
朝霧は消え、頭上には澄んだ青空が広がっている。草原を渡る風が陽光を受けた草を揺らし、緑の波が街道の両側を走っていた。
朝の静けさはもうなかった。
遠くから、車輪が土を踏む音が聞こえてきた。馬の蹄が土を打ち、人々の話し声と荷車の軋みが重なり合う。
その音はゆっくりと二人へ近づき、やがて目の前を通り過ぎていった。
街道には、多くの人々が行き交っていた。
王都を目指す者もいれば、故郷へ帰る者もいる。誰もが、自らの旅路を歩いていた。
「おーい、今日はいい天気だな!」
ガルドが、すれ違う旅人へ気さくに手を上げた。
御者台に座っていた商人らしき男も、少し驚いた後、笑って手を振り返した。
「おう! 旅にはもってこいだ!」
「王都まで、あとどれくらいだ?」
「このまま何もなければ、明後日の夕方だな!」
「ありがとな!」
「そっちも気をつけろよ!」
荷馬車が土煙を上げて遠ざかっていく。
ガルドは、名前も知らない相手とその場限りの言葉を交わすことを好んでいた。
ほんの僅かな時間だけ笑い合い、互いの無事を願う。それが彼の旅の仕方だった。
一方で、ブラックは誰にも反応しなかった。
挨拶をされても無視。
子供が手を振っても、視線すら向けない。
周囲を行き交う者たちは、彼にとって路傍の石や、風に揺れる草と変わらなかった。
「あのさ」
しばらく歩いたところで、ガルドが口を開いた。
「何だ」
「もう少し愛想良くできないのか?」
「なぜ私が、そのような無意味な真似をしなければならん」
迷いのない返答だった。ガルドは一瞬だけ口を閉じ、それから説明するように両手を動かす。
「なぜって……普通、挨拶されたら返すだろ」
「人間に返す言葉など持ち合わせていない」
「さっきの子供なんか、ずっと手を振ってたぞ」
「それがどうした」
「少しくらい喜ばせてやれよ」
「知ったことか」
ガルドは呆れたように頭を掻いた。
「お前、本当に旅に向いてないよな」
「私は遊興のために歩いているのではない」
「じゃあ何してるんだよ」
「観察だ」
ブラックは歩みを止めず、街道を行き交う人々へ冷めた視線を向ける。
「人間共がどのように群れ、奪い、己の醜悪さへ正義という名を被せるのか。その愚かな営みを見ている」
「……言い方が最悪だな」
「事実だ」
「じゃあ獣人は?」
「同類だ」
「ひどい!」
ガルドの狼耳が勢いよく立ち上がった。
「人間とは耳も尻尾も違うだろ」
「くだらん」
「少しくらい評価しろよ。結構自慢なんだぞ、これ」
「姿形が違おうと、本質まで変わるわけではない」
「本質って?」
ブラックは冷たく言った。
「群れ、奪い、争い、その果てに己だけは正しいと信じ込む。姿形が異なろうと、愚かさに違いはない」
ガルドは少しだけ黙った。その言葉は、完全には否定できなかった。
獣人族の中にも盗賊はいる。他者を騙し、弱い者を踏みにじる者もいる。種族が違うからといって、すべてが善良であるはずはない。
そうだとしても、ブラックのように、誰も彼も同じだと切り捨てる気にはなれなかった。
「まあ……そういう奴もいるけどさ」
「それだけではないとでも言いたいのか」
「そうだよ。そんな奴ばっかりじゃねえ」
「何を根拠に、そんな甘い幻想を抱いている」
「旅してれば、嫌でも分かる」
ガルドは街道の先へ視線を向けた。
「嫌な奴も、盗む奴も、人を傷つける奴もいる。でも」
そこで区切って、少しだけ笑みを浮かべて続ける。
「困ってる奴を助ける奴がいるし、知らない相手に飯を分ける奴もいる。怪我人を背負って歩く奴だっているんだ」
「己が善良な存在であると、自分自身へ言い聞かせたいだけだ」
「全員が?」
「例外などない」
「疑いすぎじゃないか?」
「貴様が愚鈍なだけだ」
「はいはい」
ブラックの眉が動く。ガルドはすぐに横目で見る。
「分かってるよ。その返事をやめろ、だろ?」
「理解しているなら、その耳障りな返事を二度と口にするな」
「癖なんだよ」
「ならば、今ここで矯正してやろう」
