翌朝。
太陽はまだ森の稜線から姿を現し切っておらず、空には夜の青さが僅かに残っていた。
村の上には淡い朝靄が薄くかかり、湿った土の道は朝露を含んで鈍く光っていた。家々の屋根からは細い煙が立ち上り、焼きたてのパンの香りが薪の煙へ混じって流れていた。
馬小屋からは、冷えた空気へ白い息を吐く馬が顔を覗かせていた。
昨日、悲鳴と怒号に満たされていた広場にも、穏やかな朝が戻りつつある。
だが、村人たちの不安まで消えたわけではない。
家を出た者はまず東の森へ目を向け、異変がないことを確かめてから一日を始めていた。
それでも人は動く。
恐怖が消えていなくとも、日々の暮らしまで止めることはできない。
人間は、そうして生き続けるらしい。
ゴクウブラックは、宿屋の前に立っていた。
両腕を組み、背筋を真っ直ぐに伸ばした姿は、朝の柔らかな光の中でも周囲に溶け込もうとはしない。
白い靄と朝日に包まれた村の中で、彼だけが夜の一部をそのまま引きずっているように見えた。
黒い瞳が、目覚め始めた村を静かに眺めている。
「……騒がしい」
低い呟きには、いつものような不快さが滲んでいた。
彼にとっては、弱い命が朝から群れ、無意味に音を立てているようにしか思えなかった。
だが、すぐには歩き出さなかった。視線だけを巡らせ、村人たちの動きを眺め続けた。
昨日運び込まれた負傷者のために、水を運ぶ女がいた。
不安そうに泣く子供を抱き上げ、背中を撫でている老人がいた。
自分も森を恐れているはずなのに、隣家の扉を叩き、住人の無事を確かめる男もいた。
誰も大した力など持っていないにもかかわらず、それぞれが自分の手の届く範囲で他者を支えようとしていた。
ブラックにとって、それは理解し難い光景だった。
この村の朝にあるものは、彼が知る醜悪さだけでは説明できなかった。
不合理で、曖昧で、理解し難い。
故に、見定める余地がある。
彼はそう結論づけ、村人たちから視線を外した。
「おーい!」
宿屋の中から、聞き慣れた声が飛んできた。
扉が勢いよく開き、獣人族の青年が外へ飛び出してくる。茶色い髪には寝癖が残り、片手には焼きたての丸いパンを持っていた。
「朝からいなくなるなよ。起きたら誰もいないから、また勝手にどっか行ったかと思っただろ」
「貴様がいつ目を覚まそうと、私の知ったことではない」
「一言くらい声を掛けろってことだよ」
「必要ない」
ガルドは諦めたように息を吐き、手にしたパンを差し出した。
「食うか?」
「いらん」
「焼きたてだぞ」
「今は必要ない」
「やっぱり腹が減ってないだけじゃないか」
ブラックの瞳が冷たく細められる。
「くだらぬ確認のために、私を呼び止めたのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
ガルドは差し出したパンを自分でかじり、その隣へ並んだ。
「昨日の食堂の店主、食料庫が半分消えたって嘆いてたぞ」
「ならばまた用意させればよい」
「神様は庶民の懐事情に厳しいな」
「人間の懐事情など知ったことか」
ブラックはそれ以上話す気もないらしく、街道へ向かって歩き始める。
「もう出るのか?」
「ああ。この場所には、もはや見るべきものがない」
「村の人への挨拶は?」
「不要だ」
「まあ、そう言うと思ったよ」
ガルドは残ったパンを口へ押し込み、慌ててその後を追った。
二人は最低限の荷を整え、再び王都へ続く街道へ戻った。
王都までまだ距離はあるが、ガルドは急ぐつもりがなかった。
道中で人と話し、景色を眺め、土地の料理を味わう。
目的地へ辿り着くことだけでなく、そこへ至るまでの時間も旅の一部として楽しむ。それがガルドの旅の仕方だった。
一方、ブラックにも急ぐ理由はない。
王都は目的地ではなく、この世界を観察するために選んだ場所の一つにすぎなかった。
昨日の魔物へ残されていた歪みが、どこまで広がっているのか。
それを見定める。
今の彼にあるのは、それだけだった。
◇
街道は村を抜けると、しばらく草原の中を真っ直ぐに伸びていた。
朝日が草葉へ残る露を輝かせ、風が吹くたび、一面の緑が波のように揺れている。
遠くに見えていた森は、歩みを進めるごとに少しずつ大きくなった。
初めは地平に横たわる暗い線にすぎなかったものが、やがて一本一本の木々として輪郭を持ち、最後には巨大な影となって二人の前に立ちはだかる。
街道は、そのまま森の中に続いていた。
背の高い木々が幾重にも枝を広げ、頭上の空を覆っている。昼が近づいているにもかかわらず、街道へ届く光は薄く、葉の隙間を抜けた陽射しだけが地面へ斑に落ちていた。
ガルドは大きく息を吸い込み、満足そうに鼻を鳴らした。
「気持ちいいな。森の匂い結構好きなんだよ」
「聞いていない」
「たまには普通に返せないのか?」
「取るに足らぬ感想に、何を返せという」
「そういうところだよ」
ガルドは苦笑したが、それ以上は食い下がらなかった。
ブラックは一定の歩幅で街道を進みながら、周囲に意識を巡らせていた。
