異世界を見定める神   作:やきおに

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第五話 消えた者たちの足跡(前編)

 翌朝、夜通し降り続いた雨はようやく上がっていた。

 空には厚い灰色の雲が垂れ込め、屋根や軒先から雫が静かに滴っている。

 普段なら、畑へ向かう足音や子供を起こす母親の声が聞こえる頃だろう。だが、今朝のルド村はひっそりと静まり返っていた。扉を開ける音も道を歩く足取りも、何かを恐れるように控えめである。

 人々が消えたという事実が、雨上がりの湿った空気よりも重く、村人たちの胸にのしかかっていた。

 

 

 宿屋の食堂では、朝食を終えたブラックたちが、村長から詳しい事情を聞いていた。

 もっとも、食事を終えるまでにはかなりの時間がかかった。ブラックが昨夜と変わらず、常識外れの量を黙々と平らげたからだ。

 女将は複雑な表情を浮かべていたが、今は食料庫を案じている場合ではないと思ったのか、追加のパンを置いても何も言わなかった。

 食堂の中央にある大きな卓には、村と周辺の地形を描いた簡素な地図が広げられている。

 村長は白髪交じりの髪を短く整えた老人で、皺の深い顔には、ここ数日の疲労と不安が色濃く滲んでいた。

 セリアは地図へ真剣な眼差しを落としている。旅の途中で見せていた柔らかな表情はなく、今は王国騎士として、村で起きた事件の輪郭を一つずつ探っていた。

 

「姿を消した方々は、全員が村の北側にある森へ入ったのですね」

 

 穏やかな声ではあったが、その問いには曖昧な返答を許さない強さが宿っていた。

 村長は重々しく頷き、地図へ描かれた森を太い指でなぞる。

 

「ああ。森へ向かった理由は、それぞれ違う。薪を拾いに行った者もいれば、薬草を採りに行った者、水路を確かめに行った者や、逃げた羊を探していた者もいる。だが、皆この森へ入った後に姿を消している」

 

 指先が僅かに震えていた。村長は続けて言う。

 

「昔から村で使ってきた森だ。危険な魔物が出ることもなく、入口の辺りなら子供たちが遊びに行くことさえあった。それが半月ほど前から、急に……」

「最初にいなくなったのは、薬草を採りに向かった女性でしたね」

 

 セリアが確認すると、村長は沈痛な面持ちで頷いた。

 

「まだ若い娘だった。日が暮れても戻らなかったから、村の者たちで探しに行ったが、何も見つからなかった」

 

 そこで一度言葉を止め、胸の奥へ溜まったものを押し出すように、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……次に消えたのは猟師だった。森のことなら誰よりも知っていた男だ。獣の足跡も風の向きも、天候が崩れる兆しも見落とさない。あの森のどこに何があるのか、村の誰よりも知っていたはずなのに……それでも戻ってこなかった」

 

 老人の唇が強く噛み締められる。

 

「遺体は見つかっていないのですか」

「一人もだ」

「血痕や、争った痕跡は」

「ほとんど残っていなかった。落ちていたものはある。斧や籠、衣服の切れ端も見つかったが、それも僅かだった」

 

 ガルドは腕を組み、難しい表情で地図を見下ろしていた。狼に似た耳が、落ち着かない様子で何度か小さく動く。

 

「魔物に襲われたなら、何かしら跡が残るはずなんだけどな。血や引きずった痕跡、食い残しだってある。六人も消えて、何も見つからないっていうのは妙だ」

「だからこそ不気味なんだ」

 

 村長の言葉に、食堂の隅で話を聞いていた女将も、胸の前で両手を強く握り締めた。

 

「森へ入った人が、霧に呑み込まれたみたいに消えてしまうんだよ。今では日が暮れる前でも、誰も一人では村の外へ出ようとしない」

 

