半壊した一台の馬車が、村の門をくぐるようにして転がり込んできた。
片方の車輪は大きく歪み、車軸が悲鳴のような音を立てている。
荷台の側面には、鋭い爪で深く抉られた傷が幾筋も走っていた。厚い板を貫いた裂け目には、黒ずんだ血が付着している。
馬は泡立った涎を垂らし、白目を剥いていた。脚は今にも崩れそうに震えている。
村人たちが駆け寄り、倒れかけた荷台を支えた。
「落ち着け! もう大丈夫だ!」
「水を持ってこい!」
「車輪へ木を噛ませろ! このままじゃ倒れるぞ!」
「中に人がいるぞ!」
御者台から、旅商人らしい女が転がるように降りた。
服は泥と血に汚れ、顔は青ざめている。
しかしすぐに身体を起こし、村人たちへ縋るように手を伸ばした。
「お願い、助けて……!」
荷台には三人の護衛が倒れていた。
一人は脇腹を深く裂かれ、一人は片脚を折り、もう一人は全身を震わせながら歯を食いしばっている。
ガルドはすぐに馬車へ駆け寄ると、
「何があった?」
倒れている男の一人へ、声を掛けた。男は意識を失いかけていた。
それでも、獣人の青年が問いかけたことに気づくと、重そうに瞼を開く。
「もり……」
「森?」
ガルドは膝をついて、続きを促した。
「どこの森だ?」
「ここから……東へ……半日くらい……」
息を吸うたび、男の喉から湿った音が漏れる。
「急がなくていい。ゆっくり話せ」
ガルドは男の肩へ手を添えた。その声音は、ブラックへ話しかける時とは違っていた。
軽さはなく、相手を落ち着かせるように、低く穏やかだった。
「何に襲われた?」
「黒い……狼……」
男の瞳が、何かを思い出したように大きく開く。そこへ、再び恐怖が戻った。
「でかい……普通の狼じゃない……!」
「魔物か?」
「ああ……」
男は弱々しく頷いた。
「一頭じゃない……三頭……いや、もっといたかもしれない……」
「数が分からなかった?」
「速すぎて……見えなかった……!」
男の呼吸が乱れ、ガルドはすぐに周囲へ目を向けた。
「誰か、水を」
「ここだ!」
村人から差し出された水筒を受け取り、男の唇へ少しずつ水を含ませる。
男は咳き込みながらも、僅かに呼吸を整えた。
「護衛は何人いた?」
「六人……」
「他の三人は?」
その問いに男は答えなかった。
視線が揺れ、唇だけが震えた。それだけで十分だった。
ガルドの表情が僅かに曇る。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。別の負傷者が、苦しげに顔を上げる。
「剣が……通らなかった」
その言葉に、近くにいた者たちの動きが僅かに止まった。ガルドが振り返って聞く。
「何?」
「何度斬っても……皮膚に弾かれた……」
男は震える手で、自分の剣を指す。荷台の床へ転がっていた剣は、半ばから折れていた。
刃には深い欠けがいくつもあり、金属が強い衝撃を受けて曲がっている。
「岩へ叩きつけたって、こうはならないぞ」
近くにいた冒険者が、折れた剣を拾い上げながら呟いた。
「どんな奴だった?」
ガルドが尋ねると、
「黒い毛……目が紫に光ってた……」
負傷者は顔を引きつらせながら答えた。
「口からも、黒い煙みたいなのを吐いて……」
「煙?」
「触れた木が……腐った」
周囲の村人たちがざわめいた。
「腐った?」
「毒じゃないのか?」
「そんな魔物、この辺りで聞いたことないぞ」
「東の森には灰狼がいるが、そんな力は持ってない」
「群れで襲うことはあっても、旅人へ近づくことなんて滅多にないはずだ」
不安が一気に広がっていく。誰もが村の東にある森の方角へ視線を向けた。
森はここからでは見えない。だが、その見えない場所に何かが潜んでいる。
そう考えただけで、村人たちの顔から血の気が引いていった。
「急げ!」
年配の男が声を張り上げる。
「怪我人を宿へ運べ! 医者が来るまで止血するんだ!」
「門を閉めろ!」
「外にいる奴を全員戻せ!」
「家畜も小屋へ入れろ!」
「子供は絶対に外へ出すな!」
村人たちは一斉に動き始めた。
広場で遊んでいた子供たちは母親に抱かれ、家の中へ連れ戻される。木の剣が一本、地面へ落ちた。
つい先ほどまで笑い声が響いていた場所を、今は負傷者を運ぶ大人たちが走り回っている。