「どうやって?」
「二度と口を利けぬよう、顎ごと消し飛ばす」
平坦な口調だった。ガルドは僅かに笑みを引きつらせる。
「言うことが毎回物騒なんだよな……」
そう言って肩を落としたが、彼は離れなかった。
無遠慮に言葉を投げかけ、冷たく返されても笑い、時には真正面から意見を返す。恐怖を感じながらも、隣を歩き続ける。
ブラックにとって、その態度はやはり奇妙だった。
多くの者は、彼の目を見れば怯える。言葉を聞けば距離を取り、力の差を知れば平伏する。
だが、ガルドは違った。
愚かだ。目障りだ。……だが、退屈ではない。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、ブラックはすぐに思考を切り捨てた。
この男を隣へ置いている理由は、王都へ向かう道を知っているからにすぎない。
「何だよ?」
ガルドが尋ねた。
「何がだ」
「いや、今こっち見てたろ」
「見ていない」
「見てたって。俺の耳は誤魔化せても、目は誤魔化せねえぞ」
「貴様の思い違いだ」
「お前でも誤魔化すんだな」
ブラックの視線が冷たくなる。
「黙れ」
「はいはい」
「……どうやら、塵へ還されなければ理解できんらしいな」
ブラックのこめかみに青筋が浮かんだ。
ガルドの笑い声が、明るい街道へ響いた。
午後に差しかかる頃、街道の先に小さな村が見えてきた。
低い木造の家々が、草原の起伏へ寄り添うように並んでいる。
屋根は色褪せ、ところどころ苔が浮いていたが、割れた板には新しい木材が当てられ、歪んだ雨樋にも補修の跡があった。
華やかさはないが、人の手が途切れることなく入り続けている村だった。
畑では老人が鍬を振るい、柵の内側では数羽の鶏が地面をつついている。
「平和そうな村だな」
ブラックは村へ視線を向けたまま答えない。ガルドは横目で見る。
「また無視か?」
「聞こえている」
「聞こえてるなら、たまには返事くらいしろよ」
「返す価値がないだけだ」
「便利だな、その返し」
村の入口には、簡素な木の門と小さな詰所があった。
二人が近づくと、若い門番が椅子から立ち上がった。
「旅人か?」
「ああ。王都へ向かう途中なんだ。今日はここで休ませてもらおうと思ってる」
門番はガルドを見てから、ブラックへ目を向けた。
武器も荷物も持たず、冷たい瞳だけを向けてくる黒衣の男。
僅かな警戒が、門番の表情へ浮かんだ。
「そっちの人も?」
「まあ、一応な」
「一応とは何だ」
「お前、どう見ても普通の旅人には見えねえだろ」
「では、私が何に見える」
「……それ聞く?」
ガルドは困ったように笑った。
門番の男は二人のやり取りを見て、どう反応すべきか迷っているようだった。
ガルドはそれに気づくと、慌てて手を振る。
「悪いな。愛想は最悪だけど、こっちから何もしなきゃ、たぶん危なくない」
「誰が危険ではないと言った」
「そこは黙って頷くところだろ!」
ガルドの声が僅かに裏返った。門番の男の顔が引きつる。
ブラックは何の興味もないように視線を逸らした。
門番は数秒ほど二人を見比べていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「騒ぎだけは起こすなよ」
「大丈夫だって」
「安心できる要素が何一つないな」
門番は渋い顔をした。それでも通行を止めることはなく、二人を村の中へ通した。
村の中央には古い井戸があり、その近くに食堂と宿屋が並んでいた。
煙突からは白い煙が上がり、煮込まれた肉や香草、焼きたてのパンの匂いが、風へ乗って村の中へ広がっていた。
匂いを嗅いだ瞬間、ガルドの狼耳が僅かに動いた。歩調もほんの少しだけ速くなった。
ブラックはそれを横目で見ると、
「歩調が変わったな」
「別に変わってないだろ。腹が減って、ちょっと足が軽くなっただけだ」
「食物の匂いを嗅いだ途端にな」
ガルドは一瞬黙った。そして、
「……本当に、変なところだけよく見てるよな」
