森を抜けた三人は、王都へ続く街道を歩いていた。
道の周囲に広がる景色は、少しずつ草原から丘陵地帯へと変わり始めている。
緩やかな坂道が幾重にも連なり、街道の両脇には低い石垣が積まれている。その向こうには、まだ青さを残した麦畑が波のように広がっていた。
空は朝から薄い雲に覆われていた。
太陽は雲の向こうへ隠れ、地上に落ちる光も柔らかい。遠くの畑や丘の稜線は、湿り気を含んだ空気の中で僅かに輪郭を滲ませ、景色全体が淡い灰色を帯びていた。
それでも風は穏やかで、暑くも寒くもない。
旅をするには悪くない日だと、ガルドは感じていた。
「こうして眺めてると、本当に平和な国に見えるよな」
街道を歩きながら、ガルドがのんびりと呟いた。
肩へ背負った荷物が足取りに合わせて揺れ、茶色い耳も心地よさそうに風を受けている。
その声には旅人らしい気楽さがあった。
ブラックが前を向いたまま、感情のない声で答える。
「愚かな者ほど、目に映るものだけで物事を判断する。貴様には、この程度の景色で十分なのだろうな」
「そこまで言う必要あるか?」
「事実を述べただけだ」
その言葉に、セリアが僅かに顔を向けた。
銀色の鎧は旅用の外套によって隠されていたが、背筋の伸びた立ち姿や、無駄のない歩き方には騎士らしい凛としたものがある。
腰には片手剣を提げ、二人と会話を交わしながらも、周囲への警戒を一度も解いていなかった。
「言い方はともかく、ブラックさんの仰るとおりです。王都周辺は他の地域に比べれば安全ですが、それでも盗賊はいますし、近頃は魔物による被害も増えています。村や商隊から騎士団へ寄せられる救援要請も、以前より明らかに多くなっています」
「増え始めたのは最近なのか?」
ガルドが尋ねると、セリアは小さく頷いて答える。
「はい。特に、ここ数か月で急に。本来なら森の奥にいるはずの魔物が街道の近くへ現れたり、村の家畜を襲ったりしています。異常な魔力反応を持つ個体も確認されていて、以前からあった魔物の被害とは、少し性質が違うのです」
「森で出会った、あの黒い魔物みたいなやつか」
「おそらく、同じ種類の異常だと思います」
セリアの返答を聞きながら、ガルドは顔を僅かに険しくした。
森で遭遇した黒い魔物の姿は、今も鮮明に脳裏へ焼きついている。
あれは、ただ強いだけの魔物ではなかった。
獣や魔物が本来持つ気配とは明らかに異なる、誰かの悪意によって形を歪められたような不快さがあった。
「王国騎士団も、最近はかなり慌ただしく動いています。王都へ戻れば、さらに詳しい報告を確認できるかもしれません」
「それで?」
ブラックの声には、関心どころか、会話を続けることへの煩わしささえ滲んでいた。
セリアは僅かに目を瞬かせる。
「いえ、ですから、王都で情報を確認すれば、この異常について何か分かる可能性が――」
「貴様らの騎士団が、何を知り、どのように右往左往していようと、私には関係がない」
言葉を切り捨てるように告げられ、セリアは少しだけ困ったように微笑んだ。
「やはり、あまり興味はなさそうですね」
「人間共が自ら生み出した災厄に怯え、救いを求めて騒いでいるだけなら、見る価値すらない」
横を歩いていたガルドが、呆れたように息を吐く。
「こいつは大抵、何を聞いても興味がないって答えるぞ」
ブラックの目が僅かにガルドへ向いた。
「何もかもに興味がないわけではない」
「じゃあ、何になら興味があるんだよ」
「この世界が、どこまで救いようのない愚かさを晒すのか。それを見極めることには、多少の意味がある」
ガルドは露骨に顔をしかめた。
「聞かなきゃよかったと思わせる答えを、よくそこまで堂々と言えるな」
「貴様のくだらん期待へ応えるために、言葉を選ぶつもりはない」
セリアは返答に困ったように、少しだけ視線を泳がせた。
旅を共にするようになってから、彼女にも少しずつブラックという男の輪郭が見え始めていた。
冷淡で、傲慢で、人付き合いを好まず、口を開けば他者を見下す言葉ばかりを並べる。常に周囲を自分より遥か下に置き、当然のように己を神と名乗っている。
普通であれば、可能な限り関わるべきではない相手だった。
彼は人間を対等な存在として見ていない。
助けを求める声にも、失われる命にも、心を動かされることはない。
その目に映る人間は、愚かさを測るための材料か、進行を妨げる障害物でしかなかった。人の命を塵ほどにも思わず、必要と判断すれば何の躊躇もなく切り捨てる。
だが、単純な悪人という言葉さえ、彼を正しく表してはいなかった。
善悪という物差しそのものを、人間とはまるで異なる場所へ置いている。まるで、遥か高みから世界を見下ろし、存在する価値があるか否かを一方的に裁定しているかのようだった。
セリアが横目でブラックを見ると、彼は進行方向ではなく、灰色の空へ視線を向けていた。
黒い瞳は、曇り空のさらに奥にある何かを捉えているようにも見える。
「見ろ」
不意に、ブラックが言った。