ガルドは拳を握った。
「厄介だな……」
思わず漏れた呟きに、返事はなかった。
隣を見れば、ブラックは広場の端へ立ったまま、騒ぎを静かに眺めていた。
苦しむ負傷者にも、怯える村人にも関心を示さない。
「ブラック」
「何だ」
「魔物だってさ」
「聞こえている」
「剣も通らないらしい」
「だから何だ」
あまりにも淡泊な返答だった。ガルドは一瞬だけ言葉を失う。
「だから何だって……」
周囲へ視線を向ける。
「この近くに、そんな魔物がいるんだぞ」
「いるだろうな」
「俺たちも明日、東の街道を通るかもしれない」
「姿を現した時に消し去れば済む」
ブラックは何でもないことのように言った。
「そういう問題じゃないだろ」
「では、何が問題だ」
「また村を襲うかもしれない」
「襲われれば、人間が死ぬ。それだけのことだ」
ブラックは淡々とそう言った。
雨が降れば地面が濡れ、冬が来れば草木が枯れる。それと同じほど当然の事実として、人の死を語っている。
ガルドは言葉を失った。
人の命をもっと重く見ろと言いたかった。
しかし、ブラックはそもそも人間という存在そのものを、自分と並べて考えていなかった。
ガルドは小さく息を吐いた。
「……お前な」
それ以上の言葉が続かなかった。ブラックは興味を失ったように踵を返す。
「行くぞ」
「待てよ」
ガルドが呼び止める。ブラックは振り返らない。
「何だ」
「お前、さっきから怪我人を見てるだろ」
短い沈黙が落ちる。
「見ていない」
「嘘つけ。少なくとも俺よりは、よく見てる」
ブラックの眉が僅かに動いた。
「貴様の目が節穴なだけだ」
「否定の仕方が弱いな」
「黙れ」
ブラックは再び視線を逸らした。
その時、一人の負傷者が、二人のすぐ近くを運ばれていった。
先ほど荷台の奥で横たわっていた男だ。意識は朦朧としているらしく、担架代わりの板の上で苦しげに身を捩っている。
呼吸は浅く、額には脂汗が浮かび、歯を食いしばるたびに喉の奥から低い呻きが漏れた。
「気をつけろ!」
「揺らすな!」
「右腕を押さえてくれ!」
村人たちが声を掛け合う。
男の右腕には、肩口から肘近くまで大きな裂傷が走っていた。革鎧は縦へ引き裂かれ、傷口の周囲には黒紫色の痣が広がっていた。
痣は血管へ沿うように枝分かれし、腕の上部へゆっくりと伸びている。
まるで、生きた闇が獲物の内側へ根を張ろうとしているように、不気味な色が皮膚を侵食している。
ガルドもそれに気づき、顔を顰めた。
「毒か?」
近くにいた村人へ尋ねると、
「分からない」
男は青ざめた顔で答えた。
「薬草を使っても止まらないんだ。最初は傷の周りだけだったのに……」
ガルドの耳が僅かに伏せられる。
「まずいな」
ブラックは何も言わず、その傷を見つめていた。
黒紫色の痣の奥にはごく微かに力の痕跡がある。
男の身体へ残っていたそれは、自然に宿る魔力とは明らかに異なっていた。
魔物が本能のまま纏う荒々しく無秩序な魔力ではない。
流れは異様なほど整い、一定の法則へ従うように幾重にも組み上げられ、無理やり一つの性質へ固定されている。
誰かが組み上げ、誰かが形を与え、何者かが意図を持って魔物の内側へ埋め込んだ力。
魔物を強化するためなのか。
変質させるためなのか。
あるいは、何らかの実験の副産物なのか。
いくつもの可能性が、ブラックの脳裏を静かに過ぎっていく。
傷口の奥から漂う気配は、不自然なほど歪んでいた。
本来なら決して混ざり合わない複数の魔力が、無理やり縫い合わせられ、一つの形だけを保たされている。
粗雑で不完全だが、そこには明確な意思があった。
ブラックの黒い瞳が、わずかに細められる。
担架は宿屋の中へ運ばれていった。
ブラックの視線は、その姿が建物の奥へ消えるまで静かに追い続けていた。
「……やっぱり何か見つけたな」
ガルドが聞いて、ブラックは宿屋から視線を外し淡々と答える。
「知らん」
「分かってる顔してるぞ」
「私の何を理解したつもりだ」
「少なくとも、興味がない時の顔とは違う」
冷え切った黒い瞳が、ゆっくりとガルドへ向けられた。それでも、ガルドは目を逸らさない。
やがて、ブラックは興味を失ったように前へ向き直った。
「くだらぬ詮索はやめろ」
「じゃあ、当たりか」
「黙れ」
