異世界を見定める神   作:やきおに

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第二話 街道の向こう側(後編)

 半壊した一台の馬車が、村の門をくぐるようにして転がり込んできた。

 片方の車輪は大きく歪み、車軸が悲鳴のような音を立てている。

 荷台の側面には、鋭い爪で深く抉られた傷が幾筋も走っていた。厚い板を貫いた裂け目には、黒ずんだ血が付着している。

 馬は泡立った涎を垂らし、白目を剥いていた。脚は今にも崩れそうに震えている。

 村人たちが駆け寄り、倒れかけた荷台を支えた。

 

「落ち着け! もう大丈夫だ!」

「水を持ってこい!」

「車輪へ木を噛ませろ! このままじゃ倒れるぞ!」

「中に人がいるぞ!」

 

 御者台から、旅商人らしい女が転がるように降りた。

 服は泥と血に汚れ、顔は青ざめている。

 しかしすぐに身体を起こし、村人たちへ縋るように手を伸ばした。

 

「お願い、助けて……!」

 

 荷台には三人の護衛が倒れていた。

 一人は脇腹を深く裂かれ、一人は片脚を折り、もう一人は全身を震わせながら歯を食いしばっている。

 ガルドはすぐに馬車へ駆け寄ると、

 

「何があった?」

 

 倒れている男の一人へ、声を掛けた。男は意識を失いかけていた。

 それでも、獣人の青年が問いかけたことに気づくと、重そうに瞼を開く。

 

「もり……」

「森?」

 

 ガルドは膝をついて、続きを促した。

 

「どこの森だ?」

「ここから……東へ……半日くらい……」

 

 息を吸うたび、男の喉から湿った音が漏れる。

 

「急がなくていい。ゆっくり話せ」

 

 ガルドは男の肩へ手を添えた。その声音は、ブラックへ話しかける時とは違っていた。

 軽さはなく、相手を落ち着かせるように、低く穏やかだった。

 

「何に襲われた?」

「黒い……狼……」

 

 男の瞳が、何かを思い出したように大きく開く。そこへ、再び恐怖が戻った。

 

「でかい……普通の狼じゃない……!」

「魔物か?」

「ああ……」

 

 男は弱々しく頷いた。

 

「一頭じゃない……三頭……いや、もっといたかもしれない……」

「数が分からなかった?」

「速すぎて……見えなかった……!」

 

 男の呼吸が乱れ、ガルドはすぐに周囲へ目を向けた。

 

「誰か、水を」

「ここだ!」

 

 村人から差し出された水筒を受け取り、男の唇へ少しずつ水を含ませる。

 男は咳き込みながらも、僅かに呼吸を整えた。

 

「護衛は何人いた?」

「六人……」

「他の三人は?」

 

 その問いに男は答えなかった。

 視線が揺れ、唇だけが震えた。それだけで十分だった。

 ガルドの表情が僅かに曇る。

 

「……そうか」

 

 それ以上は聞かなかった。別の負傷者が、苦しげに顔を上げる。

 

「剣が……通らなかった」

 

 その言葉に、近くにいた者たちの動きが僅かに止まった。ガルドが振り返って聞く。

 

「何?」

「何度斬っても……皮膚に弾かれた……」

 

 男は震える手で、自分の剣を指す。荷台の床へ転がっていた剣は、半ばから折れていた。

 刃には深い欠けがいくつもあり、金属が強い衝撃を受けて曲がっている。

 

「岩へ叩きつけたって、こうはならないぞ」

 

 近くにいた冒険者が、折れた剣を拾い上げながら呟いた。

 

「どんな奴だった?」

 

 ガルドが尋ねると、

 

「黒い毛……目が紫に光ってた……」

 

 負傷者は顔を引きつらせながら答えた。

 

「口からも、黒い煙みたいなのを吐いて……」

「煙?」

「触れた木が……腐った」

 

 周囲の村人たちがざわめいた。

 

「腐った?」

「毒じゃないのか?」

「そんな魔物、この辺りで聞いたことないぞ」

「東の森には灰狼がいるが、そんな力は持ってない」

「群れで襲うことはあっても、旅人へ近づくことなんて滅多にないはずだ」

 