森の魔力は草原よりも濃い。大地の奥から立ち上り、木々の根へ吸い上げられ、空気に溶けている。
人間が扱う術式とは異なっていた。
森の中ではすべてが一つの流れとして繋がり、自然な循環を生み出している。
これが、この世界における本来の魔力なのだろう。ブラックは、歩きながらその流れを静かに読み取っていた。
同時に、自然な循環の中に微かな異物が混じっていることにも気づいていた。
森の流れに溶け切らず、澱のように引っ掛かる鋭く歪んだ魔力の残滓だった。
すでに大半は空気へ散り、普通の魔法使いであれば気づかないほど弱まっている。
だが、その性質は昨日の負傷者の傷へ残されていたものとよく似ていた。
ブラックの目が僅かに細くなる。
「何か見つけたか?」
隣を歩いていたガルドが、その変化を見逃さなかった。
「まだ何も見つけてはいない」
「まだ、ってことは何か感じてるんだな」
「余計な詮索をするな」
「隠すほどのことか?」
ブラックは横目でガルドを見る。
「貴様に説明したところで、理解できまい」
「言い方がひどいな」
「事実を述べたまでだ」
ガルドは肩を竦め、それ以上は追及しなかった。
二人の足音だけが湿った街道へ小さく響いていく。
森の奥に進むにつれ、周囲の音は少しずつ減っていった。
先ほどまで枝の上から聞こえていた鳥の声が遠ざかり、風も弱まっている。頭上で葉が擦れ合う微かな音だけが残った。
何かが息を潜め、木々の陰からこちらを窺っているような、張り詰めた沈黙だった。
ガルドの狼耳が、ゆっくりと立ち上がる。
「……静かすぎるな」
「ああ」
珍しくブラックがすぐに同意したため、ガルドは僅かに目を見開いた。
「やっぱり何かある?」
「知らん」
「そこは知らないのか」
「確かめてもいないものを、さも理解したように語るほど愚かではない」
「なるほど」
ガルドは腰の短剣に手を近づけた。
「じゃあ、一応警戒しとくか」
「好きにしろ」
その直後だった。
森の奥から、鋼と鋼が正面から噛み合うような甲高い音が響いた。
静まり返った森を切り裂き、木々の間を震わせながら二人のもとまで届く。
続いて、獣の低い唸り声が聞こえた。
怒りと苦痛を含んだ重い響きが、湿った地面を這うように広がっていく。さらにもう一度、先ほどより激しい金属音が響いた。
ガルドの狼耳が鋭く音の方角へ向いた。
「街道の右奥だな」
ガルドは短剣の柄へ手を掛けながら、ブラックを見る。
「行くか?」
ブラックはすぐには答えなかった。
放置して通り過ぎても構わない。
だが耳障りな金属音に混じり、昨日から意識へ引っ掛かっていた歪んだ魔力の気配が、はっきりと感じられた。
あの異物がそこにいる。それだけで確認する理由にはなった。
「行くぞ」
ブラックは短く告げると、街道を外れた。
ガルドは一瞬だけ目を丸くした後、短剣を抜いてその背を追う。
「今日はなんか素直だな」
「勘違いするな。あの歪みを確かめるだけだ」
「分かってるよ」
「ならば黙ってついて来い」
二人は木々の間へ踏み込んだ。
低く伸びた枝を避け、湿った落ち葉を踏み越えながら、音のする方角へ進んでいく。
振り下ろされた何かを剣が受け止める、硬い響きが少しずつ近づいていた。
やがて木々の間から、少し開けた場所が見えてきた。
三体の黒い魔物が、一人の騎士を取り囲んでいた。
◇
その魔物は、いずれも狼に似た姿をしていた。
しかし、森に棲む通常の狼とは、大きさも纏う気配もまるで異なっていた。
四肢で立ちながら、その背丈は人間の胸元近くまで届く。異様に長い胴には過剰な筋肉が盛り上がり、黒い毛皮の下で不自然な隆起を作っていた。
太い四肢の先には短剣のような爪が伸び、わずかに身じろぎするだけで湿った土へ深い溝を刻む。
全身を覆う黒い毛は光を吸い込み、森の薄暗さをさらに濃くしているようだった。
血走った双眸には、獣本来の警戒や理性はない。
あるのは飢えと苦痛、そして何かに強いられた狂気だけだった。
開いた口からは黒紫色の涎が滴り、地面へ落ちるたび草は黒く変色し、音もなく朽ちていく。
そして何より異質なのは、その身を巡る魔力だった。
森に満ちる穏やかな流れとは明らかに異なる。
無理やり捻じ曲げられた力が、本来の器を超えて肉体に押し込まれ、内側から破裂させようと暴れ狂っていた。
ブラックは三体を一目見ただけで理解した。
歪んだ魔力の質は、昨日、負傷者の傷口に残されていたものと同じだった。
三体の魔物に囲まれているのは、一人の女性だった。銀色の鎧を身に纏い、長い金髪を後ろで束ねている。
両手には細身の片手剣が握られ、その切っ先は三体の魔物へ向けられている。
鎧は泥と血に汚れ、各所には鋭い爪痕が刻まれていた。左腕の装甲は歪み、その隙間から血が伝っている。
額には汗が滲み、呼吸も荒い。剣を握る手には疲労が浮かび、足元には幾度も踏み込んだ跡が残されていた。
だが、その姿勢は崩れない。
腰を低く構え、三体の動きを見据える青い瞳には、恐怖よりも戦意が宿っていた。