その時、宿屋の方から苦しげな呻き声が聞こえてきた。
傷を負った者たちが次々と運び込まれ、商人たちは不安げな表情で立ち尽くし、村人たちは慌ただしく通りを駆け回っている。
その光景を見渡しながら、ガルドは静かに拳を握った。
「……放ってはおけねぇな」
決意を固めるような、小さな声だった。ブラックは宿屋から視線を外し、淡々と答える。
「好きにしろ」
「お前は?」
「人助けなどという、人間の自己満足に付き合う気はない」
「だろうな」
ガルドは僅かに苦笑した。
「じゃあ、夜中に一人で森へ行ったりするなよ」
その言葉を聞いた途端、ブラックの足が一瞬だけ止まった。ガルドはそれを見逃さなかった。
「ほら」
「何がだ」
「今、間があった」
「無い」
「絶対あった」
「黙れ」
ブラックはそれ以上相手をせず、踵を返して歩き出した。
黒い道着の裾が夕風に揺れ、その背中は相変わらず何を考えているのか読み取れない。
ガルドは、その背中をしばらく見送ると、静かに息を吐いた。
ブラックは人間を嫌悪している。それは気まぐれや、一時の感情ではない。積み重ねた憎悪の果てに辿り着いた、揺るぎない結論であった。
本来なら人間一人の生死や境遇など、気に留めるはずもない。だがあの傷の奥にある異質な痕跡だけは、確かにブラックの目を引いていた。
ガルドは、遠ざかる黒い背中へ向かって小さく息を吐いた。
「……何を見つけたんだ、お前」
答える者はいない。
ブラックはもう振り返らず、夕暮れへ染まり始めた村並みの中へ静かに溶け込んでいった。
◇
夜。
村は、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。
誰もが息を潜め、闇の向こうから何かが訪れることを恐れていた。
窓は閉ざされ、扉には閂が掛けられていた。椅子や箱を扉の前へ積み上げている家もある。
村の東には、馬車が逃げてきた森が広がっている。
月明かりの下でも、その奥は深い闇へ沈んでいた。
宿屋の一室で、ガルドは寝台へ倒れ込むように身体を預けていた。
「はぁぁぁ……」
藁を詰めただけの簡素な寝具だったが、野宿よりは遥かにましだった。
朝から街道を歩き、村へ着いてからは馬車の荷を下ろし、負傷者を運び、村人たちと襲撃の痕跡まで確認した。
身体には鈍い疲労が溜まっているが、肉体の疲れ以上に頭の中が落ち着かなかった。
「……普通の魔物じゃないよな」
返事はない。
ブラックは窓際の椅子へ腰掛け、腕を組んだまま東の森を見ていた。
「聞いてる?」
ガルドが尋ねた。
「聞こえている」
「森まで見に行ったけどさ、足跡、普通の灰狼の倍以上あった」
ブラックは何も言わない。ガルドは天井へ視線を戻しながら続ける。
「少なくとも三頭分。しかも、走った跡なのに土が後ろへ崩れてなかった」
「どういう意味だ」
ガルドは少し驚きながら、寝台の上で身体を起こした。
「普通は走れば、蹴り出した土が後ろへ崩れる。でも、今日の跡は真下へ深く沈んでた」
「身体の質量だけが、異常に増大しているように見える、と?」
「ああ」
ブラックは窓の外を見たまま、僅かに目を細める。
「やっぱり気になる?」
「貴様が勝手に喋っているだけだ」
「質問もしただろ?」
「話が無駄に長いから、確認しただけだ」
「素直じゃないなぁ」
ガルドが苦笑して、ブラックは答えない。
部屋の外を、誰かが早足で通り過ぎていく。床板が軋み、遠くで扉が開く音がした。
負傷者の様子を見に行く村人か、医者だろう。少し遅れて、低い呻き声が壁越しに聞こえた。
ガルドの表情から笑みが消える。
「腕をやられた奴、痣が肩まで広がってた。医者も毒だと思ってるみたいだけど、薬が効かないらしい」
「そうか」
「死ぬかもしれない」
「人間はいずれ死ぬ」
「そういう話じゃない」
「何も違わん」
ガルドは何か言い返そうとしたが、やがて深く息を吐いた。
「駄目だな」
「何がだ」
「お前と命の話をすると、話が進まない」
「貴様が命へ無意味な価値を付け加えるからだ」
「普通は付け加えるんだよ」
「普通などという、曖昧な基準を私へ押しつけるな」
「だろうな」
ガルドはそう言って再び寝台へ身体を預けた。