 不安が一気に広がっていく。誰もが村の東にある森の方角へ視線を向けた。

 森はここからでは見えない。だが、その見えない場所に何かが潜んでいる。

 そう考えただけで、村人たちの顔から血の気が引いていった。

 

「急げ!」

 

 年配の男が声を張り上げる。

 

「怪我人を宿へ運べ! 医者が来るまで止血するんだ!」

「門を閉めろ!」

「外にいる奴を全員戻せ!」

「家畜も小屋へ入れろ!」

「子供は絶対に外へ出すな!」

 

 村人たちは一斉に動き始めた。

 広場で遊んでいた子供たちは母親に抱かれ、家の中へ連れ戻される。木の剣が一本、地面へ落ちた。

 つい先ほどまで笑い声が響いていた場所を、今は負傷者を運ぶ大人たちが走り回っている。

 ガルドは拳を握った。 

 

「厄介だな……」

 

 思わず漏れた呟きに、返事はなかった。

 隣を見れば、ブラックは広場の端へ立ったまま、騒ぎを静かに眺めていた。

 苦しむ負傷者にも、怯える村人にも関心を示さない。

  

「ブラック」

「何だ」

「魔物だってさ」

「聞こえている」

「剣も通らないらしい」

「だから何だ」

 

 あまりにも淡泊な返答だった。ガルドは一瞬だけ言葉を失う。

 

「だから何だって……」

 

 周囲へ視線を向ける。

 

「この近くに、そんな魔物がいるんだぞ」

「いるだろうな」

「俺たちも明日、東の街道を通るかもしれない」

「姿を現した時に消し去れば済む」

 

 ブラックは何でもないことのように言った。

 

「そういう問題じゃないだろ」

「では、何が問題だ」

「また村を襲うかもしれない」

「襲われれば、人間が死ぬ。それだけのことだ」

 

 ブラックは淡々とそう言った。

 雨が降れば地面が濡れ、冬が来れば草木が枯れる。それと同じほど当然の事実として、人の死を語っている。

 ガルドは言葉を失った。

 人の命をもっと重く見ろと言いたかった。

 しかし、ブラックはそもそも人間という存在そのものを、自分と並べて考えていなかった。

 ガルドは小さく息を吐いた。

 

「……お前な」

 

 それ以上の言葉が続かなかった。ブラックは興味を失ったように踵を返す。

 

「行くぞ」

「待てよ」

 

 ガルドが呼び止める。ブラックは振り返らない。

 

「何だ」

「お前、さっきから怪我人を見てるだろ」

 

 短い沈黙が落ちる。

 

「見ていない」

「嘘つけ。少なくとも俺よりは、よく見てる」

 

 ブラックの眉が僅かに動いた。

 

「貴様の目が節穴なだけだ」

「否定の仕方が弱いな」

「黙れ」

 

 ブラックは再び視線を逸らした。

 その時、一人の負傷者が、二人のすぐ近くを運ばれていった。

 先ほど荷台の奥で横たわっていた男だ。意識は朦朧としているらしく、担架代わりの板の上で苦しげに身を捩っている。

 呼吸は浅く、額には脂汗が浮かび、歯を食いしばるたびに喉の奥から低い呻きが漏れた。

 

「気をつけろ!」

「揺らすな!」

「右腕を押さえてくれ!」

 

 村人たちが声を掛け合う。

 男の右腕には、肩口から肘近くまで大きな裂傷が走っていた。革鎧は縦へ引き裂かれ、傷口の周囲には黒紫色の痣が広がっていた。

 痣は血管へ沿うように枝分かれし、腕の上部へゆっくりと伸びている。

 まるで、生きた闇が獲物の内側へ根を張ろうとしているように、不気味な色が皮膚を侵食している。

 ガルドもそれに気づき、顔を顰めた。

 

「毒か?」

 

 近くにいた村人へ尋ねると、

 

「分からない」

 

 男は青ざめた顔で答えた。

 