そう言って笑った。その直後、腹の辺りから小さな音が鳴る。
二人の間に短い沈黙が落ちた。
ガルドは無言で前を向いた。ブラックも何も言わない。
数歩歩いたところで、
「笑わないのか?」
ガルドが先に口を開いた。
「何をだ」
「腹の音、聞こえただろ?」
「だから何だ」
「馬鹿にされるかと思ったんだよ」
「そんな些事を嘲笑うほど、私は暇ではない」
「そこだけ妙にまともなんだな」
「どういう意味だ」
「別に」
ガルドは誤魔化すように笑った。
「今日はここで休むか」
両腕を上へ伸ばし、大きく身体を反らす。肩や背中の骨が小さく音を立てた。
「明日の夕方には王都へ着くんだろ? なら、今から無理して歩く必要もない」
「好きにしろ」
ブラックの返事は短い。
「お前も休むんだよ」
「私に休息は必要ない」
「いや、あるって」
「ない」
「子供みたいに張り合うなよ」
ブラックは黙った。その沈黙を、ガルドは勝手に勝利と受け取ったらしい。
僅かに胸を張り、得意げな笑みを浮かべて言った。
「よし。今ので決まりだな」
「何一つ決まっていない」
「黙った方の負けってことで」
「誰が、そのような幼稚な決まりを認めた」
「俺」
「くだらん」
「でも反論遅かったぞ」
ブラックは冷たい目を向けた。ガルドは笑いながら、食堂の方角を指差す。
「とりあえず飯にしよう」
ブラックは何も言わず、代わりに食堂から漂う匂いへ一瞬だけ視線を向けた。
ガルドはそれを見逃さなかった。
「今、反応したな?」
「していない」
「いや、見た」
「偶然、視界に入っただけだ」
「腹減ってるんだろ?」
「…………」
「減ってるんだな」
「黙れ」
低い声だった。だが、怒気はそれほど強くない。
ガルドはますます楽しそうに笑った。
「意外と分かりやすいところもあるんだな、お前」
「それ以上くだらぬ詮索を続けるなら、食事の前に貴様を消すぞ」
あまりにも平坦な口調だった。冗談なのか、本気なのか判別できない。
ガルドの笑みが僅かに固まった。
「……今の、本気じゃないんだよな?」
ブラックは答えなかった。
「なあ」
「行くぞ」
「おい。そこはちゃんと否定してくれ」
ブラックは既に食堂へ向かって歩き始めている。ガルドはその背中を見ながら、小さく息を吐いた。
だが、その足は自然に後を追っていた。
食堂は旅人向けの簡素な店だった。扉は厚い木で作られており、開けると鈍い音を立てた。
中へ入った瞬間、煮込み料理の香りと、人々の話し声が一気に流れ込んでくる。
木製のテーブルがいくつも並び、旅人や村人が肩を寄せ合うように座っている。
暖炉の中では薪が赤く燃え、誰かが大声で旅の武勇を語り、別の誰かがそれは嘘だと笑っている。
奥の席では、商人らしき男たちが帳簿を広げ、酒を飲みながら声を潜めて話していた。
冒険者の一団は、卓の中央へ大皿を置き、焼かれた肉を奪い合うように取り分けている。
食器が触れ合い、椅子が引かれ、杯が卓へ置かれる。
手を叩く音と豪快な笑い声が重なり、店内は大きな喧騒に包まれていた。
そこにさまざまな匂いが折り重なり、濃密な空気を作り上げていた。
「二人だ!」
ガルドが店の奥へ向かって声を上げる。
大きな身体をした店主が振り返った。口元には、人の良さそうな笑みが浮かんでいる。
「旅人か?」
「ああ。王都へ行く途中だ」
「なら腹減ってるだろ。空いてる席へ座んな」
店主は慣れた様子で、壁際の卓を顎で示した。
「ありがとな」
ガルドは礼を言い、すぐに席へ向かう。ブラックは入口付近で足を止めたまま、すぐには動かなかった。
黒い瞳が、ゆっくりと店内を見渡した。
誰もが、それぞれの時間を過ごしている。
束の間の安堵へ身を預け、明日また歩くための力を蓄えていた。
その光景を、ブラックは冷めた目で眺めていた。彼の目には、それらすべてが一つの塊にしか映らない。
声を交わし、笑い合い、僅かな安らぎへ縋りつく、弱く騒がしい命の群れ。
その喧騒は、彼にとって耳障りな雑音でしかなかった。
「何してるんだ? 早く座れって」