 セリアは地図へ目を戻し、聞き取った失踪地点へ一つずつ印をつけていく。

 全部で六つ。

 いずれも森の深部ではなく、村人たちが日常的に薪を拾い、薬草を採り、狩りをしてきた範囲に集中していた。

 

「共通しているな」

 

 ガルドが低く呟いた。

 

「ええ。消えた方々は、誰一人として森の深部へ踏み込んでいません。これまで村人が安全に利用していた場所で姿を消しています」

「森の奥にいた何かが、村の近くまで出てきたってことか」

「その可能性はあります。あるいは、最初から村人たちの生活圏へ何かが入り込んでいたのかもしれません」

 

 セリアは地図を丁寧に畳むと、村長へ向き直った。

 

「最後に姿を消したトーマスさんの足跡が途切れた場所まで、案内していただけますか」

 

 その言葉を聞いた瞬間、村長の顔へ明確な恐怖が浮かんだ。

 彼にとって森は、地図へ記された調査地点ではない。名前も顔も知る六人が足を踏み入れ、そのまま戻らなかった場所だった。

 しばらく沈黙した後、村長は覚悟を決めたように頷いた。

 

「森の入口までは案内する。だが、その先へ入ることは……すまないが、わしにはできそうにない」

「謝る必要はありません」

 

 セリアは責める様子を見せず、静かに答えた。

 

「森の中は私たちで調べます。村長は村へ戻り、皆さんが森へ近づかないよう見ていてください」

 

 ガルドも椅子から立ち上がり、背中へ負った剣の位置を直した。

 

「話が決まったなら、早速行こうぜ。雨が止んでるうちに見て回った方がいい」

 

 ブラックはそれまでほとんど会話へ加わらず、窓際の椅子に腰掛けたまま灰色の朝へ沈む村の外を眺めていた。

 曇り空の下、北側の森だけが周囲より一段濃い闇を抱えているように見える。

 彼が見ていたのは、森の奥から滲み出る黒紫色に濁った魔力だった。こその歪な流れを、ブラックは食事を終えた時からすでに捉えていた。

 

「ブラックさん。これから森へ向かいます」

 

 セリアが声をかけると、ブラックはようやく窓から視線を外し、気怠げな動作で立ち上がった。

 

「下等な者共の都合を、逐一この私へ報告するな。貴様らが道に迷わず、私の視界から脱落しなければそれでよい」

 

 ブラックはセリアとガルドを冷たく見下ろす。

 

「俺たちが案内される側みたいな言い方だな」

 

 ガルドが顔をしかめたが、ブラックは既に興味を失ったように出口へ向かっていた。

 

「事実を告げられて不満を覚えるとは、随分と自尊心だけは立派らしいな」

「一言多いんだよ」

 

 ガルドの抗議を無視して、ブラックは宿屋の扉を押し開けた。

 

 

  ◇

 

 

 村長に案内され、三人は村の北側へ向かった。

 雨上がりの道はぬかるみ、靴底にまとわりつく泥が湿った音を立てている。

 村外れの畑を越えた先には、問題の森が広がっていた。

 朝を迎えても森は暗い。密集した枝葉が光を遮り、木々の根元を覆う白い霧が、幹の間をゆっくりと漂っていた。

 村長は森の入口から少し離れた場所で足を止めた。

 そこから先へ進むことを、身体そのものが拒んでいるかのようだった。

 

「ここだ。昨日、トーマスの足跡を追った。ここから森へ入り、少し進んだところで急に途切れていた」

 

 村長は湿った地面を指差した。ガルドは地面へしゃがみ込み、雨によって輪郭を崩された足跡を確かめる。

 激しい雨に打たれながらも、痕跡は完全には消えていなかった。鼻を近づけ、湿った土に残る匂いを嗅ぎ分けた後、彼は顔を上げた。

 

「村長、ここから先は俺たちだけで行く。あんたは村へ戻った方がいい」

 

 村長は悔しそうに唇を噛んだ。

 