「何をだ?」
ガルドが空を見上げた、その直後だった。一粒の雨が、彼の鼻先へ落ちた。
「ん?」
続いて、もう一粒。
それから、灰色の空が耐えていたものを一斉に手放したように、数え切れないほどの雨粒が降り始めた。
「うわ、降ってきた!」
ガルドが慌てて両手で頭を覆う。
雨は瞬く間に勢いを増した。
大粒の雫が街道の土を激しく叩き、麦畑の上には白い線が幾筋も走っていく。
乾いていた地面は見る間に黒く濡れ、踏み固められた道の窪みには、小さな水溜まりが次々と生まれ始めた。
「前方に村があります」
セリアが街道の先を指した。雨に霞む景色の中に小さな集落が見えている。
「急ぎましょう」
「言われなくても、そのつもりだ!」
ガルドは外套を頭から被ると、泥を跳ね上げながら駆け出した。セリアもその後を追うが、ブラックだけは急がなかった。
雨粒が黒い髪と灰色の道着を濡らし、赤い帯の端から幾つもの雫が落ちていく。それでも表情を変えず、歩調さえ乱さない。
「おい、濡れるぞ!」
ガルドが振り返って叫んだ。
「だから何だ」
「風邪引くだろ!」
「貴様と同じ脆弱な肉体だと思ったか」
「知らないから言ってるんだよ!」
「ならば今、身の程と共に覚えておけ。この私を、貴様ら人間の尺度で測るな」
「心配しただけなのに、何でそこまで言われるんだよ!」
「頼んだ覚えはない。二度と余計な口を挟むな」
ガルドは顔をしかめたが、これ以上言っても無駄だと悟ったらしく、そのまま村へ向かって走っていった。
ブラックは少し遅れて、雨の中を歩き続ける。
この世界の自然は、元いた世界と似ているようで、僅かに異なっていた。
雲から落ちた雨は大地へ染み込み、草木に吸われ、そこに含まれた微かな魔力と共に再び空へ還っていく。
絶えず循環し、形を変えながら世界を巡る力。それは、人間が触れなければ調和を保ち続ける。
にもかかわらず、人間はそこに己の欲望を差し込み、力を捻じ曲げ、最後には制御できなくなって泣き喚く。
くだらない。
だが、この世界を裁定するための観察材料として、価値が全くないわけでもなかった。
◇
辿り着いた村は、街道沿いに点在する、ごく普通の農村だった。
石造りの建物はほとんどなく、大半が木造の家屋である。屋根には藁や板が使われ、壁には雨風を防ぐための油布が張られていた。
王都へ向かう商人や旅人にとって、途中で身体を休めるには十分な場所だった。
もっとも、今は激しい雨のため、人通りはほとんどない。
村の入口には、古びた木の看板が立っていた。
雨に濡れた文字は少し滲み、読みづらくなっている。
セリアは看板へ目を向けた。
「ルド村ですね。王都へ向かう旅人が、時折宿泊する村です」
「随分と小さいな」
ガルドが周囲を見回しながら言った。
「農村ですから。この辺りでは麦と野菜を育て、王都へ出荷しているはずです」
「じゃあ、飯は期待できそうだな」
「貴様の頭には、食うこと以外に何か入っているのか」
「お前にだけは言われたくないんだけどな」
ガルドは間を置かずに言い返した。ブラックは冷たい視線を向ける。
「私と貴様の食事を同じものと考えるな。私は力を維持するために摂取する。貴様は欲望のままに腹を満たしているだけだ」
「食うことに、そこまで偉そうな理屈をつけられるのもすごいな」
「理解できぬのなら黙っていろ」
雨はさらに勢いを増していた。
道はぬかるみ、三人の外套の裾にも泥と水が跳ねている。
セリアは村の広場を見回し、その一角に建つ少し大きな建物を指した。
「あそこが宿屋のようです。今日は無理に進まず、この村へ泊まりましょう」
「賛成だ」
ガルドが即答して、ブラックは何も言わなかった。
雨の中を進み続ける理由はない。
それに、街道沿いの村は人と情報が集まる場所でもある。異常が起きている土地であれば、この世界の醜態を観察する材料が得られる可能性もあった。
三人は宿屋へ向かった。
木の扉を開けると、湿った外気とはまるで異なる、暖かな空気が流れ出してきた。
中は食堂を兼ねた宿になっていた。
「旅人さんたちかい?」
奥から、年配の女性が姿を現した。
「ああ。部屋は空いているか?」
ガルドが尋ねた。
「空いてるよ。こんな雨の日にやって来る旅人なんて、そう多くないからね」
女将は三人を順に見回した。
獣人の青年、騎士らしい女、そして異様な雰囲気を纏う黒衣の男という組み合わせを不思議に思ったらしい。
特にブラックへ向けた視線には、隠しきれない警戒があった。彼はそれに気づいていたが、意に介さなかった。
虫が怯えようと、その感情を気に留める者はいない。
「三人部屋なら安くしておくよ。どうする?」
「それで頼む」
ガルドが嬉しそうに頷き、セリアも同意した。
ブラックは相変わらず無言だった。
誰と同じ部屋であろうと、彼にとって意味はない。二人が騒がしくすれば、黙らせれば済むだけの話だった。
女将は壁へ掛けてあった鍵を一つ取り、ガルドへ渡す。