先に席へ座ったガルドが振り返る。ブラックは店内から視線を外さず、低い声で呟く。
「……実に不快な場所だ」
「飯屋入って最初の感想がそれかよ」
ガルドは呆れたように額を押さえた。ブラックは続ける。
「騒音が多い。臭気が混じり合っている。何より、人間が多い」
「村で一番人が集まる場所なんだから当たり前だろ」
「だから不快だと言っている」
「じゃあ外で食うか?」
ブラックは一瞬だけ黙った。料理の香りが、店の奥から流れてくる。
「……ここで構わん」
ガルドの口元がにやりと持ち上がる。
「結局ここで食うんじゃないか」
ブラックは無言で席へ向かった。
「無視かよ」
ブラックは向かいの椅子へ腰を下ろした。
姿勢は真っ直ぐだった。
背もたれへ身体を預けることもなく、両腕を組み、周囲の喧騒を冷たく見渡している。
その異様な雰囲気に気づいたのか、近くの席へいた客たちがちらりと視線を向けた。だが、ブラックと目が合いそうになると、すぐに逸らした。
ガルドはその様子を見て小さく笑った。
「なあ、また周りを怖がらせてるぞ」
「知らん」
「もう少し顔の力を抜いたらどうだ?」
「柔らかく?」
「ああ。こうやって」
ガルドは口元を持ち上げ、わざとらしい笑顔を作る。ブラックは無言でそれを見る。
「何だ、その醜悪な顔は」
「笑顔だよ、笑顔」
「不気味だな」
「ひどすぎだろ!」
ガルドが声を上げ、近くの客が思わず笑った。ブラックの視線がそちらへ向くと、笑った男は慌てて杯へ口をつけた。
間もなく、店主が木製の杯へ入れた水を二つ運んできた。
「注文は?」
「俺は煮込みとパン。それから、肉も頼む」
ガルドは迷うことなく答えた。店主は頷き、それからブラックへ視線を向けた。
「そっちの兄さんは?」
ブラックは壁へ貼られている木札へ目を向けた。そこには、この日の献立が記されていた。
文字を追う黒い瞳には、何の感情も浮かばない。
食べたいものを選んでいるようには見えなかった。ただ一つずつ確認し、量を計算しているような冷静さがあった。
ガルドが横から覗き込む。
「何にする?」
返事はない。
「肉か? 魚か? 案外、甘いものが好きだったりしてな」
ブラックがゆっくりと視線を向ける。
「黙っていろ」
「はいはい」
「その耳障りな返事をやめろ」
「分かった、分かったよ」
「同じだ」
「細かいな」
ブラックは再び献立へ目を戻す。
やがて、一通り確認し終えると、店主へ向かって短く告げた。
「すべてだ」
店主が瞬きをした。
「……すべて?」
「ああ」
「この札にあるもの、全部か?」
「そう言った。そこに記されている料理を、すべて持ってこい」
店主は一度献立を見上げ、それからブラックを見る。
「一人で食うのか?」
「そうだ」
淡々とした口調で返答した。ガルドが思わず身を乗り出す。
「待て待て、やめとけって。ここの料理、結構量あるぞ」
「少ない」
「まだ料理を見てもないだろ」
「見なくとも分かる」
「何が?」
「足りぬことが」
ガルドは数秒、言葉を失った。店主も同じように固まっている。
「本当に全部食えるのか?」
やがてガルドが恐る恐る聞いて、ブラックは不快そうに目を細めた。
「私を誰だと思っている」
「神様」
「分かっているではないか」
「食欲にも関係あるのか、それ」
「関係ない」
「そこはないんだな」
ガルドは頭を抱えた。店主はまだ迷っているようだった。
「一応言っとくが、残しても金はもらうぞ」
「構わん」
「……金、持ってるのか?」
その言葉が落ちた瞬間、ブラックの動きがほんの僅かに止まった。
ガルドも止まった。
店主だけが、二人を不思議そうに見ていた。
短い沈黙の後、ガルドがゆっくりとブラックへ顔を向ける。
「……持ってるよな?」
「持っていない」
即答だった。ガルドは目を閉じ、ゆっくりと天井を仰いだ。
「先に言えよ……」
「聞かれなかったからな」
「普通は、注文する前に財布の中身を考えるんだよ!」
「貴様が払え」