「すまない」

「ですから、謝る必要はありません。村へ戻り、私たちが帰るまで誰も森へ入らないよう伝えてください」

 

 セリアが穏やかに言って、

 

「分かった」

 

 村長は三人へ深く頭を下げた。年老いたその背中は、実際の年齢以上に小さく見えた。

 

「どうか……あの者たちを見つけてやってくれ」

 

 その言葉にセリアは力強く頷き、ガルドも安心させるように片手を上げた。ブラックは答えなかった。

 人間の願いを背負うつもりも、その期待へ応える義務もない。救いを求める老人の言葉など、彼にとっては風に紛れる音と変わらなかった。

 村長が立ち去る足音がぬかるんだ道の上をゆっくりと遠ざかっていく。残された三人は、森の入口へ向き直った。

 

「やっぱり、嫌な感じがするな」

 

 ガルドは暗い木々の奥を見据えながら、小さく息を吐いた。

 

「魔物の気配はそれほど濃くありませんが、何もいないとは思えません」

 

 セリアは腰の剣へ手を添え、霧の向こうへ鋭い視線を送る。ブラックは二人へ答えず、迷いのない足取りで森へ踏み込んだ。

 

「人間の感覚に頼っていては、一生入口を彷徨うことになるぞ」

 

 濡れた草を踏み、霧を押し分けるように進む背中を、ガルドとセリアも追っていった。

 森の中は、想像していた以上に静まり返っていた。鳥の囀りも虫の羽音もなく、小動物の気配さえ感じられない。

 森に生きるものすべてが何かに怯え、息を潜めているかのような静寂が、霧深い木々の間を支配していた。

 ガルドの耳が、周囲の僅かな音を拾おうと忙しなく動いた。

 

「静かすぎる。普通の森じゃないな」

「魔物の気配も薄すぎます」

 

 セリアも鋭く周囲へ目を配り、すぐに剣を抜けるよう柄へ手を添えていた。

 

「まったく存在しないわけではありませんが、この広さの森にしては明らかに少ない。何かを恐れて近づかないのか、すでに追い払われたのかもしれません」

 

 ブラックは一定の歩幅を崩さず、二人の前を進んでいた。

 森の深部には、力ずくで捻じ曲げられたような魔力の濁りがある。澄んだ泉へ腐った油を流し込んだように、周囲の魔力へまとわりつき、その流れを穢していた。

 何者かが意図的に力を継ぎ足し、本来あるべき形を無理やり変えているようだった。

 

「なあ、ブラック。何か感じてるんだろ?」

「この先だ」

「やっぱ何かあるのか」

「あれほど醜悪な力を垂れ流しておきながら、隠し通せるつもりでいるらしい」

 

 ブラックは鼻で笑い、視線を森の奥へ向けたまま告げた。

 

「塵の分際で神の目を欺こうとは、無知にも限度がある」

「何があるかまでは分からないのか?」

 

 ガルドが尋ねると、ブラックは僅かに目を細めた。

 

「人間の浅知恵が生み出した、見るに堪えぬ何かだ。それ以上を知りたいのなら、自らの目で醜態を確かめろ」

「説明する気はないんだな」

「貴様の理解が追いつくまで言葉を尽くせとでも言うのか? 随分と厚かましい獣だな」

「誰が獣だ。獣人だって何回言わせるんだよ」

 

 軽口を返しながらも、ガルドの表情から緊張は消えなかった。

 ブラックがここまで明確な嫌悪を示す以上、この先にあるものが碌な存在ではないことだけは理解できた。

 

 三人は、道と呼べるものさえ失われた森の奥へ進んだ。

 濡れた枝葉が肩や外套を掠め、そのたびに溜まっていた雨粒が降りかかる。大量の水を吸った腐葉土は柔らかく、一歩踏み込むたびに靴底が深く沈んだ。

 セリアは周囲への警戒を解かず、いつでも剣を抜き放てるよう重心を僅かに前へ置いている。

 ガルドは湿った空気を吸い込み、土や樹木、苔や獣の残り香を一つずつ嗅ぎ分けていた。

 やがて、彼の足が突然止まった。

 