生き延びるためではなく、敵を斬るために前を見据える――そんな戦士の眼差しだった。
ガルドは木の陰から、その構えを素早く観察した。
「騎士か」
「そのようだな」
ブラックが淡々とした口調で答えた。
緊迫した戦場を前にしても、その声音には何の変化もない。
そして、女性が踏み込んだ。
「はぁっ!」
地面を蹴る鋭い足音が森へ響いた。
重い鎧を纏っているとは思えない速さで、女性は一気に魔物との間合いを詰める。
魔物が爪を振り上げるより早く、刃はその首筋へ深く食い込む。黒い液体が噴き出し、巨体は苦悶の咆哮を上げながら地面へ崩れ落ちた。
残る二体は仲間の死など意にも介さない。
同時に地面を蹴り、一体は正面から低く飛び込み、もう一体は大きく回り込んで背後へ回る。
獣の本能だけではあり得ない、明らかに連携を意識した動きだった。
女性は即座に剣を返し、正面から迫る爪を受け止める。
鋼と爪が激しくぶつかり、甲高い音が森に響いた。
踏み込みを耐えながらも、意識はすでに背後に向いている。
だが、その身体は限界に近づいていた。積み重なった疲労が、ほんの一瞬だけ反応を鈍らせる。
正面の魔物がさらに力を込めると、剣を支える腕が沈み、体勢がわずかに崩れた。
その刹那、背後に回った魔物が跳躍する。
黒紫色の涎を撒き散らしながら大きく口を開き、鋭い爪を女性の背に振り下ろされようとしていた。
「危ない!」
ガルドが叫び、短剣を抜く。その一歩よりも先に、ブラックが動いた。
右手を僅かに持ち上げると、目の前を飛ぶ羽虫を払うように指先で空気を軽く薙いだ。
直後、森の空気が爆ぜた。
目には見えない衝撃が、開けた場所を横殴りに貫く。
地面の落ち葉が一斉に舞い上がり、周囲の木々が根元から大きく揺れた。
二体の魔物は、何が起きたのか理解する暇すら与えられない。
正面にいた一体は、爪を女性の剣へ押しつけた姿勢のまま、真横から圧倒的な力に叩きつけられた。
巨体が不自然に折れ曲がる。遅れて骨が砕ける鈍い音が響き、その身体は地面から浮き上がった。
背後から飛びかかっていた一体も、爪を振り下ろす直前に衝撃へ飲み込まれる。宙に浮いていた身体が横へ弾かれ、黒い影となって木々の間を飛んでいった。
二体は揃って数十メートル先まで吹き飛ばされた。
一体が大木の幹へ激突する。太い幹が激しく軋み、木全体が衝撃で大きく傾いた。頭上から葉や細い枝が雨のように降り注ぐ。
もう一体は地面に叩きつけられ、そのまま落ち葉と土を巻き上げながら何度も転がった。やがて木の根に身体を打ちつけ、力なく止まる。
どちらも、二度と動かなかった。
森には静寂だけが落ちた。
先ほどまで響いていた獣の唸りも、激しくぶつかり合っていた剣と爪の音も、すべて消えている。
残っているのは、落ち葉が地面へ落ちる微かな音と、衝撃で揺らされた枝葉のざわめきだけだった。
女性騎士は剣を構えたまま固まっていた。背後を振り返り、吹き飛ばされた魔物を見る。それから、ゆっくりとブラックへ視線を向けた。
騎士は何をされたのか理解できていない。
彼らは僅かに手を上げただけだった。
それだけで、自分が苦戦していた二体の魔物が一瞬にして死骸に変わった。
ガルドも僅かに口を開けていた。盗賊たちを圧倒した姿は見ていた。だが目の前で改めて放たれた力は、理解の範囲を容易く越えていた。
ブラックは右手を静かに下ろした。
その顔には、取るに足らない障害を排除しただけの無関心が浮かんでいた。
「……弱いな」
低い声が森の静けさに冷たく落ちる。
女性騎士の眉が僅かに動いた。剣を握る手へ再び力が入る。
「誰が、ですか?」
声は落ち着いていた。礼節も失われていないが、その奥には明確な棘があった。
ブラックは女性の反応に何の関心も示さず、倒れた魔物と騎士を順に見渡した。
「全員だ」
「…………」
「獣も、貴様もな」
ガルドが額へ手を当てる。
「お前なあ……助けた直後に、どうしてわざわざ怒らせるようなこと言うんだよ」
「己の弱さを指摘されて腹を立てるのなら、それこそ愚か者の証だ」
「言い方の話をしてるんだよ」
「事実に飾りを施す必要などない」
「少しはある」
「くどい」
ブラックは会話を切り捨てるように視線を逸らした。
騎士はしばらく二人を見つめていた。その青い瞳には、強い警戒が宿っていた。
やがて彼女は呼吸を整えながら、ゆっくりと剣を下ろした。
周囲に他の魔物がいないことを確認し、刃へ付着した黒い液体を軽く振り払うと、滑らかな動作で剣を鞘へ収めた。
警戒は解いていないが、少なくとも今すぐ剣を向ける相手ではないと判断したらしい。
騎士は胸元へ手を当て、深く頭を下げた。
「助けていただき、感謝します」
疲労は残っているが、声は凛としていた。
「私はセリア・アルフォード。王国騎士団に所属する騎士です」
その所作には、一切の乱れがなかった。長い年月、規律と責任を叩き込まれ、それを自らの意思で守り続けてきた者の動きだった。
ブラックは興味の薄い目で彼女を見ると、
「ブラックだ」
短く返した。