「荷物を置いたら食堂へおいで。温かいスープがあるよ」
「それは助かる!」
ガルドの耳が分かりやすく立った。
「ブラック、飯だぞ」
「聞こえている」
「少しくらい嬉しそうにしろよ」
「なぜ私が、人間風情の作った餌を前に、貴様のように尻尾を振らねばならん」
「餌って言うなよ。作ってくれる人に失礼だろ」
「人間の機嫌など知ったことか」
セリアは二人のやり取りに苦笑した。
不思議な組み合わせではあるが、ブラックの刺々しい言葉に逐一反応していては身が持たないと、少しずつ理解し始めていた。
部屋に荷物を置いた後、三人は食堂に下りた。
外では雨が降り続いている。
窓を叩く雨音が、室内の静けさを柔らかく満たしていた。
それほど広くない食堂にいるのは、暖炉の近くで酒を飲んでいる村人らしき男が二人だけだった。彼らも大声で騒ぐことはなく、火の傍で静かに杯を傾けている。
暖炉の中では、赤く燃えた薪が揺れていた。
時折ぱちりと爆ぜ、雨に濡れた外套から立ち上る湿気を、ゆっくりと乾かしていく。
ガルドは椅子に深く腰掛け、大きく息を吐いた。
「たまには、こういう日も悪くないな」
「そうでしょうか」
セリアが隣へ座りながら尋ねる。
「ああ。歩かなくていいし、飯はあるし、雨音を聞きながら休めるし。旅を続けるなら、晴れの日に進んで、雨の日には休むのが一番だ」
「随分と旅慣れているのですね」
「まあな。無理して進んでも疲れるだけだからな」
「合理的です」
「だろ?」
そう言ってガルドは得意げに笑った。
ブラックは、少し離れた窓際の席へ座っていた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、机へ肘をつくこともなく、ただ静かに窓の外を眺めている。
雨粒が硝子を叩き、幾つもの細い筋となって流れていく。
その向こうには、灰色の雨に沈む村と、さらに遠くへ黒く滲む森が見えていた。
ブラックはその奥に、微かな違和感を覚えていた。
まだ輪郭は薄く、場所も遠い。
しかし、雨に紛れて流れる自然な魔力の中に、僅かな濁りが混じっている。
森で遭遇した異常な魔物と同じ種類の歪み。傷口に残されていた、黒紫色の気配とよく似たもの。
雨音に紛れるほど弱く、今にも消えてしまいそうな気配だったが、確かに存在していた。人間の浅知恵によって捻じ曲げられた、腐敗した力が。
ブラックの目が僅かに細くなる。
「何を見ているのですか?」
セリアが尋ねる。
「貴様に説明する必要はない」
「何か気になるものがあるのですか?」
「同じことを二度言わせるな」
セリアが僅かに言葉を詰まらせると、ガルドが横から口を挟んだ。
「こいつが外をじっと見てる時は、大抵ろくでもないことを考えてるぞ」
「ろくでもないこと、ですか?」
「たぶん、人間は愚かだとか、その辺だ」
「貴様らが愚かであることは、考えるまでもない事実だ」
ブラックが窓から目を離さずに答える。
「当たってる上に、もっとひどくなってるじゃねえか」
ガルドは思わず笑った。ブラックはその笑い声に鬱陶しそうに視線を向ける。
「耳障りだ。次に笑えば、その口ごと消すぞ」
ガルドの笑いが即座に止まった。
「冗談だよな?」
「確かめてみるか」
「遠慮しとく」
やがて、女将が料理を運んできた。
木の器から湯気が立ち上り、野菜と肉の香りが、暖炉の火と濡れた木の匂いへ混じって広がっていく。
ガルドは待ちきれないように匙を取った。
「うまい!」
その声は素直だった。セリアも軽く頭を下げてからスープへ口をつける。
「本当ですね。身体が温まります」
ブラックも何も言わず食べ始めた。
しかし、やはり食べる量が尋常ではない。
最初に運ばれた粥はすぐに空になり、厚切りのパンも瞬く間に消えた。肉の煮込みも、湯気を立てていたはずのスープも、気づけば器の底を見せている。
女将は途中から目を丸くし、厨房の奥にいる主人へ何かを囁いていた。
宿の食料庫が、静かに危機へ近づいている。
「お前、本当にすごい量を食うよな」
ガルドが呆れたように言った。
「足りん」
「まだ食うつもりか? 宿の食料がなくなるぞ」
「なくなれば、また用意させればよい」
「またそれか。その人たちにも暮らしがあるんだぞ」
「だから何だ」
ブラックは空になった器を卓へ置いた。
「私が人間共の生活へ配慮する必要がどこにある」
「金を払うのは俺なんだけどな」
「ならば黙って払え」
「俺の財布が死ぬだろ」
「貴様の財布も、貴様自身も、私には等しくどうでもよい」
セリアは笑いかけ、ブラックの目が向いたことで慌てて表情を引き締めた。
「ブラックさんは、普段からそれほど召し上がるのですか?」
「この肉体が必要とする分を摂っているだけだ」
「その必要量が、随分と多いのですね」
「当然だ。貴様らの脆弱な身体と同じに考えるな」
ガルドが腕を組み、妙に納得したように頷く。
「まあ、動くには食わないとな」
ブラックの目が冷たく向けられる。