「待て」

 

 ガルドはその場へしゃがみ込み、湿った地面の一角を指差す。

 

「ここに足跡がある」

 

 土には雨で輪郭を崩された古い足跡が、僅かに残されていた。普通の人間には、泥が不規則に乱れているようにしか見えないだろう。

 ガルドは指先で表面の土を軽く払い、痕跡を慎重に観察する。

 

「人間の足跡だ。少なくとも二人分ある。一つは成人した男で、もう一つはそれより小さい」

 

 さらに鼻を地面へ近づけ、残された匂いを確かめる。

 

「数日前についたものだな」

 

 セリアも隣へ膝をつき、崩れた足跡を見つめた。

 

「消えた村人のものでしょうか」

「たぶんな。雨でほとんど流れてるけど、村で嗅いだ匂いが僅かに残ってる」

「追えますか」

「完全には無理だ。でも、残ってる痕跡を拾っていけば、進んだ方角くらいは分かる」

 

 雨に消されかけた足跡を辿り、三人は森の奥へ進んだ。

 枝や葉が行く手を遮り、ぬかるみが足にまとわりつく。それでもブラックの歩みは乱れない。木の根や倒木を迷いなく避け、呼吸一つ変えずに進んでいく。

 その背中を見つめながら、セリアは改めて彼が人ならざる存在なのだと感じていた。

 彼には何が見えているのだろう。霧の向こうも、地面の下も、すべて見通しているように思えた。

 やがて村の気配は消え、辺りは密集した木々と濃霧に覆われた。白い靄が視界を閉ざす中、ブラックが不意に足を止める。

 ガルドとセリアも、反射的に立ち止まった。

 

「どうした?」

 

 ガルドの問いには答えず、ブラックは霧の奥へ目を向けた。

 その視線を追った二人も、数秒遅れて木々の隙間に浮かぶ異質な輪郭へ気付く。

 

「あれは……」

 

 森そのものに呑み込まれるようにして、石造りの建物が半ば地中へ埋もれていた。

 壁面は苔と蔦に覆われ、屋根の一部は大きく崩れ落ちている。建物を支えていたと思われる石柱も根元から折れ、冷たい地面へ無残に横たわっていた。

 黒く口を開けた窓の奥には深い闇が広がり、長い年月を経て自然へ呑み込まれ、人々の記憶から忘れ去られた遺跡のように見える。

 しかし、ブラックは一目見た瞬間に、その印象を退けていた。

 

「随分と稚拙な偽装だ」

「偽装?」

 

 ガルドが眉をひそめて聞くと、

 

「これは死んだ場所ではない。廃墟を装い、虫けらの目を欺いているだけだ」

 

 ブラックは淡々と答え、迷うことなく建物へ歩き始めた。

 ガルドとセリアも警戒しながら後を追い、入口へ近づいたところで、二人にも違和感の正体が見えてきた。

 

「ここだけ、落ち葉が踏み固められています」

 

 セリアが入口付近の地面へ視線を落とす。

 大量の落ち葉が積もっているものの、その一部だけが不自然なほど薄く、雨に濡れながらも何度も人が通った痕跡を残していた。

 ガルドはしゃがみ込み、鼻を近づけた。

 

「人間の匂いだ。かなり新しいものも混じってる」

 

 さらに周囲へ目を向けると、僅かに顔をしかめた。

 

「一人や二人じゃない。何人もの人間が、何度もここを出入りしていた」

「放棄された遺跡ではありませんね」

「ああ。見た目だけだ」

 