「ブラック……?」
セリアは僅かに目を瞬かせた。
「それが、お名前ですか?」
「そう呼ばれていた」
正確には、ゴクウブラック。
だが、目の前の騎士に名の由来まで説明する理由はない。
セリアは不思議そうな表情を浮かべたものの、それ以上深く問いただしはしなかった。
「変わったお名前ですね」
「聞き飽きた」
「俺が一回言っただけだろ」
ガルドが横から口を挟む。ブラックは視線すら向けなかった。
「無視するなよ」
「黙れ」
「反応はするんだな」
ガルドは苦笑し、セリアへ向き直った。
「俺はガルド。王都へ向かって旅してる獣人だ」
「獣人族の方なのですね」
「ああ。よろしくな」
差し出されたガルドの手を、セリアは一瞬だけ見た。それから柔らかく微笑み、軽く握り返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その笑みは穏やかだったが、彼女の意識の大半は、なおもブラックに向けられていた。
視線は時折、黒衣の男の手元や足運びを確認していた。剣を鞘へ納めた後も重心は崩さず、何かあれば即座に動ける姿勢を保っている。
ブラックは、その警戒に気づいていた。
戦士としては悪くない。少なくとも、己と相手との力量差を認識する感覚は持っている。
先日の盗賊たちのように、見えぬ力を理解しようともせず、数や武器だけを頼りに虚勢を張る愚か者ではない。
目の前にいる男が、己の手に負える存在ではないと理解している。
その上で逃げず、礼を失わず、必要な情報を得ようとしている。人間にしては幾分ましだった。
ブラックは、セリアを観察するように見据えた。
「騎士が一人で、何をしている」
問いではあったが、声音は会話を望む者のものではない。目の前の存在が何者なのかを測る、冷えた観察の続きだった。
セリアは僅かに姿勢を正すと、
「任務です」
そう言って、倒れた魔物へ視線を向けながら続きを言う。
「この森で異常な魔物が出現しているという報告があり、その調査に来ました」
◇
森を抜ける風が、三人の間を静かに通り過ぎた。
頭上では葉が擦れ合い、木漏れ日が地面の上で細かく揺れている。足元には三体の魔物が倒れ、その身体からはなおも黒紫色の魔力が薄い煙となって漏れ続けていた。
セリアは魔物の死骸へ視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「王国も調査を進めています。騎士団だけでなく、宮廷魔術師や魔物研究院、各地の守備隊にも情報は共有されていますが、異常個体の出現は止まっていません」
「倒しても、また出てくるのか?」
ガルドが尋ねた。
「はい。これまでに何体もの異常個体と交戦していますが、発生源は特定できていません」
セリアは森の奥へ顔を向けた。
幾重にも重なる木々の向こうには、見通すことのできない深い緑が広がっている。
「痕跡を追っても途中で途切れてしまいます。足跡も魔力の残滓も、まるで意図的に消されているように」
「昨日の夜も似たようなものを見たな」
ガルドの言葉に、セリアが振り返る。
「昨日の夜?」
「森の奥で、紫色の光が見えたらしい」
「『見えたらしい』ではない。私が見た」
ブラックが冷たく訂正した。
「俺は寝てたから知らないんだよ」
「警戒もせず眠っていた貴様に、何が分かる」
「そこまで言うか?」
セリアはブラックへ真剣な視線を向けた。
「どの辺りで見えたのですか?」
「この森の奥だ」
「距離は?」
「知ってどうする」
「調査の手掛かりになるかもしれません」
ブラックは鼻で笑った。
「すでに残滓しかなかった。今さら地面を這い回ったところで、得られるものなどない」
セリアは僅かに眉を寄せた。
「確認はされたのですか?」
「するまでもない」
「ですが――」
「そこには何もなかった」
ブラックの声が、セリアの言葉を遮った。
「魔物も、人間も、術式を操る者もいない。残されていたのは、消えかけた魔力の痕跡だけだ」
断定的な声音だった。見落としの可能性など最初から存在しないとでも言うような口調である。
セリアはすぐには返答しなかった。
騎士としてなら、現場へ赴き、自ら確認すべきだと考える。
だが目の前の男は、魔物の死骸を一目見ただけで、王国の調査隊が長い時間をかけて辿り着いた結論を言い当てた。
その知覚を、常識だけで否定することはできなかった。
セリアは改めて森へ視線を向けた。
「術式の残滓も長く残らない。……それも、これまでの調査結果と一致しています」
「なら、術者が消してるのか?」
ガルドが腕を組みながら聞くと、
「その可能性はあります」
セリアは慎重に答えた。
「異常個体が死ぬと同時に術式が崩壊し、魔力の痕跡まで薄れていくように組まれているのかもしれません」
「証拠を残さないためってことか」
「ええ。あるいは、作った者自身にも完全には制御できていない可能性があります」
ブラックが低く笑った。
「自ら生み出した力すら扱えぬか。何を作ったのかも理解せず、力を得たと錯覚する。実に人間らしいな」