「貴様と私を同列に並べるな。不愉快だ」
「そこまで嫌がることか?」
「次に同じことを口にすれば、嫌がるだけでは済まさん」
「食事中に物騒すぎるだろ」
その時だった。
食堂の扉が激しく開いた。
降りしきる雨の音が、一瞬だけ室内へ流れ込む。暖かな空気の中へ冷たい風が吹きつけ、暖炉の火も大きく揺れた。
入口へ立っていたのは、全身をずぶ濡れにした男だった。
この村の住人だろう。顔は青ざめ、唇も激しく震えている。
「た、大変だ!」
男は息を切らしながら叫んだ。
食堂の空気が、一瞬で変わった。
つい先ほどまで満ちていた暖かさが、薄い氷に覆われたように冷えていく。
暖炉で薪が爆ぜる音さえ、遠くなったように感じられた。
女将が慌てて男へ駆け寄る。
「どうしたんだい?」
「また消えた!」
その一言を聞いた瞬間、食堂にいた村人たちの表情が凍りついた。
ガルドの耳が鋭く動き、セリアの目も一瞬で騎士のものへ変わる。
ブラックだけは器を置くこともなく、静かにスープを飲み続けていた。
誰が消えようと、彼には何の価値もない。
村人たちが絶望しようと、家族が嘆こうと、それは人間同士で処理すべき些末な問題だった。
「今度は誰だ?」
暖炉の傍にいた村人の一人が立ち上がる。
「トーマスさんだ! 畑の水路を見に行ったまま、戻ってこねぇ!」
「またか……」
「昨日からの雨で水路が詰まるかもしれないって、昼過ぎに出ていったんだ……。それからずっと帰ってこない」
「探しに行ったのか?」
「行った。けど、途中で足跡が消えてた。森の方へ続いて、それから……」
男はそこで言葉を詰まらせた。その先を口にすることさえ恐れているようだった。
食堂に重い沈黙が落ちる。
窓を叩く雨音だけが、途切れることなく続いていた。
ガルドが眉をひそめて、女将に聞く。
「何の話だ?」
女将は濡れた男へ毛布を渡すと、深いため息を吐いた。
その顔には驚きよりも、長く積み重なった疲労が濃く滲んでいる。初めて聞く話ではないのだ。
「ここ最近、村の人間が消えるんだよ」
「消える?」
セリアが反応して、女将は重く頷いた。
「森へ行ったまま帰らないんだ。畑の見回りだったり、薪拾いだったり……薬草を採りに行ったり……理由はそれぞれだけどね。みんなで探しても、見つからない……」
「魔物に襲われた痕跡は残っていないのですか?」
セリアの声が、完全に騎士としてのものへ変わっていた。
女将は首を横へ振る。
「分からないんだよ……。血はないし、争った跡もほとんどない……。荷物だけが落ちている時もあれば、足跡が途中で途切れていることもある……」
「いつ頃から始まったのですか?」
「半月くらい前からだよ。最初は一人だった。森で迷ったんだろうって、村の者総出で探した。……でも、見つからなかった。その後、二人、三人と増えていって……今日のトーマスで六人目だ」
「六人……」
ガルドの表情が険しくなる。
短い期間で六人。
王都であれば、数字の一つとして処理されるかもしれない。
だが、この小さな村にとっては、あまりにも大きな数だった。
「騎士団には報告したのですか?」
セリアが尋ねる。女将は悔しそうに俯いた。
「したよ。でも、王都から返事が来るまでには時間がかかる。近くの駐屯地にも知らせたけど、最近は魔物の被害が増えていて、人手が足りないって言われたんだ」
濡れた男が、渡された毛布を強く握り締める。
「だから、村の男たちで見回ってたんだ。でも……俺たちじゃ駄目なんだ。森に入るのが怖い……けど、放っておくこともできねぇ。トーマスさんの家には、まだ小さな子供もいるんだ……」
食堂にいる村人たちは、皆沈んだ顔をしていた。
これは酒場で語られる怪談でも、旅人を怖がらせる噂話でもない。
セリアは静かに立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、静まり返った食堂に響く。
「私は、王国騎士のセリア・アルフォードです」
その名を聞き、村人たちが一斉に顔を上げた。
「騎士様……?」
「現在は王都へ戻る途中ですが、この件を見過ごすことはできません。明朝、森の周辺を調査します」
大声ではなかった。それでも、その言葉には迷いがなく、揺らがない芯があった。
村人たちの暗い表情に僅かな希望が灯る。
ガルドも椅子から立ち上がった。
「俺も行く」
「ありがとうございます、ガルドさん」
「困ってる奴を放っておくのは、どうにも気分が悪いからな」
そう言ってから、ガルドはブラックへ顔を向けた。
「お前はどうする?」
ブラックは、何も聞こえていないかのようにスープを飲んでいた。
「聞こえなかったのか?」
ガルドが重ねて尋ねる。ブラックは器から口を離し、冷えきった目を向けた。
「貴様は、私が人間共の命乞いに付き合うとでも思っているのか」
「命乞いって……。そういう言い方するなよ」
「では何だ。自力で解決する力もなく、偶然現れた旅人へ縋りついているだけではないか」