 半ば崩れた石の門には蔦が垂れ下がり、入口を隠すように覆っていた。しかし、その奥には人一人が通れるほどの隙間が、不自然なほど綺麗に残されている。

 外からは廃墟に見せながら、内部へ出入りできるよう意図的に確保されていた。

 ブラックは入口の前に立ち、建物の奥から流れ出る空気へ意識を向ける。

 その奥からは、黒紫色に腐敗した魔力が粘つくように流れ出し、周囲の空気へまとわりついていた。

 ブラックの口元が僅かに歪む。

 

「ここか」

「何か分かったのですか?」

「貴様らが求めている程度の答えなら、この中に転がっている」

 

 説明はそれだけだったが、声音に迷いはない。

 ガルドは短剣を抜き、セリアも腰の剣を抜き放った。曇り空から落ちる淡い光を受け、銀色の刃が冷たく輝く。

 

「内部に誰かいる可能性があります。十分に警戒してください」

 

 ブラックは二人へ返事をせず、蔦の垂れ下がる入口へ歩き出した。

 

「おい、少しくらい罠を警戒しろよ」

 

 ガルドが呼び止めると、ブラックは振り返りもせず、侮蔑を含んだ声を返した。

 

「神の歩みを、人間の細工で止められると本気で思っているのか」

「罠があるかもしれないって話だ」

「塵が何を積み重ねようと、神の足元へ届くことはない。襲いかかる愚か者がいるなら、仕掛けた者ごと消し去れば済む」

「だから、そういう問題じゃないんだよ」

 

 ガルドが頭を抱える横で、セリアは口を挟めなかった。

 ブラックは垂れ下がる蔦を片手で払い、崩れかけた入口を潜った。

 薄暗い建物の内部へ黒衣の姿が呑み込まれ、ガルドとセリアも互いに周囲を警戒しながら後へ続く。

 一歩足を踏み入れただけで、湿気を含んだ冷たい空気が肌へまとわりついた。

 古い石材の臭いに、鼻を刺す薬品の刺激臭と鉄の臭いが混じっていた。血の臭いだった。

 ガルドの耳が鋭く動き、顔が不快そうに歪んだ。

 

「……酷い臭いだな。血だけじゃない。薬品と、腐った草みたいな臭いも混じってる」

「村人が話していた黒い泥の臭いと、同じものかもしれません」

 

 セリアは慎重に息を吸いながら、建物の内部へ続く廊下を見渡した。

 両脇にはひび割れた石壁が続き、天井にも幾筋もの亀裂が走っている。今にも崩れ落ちそうな石材が辛うじて形を保ち、床には長い年月を物語るように灰色の埃が厚く積もっていた。

 一見すれば誰も立ち入っていないように見えるが、その埃は所々で不自然に乱れ、細く擦れた跡を残している。

 ブラックは片側の石壁へ目を向けた。

 そこには風化して半ば消えかけた古い魔法陣が刻まれており、その上から新しい線が何度も継ぎ足されていた。

 

 古代の術式へ現代の魔法を無理やり接続した、歪で粗雑な構成だった。

 ブラックが冷ややかに口を開く。

 

「……なるほど。古い器の価値も理解せず、己の汚れた欲望だけを流し込んだか。借り物の知識で神秘へ触れたつもりとは、人間の思い上がりもここまで来れば滑稽だな」

 

 その声が、冷え切った廊下の奥へ静かに響いた。

 

 

  ◇

 

 

 廊下は、奥へ進むほど深い闇へ沈んでいった。

 天井近くの細い通気口から差し込む外光も、入口から少し離れただけで届かなくなり、湿った石壁の輪郭だけが薄暗がりの中へぼんやりと浮かんでいる。

 壁を這っていた蔦は途中で枯れ、その隙間を埋めるように黒ずんだ苔が広がっていた。石の亀裂から染み出した水が床へ落ちるたび、小さな音が静寂へ吸い込まれていく。

 三人の足音だけが石造りの通路へ重く反響し、さらに奥へ続いていた。

 やがて、セリアが足を止めて静かに膝を折る。

 