「まだ、人間の仕業と決まったわけではありません」
セリアは静かに言い返した。ブラックの視線が向けられる。
「他に何がいる」
「魔族や知能の高い魔物、古代の魔導装置という可能性もあります」
「それは貴様自身の考えか? それとも、学者共の戯言を代わりに並べているだけか」
その言葉に、セリアの目が僅かに鋭くなった。
「考えられる可能性を排除せず、調査するのが騎士団の方針です」
「決断できぬ者ほど、慎重という言葉を好む」
「断定を急ぎ、誤った相手へ剣を向けるよりはましです」
返答は即座だった。ガルドの狼耳が僅かに動く。
セリアは感情的になってはいないが、騎士団の判断を一方的に侮られたことに対しては、明確に反論していた。
ブラックは、そんな彼女をしばらく見据えた。
やがて、冷淡に告げた。
「つまらぬ頑固者だな」
「よく言われます」
セリアは僅かに微笑んだ。その返答が予想外だったのか、ガルドが吹き出す。
「似た者同士じゃないか?」
「誰と誰がだ」
ブラックの声が低くなると、
「いや、今のは忘れてくれ」
ガルドはすぐに手を振った。
「命は大事だからな」
「ならば、その軽い口を閉じろ」
「忠告が物騒なんだよ」
セリアの口元にも、ほんの僅かな笑みが浮かんだ。張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
しかし、足元へ横たわる異形の死骸が、状況の深刻さを忘れさせることはなかった。
セリアは再び表情を引き締めて、言った。
「森に潜む何者かの仕業なのか、魔術師による実験なのか。それとも、私たちの知らない何かが動いているのか。まだ、誰にも分かっていません」
「……魔王、とか?」
ガルドが軽い調子で尋ねた。深刻になりすぎた空気を和らげるための、半ば冗談めいた問いだった。
セリアは少しだけ困ったように笑うと、
「昔話ですよ」
「やっぱり?」
「ええ。魔王は数百年前の伝承です」
彼女は剣の柄へ手を添えながら、森の奥を見つめた。
「かつて大陸全土を脅かした存在がいたとされています。辺境の村では今でも語り継がれていますが、王都では歴史物語の一つとして扱われています」
「子供に聞かせる話か」
「そうですね。悪いことをすると魔王が連れ去りに来る、といった話にも使われています」
「便利な扱いだな」
ガルドが笑いながら言って、ブラックだけは何も言わなかった。
昔話、伝承、神話。
人間は、自らの理解が及ばぬものを過去へ押し込み、物語という枠へ閉じ込める。
存在しないと決めつければ、恐れる必要はない。遠い昔の出来事と片づければ、目の前の現実と結びつけずに済む。
己の知識では測れぬものを、作り話として処理する。
それもまた、人間が不安から逃れるために編み出した浅知恵なのだろう。
「愚かな」
ブラックは小さく呟いて、セリアが視線を向ける。
「何がですか?」
「理解できぬものを存在しないことにすれば、己が賢くなったとでも思うのか」
「魔王の話でしょうか」
「それに限らん」
ブラックはそう言って森の奥を見つめた。
「貴様ら人間は、己の尺度に収まらぬものを拒絶する。神も、力も、未知も。理解する前に名を与え、枠へ押し込み、安心したつもりになる」
その黒い瞳が、僅かに細められる。そして、
「実に矮小だ」
短くそう言った。
セリアは何も言わなかった。
人間そのものを見下す言葉には、当然思うところがある。
だが、異常な魔物を既存の分類へ当てはめようとし、調査が遅れている現状を考えれば、完全に否定できる言葉でもなかった。
「もし本当に魔王がいたら、どうするんだ?」
ガルドが尋ねる。セリアは少し考えてから答えた。
「王国騎士として、民を守るために戦います」
「数百年前の怪物でも?」
「相手が何者であっても、役目は変わりません」
その答えに迷いはなかった。ブラックは冷たい視線を向ける。
「相手の力も知らず、戦うと口にするか」
「戦わずに済むなら、それが一番です」
「ならば逃げるか」
「いいえ」
セリアは静かに首を横へ振った。
「話し合える相手なら、まず対話を試みます。ですが、民へ害をなすのであれば剣を取ります」
「……対話、か」
ブラックの口元が僅かに歪んだ。
「言葉で獣を止められると信じるか」
「試す前から無意味だと決めつけるつもりはありません」
「その甘さが、いずれ貴様を殺す」
「そうかもしれません。ですが、最初から斬ることしか考えない騎士には、なりたくありません」
ブラックは何も答えず、セリアの青い瞳を静かに見据えていた。
彼女の言葉には偽りがなかった。
危険も、弱さも理解した上で、それでも自らの選択を変えようとしない。
その在り方は、ブラックが知る人間の傲慢とは少し異なっていた。
同時に、脳裏に別の人間の顔がわずかに過ぎる。
何度倒れても立ち上がり、勝ち目のない相手になおも拳を向けた者。
ブラックは眉をひそめた。
不快な記憶だった。
「好きにしろ」
ブラックは興味を失ったように視線を逸らして言った。