村人たちの顔が強張る。ブラックは彼らの反応を見ても、声の調子を変えなかった。
「好きにしたらいい」
「いや、俺はお前がどうするかを聞いてるんだ」
「私には関係のない話だ」
その声は冷たく平坦であり、僅かな同情すら含まれていなかった。
「人が六人も消えてるんだぞ」
ガルドの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
ブラックの無関心が理解できない。
困っている者を見捨てられない、それが彼の性分だからだ。
しかしブラックは、本当に意味が分からないとでも言うように返す。
「六人だから何だ。一人なら見捨て、百人なら救うのか。貴様らは数が増えなければ、命の価値すら認識できんのか?」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「ならば、くだらん感情論を私に押しつけるな」
ガルドは言葉に詰まった。
食堂にいた村人たちも息を呑み、黒衣の男へ視線を向けている。
ブラックは器を静かに卓へ置いた。木の器が小さな音を立てる。それだけの音が、異様なほど大きく聞こえた。
「貴様ら人間は、常に誰かを失っている。盗賊に殺され、魔物に喰われ、病に倒れ、戦で命を散らす。飢えれば他者から奪い、欲へ溺れれば平然と裏切り、己が生き残るためなら同族すら切り捨てる」
声には、人間という種そのものを蔑む冷たい響きがあった。
「それが貴様らの世界であり、人間という種の在り方だ。六人が消えたところで、何一つ珍しくはない。明日には別の場所で十人が死に、翌日には百人が互いを殺す。それを繰り返してきたのが、貴様らではないか」
誰も声を出せなかった。
ブラックは、彼にとっての事実を並べているだけだった。
「己の身に災いが降りかかった時だけ、命は尊いと喚き始める。他者がどこかで死んでいる間は、平然と食事をし、笑い、眠っていたにもかかわらず」
そう言って、村人たちを順に見渡した。そして続ける。
「実に醜い」
暖炉の中で、薪がぱちりと弾けた。
セリアは一歩前へ出て、ブラックを真っ直ぐに見据えて言う。
「……ブラックさん。命の重さに、数は関係ありません」
その声は強かった。ブラックは冷たい目をセリアへ向けた。
「聞くに堪えん綺麗事だな」
「そうかもしれません。ですが、騎士はその綺麗事を守るために剣を取ります」
「ならば、好きなだけ理想と共に死ね」
セリアの瞳が僅かに揺れるが、ブラックは構わず続けた。
「脆い理想へ縋り、救う価値があるかも分からぬ者のために命を危険へ晒す。貴様が死ねば、それで終わりだ。村人共は一時悲しみ、やがて忘れ、別の騎士へ同じ救いを求めるだろう」
「それでも構いません。目の前に助けを求める方がいるのなら、私は手を伸ばします」
「救えなかった者の死体を積み上げながらか」
ブラックの言葉が、鋭く突き刺さる。
「すべてを救う力もない者が、救済を口にする。傲慢なのは、むしろ貴様らの方だ」
セリアは何も言い返せなかった。だが、退くことはしない。
「それでも私は、何もしないことを選びません」
ブラックはしばらく彼女を見つめた。
その瞳に賞賛はない。
壊れると分かっている理想へ縋りつく人間を、愚かな生き物として観察する冷たさだけがあった。
ガルドは二人の顔を交互に見た後、重くなった空気を少しでも和らげようとするように、苦笑を浮かべる。
「まあ、ブラックがこういう奴なのは分かってるんだけどさ」
少し声を柔らかくして続けた。
「お前、さっきからずっと森の方を見てただろ。何か感じてるんじゃないのか?」
その言葉で、ブラックの目がほんの僅かに動いた。
ブラックは答えないが、その沈黙そのものが答えだった。
ガルドは小さく息を吐く。
「やっぱりな」
ブラックは再び窓の外へ目を向けた。
人間の目には、雨に霞む黒い木々しか見えない。
だが、ブラックには分かっていた。
森の奥には、微かな魔力の淀みがある。
自然に生まれたものではない。
何者かが意図的に作り、育て、広げている不快な歪みだった。
実験。
その言葉が脳裏に浮かんだ。
人間がまた浅ましい知恵を働かせ、自らの器を超えた力へ手を伸ばしている。
制御できもしないものを操り、自分たちだけは破滅しないと信じ込む。
そして失敗すれば、何も知らなかった者の顔をして救いを求める。
その愚かさは、見慣れたものだった。
「下らん」
呟きは、いつもより僅かに低かった。
ガルドとセリアはその変化に気づいた。
人間の失踪には関心を示さなかったブラックが、その背後にある歪みには目を向けている。
それは決して救済のためではない。
森で何人死んでいようと、ブラックにとってはどうでもよかった。
彼が見ているのは、人間が何を生み出し、どれほど愚かに力を弄んだのか、その一点だけだった。
「明日、調査へ向かうつもりか」
ブラックが静かに尋ねた。セリアが真っ直ぐ答える。