「なんで俺が払う流れになってんだよ」
「案内役だろう」
「案内役に食費は含まれてない!」
「ならば今、この場で含まれた」
「勝手に増やすな!」
店主は二人を見ながら、堪えきれないように笑い始めた。
「仲いいな、お前ら」
「よくない!」「あり得ん」
二人の声が重なった。店主はさらに大きく笑った。
ガルドは額へ手を当てたまま、長い息を吐く。
「……分かった。払うよ。ただし、一口でも残したら許さないからな」
「当然だ」
「追加も駄目だぞ。絶対」
「それは量を見てから決める」
「決めるな」
ブラックは答えない。店主は笑いながら注文を書き留める。
「じゃあ、本当に全部な?」
「ああ」
「分かった。厨房が泣くかもしれんが、作ってやるよ」
「急げ」
「偉そうだな、兄ちゃん」
「事実、私の方が上だ」
「何の上だよ」
ガルドが頭を抱える。店主は再び笑いながら、厨房の奥へ戻っていった。
ガルドはしばらく無言でブラックを見つめていた。
「何だ」
「いや」
ガルドは疲れたように息を吐くと、
「お前と一緒にいたら、王都へ着く前に財布が空になりそうだなって思ってた」
「稼げばいい」
ブラックが当然のことように言った。
「誰が稼ぐんだ?」
「貴様が」
「やっぱり俺だけかよ」
「私は金など必要としていない」
「今、大量に飯を必要としてるだろ!」
ブラックは水の入った杯を取り、静かに口をつけた。完全に会話を終えた態度だった。
ガルドはその姿を見ながら、もう一度だけ大きなため息を吐いた。
注文を受けた厨房は、すぐに慌ただしくなった。
奥で鍋の蓋が開き、誰かが薪をくべる。
鉄鍋を擦る音や肉を焼く音、皿を重ねる音が立て続けに響き、厨房の空気が一変したことは客席にいても分かった。
「本当に献立を全部作る気なんだな……」
ガルドが厨房の方を見ながら、小声で呟く。
「注文を受けた以上、用意するのが道理だろう」
「そうなんだけどさ」
ガルドは向かいへ座るブラックを見た。
「お前、食うことに関してだけは、やけに迷いがないよな」
「何が言いたい」
「普段は何を見ても『興味がない』とか『くだらない』とか言ってるのに、飯だけは即決するだろ」
「生命を維持するために必要な行為だ。この身体を、貴様らの脆弱な肉体と同列に語るな」
「その割には量が生存に必要な範囲を越えてる気がするけど」
「貴様如きの尺度で、私を測るな」
「それも便利な言葉だよな」
ガルドは笑いながら水を飲んだ。ブラックはそれ以上答えず、店内に視線を向けた。
周囲の客たちは、先ほどから何度もこちらを気にしていた。
献立をすべて注文した黒衣の男。しかも金は持っておらず、向かいに座る獣人へ当然のように支払わせるつもりらしい。好奇の視線が集まるのも無理はなかった。
もっとも、ブラックと目が合えば、誰もがすぐに顔を背ける。そのたびにガルドは笑いを堪え、ブラックは僅かに眉を寄せた。
やがて、最初の料理が運ばれてきた。大ぶりの陶器へ盛られた、白身魚の香草煮だった。
さらに肉の炙り焼きが来た。刻んだ香草と粗い塩が振られ、焼き立ての匂いが周囲へ広がった。
それだけでは終わらない。
料理は次々と運ばれ、卓の上はあっという間に皿で埋め尽くされた。
店主は両手を腰へ当て、料理の並んだ卓を眺めた。
「さすがに壮観だな」
ガルドも同じように卓を見渡した。
「壮観っていうか、祭りだろ、これ」
「残したら承知しないぞ」
店主が念を押す。
「残すわけがない」
「本当だろうな」
「くどい」
「誰のために作ったと思ってる」
「私のために決まっているだろう」
「そういう意味じゃねえよ」
店主は呆れたように笑い、厨房へ戻っていった。
ガルドは自分の皿へ匙を入れながら、改めてブラックの前に並ぶ料理を見た。
「……なあ」
「何だ」
「これ、本当に全部お前のなんだよな?」
「そうだが」
「多くない?」
「足りん」
「嘘つけ」
ブラックは何も答えず、匙を手に取った。
その所作は、意外なほど整っていた。