「貴様が何を信じ、どのように朽ち果てようと、私には関係のないことだ」
「毎回、最後だけ怖いんだよな」
ガルドが呆れたように言う。
「恐れる者が弱いだけだ」
「そういう問題じゃないって」
その時、森へ静かな風が流れた。
倒れた魔物の身体から漏れていた黒紫色の魔力は、次第に薄くなり始めている。
皮膚の下に浮かんでいた紋様も、端から崩れるように形を失いつつあった。
セリアはその様子を確認し、僅かに眉を曇らせる。
「……やはり、長くは残りませんね」
「何がだ?」
ガルドが聞いて、
「この魔物の術式です」
セリアが死骸のそばにしゃがみ込んで答えた。
直接触れないよう注意しながら、胸元へ浮かぶ紋様を観察する。
「本来なら回収し、王都へ運びたいところですが、この状態では途中で崩壊するでしょう」
「持って帰れないのか」
「特殊な保存用の魔導具が必要です。ですが、一人での調査だったため持ってきていません」
ガルドは周囲を見回した。
「騎士団の仲間は?」
「別の区域を調査しています」
「一人でこの辺りを見てたのか?」
「はい。異常個体が三体同時に現れるとは、考えていませんでした」
セリアの表情に僅かな苦さが浮かんだ。
「己の力量を測り損ねたか」
ブラックが冷淡に告げる。セリアは立ち上がりながら頷いた。
「その通りです」
素直に認められたためか、ブラックは一瞬だけ言葉を止めた。
ガルドが横から口を挟む。
「無事だったんだからいいじゃないか」
「無事ではない」
言いながら、ブラックはセリアの歪んだ左腕の装甲へ視線を向ける。
「腕を痛めている」
セリアが僅かに目を見開いた。
「分かるのですか?」
「動きを見れば分かる」
セリアは左腕へ視線を落とした。
装甲の下では、爪を受けた衝撃によって筋を痛めていた。剣を握れないほどではないが、このまま戦闘を続ければ動きに影響する可能性がある。
「大した怪我ではありません」
「そうやって、己の損傷を軽視する者から死ぬ」
その声には心配する響きなど欠片もなく、愚かな判断を指摘する冷たさがあった。
「その腕で次の獣を相手にすれば、先ほどより早く地に伏す。それだけだ」
「忠告として受け取っておきます」
「忠告ではない」
「では?」
「事実だ」
セリアは小さく息を吐いた。
「……ガルドさんのおっしゃる通りですね」
「何が?」
「言葉の選び方が、壊滅的です」
ガルドが声を上げて笑った。
「だろ?」
「何がおかしい」
ブラックの眉間へ皺が寄る。
「いや、セリアも分かってきたなと思って」
「理解の浅い者同士で群れるな」
「ほら、これだよ」
ガルドはますます笑う。セリアも控えめながら、口元へ笑みを浮かべていた。
ブラックは二人から視線を外し、街道の方角へ歩き始める。
「用が済んだなら行くぞ」
「急だな」
ガルドが後を追おうとして、ふと思い出したようにセリアに振り返った。
「そういえば、セリアはこれからどうするんだ?」
セリアは姿勢を正して答えた。
「一度、王都に戻ります。今回確認した異常個体と、この術式について騎士団へ報告しなければなりません」
「じゃあ、同じ方向だな」
「お二人も王都へ?」
「ああ。こいつが王都を見たいって言ってな」
ガルドは既に先へ進み始めたブラックの背中を親指で指して言った。
「言っていない」
ブラックは振り返ることなく否定した。
「似たようなもんだろ」
「違う」
「人間が集まる場所を観察したいって言ってたじゃないか」
「正確に言え」
ブラックは足を止め、僅かに顔だけを向ける。
「私は、この世界の人間共が、どこまで愚かで醜いのかを見定めに行く」
セリアの表情が止まった。
「……人間共?」
「気にしないでくれ。こいつ、王都のことも人間の巣って呼ぶから」
ガルドがすぐさま言った。
「余計な説明をするな」
「本当のことだろ」
セリアは二人を交互に見ると、訝しげに聞いた。
「王都を、巣と……?」
「人間が群れ、欲望を満たし、互いを監視し合う場所だ。巣以外に何と呼ぶ」
ブラックが何の疑問もないように答えた。
本気で、人間が暮らす都市を獣や虫の巣と同じものとして認識しているのだ。その言葉には単なる侮蔑を越えた隔たりがあった。
ブラックは人間を自分と同じ存在として見ていない。価値観そのものが、人間とは根本から異なっている。
セリアは改めて、黒衣の男が持つ異質さを感じ取っていた。
すると、ガルドが困ったように笑いながら口を開いた。
「気にしない方がいいぞ。言葉選びが本当に壊滅してるんだ」
「壊滅しているのは貴様の知性だ」
「ほらな」
ガルドは慣れた様子で肩を竦め、セリアは思わず口元を緩める。
ブラックへ対する警戒が消えたわけではない。むしろ、その危険性への認識は、言葉を交わすほど強くなっている。
しかしガルドが遠慮なく接していることで、張り詰めた空気が不思議と和らいでいた。
「私も王都へ戻る予定です。報告を終えるまでは任務の途中ですので、寄り道はできませんが」
セリアは改めて二人へ告げた。ガルドの表情が明るくなる。