「薬草を使っても止まらないんだ。最初は傷の周りだけだったのに……」

 

 ガルドの耳が僅かに伏せられる。

 

「まずいな」

 

 ブラックは何も言わず、その傷を見つめていた。

 黒紫色の痣の奥にはごく微かに力の痕跡がある。

 男の身体へ残っていたそれは、自然に宿る魔力とは明らかに異なっていた。

 魔物が本能のまま纏う荒々しく無秩序な魔力ではない。

 流れは異様なほど整い、一定の法則へ従うように幾重にも組み上げられ、無理やり一つの性質へ固定されている。

 誰かが組み上げ、誰かが形を与え、何者かが意図を持って魔物の内側へ埋め込んだ力。

 魔物を強化するためなのか。

 変質させるためなのか。

 あるいは、何らかの実験の副産物なのか。

 いくつもの可能性が、ブラックの脳裏を静かに過ぎっていく。

 傷口の奥から漂う気配は、不自然なほど歪んでいた。

 本来なら決して混ざり合わない複数の魔力が、無理やり縫い合わせられ、一つの形だけを保たされている。

 粗雑で不完全だが、そこには明確な意思があった。

 ブラックの黒い瞳が、わずかに細められる。

 担架は宿屋の中へ運ばれていった。

 ブラックの視線は、その姿が建物の奥へ消えるまで静かに追い続けていた。

 

「……やっぱり何か見つけたな」

 

 ガルドが聞いて、ブラックは宿屋から視線を外し淡々と答える。

 

「知らん」

「分かってる顔してるぞ」

「私の何を理解したつもりだ」

「少なくとも、興味がない時の顔とは違う」

 

 冷え切った黒い瞳が、ゆっくりとガルドへ向けられた。それでも、ガルドは目を逸らさない。

 やがて、ブラックは興味を失ったように前へ向き直った。

 

「くだらぬ詮索はやめろ」

「じゃあ、当たりか」

「黙れ」

 

 その時、宿屋の方から苦しげな呻き声が聞こえてきた。

 傷を負った者たちが次々と運び込まれ、商人たちは不安げな表情で立ち尽くし、村人たちは慌ただしく通りを駆け回っている。

 その光景を見渡しながら、ガルドは静かに拳を握った。

 

「……放ってはおけねぇな」

 

 決意を固めるような、小さな声だった。ブラックは宿屋から視線を外し、淡々と答える。

 

「好きにしろ」

「お前は?」

「人助けなどという、人間の自己満足に付き合う気はない」

「だろうな」

 

  ガルドは僅かに苦笑した。

 

「じゃあ、夜中に一人で森へ行ったりするなよ」

 

 その言葉を聞いた途端、ブラックの足が一瞬だけ止まった。ガルドはそれを見逃さなかった。

 

「ほら」

「何がだ」

「今、間があった」

「無い」

「絶対あった」

「黙れ」

 

 ブラックはそれ以上相手をせず、踵を返して歩き出した。

 黒い道着の裾が夕風に揺れ、その背中は相変わらず何を考えているのか読み取れない。

 ガルドは、その背中をしばらく見送ると、静かに息を吐いた。

 ブラックは人間を嫌悪している。それは気まぐれや、一時の感情ではない。積み重ねた憎悪の果てに辿り着いた、揺るぎない結論であった。

 本来なら人間一人の生死や境遇など、気に留めるはずもない。だがあの傷の奥にある異質な痕跡だけは、確かにブラックの目を引いていた。

 ガルドは、遠ざかる黒い背中へ向かって小さく息を吐いた。

 

「……何を見つけたんだ、お前」

 

 答える者はいない。

 ブラックはもう振り返らず、夕暮れへ染まり始めた村並みの中へ静かに溶け込んでいった。

 

 

  ◇

 

 

 夜。

 村は、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。

 誰もが息を潜め、闇の向こうから何かが訪れることを恐れていた。

 窓は閉ざされ、扉には閂が掛けられていた。椅子や箱を扉の前へ積み上げている家もある。

 村の東には、馬車が逃げてきた森が広がっている。

 月明かりの下でも、その奥は深い闇へ沈んでいた。

 宿屋の一室で、ガルドは寝台へ倒れ込むように身体を預けていた。

 