姿勢を崩さず、音も立てず、片手で皿を引き寄せ、もう片方で匙やナイフを扱う。
貪るような荒々しさはないが、速度だけが異常だった。
魚の煮込みが消え、パンの籠が空になる。
野菜のスープも、肉の炙り焼きも、気づけば皿の上に僅かな跡しか残っていない。
あらゆる動作の間にあるはずの無駄が、完全に削ぎ落とされていた。
鶏の丸焼きへ手を伸ばした頃には、周囲の会話が途切れ始めていた。
「おい……」
誰かが小声で呟く。
「もう半分食ったぞ」
「さっき料理が来たばかりだろ」
「飲み込んでるのか、あれ」
客たちの視線が集まる。だが、ブラックは何も気にしない。
数分後、大皿には身を残さぬ白い骨が整然と並んでいた。
ガルドは自分の煮込みを口へ運ぶ手を止めていた。匙を持ったまま、呆然とブラックを見ている。
彼もよく食べる方だった。
獣人族は身体を動かす分、人間より食事量が多い者も珍しくない。旅を続ければ腹は減るし、食べられる時に食べるのが基本でもある。
それでも限度というものがあった。
「お前……」
ガルドの声に、呆れと感心が入り混じる。
「本当にどこへ入ってるんだ、それ」
ブラックは豆の煮込みを食べながら、視線だけを向けた。
「腹に決まっている」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「ならば、何を問うている」
「見た目と量が合ってないんだよ」
「意味が分からんな」
「いや、普通その体格でこれは無理だろ」
「貴様ら凡俗と同じにするな」
「またそれか」
ガルドは頭を掻いた。
「神様って、みんなそんなに食うのか?」
「知らん」
「お前、神のこと意外と知らないよな」
「私以外の神へ、興味を向ける価値がないだけだ」
「自分以外どうでもいいのか」
「当然だ」
「そこまで迷いなく言えるの、逆にすごいな」
ブラックは無言で燻製肉へ手を伸ばした。
厨房の入口では、店主と若い女が空になった皿を数えていた。
「七枚……」
「八枚だ。魚の皿を下げた」
「まだ食べるの?」
「見れば分かるだろ」
店主は低く唸ると、
「厨房の仕込み、足りるか……?」
その言葉が聞こえたのか、ガルドが苦笑する。
「ほら、厨房が不安そうにこっち見てるぞ」
「注文した分しか食べていない」
「今のところはな」
「追加しても構わん」
「駄目だって言っただろ」
即答だった。ブラックの目が細くなる。
「貴様に決める権利はない」
「金を出す俺が決めるんだよ」
「ならば稼げ」
「今ここで、どうやって稼げっていうんだ」
「考えろ。その程度の知恵すらないのか」
「むちゃくちゃだな、お前!」
周囲の客たちから笑い声が上がった。
隣の卓にいた冒険者が、同情するようにガルドへ声を掛ける。
「兄ちゃん、大変そうだな」
隣の卓にいた冒険者が、ガルドへ同情するように言った。
「分かってくれるか?」
「ああ。食費で破産しそうだ」
「本当にな」
「余計な口を利くな」
ブラックが低く告げる。冒険者は一瞬肩を強張らせたが、ガルドが手を振った。
「大丈夫だ。たぶん怒ってないから」
「怒ってなどいない」
「ほらな」
「それ以上耳障りに鳴くなら、黙らせても構わんと思っているだけだ」
冒険者の顔が引きつった。
「それを怒ってるって言うんだよ」
「違う」
「どこが違うんだ」
ブラックは答えず、最後に残っていた焼き菓子を手に取った。
「甘いものも食べるんだな」
「あるから口にしているだけだ」
「美味い?」
ブラックは一口食べた。しばらく咀嚼し、飲み込む。
ガルドは返答を待つように見つめていた。
「悪くはない」
短い感想だった。ガルドの口元が持ち上がる。
「へえ」
「何だ」
「いや。お前でも、ちゃんと美味いと思うんだなって」
「言葉を勝手に歪めるな。私は『悪くない』と言っただけだ」
「同じようなもんだろ」
「違う」
「細かいな」
ブラックは残りも食べ終える。
やがて、卓の上から料理がすべて消えた。
空になった皿、骨だけが残された大皿、パン屑すらほとんど落ちていない籠。