しばらく部屋へ沈黙が流れる。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。枝葉が擦れ合い、波のような音を繰り返していた。
やがてガルドは、ふと思い出したように目を開く。
「昼間の傷、見てただろ」
「…………」
「何か分かったのか?」
返答はない。ブラックは窓の外を見続けている。
「毒じゃないんだろ?」
「…………」
「普通の魔物の傷でもない」
「…………」
「それくらいは分かってるんじゃないか?」
なおも沈黙。
ガルドはしばらく待った。しかし、ブラックが口を開く様子はない。
そして、
「……まあ、答えないか」
諦めたように息を吐いた。
「理解しているではないか」
「お前、話したいことしか話さないもんな」
「当然だ」
「一緒に旅してるんだから、少しくらい共有してもいいだろ」
「旅をしているつもりはない」
「じゃあ何だよ」
「貴様が勝手について来ているだけだ」
「道具扱いしてたくせに」
「ああ」
「認めるのかよ」
ガルドは呆れたように笑う。ブラックはようやく窓から視線を外し、ガルドを見た。
「俺は王都までの案内役だけ?」
「それ以上に何がある」
「話し相手とか」
「不要だ」
「荷物持ち」
「それは貴様の荷だろう」
「財布」
「それは多少役に立っている」
「一番嫌な認められ方した!」
ガルドは寝台の上で声を上げた。その直後、隣の部屋から壁を叩く音がした。
「静かにしろ!」
怒鳴り声が響いて、ガルドは慌てて口を閉じた。
「……悪い」
壁へ向かって小声で謝る。ブラックは冷ややかに見ていた。
「愚かだな」
「お前が言わせたんだろ」
「声を上げたのは貴様だ」
「原因はお前だ」
「責任転嫁か」
「その言葉、お前から出るんだな」
ガルドは呆れながら毛布を引き寄せた。
それ以上問い詰めても答えは得られない。
無理に話させようとすれば、今度こそ本気で黙らされるかもしれない。
「もう寝る」
「好きにしろ」
「お前は?」
「私はここにいる」
「やっぱり寝ないのか?」
「必要ない」
「……便利だな、神様って」
毛布へ潜りながら、ガルドは小さく欠伸をした。
「おやすみ」
相変わらず返事はない。ブラックは窓の外へ視線を向けたままだった。
少しして、毛布の中から再び声がする。
「おやすみって言われたら、普通は返すんだぞ」
ブラックは僅かに眉を寄せた。
「眠らない者へ、何を返せという」
「そういう問題じゃないんだけどな……」
ガルドの声には、すでに濃い眠気が滲んでいた。それでも返事がないことだけは気になったらしい。
「別に、同じように『おやすみ』って言えばいいだけだろ」
「無意味だと分かっていながら続けるとは、実に愚かだな」
「挨拶って、そういう無意味なもんなんだよ」
「ならば、なおさら口にする必要はない」
「本当に徹底してるよな……まあ、いいや」
言いながら、毛布の中で身体を丸める。
「好きにしろ」
ブラックが淡々と告げる。その声に、ガルドは薄く目を開いた。
「それ、俺の台詞……」
最後の言葉は、形を結ぶ前に途切れた。ほどなくして、規則正しい寝息が部屋へ響き始める。
狼耳は力なく横へ倒れ、毛布から半分ほど覗く尻尾も動かない。完全に警戒を解いた寝姿だった。
ブラックだけが起きていた。
室内へ残された小さな灯りが揺れ、壁や天井へ伸びた影を静かに歪めている。
壁の向こうでは、負傷者の苦しげな呻きと、廊下を行き交う足音が途切れ途切れに聞こえていた。
ブラックはそれらすべてを意識の外へ追いやる。
人間が苦しもうと、怯えようと、それ自体には何の興味もない。
脳裏へ残っていたのは、昼間に見た傷だけだった。
深く抉られた傷の周囲には黒紫色の痣が広がり、その奥には歪んだ魔力が残されていた。
あれが自然に生じたものではないことは、もはや疑う余地もなかった。
この世界の魔法体系について、ブラックが把握していることはまだ少ない。
人間たちの会話や、街道ですれ違った魔法使いたちの力の流れを観察し、断片的な知識を拾い集めたにすぎない。
それでも、理解が浅いからといって、何も分からないわけではない。
力には、それぞれ固有の流れがある。
自然の中で生まれ、あるがままに循環する力。
生命が本能のままに発し、感情や意思によって僅かに揺らぐ力。