「はぁぁぁ……」

 

 藁を詰めただけの簡素な寝具だったが、野宿よりは遥かにましだった。

 朝から街道を歩き、村へ着いてからは馬車の荷を下ろし、負傷者を運び、村人たちと襲撃の痕跡まで確認した。

 身体には鈍い疲労が溜まっているが、肉体の疲れ以上に頭の中が落ち着かなかった。

 

「……普通の魔物じゃないよな」

 

 返事はない。

 ブラックは窓際の椅子へ腰掛け、腕を組んだまま東の森を見ていた。

 

「聞いてる?」

 

 ガルドが尋ねた。

 

「聞こえている」

「森まで見に行ったけどさ、足跡、普通の灰狼の倍以上あった」

 

 ブラックは何も言わない。ガルドは天井へ視線を戻しながら続ける。

 

「少なくとも三頭分。しかも、走った跡なのに土が後ろへ崩れてなかった」

「どういう意味だ」

 

 ガルドは少し驚きながら、寝台の上で身体を起こした。

 

「普通は走れば、蹴り出した土が後ろへ崩れる。でも、今日の跡は真下へ深く沈んでた」

「身体の質量だけが、異常に増大しているように見える、と?」

「ああ」

 

 ブラックは窓の外を見たまま、僅かに目を細める。

 

「やっぱり気になる?」

「貴様が勝手に喋っているだけだ」

「質問もしただろ?」

「話が無駄に長いから、確認しただけだ」

「素直じゃないなぁ」

 

 ガルドが苦笑して、ブラックは答えない。

 部屋の外を、誰かが早足で通り過ぎていく。床板が軋み、遠くで扉が開く音がした。

 負傷者の様子を見に行く村人か、医者だろう。少し遅れて、低い呻き声が壁越しに聞こえた。

 ガルドの表情から笑みが消える。

 

「腕をやられた奴、痣が肩まで広がってた。医者も毒だと思ってるみたいだけど、薬が効かないらしい」

「そうか」

「死ぬかもしれない」

「人間はいずれ死ぬ」

「そういう話じゃない」

「何も違わん」

 

 ガルドは何か言い返そうとしたが、やがて深く息を吐いた。

 

「駄目だな」

「何がだ」

「お前と命の話をすると、話が進まない」

「貴様が命へ無意味な価値を付け加えるからだ」

「普通は付け加えるんだよ」

「普通などという、曖昧な基準を私へ押しつけるな」

「だろうな」

 

 ガルドはそう言って再び寝台へ身体を預けた。

 しばらく部屋へ沈黙が流れる。

 窓の外では、夜風が木々を揺らしている。枝葉が擦れ合い、波のような音を繰り返していた。

 やがてガルドは、ふと思い出したように目を開く。

 

「昼間の傷、見てただろ」

「…………」

「何か分かったのか?」

 

 返答はない。ブラックは窓の外を見続けている。

 

「毒じゃないんだろ?」

「…………」

「普通の魔物の傷でもない」

「…………」

「それくらいは分かってるんじゃないか?」

 

 なおも沈黙。

 ガルドはしばらく待った。しかし、ブラックが口を開く様子はない。

 そして、

 

「……まあ、答えないか」

 

 諦めたように息を吐いた。

 

「理解しているではないか」

「お前、話したいことしか話さないもんな」

「当然だ」

「一緒に旅してるんだから、少しくらい共有してもいいだろ」

「旅をしているつもりはない」

「じゃあ何だよ」

「貴様が勝手について来ているだけだ」

「道具扱いしてたくせに」

「ああ」

「認めるのかよ」

 

 ガルドは呆れたように笑う。ブラックはようやく窓から視線を外し、ガルドを見た。

 

「俺は王都までの案内役だけ?」

「それ以上に何がある」

「話し相手とか」

「不要だ」

「荷物持ち」

「それは貴様の荷だろう」

「財布」

「それは多少役に立っている」

「一番嫌な認められ方した!」

 