「はい。今夜の森は危険ですし、雨も強すぎます。明朝、村の方々から詳しい場所を聞き、足跡が途切れた地点から調べます」
「随分と悠長だな」
「危険を避けるためです」
「恐怖に理屈を与え、賢明な判断と呼び変えるのは、人間の得意技だ」
セリアは僅かに眉を寄せた。しかし、すぐに静かに息を整える。
「状況も見ずに進み、犠牲を増やすことは勇気ではありません。冷静に状況を見極めることも、騎士の務めです」
「それもまた綺麗事だ」
「そうですね。ですが私は、その綺麗事を捨てたくありません」
ブラックは答えず、ただ彼女を見つめた。
人間が掲げる理想など、現実の前では容易く砕ける。
それでもなお、信じ続けようとする。
ブラックには、その在り方が理解出来なかった。
だが、自ら壊れる道を選びながら、それを正義と呼ぶ不可解さには、観察する価値があるかもしれない。
ガルドは二人を眺め、小さく笑う。
「セリアは本当に真面目だな」
「騎士ですから」
「ブラックとは正反対だ」
ブラックの目がガルドへ向く。
「私をその女と同じ尺度へ置くな」
「正反対って言ったんだよ」
「比較すること自体が侮辱だと言っている」
「そこまでかよ」
「次に同じことを口にすれば、舌を失うぞ」
張り詰めていた空気が緩むどころか、別の意味で再び凍りついた。
女将は、不安と期待の入り混じった表情で三人を見つめていた。
「あんたたち、本当に調べてくれるのかい?」
その声には希望があった。
同時に、期待して裏切られることを何度も経験してきた者の諦めも混じっていた。
セリアはしっかりと頷いて言った。
「はい。まず、詳しい話を聞かせてください」
迷いなく答えると、鞄から小さな帳面を取り出した。
「消えた方々のお名前、最後に向かった場所と時間帯、持っていた物や服装など、どれほど些細なことでも構いません。思い出せることを、すべて教えてください」
食堂は、いつしか簡素な調査の場へ変わっていた。
村人たちは、互いに顔を見合わせながら、一人、また一人と口を開き始める。
最初に消えたのは、薬草を採るため森へ入った若い女性だった。
二人目は、仕掛けた罠を確認しに行った猟師。
三人目は、逃げた羊を探していた少年。
四人目と五人目は、二人で薪を拾いに向かった兄弟。
そして今日、畑の水路を見に行ったトーマス。
全員が、村の北側に広がる森の近くで姿を消していた。
「血は残っていませんでした」
年配の村人が、低い声で言った。その目には隠しきれない恐怖が宿っていた。
「争った跡も、ほとんどなかった」
別の男が続ける。
「荷物だけが落ちてることもあった。斧だけが転がってたり、籠だけが残ってたり、足跡も途中で急に消えてるんだ。まるで……」
男は言葉を飲み込み、唇を震わせた。
「最初から、この世にいなかったみたいによ……」
誰も笑わなかった。
暖炉には火が燃え、卓には温かい料理が並んでいる。
だが、その場にいる誰もが寒さを感じていた。
目に見えない何かが、村を静かに蝕んでいる。
そんな得体の知れない恐怖が、食堂全体を包んでいた。
ブラックだけは、その恐怖を冷めた目で眺めていた。
見えないものに怯え、勝手に想像を膨らませ、自ら恐怖を育てていく。
力を持たぬ人間らしい反応だった。
セリアは帳面へ視線を落とし、聞いた内容を一つずつ整理していく。
「全員、北側の森か、その周辺で姿を消しているのですね」
「はい」
女将が頷き、窓の外へ視線を向けた。
「昔から、薪や薬草を採るために入っていた場所なんだよ。危険な魔物も少なくてね」
「子供でも入れるくらい、穏やかな森だった」
別の村人が続ける。
「あそこは、ずっと俺たちの生活の一部だった……。薪を拾って、山菜を採って、罠を仕掛ければ獲物も捕れた。それが、半月ほど前から急におかしくなったんだ……」
誰も最後まで言い切ることができなかった。沈黙だけが落ちた。
セリアは静かに帳面を閉じた。
「黒い泥が残されていたと聞きました。それについて、詳しく教えてください」
村人たちは不安そうに顔を見合わせる。
やがて、一人の男が口を開いた。
「最初は、ただの泥だと思ったんだ。雨上がりだったからな。でも、よく見たら普通の泥とは違ってた」
「何が違うのですか?」
「臭いだ」
男は眉をひそめた。
「腐った薬みたいな臭いがする。それだけじゃねえ……鉄を煮詰めたような、生臭い匂いが鼻にまとわりつくんだ」
男は腕をさすりながら続けた。
「近づいただけで頭が割れそうに痛くなる。息を吸うたびに吐き気がして……体が勝手に逃げろって叫ぶんだ」
ブラックの目が僅かに細くなった。
別々に見えていたものが、すべて同じ方向を指している。
人間が何らかの術式へ手を出し、魔力を腐らせた可能性は高い。
セリアも真剣な表情で頷いた。
「明日、その泥が残っていた場所まで案内していただけますか?」
村人の一人が、迷いながらも小さく頷いた。
「……森の入口までなら」
少し間を置き、視線を落とす。
「それより奥は……すまねぇ。怖くて行けない」