「足跡があります」

 

 石床へ積もった埃を指先で慎重になぞる。雨の影響を受けない屋内には、複数の人間が何度も往復した足跡が鮮明に残されていた。

 重い荷物を引きずったような擦れ跡も幾筋か伸び、それらは幾重にも重なり合っている。

 

「最近ついたものも混じっています。数日前……いえ、もっと新しい跡もあります」

 

 ガルドも隣にしゃがみ込み、通路の奥から漂う臭気を嗅ぎ分けた。

 

「人間の匂いが何人分もある。村人のものも僅かに残ってるけど、知らない奴らの匂いが大半だ」

 

 鼻先が小さく震え、その表情へ困惑が浮かぶ。

 

「それに、この臭いは何だ……生き物みたいなのに、生き物じゃない。血とも腐肉とも違う」

 

 ブラックには、それが臭いとしてではなく、壁や床へ染み込んだ魔力の残滓として見えていた。

 

「やっぱり、森で見たものと同じなのか」

 

 ガルドが声を潜めると、ブラックは通路の奥を見据えたまま答えた。

 

「ああ。あの不出来な獣を生み出した歪みは、ここから流れ出している」

「では、この施設で何かを作っていたということですか?」

 

 セリアの問いに、ブラックは僅かに口元を歪めた。

 

「過去形で語るな。力の流れは今も完全には死んでいない。これほど腐った気配を撒き散らしながら、自分たちの痕跡を消したつもりでいるなら、救いようのない愚物だ」

 

 三人は再び歩き始め、やがて通路の左側にある小さな部屋へ辿り着いた。

 入口の扉は蝶番ごと外れ、半ば朽ちた状態で床へ倒れている。中には崩れかけた木棚と壊れた机が置かれ、一見しただけなら長年放置された物置にしか見えない。

 ガルドが先に足を踏み入れ、周囲を見回した。

 

「何もなさそうだな」

 

 そう口にした直後、彼の視線が机の上で止まる。

 

「……いや、待て」

 

 机の上には、湿気で波打った紙束が乱雑に散らばっていた。

 古びてはいるものの、何十年も放置されていた紙にしては傷みが浅く、積もった埃も少ない。

 セリアは慎重に近づき、その中から一枚を持ち上げた。

 紙は湿気を吸って柔らかくなり、端も破れかけている。書かれた文字の一部は滲んでいたが、内容を読み取るには十分だった。

 目を通したセリアの表情が、ゆっくりと強張っていく。

 

「これは……」

 

 さらに数枚をめくると、そこへ並んでいたのは人名ではなく、番号や記号、無機質な数値ばかりだった。

 

「魔力適合率、投入量、拒絶反応……」

 

 小さく読み上げながら記録を確認し、一枚の紙へ目を落とした瞬間、セリアの指先がぴたりと止まった。

 

「被験体番号……」

 

 静まり返った部屋にその言葉が重く落ちた。

 

「……被験体?」

 

 ガルドの眉が険しく寄った。

 セリアはさらに記録へ視線を走らせる。読み進めるにつれ、唇が僅かに震え始めた。

 

「生存時間、成功例、失敗例……魔獣融合実験……」

 

 最後の言葉を口にした時、その声は目に見えて沈んでいた。

 ガルドもセリアの手元を覗き込んだ。紙に記されている内容を理解した瞬間、表情から血の気が引いていく。

 

「おい……それって」

「人体実験の記録です」

 

 セリアが告げると、ガルドの拳が強く握り締められた。骨が軋み、関節が白く浮かび上がるほど、腕へ力が込められている。

 

「ふざけんなよ……。人間を実験材料にしてたっていうのか……!」

「可能性ではありません……。ここに残されているのは、実際に行われた実験の記録です」

 