そして、何者かが明確な目的を持ち、幾つもの術式を重ね合わせて人為的に組み上げた力。
魔物が本来持つ力へ、異なる性質が無理やり縫い合わされていた。
力を底上げするための強化なのか。
性質そのものを変質させるためなのか。
あるいは、意識を縛り、操るための制御なのか。
その目的までは今はまだ断定できない。
だが、あの異形が自然に生まれた存在ではないことは確かだった。
誰かが明確な意思を持ち、魔物の肉体へ手を加えた。
そして、その意思を持つ者はおそらく人間だった。
ブラックは小さく鼻を鳴らす。
「……くだらんな」
低い呟きが、夜の部屋へ静かに落ちた。
人間はどの世界でも変わらない。
己の器を知らず、理解の及ばぬ力へ手を伸ばす。
触れる資格もないものを掴み、自らが支配者になったと錯覚する。
命を作り替え、自然を歪め、すべてを制御できると錯覚する。その果てに、自ら災厄を生み出す。
実に人間らしい浅知恵だった。
この村が滅びようと、王都へ被害が広がろうと、ブラックには関係がない。
人間が自らの手で作り出したものによって命を奪われる。それは因果であり、むしろ相応しい結末ですらある。
ブラックは窓枠へ片肘を置き、指先で頬を支えた。
黒い瞳は変わらず森へ向けられている。あの魔力だけが、妙に意識へ残っていた。
自分の知らぬ法則によって組み上げられた力。
術式は粗く、魔力の流れにも無理がある。完成された技術とは到底思えない。しかし、その不完全さの奥には、意思が確かに存在していた。
魔物へ何を施し、どこまで完成させようとしているのか。その果てに、何を得ようとしているのか。
見定める程度の価値はある。
ブラックはそれを興味とは認めなかった。
未知の力があるなら、その正体を見極める。神としてそれはごく当然の行為だった。
その時だった。
ブラックの目が、鋭く細められる。
月明かりの届かない深い闇の奥で、何かがほんの一瞬だけ揺らいだ。
次の瞬間、紫色の小さな光が闇の中で静かに瞬いた。
夜の空気そのものへ溶け込むように一度だけ輝き、すぐに消えた。
常人なら、夜目の錯覚として見過ごしただろう。
だがブラックの目は、その一瞬を正確に捉えていた。
光が生まれた位置、森の奥までの距離、明滅した時間。そして、消えゆく光と共に森へ溶けた、ごく微かな魔力の揺らぎまで、一切漏らすことはなかった。
「ほう……」
ブラックの口元が、僅かに歪んだ。
未知の現象を見つけた観察者が、その性質を測る時にだけ浮かべる、ごく薄い変化だった。
ブラックはさらに、意識を森の奥へ伸ばす。
そこには湿った土の匂いと、小さな生命の気配しか残っていない。
魔物の気配も、人間の存在も、術式を操る者の痕跡もなかった。
すでにそこには何もいない。
残されているのは、先ほどの光が放たれた場所へ薄く漂う魔力の残滓だけだった。それも急速に薄れ、森の空気へ溶けつつある。
ブラックの口元から、先ほど浮かんだ薄い歪みが消える。
「……すでに去ったか」
独り言のような低い声が漏れる。
今さら森へ向かったところで、得られるものはない。痕跡を辿っても、その先は途切れている。魔物を捕らえることも、術者を見つけることもできない。
ならば、今から動く意味はなかった。
それでも一つだけ分かったことがある。
この世界は、人間が群れ、争い、醜く生きているだけの場所ではない。
その裏側では、何者かが確固たる目的を持ち、歪んだ力を動かしている。
退屈な世界だと断じるには、まだ少しだけ早いらしい。
ブラックは窓枠へ預けていた肘を戻し、椅子へ深く腰掛け直した。
ふと、寝台へ視線を向ける。
ガルドは何も知らず、無防備な寝息を立てていた。ブラックはその姿を一瞥し、すぐに視線を外した。
「……愚かな奴だ」
小さな呟きには、いつも通り何の温度もなかった。
部屋には、ガルドの規則正しい寝息と、窓の外で風に揺れる木々の音だけが残った。
やがてブラックは腕を組み直し、再び窓の外へ視線を向けた。
紫色の光はすでに消え失せ、森は何事もなかったように深い闇へ沈んでいる。
ブラックは静かに瞼を閉じた。余計な景色を視界から切り離すためだった。
村はなおも、恐怖の中で夜を過ごしていた。
森の奥では、消えかけた紫色の残滓だけが、誰にも知られることなく夜の闇へ溶けていった。