その声に嘘はなかった。恐怖が、身体の奥まで染みついていた。
セリアは責めることなく、静かに首を横へ振った。
「構いません。入口までで十分です。そこから先は、私たちが調べます」
恐れることは恥ではない。
恐怖に震える者へ、無理に勇気を求めるべきでもない。それがセリアの考えだった。
ブラックは、その様子を相変わらず黙って眺めていた。
恐れる者を責めず、弱さを受け入れ、無理を強いようとしない。
人間らしい、甘く脆い思想だった。
力のない者を庇い続ければ、弱者はいつまでも弱者のままでいる。
誰かが助けてくれると信じ、自ら立つことをやめ、次の危機でも同じように救いを求める。
その連鎖が、さらに脆い人間を生み出す。
彼にとって、セリアの行動は優しさではない。
弱者を弱者のまま生かし続けるだけの、歪んだ自己満足に見えた。
盗賊たちが見せた醜悪さとは異なる。
だが、形が違うだけで、どちらも人間の愚かさには変わりない。
ブラックはそれ以上考えることをやめた。
セリアが何を信じ、何を守ろうと、彼には関係がない。
壊れるまで好きに続ければよい。
その末路を観察する価値くらいは、あるかもしれなかった。
◇
夜が深まっても、雨は止まなかった。
昼間より勢いは弱まっていたものの、細かな雨粒は絶え間なく屋根を叩き続けている。
村は静まり返っていた。
昼間に聞こえていた子供たちの声も、家畜の鳴き声も、今はない。
家々は固く戸を閉ざし、窓から漏れる灯りも少なかった。
まるで村全体が、夜の中で息を潜め、何かが通り過ぎるのを待っているようだった。
三人は宿の部屋へ戻っていた。
ガルドは寝台の端へ腰掛け、膝へ置いた短剣の刃を布で丁寧に拭いている。
金属を擦る乾いた音と、窓を叩く雨音だけが、静かな部屋へ一定の間隔で響いていた。
「嫌な感じだな」
ガルドが刃から目を離さず、ぽつりと呟く。
「六人も消えているのに、残っているのは荷物と黒い泥だけだ。どう考えても普通じゃない」
「ええ」
セリアは机の前に座り、村人から聞いた内容を帳面へ整理していた。
最後に目撃された場所と時間、人数、それぞれの目的、残されていた所持品。
情報を一つずつ、丁寧に書き留めていく。
「魔物の仕業であれば、血痕や争った跡が残ることが多いです。しかし、今回はそれがあまりにも少なすぎます」
ペン先を止め、窓の外へ目を向ける。
「まるで、その場から突然消えてしまったようです」
「転移魔法とかか?」
ガルドが尋ねる。セリアは少し考えた後、慎重に答えた。
「……可能性はあります。ただし、転移魔法は極めて高度な術です。村人を何人も攫うために使用するとなれば、相当な魔力と技術が必要になります」
ガルドは布を持つ手を止め、腕を組んだ。
「つまり、誰かが裏でやっている可能性があるってことか?」
部屋が静かになり、セリアの手も止まった。
それは、彼女自身が最も恐れていた可能性だった。
やがて、ゆっくりと答える。
「断言はできません。ですが、自然に起きた出来事とは思えません。異常な魔物、村人の失踪、黒い泥――そのすべてが偶然重なったとは考えにくいです」
「誰かが、わざとやってるのか」
「その可能性はあります。騎士団の中でも、裏で何者かが動いているのではないかという話は出ています」
セリアは慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、まだ証拠がありません。噂や推測だけで騎士団を大きく動かすことはできませんし、間違っていた場合は関係のない者を疑うことになります」
「組織ってのは面倒だな」
ガルドが率直に言った。
「否定はしません。ですが、それが組織です。確かな証拠がなければ、大勢の人間を動かすことはできません」
部屋には再び、雨音だけが残った。
二人が話している間も、ブラックは一度も会話へ加わっていなかった。
窓際へ立ち、雨に濡れる村と、その奥に広がる森を眺めている。
さらに深い闇の中で微かに蠢く魔力。その気配だけを、静かに捉えていた。
ガルドは、窓際へ立つブラックの背中を見た。
微動だにせず、まるで窓の向こうに潜む闇の正体を、最初から知っているかのようだった。
その背中に向かって、ガルドが声をかける。
「ブラック。お前、何か分かってるんだろ?」
ブラックは答えない。雨音だけが部屋を満たす。
「推測でもいい。何か感じてるなら、教えてくれよ」
「なぜだ」
低い声が返ってきた。ガルドは僅かに目を瞬かせる。
「なぜって、明日その森に入るんだ。情報は多い方がいいだろ」
「貴様らが何も知らず森へ入り、そこで死んだとしても、私には何の損失もない」
「本当に言い方ってものを知らないよな、お前」
「貴様らに配慮する価値がないだけだ」
ガルドは不満そうに眉を寄せる。セリアが静かにブラックへ向き直った。
「それでも、分かっていることがあるのでしたら教えてください。村人の命が懸かっています」