最後まで残っていた焼き菓子の皿も、蜂蜜の薄い跡を残すだけだった。
店内は、妙に静かになっていた。
いつの間にか、多くの客がブラックの食事を見守っていたらしい。
料理がなくなったことを確認すると、誰かが小さく息を吐いた。
「全部食った……」
その言葉をきっかけに、ざわめきが戻る。
「本当に一人で?」
「化け物だろ」
「聞こえているぞ」
ブラックが視線を向ける。声を上げた男たちは慌てて口を閉じた。
店主が空いた皿を下げるために近づいてくる。その表情には驚きと、わずかな達成感が浮かんでいた。
「本当に全部食ったな」
「当然だ」
「見た目によらず大食いだ」
「外見で私を推し量るな」
「悪かったよ」
「それで」
ブラックが店主を見て、
「追加はあるのか」
淡々と聞いた。
店主の手が止まった。
ガルドも、厨房の入口にいた女も止まった。
数秒沈黙して、
「……まだ食うのか?」
店主が恐る恐る聞いた。
「量が足りぬと、初めから言っていただろう」
店主はゆっくりと厨房の方を見る。
そこには、ほとんど空になった鍋と、困った顔の料理人たちがいた。
「もう、今日は勘弁してくれ。夜の分までなくなる」
心の底からの声だった。
「そうか」
ブラックは興味を失ったように水を飲む。ガルドは胸を撫で下ろした。
「助かった……」
「何がだ」
「俺の財布が」
「情けない奴だな」
「誰のせいだと思ってるんだよ!」
再び店内に笑いが広がった。
◇
食堂を出た時、太陽は西へ傾き始めていた。
村の屋根や木柵へ、柔らかな金色の光が落ちている。
畑では老人が鍬を振るい、井戸では女たちが水を汲み、軒先では旅人が明日の出発に備えて荷を整えていた。
大きな村ではなく、豊かさとは縁遠い。
王都のような華やかさも、人目を引く建物も見当たらない。
それでも、そこには今日を終え、明日を迎えるための穏やかな営みがあった。
ガルドは満足そうに腹を擦りながら歩いている。
「いやあ、食った食った」
ブラックが横目で見る。
「貴様はほとんど食べていなかっただろう」
「お前と比べるなよ」
「だから貴様は弱い」
「食った量と強さを結びつけるなよ」
ガルドは笑いながら、ブラックの横顔を見た。
食事前よりも、僅かに眉間の皺が浅くなっている。
「美味かっただろ?」
「食べられないほどではなかった」
「焼き菓子、悪くないって言ってたじゃないか」
「だから何だ」
「甘いものが好きなんだろ」
その言葉に、ブラックの目が僅かに細くなった。
「違う」
「じゃあ、もう一個あったら食う?」
「あればな」
「ほら」
「黙れ」
ガルドは楽しそうに笑った。
その時、通りの先から子供たちの声が聞こえてきた。
「魔王め、覚悟しろ!」
「その程度で俺を倒せると思うな!」
「くらえ、聖なる剣!」
村の中央に近い小さな広場で、数人の子供たちが遊んでいた。
年齢は七歳から十歳ほどだろう。
木の枝を削って作った剣を握り、古い布切れを肩へ結んで、マントのようになびかせている。
一人が勇者。一人が騎士。そして、一人が魔王。
残りの子供たちは兵士や魔法使いの役らしく、それぞれ思い思いの武器を構えていた。
ただの木の枝と、欠けた鍋の蓋と、紐で結んだ小枝の杖。
子供たちの想像の中では、それらは伝説の剣であり、聖なる盾であり、強大な魔力を宿す杖だった。
勇者役の少年が木の剣を大きく振り上げた。勢いをつけて踏み込み、魔王役の少年へ向かって走る。
だが、その小さな足が、地面の窪みへ引っ掛かった。
「うわっ!」
身体が前へ傾く。木の剣が手から離れ、乾いた土の上を滑った。
少年は前のみに倒れ、そのまま顔から地面へ転んだ。鈍い音がした。
「いってぇ……」
少年は顔をしかめ、両手を地面へついた。目にはすぐに涙が浮かんだ。
周囲の子供たちは、笑わなかった。
「大丈夫か?」
魔王役だった少年が、真っ先に駆け寄った。
「顔打った?」
杖を持っていた少女も、すぐにその場へしゃがみ込んだ。
「血、出てない?