 ガルドは寝台の上で声を上げた。その直後、隣の部屋から壁を叩く音がした。

 

「静かにしろ!」

 

 怒鳴り声が響いて、ガルドは慌てて口を閉じた。

 

「……悪い」

 

 壁へ向かって小声で謝る。ブラックは冷ややかに見ていた。

 

「愚かだな」

「お前が言わせたんだろ」

「声を上げたのは貴様だ」

「原因はお前だ」

「責任転嫁か」

「その言葉、お前から出るんだな」

 

 ガルドは呆れながら毛布を引き寄せた。

 それ以上問い詰めても答えは得られない。

 無理に話させようとすれば、今度こそ本気で黙らされるかもしれない。

 

「もう寝る」

「好きにしろ」

「お前は?」

「私はここにいる」

「やっぱり寝ないのか?」

「必要ない」

「……便利だな、神様って」

 

 毛布へ潜りながら、ガルドは小さく欠伸をした。

 

「おやすみ」

 

 相変わらず返事はない。ブラックは窓の外へ視線を向けたままだった。

 少しして、毛布の中から再び声がする。

 

「おやすみって言われたら、普通は返すんだぞ」

 

 ブラックは僅かに眉を寄せた。

 

「眠らない者へ、何を返せという」

「そういう問題じゃないんだけどな……」

 

 ガルドの声には、すでに濃い眠気が滲んでいた。それでも返事がないことだけは気になったらしい。

 

「別に、同じように『おやすみ』って言えばいいだけだろ」

「無意味だと分かっていながら続けるとは、実に愚かだな」

「挨拶って、そういう無意味なもんなんだよ」

「ならば、なおさら口にする必要はない」

「本当に徹底してるよな……まあ、いいや」

 

 言いながら、毛布の中で身体を丸める。

 

「好きにしろ」

 

 ブラックが淡々と告げる。その声に、ガルドは薄く目を開いた。

 

「それ、俺の台詞……」

 

 最後の言葉は、形を結ぶ前に途切れた。ほどなくして、規則正しい寝息が部屋へ響き始める。

 狼耳は力なく横へ倒れ、毛布から半分ほど覗く尻尾も動かない。完全に警戒を解いた寝姿だった。

 ブラックだけが起きていた。

 室内へ残された小さな灯りが揺れ、壁や天井へ伸びた影を静かに歪めている。

 壁の向こうでは、負傷者の苦しげな呻きと、廊下を行き交う足音が途切れ途切れに聞こえていた。

 ブラックはそれらすべてを意識の外へ追いやる。

 人間が苦しもうと、怯えようと、それ自体には何の興味もない。

 脳裏へ残っていたのは、昼間に見た傷だけだった。

 深く抉られた傷の周囲には黒紫色の痣が広がり、その奥には歪んだ魔力が残されていた。

 あれが自然に生じたものではないことは、もはや疑う余地もなかった。

 この世界の魔法体系について、ブラックが把握していることはまだ少ない。

 人間たちの会話や、街道ですれ違った魔法使いたちの力の流れを観察し、断片的な知識を拾い集めたにすぎない。

 それでも、理解が浅いからといって、何も分からないわけではない。

 力には、それぞれ固有の流れがある。

 自然の中で生まれ、あるがままに循環する力。

 生命が本能のままに発し、感情や意思によって僅かに揺らぐ力。

 そして、何者かが明確な目的を持ち、幾つもの術式を重ね合わせて人為的に組み上げた力。

 魔物が本来持つ力へ、異なる性質が無理やり縫い合わされていた。

 力を底上げするための強化なのか。

 性質そのものを変質させるためなのか。

 あるいは、意識を縛り、操るための制御なのか。

 その目的までは今はまだ断定できない。

 だが、あの異形が自然に生まれた存在ではないことは確かだった。

 誰かが明確な意思を持ち、魔物の肉体へ手を加えた。

 そして、その意思を持つ者はおそらく人間だった。

 ブラックは小さく鼻を鳴らす。

 

「……くだらんな」

 