「その程度の言葉で私が動くと思うな」
「では、私たちが無知なまま森へ入り、あなたの邪魔をする可能性を減らすためだと考えてください」
ブラックの目が、僅かにセリアへ向いた。
しばらく沈黙が続く。
やがてブラックは、窓の外を見たまま口を開いた。
「森の奥に、魔力の淀みがある」
「魔力の淀み、ですか?」
ブラックは頷きもせず、淡々と告げる。
「自然に流れるものではない。何者かが術式を用いて魔力を一か所へ滞留させている。あるいは、その場で何かを変質させ続けているのだろう」
窓硝子を伝う雨粒の向こうへ視線を向けたまま、言葉を続ける。
「規模はまだ小さい。だが、確かに存在している」
「人為的なものなのですね」
セリアが慎重に尋ねた。
「自然が、あのような醜悪な腐り方をするものか。力を歪め、制御もできず、周囲へ害を撒き散らす。そのような真似をするのは、人間くらいのものだ」
部屋の空気が静かに張り詰める。
「村人の失踪とも、関係があると思いますか?」
「あるだろうな」
「根拠は何です?」
「気配だ」
「気配?」
ガルドが首を傾げる。ブラックはようやく二人へ視線を向けた。
「力には、それぞれ固有の流れと性質がある。混ざれば濁り、歪められれば腐る。貴様らの鈍い感覚では理解できんだろうが、私にはその違いが分かる」
ガルドは難しい顔をした。
「相変わらず、よく分からないな」
「分からぬなら黙っていろ。無知をいちいち報告するな」
「でもつまり、森の奥にある魔力と、黒い魔物が持っていた魔力は同じってことだろ?」
「同じ術式に由来するものだ」
ブラックは短く答えた。
「もっとも、同じ人間が施したものかまでは断定できんがな」
セリアは息を呑んだ。
騎士として、それは見過ごせない情報だった。
「明日、森へ入ります。村人を失踪させている原因が何であれ、このまま放置することはできません」
声には明確な決意が宿っていた。
「勝手にしろ」
ブラックは淡々と答える。いつもと同じ、完全な無関心だった。
ガルドはそれでも口元を緩めた。
「何だかんだ言って、お前も来るんだろ?」
ブラックは目を細めた。
「思い上がるな」
「でも、森の淀みを調べるつもりなんだろ?」
「私は人間を救うために動くのではない」
「分かってるよ」
「分かっている者の口から出る言葉ではないな」
そう言ってブラックはガルドを睨みつけた。
「貴様らが森で喰われようと、術式の材料にされようと、私には何の関係もない。私が確かめるのは、何者が愚かな真似をしているのか、それだけだ」
「それも分かってる」
「ならば、いちいち私を貴様らの側へ引き寄せるな。不快だ」
「はいは――分かったよ」
ガルドは途中で言葉を止め、慌てて言い直した。
ブラックの目が、ゆっくりと彼へ向く。
「賢明な判断だ」
「一言で命拾いした気分になるの、何かおかしくないか?」
「次は舌を残す保証はない」
「やっぱり危なかったのかよ」
「次に試せば分かる」
「絶対試さない」
ブラックは再び窓の外へ視線を戻した。
雨は少しずつ弱くなっている。
雲の切れ間はまだ見えず、暗い森だけが夜の中へ静かに沈んでいた。
セリアは二人のやり取りを眺めながら、不思議な感覚を覚えていた。
ブラックは、恐ろしいほどに冷たい。
他者に情けをかけることもなければ、人命に価値を見出しているようにも見えない。
人が消えたという事実そのものには興味がなく、助けを求める村人を前にしても、その不安や悲しみを切り捨てた。
森へ向かう理由も、失踪者を救うためではない。
その背後にある歪みが気に入らず、それを生み出した者の愚かさを確かめようとしている。
結果として闇へ向かうことになったとしても、それを正義と呼ぶことはできなかった。
もし森の奥で村人たちがまだ生きていたとしても、彼らがブラックの目的を妨げれば、救うどころか切り捨てる可能性すらある。
その行動原理は、セリアには最後まで理解できなかった。
そして、理解できないからこそ、決して彼を善人だと錯覚してはならないのだと思った。
部屋の中に静かな雨音が流れ続ける。
ガルドは磨き終えた短剣を鞘へ戻し、小さく息を吐いた。
「明日は忙しくなりそうだな」
「ええ。朝一番で村の方へ案内をお願いしましょう。森の入口までは同行していただき、そこから先は私たちだけで進みます」
「分かった」
二人が翌日の段取りを確認している間も、ブラックは一言も口を挟まなかった。彼の視線は依然として森へ向けられている。
そこでは確かに、黒紫色の魔力が静かに脈打っていた。
その気配を見据えながら、ブラックの口元が僅かに歪んだ。
そこに浮かんでいるのは、誰かを救おうとする決意ではない。
人間の愚行を前にした、冷たい嘲笑だった。
「人間の浅知恵が、また何を生み出したかと思えば……」
黒い瞳が、森の奥を鋭く射抜く。
「自ら破滅を作り出し、そのたびに救いを求めるか。どこまでも救いようのない種だな」
低い呟きは雨音に溶け、誰の耳にも届かなかった。