「なら、途中まで一緒に行けるな。森のことも聞きたいし、王都の話も教えてくれよ」
セリアは穏やかに頷いた。
「私でよければ。人数が多い方が安全ですし、道中でまた異常個体が現れる可能性もあります」
その言葉が終わるより早く、
「断る」
ブラックが即答した。一切の間がなかった。ガルドは額へ手を当てる。
「お前なぁ……、少しくらい考えろよ」
「考える価値がない」
「そこまで言う?」
セリアは困ったように微笑むと、
「私は構いません。無理に同行するつもりはありませんので」
「だってさ。本人も無理にって言ってないんだから、いいだろ」
「なぜこの私が貴様らと馴れ合わねばならん」
「同じ道を歩くだけだよ」
「同じ道を進むことと、馴れ合うことは別だ」
「細かいなあ」
「当然だ」
ブラックは一歩も譲る様子がない。ガルドは腕を組み、少し考え込んだ。
その狼耳が、何かを思いついたように僅かに動く。
「でもさ。セリアがいれば、王都へ入る時に楽かもしれないぞ」
ブラックの眉がほんの僅かに動いた。ガルドはそれを見逃さず、言葉を続ける。
「王都の門は、旅人への確認が結構厳しいんだ。身分証がなかったり、目的を説明できなかったりすると、かなり待たされることもある」
「待たされるだと?」
「下手したら、荷物も全部調べられる」
「私に荷物などない」
「それでも聞き取りはある。お前、門番に『人間共の巣を観察しに来た』とか言うつもりだろ」
「事実を述べるまでだ」
「絶対止められるぞ」
ブラックの目が細くなる。
ならば門番ごと吹き飛ばせばいい。
その程度の発想が彼の中へ自然に浮かんでいることを、ガルドは察したらしい。
「壊すなよ」
「私はまだ何も言っていない」
「顔に出てる」
「貴様如きに、私の何が分かる」
「少しずつ分かってきた」
「不快だな」
セリアは僅かに笑うと、
「身分の保証程度でしたら、お手伝いできます。騎士団所属の者が同行していれば、門での確認も簡単に済むはずです。必要であれば、私から事情を説明します」
ブラックは答えなかった。
森には、葉擦れの音だけが静かに流れている。二人は黙ったまま返答を待っていた。
やがてブラックは、深く呆れたように僅かに息を吐いた。
「……勝手にしろ」
不機嫌さを隠そうともしない一言だったが、拒絶ではない。
ガルドの顔が明るくなる。
「よし、決まり!」
「何も決めてはいない」
「同行を認めたんだろ?」
「貴様らが勝手についてくることを、止めぬと言っただけだ」
「同じようなもんだ」
「違う」
セリアは胸元へ手を当て、丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「勘違いするな。貴様らと馴れ合うつもりはない。足を引くなら、その場に置いていく」
ブラックが冷たく告げると、横からガルドが口を挟む。
「普通は『足を引っ張る』って言うんだぞ」
「意味が通じれば同じだ」
「いや、引きずるみたいで怖いんだけど」
「望むなら、そうしてやる」
「望みません」
ガルドが即答して、セリアは思わず小さく笑う。
ブラックが冷たい視線を向けると、彼女はすぐに表情を整えた。
「失礼しました」
「何がおかしい」
「いえ。少しだけ、お二人の関係が分かった気がして」
「関係だと?」
ブラックの声が低くなる。
「そのようなものはない」
「俺もまだ分かってないけどな」
そう言って、ガルドは頭を掻いた。
ブラックはガルドをただの案内役と呼び、その双眸には生者へ向ける温度など微塵も宿っていない。
人を人とも思わず、世界そのものを高みから見下ろし、その価値を測っているような異質さがあった。
それを誰より理解しながらも、ガルドは恐怖より好奇心を優先し、ブラックの言葉を真正面から受け止めて平然と笑い返している。
本来なら交わるはずのない二人が、なぜか同じ道を歩いている。
その理由は、セリアにはまだ分からなかった。
そしてブラックにとっても、セリアは新たな観察対象になりつつあった。
規律と使命を重んじ、自らの弱さを認めながらも役目から逃げず、感情に流されることなく己の為すべきことを見極める。
故に、脆い。
信じるものがある者ほど、それを失った時に大きく崩れる。
守るべきものを奪われ、騎士として掲げる正義を信じていた国に踏みにじられた時、この女は何を選ぶのか。
絶望に屈するのか、それとも、すべてを失ってなお剣を握り続けるのか。
その結末を見届ける程度の価値はある。
ブラックは、自分の内に芽生えたそれを興味とは思わなかった。
「いつまで立っている。置いていくぞ」
ブラックは二人に背を向け、街道の方角へ歩き始めた。
「待てって」
ガルドが慌てて後を追う。
「本当に自分の都合でしか動かないな、お前」
「貴様らに合わせる理由がない」
「少しくらい歩幅合わせろよ」
「遅い方が悪い」
「足が長いからって偉そうに」
「実際、貴様より上だ」
「身長の話じゃないだろ、それ」
セリアは小さく息を吐き、二人の背中を追った。