 低い呟きが、夜の部屋へ静かに落ちた。

 人間はどの世界でも変わらない。

 己の器を知らず、理解の及ばぬ力へ手を伸ばす。

 触れる資格もないものを掴み、自らが支配者になったと錯覚する。

 命を作り替え、自然を歪め、すべてを制御できると錯覚する。その果てに、自ら災厄を生み出す。

 実に人間らしい浅知恵だった。

 この村が滅びようと、王都へ被害が広がろうと、ブラックには関係がない。

 人間が自らの手で作り出したものによって命を奪われる。それは因果であり、むしろ相応しい結末ですらある。

 ブラックは窓枠へ片肘を置き、指先で頬を支えた。

 黒い瞳は変わらず森へ向けられている。あの魔力だけが、妙に意識へ残っていた。

 自分の知らぬ法則によって組み上げられた力。

 術式は粗く、魔力の流れにも無理がある。完成された技術とは到底思えない。しかし、その不完全さの奥には、意思が確かに存在していた。

 魔物へ何を施し、どこまで完成させようとしているのか。その果てに、何を得ようとしているのか。

 見定める程度の価値はある。

 ブラックはそれを興味とは認めなかった。

 未知の力があるなら、その正体を見極める。神としてそれはごく当然の行為だった。

 

 その時だった。

 

 ブラックの目が、鋭く細められる。

 月明かりの届かない深い闇の奥で、何かがほんの一瞬だけ揺らいだ。

 次の瞬間、紫色の小さな光が闇の中で静かに瞬いた。

 夜の空気そのものへ溶け込むように一度だけ輝き、すぐに消えた。

 常人なら、夜目の錯覚として見過ごしただろう。

 だがブラックの目は、その一瞬を正確に捉えていた。

 光が生まれた位置、森の奥までの距離、明滅した時間。そして、消えゆく光と共に森へ溶けた、ごく微かな魔力の揺らぎまで、一切漏らすことはなかった。

 

「ほう……」

 

 ブラックの口元が、僅かに歪んだ。

 未知の現象を見つけた観察者が、その性質を測る時にだけ浮かべる、ごく薄い変化だった。

 ブラックはさらに、意識を森の奥へ伸ばす。

 そこには湿った土の匂いと、小さな生命の気配しか残っていない。

 魔物の気配も、人間の存在も、術式を操る者の痕跡もなかった。

 すでにそこには何もいない。

 残されているのは、先ほどの光が放たれた場所へ薄く漂う魔力の残滓だけだった。それも急速に薄れ、森の空気へ溶けつつある。

 ブラックの口元から、先ほど浮かんだ薄い歪みが消える。

  

「……すでに去ったか」

 

 独り言のような低い声が漏れる。

 今さら森へ向かったところで、得られるものはない。痕跡を辿っても、その先は途切れている。魔物を捕らえることも、術者を見つけることもできない。

 ならば、今から動く意味はなかった。

 それでも一つだけ分かったことがある。

 この世界は、人間が群れ、争い、醜く生きているだけの場所ではない。

 その裏側では、何者かが確固たる目的を持ち、歪んだ力を動かしている。

 退屈な世界だと断じるには、まだ少しだけ早いらしい。

 ブラックは窓枠へ預けていた肘を戻し、椅子へ深く腰掛け直した。

 ふと、寝台へ視線を向ける。

 ガルドは何も知らず、無防備な寝息を立てていた。ブラックはその姿を一瞥し、すぐに視線を外した。

 

「……愚かな奴だ」

 

 小さな呟きには、いつも通り何の温度もなかった。

 部屋には、ガルドの規則正しい寝息と、窓の外で風に揺れる木々の音だけが残った。

 やがてブラックは腕を組み直し、再び窓の外へ視線を向けた。

 紫色の光はすでに消え失せ、森は何事もなかったように深い闇へ沈んでいる。

 ブラックは静かに瞼を閉じた。余計な景色を視界から切り離すためだった。

 村はなおも、恐怖の中で夜を過ごしていた。

 森の奥では、消えかけた紫色の残滓だけが、誰にも知られることなく夜の闇へ溶けていった。

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