「ほら、立てるか?」
何本もの小さな手が差し出される。転んだ少年は鼻をすすり、その一つを掴んで立ち上がった。
少女が服についた土を払い落とす。
「痛くない?」
「ちょっとだけ」
「もうやめる?」
転んだ少年は鼻をすすった。一度、地面へ落ちた木の剣を見ると、
「やめない。もう一回だ!」
涙の残る顔で言って笑った。周囲の子供たちも笑顔になる。
「おう!」
「今度はちゃんと走れよ!」
「次は俺が勇者!」
「駄目だよ、まだ終わってない!」
遊びは、何事もなかったように再開された。
先ほど転んだ少年も、もう痛みを忘れたように木の剣を構えている。
笑い声が、再び広場へ広がっていった。
ブラックは黙ってその光景を見ていた。
弱者同士が支え合い、転んだ者へ手を差し伸べる。
自分一人で立てぬ弱者が、別の弱者へ縋っただけだ。
そう切り捨てることは容易かった。
だが、元いた世界で見てきた人間たちの顔が、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎった。
恐怖に怯え、怒りに支配され、傲慢さを振りかざす。
己の命を守るためなら他者を踏みつけ、それでも自分だけは正しいと信じ続ける者たち。
目の前にいる子供たちには、まだ濁りがない。
転んだ仲間を笑うのではなく、自然に手を伸ばす。
助けられた者も、それを恥じず、再び同じ輪の中へ戻っていく。
その姿は、少なくとも彼が知る人間の醜悪さとはどこか異なって見えた。
ブラックの眉が僅かに寄る。
不快だった。
何が不快なのか、考える価値はなかった。
「珍しいな」
ガルドが声を掛ける。
「何がだ」
「お前が子供を見てるなんて」
「見ていない」
「ずいぶん真剣だったぞ」
「視界に入っただけだ」
「またそれか」
ガルドは肩を竦めた。ブラックは踵を返す。
「行くぞ」
「宿へ?
「貴様が休むと言ったのだろう」
「お前、意外と覚えてるな」
「くだらぬことを言うな」
ブラックは歩き始める。
ガルドは広場を振り返り、木の剣を振るう子供たちを一度だけ見た。
そして、何かを確かめるように、ブラックの背中へ視線を向けた。
「だから、ちょっと待てって」
そう言って追いかけようとした、その時だった。
村の入口の方角から、激しい物音が響いた。
馬が甲高くいななき、続いて車輪が軋む音が響く。何かが壊れるような鈍い衝撃が村中へ伝わった。
その直後だった。
女の悲鳴が空気を切り裂き、それに呼応するように何人もの人間が一斉に駆け出した。
つい先ほどまで穏やかだった村の空気は、その一瞬で音を立てるように崩れ去る。
広場にいた村人たちは一斉に顔を上げ、無邪気に響いていた子供たちの笑い声も、ぴたりと止んだ。
「馬車だ!」
「怪我人がいるぞ!」
「医者を呼べ!」
平穏だった村の空気が、一瞬で切り裂かれた。