三人は再び街道へ戻り、王都の方角へ歩き始める。
並んで歩いているというだけで、ひどく奇妙な取り合わせだった。
互いを理解している者は一人もいない。
歩幅も、価値観も、見ている世界も違う。
旅に求めるものさえ、何一つ噛み合ってはいなかった。
しかし三人の進む道だけは、同じ方向へ続いていた。
◇
森のさらに奥深く。
人の踏み入る道は、とっくに途切れていた。
幾重にも絡み合った木々の根が地表を覆い、積み重なった落ち葉が、厚い腐葉土となって地面を隠している。
昼間であるにもかかわらず、空を覆う枝葉は陽光のほとんどを遮り、その奥は夜と見紛うほど暗かった。
森そのものが、そこだけを避けるように沈黙していた。
地上から見れば、それはただの岩壁だった。
太い木の根が幾重にも絡みつき、蔦が垂れ下がり、長い年月の中で自然へ溶け込んでいる。誰が見ても、ただの崖にしか見えない。
だが、その岩壁の奥には、広大な空間が眠っていた。
地中深くへ築かれた古い施設だった。
重い石扉の内側には、ひやりと冷えた空気が淀んでいた。
長い石造りの通路の壁には、等間隔で青白い魔石が埋め込まれ、淡い光だけが廊下を照らしている。墓所を照らす燭火のように冷たく、どこか生気を拒む色だった。
床には巨大な魔法陣が刻まれている。その溝の中を、黒紫色の液体がゆっくりと流れていた。
空気には薬品の臭いが満ちていた。様々な臭いが混ざり合い、人が本能的に嫌悪する空気を作り出している。
施設の最奥部の広い実験室では、黒いローブを纏った男たちが静かに動いていた。
中央には巨大な石の台がいくつも並べられていた。
その上には、夥しい数の魔物の死骸が積み重なるように並べられていた。
大きさも、生態も、棲む場所も異なる魔物たちが、等しく命を絶たれ、冷たく横たわっている。
どれも身体の一部が黒く変色し、皮膚や毛並みには紫色の紋様が浮かび上がっていた。
それは肉体へ直接刻み込まれた、人工の魔法陣だった。
まだ完全には馴染み切らず、皮膚の下で不気味に脈打っている。
その光景には、生物を扱っているという感覚がなかった。
道具を分解し、組み直しているだけである。命への敬意など、最初から存在しない。
「三号体、反応消失」
一人の男が静かに報告する。机の上へ並ぶ魔導具へ目を落としながら、淡々と口を開いた。
「森の外縁部で破壊されたようです」
一段高い場所へ立っていた男が、ゆっくりと振り返る。
他の者より質の良い黒いローブを身に纏い、胸元には銀糸で奇妙な紋様が刺繍されている。顔の半分は黒い仮面で覆われ、その素顔は分からない。
「騎士か?」
低い声で聞いた。男は首を横へ振る。
「いえ。記録された魔力反応から見て、王国騎士のものではありません」
部屋に沈黙が落ちた。しばらくして、仮面の男が続ける。
「では何だ」
「不明です」
報告する男は少しだけ視線を落とした。
「ただ……」
言葉を選ぶように、一拍置いた。
「一瞬でした」
「……何?」
「魔力核が、一瞬で破壊されています。術式の抵抗反応も、防御術式も、自己修復機構も、すべて起動する前に破壊されています」
男は静かに息を吐くと、続きを言った。
「記録上、そのような例はありません」
実験室には薬品が泡立つ音だけが響いていた。紫色の液体が、ガラス管の中をゆっくり流れている。
仮面の男は、その音を聞きながら考えていた。
やがて、
「面白い」
ぽつりと呟いた。
その声には初めて僅かな愉悦が混じった。
「この森に、予定外の駒が紛れ込んだか」
誰かに向けた言葉ではなかった。
男は静かに踵を返すと、ゆっくり部屋の奥へ歩みを進めていく。
果たして、最奥へ辿り着いた。
そこには、巨大な培養槽が幾つも並んでいた。
その内部は黒紫色の液体で満たされ、淡く妖しい光を放っている。
液体の中では、まだ形を成し切っていない魔物たちが、眠るように静かに漂っていた。
どれも生命と呼ぶには未熟でありながら、確かに生きていた。液体の底から浮かび上がる無数の泡が、不気味なまでに規則正しいリズムを刻み続ける。
まるで、この部屋そのものが一つの巨大な生き物となって呼吸しているかのようだった。
男は無言のまま、その一つへ静かに手を置いた。分厚いガラス越しに伝わる微かな振動を、確かめるように。
「計画に支障はない。……だが、少しだけ楽しみが増えた」
仮面の奥で、口元だけがわずかに笑う。
壁には一つの紋章が刻まれていた。黒曜石を思わせるような漆黒の円だった。
その中心には、夜明けの光を無理やり捻じ曲げたような、禍々しい紋様がある。見る者の目を不快にさせる、歪んだ意匠だった。
後に、王都を震撼させる組織。
闇よりなお深い場所で、誰にも気づかれることなく、静かに牙を研ぎ続ける者たち。
まだ世界は、その存在を知らない。
だが、見えぬ場所ではすでに歯車が静かに噛み合い始めていた。
今はまだ、そのすべては小さな点に過ぎない。互いに交わることなく、それぞれが異なる場所で思惑を抱え、動き始めたばかりだった。