 それは、誰かが人間を用いて実験を繰り返し、その結果を淡々と書き残した証拠だった。

 紙面では人の命が番号と数値へ置き換えられ、成功か失敗かという基準だけで分類されている。その人物がどのように生き、誰に愛され、何を望んでいたのかは、一文字も記されていなかった。

 

 ブラックは一度も紙束へ目を向けず、部屋の隅に残された石床の染みを見下ろしていた。

 完全には拭いきれなかった黒い血痕が石の隙間へ深く染み込み、その上には黒紫色の魔力がこびりついている。壁面には細かな術式が幾重にも刻まれていた。

 それらを一目見ただけで、ブラックはこの場所で繰り返された行為を理解した。

 肉体へ魔力を流し込み、拒絶すれば廃棄する。暴走すれば処分し、失敗した理由を記録して、次の人間へ同じことを試す。

 人間たちは屍を積み重ねながら、その数を進歩と呼んでいた。

 

「見るに堪えんな」

 

 ブラックの声には怒りも悲しみもなく、底知れない軽蔑だけが宿っていた。ガルドが振り返る。

 

「これを見ても、それだけかよ」

 

 ブラックは床へ残る血痕から視線を外し、ガルドを冷たく見下ろした。

 

「弱き者が、さらに弱き者を喰らう。それが人間という種だ。何を今さら驚いている」

「だからって、こんなことをしていい理由にはならないだろ」

「誰が許しを語った」

 

 ブラックの声音が一段低くなる。

 

「貴様らが互いをどのように扱おうと、私には何の関係もない。虫が同じ虫を喰らおうと、神が心を痛めるとでも思ったか」

 

 ガルドは奥歯を噛み締めた。

 

「誰かを捕まえて、好き勝手に弄って、壊れたら捨てる……。そんなことが許されてたまるか……!」

「善悪という狭い尺度へ縋らなければ、目の前の現実すら直視できんのか」

 

 ブラックはその怒りを、取るに足らない感情でも眺めるように見つめた。

 

「己の欲望を救済や進化という言葉で飾り、他者を壊す行為に崇高な意味があるかのように装う。その浅ましさが、神の目には不快だと言っている」

 

 その一言と共に、部屋の空気が僅かに沈んだ。

 目に見えない重圧が空間へ満ち、ガルドとセリアは無意識に息を詰める。

 ブラックが犠牲者を憐れんでいるわけではないことは、二人にも分かっていた。

 自らの欲望を美しい言葉で飾り立て、神の領域へ触れたつもりになっている人間の傲慢さを、存在ごと見下している。

 その目が向けられているのは、それらを生み出した人間という種そのものだった。

 セリアは静かに息を吸い、抱えていた資料を持ち直す。

 

「この記録は持ち帰ります。王都へ提出し、正式な証拠として騎士団へ報告します。これだけの記録が残されていれば、調査を始めるには十分な証拠になります」

 

 彼女は一枚ずつ状態を確認しながら、脆くなった紙を丁寧に重ねていく。

 

「ああ。絶対に隠させない。こんなことをした連中を、このまま野放しになんかしてたまるか」

 

 ブラックは二人の決意に何の反応も示さず、部屋の奥へ歩いていった。

 

「おい、どこへ行くんだ?」

「この程度の紙切れを拾い集めて、すべてを知ったつもりか」

 

 ブラックは部屋の最奥にある石壁の前へ立ち、ゆっくりと手を上げた。

 指先を壁面へ触れさせ、僅かな範囲をなぞるように滑らせていく。

 やがて、ブラックは小さく鼻を鳴らした。

 

「やはり、ここにも残っているな」

 

 セリアが資料を抱えたまま近づく。

 

「何かあるのですか?」

「古い術式の上に、別の魔法陣を無理やり継ぎ足している」

 

 その言葉にセリアも壁へ目を凝らしたものの、彼女の目に映るのは風化した亀裂や無数の細かな傷だけだった。

 

「……私には、ただの傷にしか見えません」

「当然だ。その程度の目で見抜けるものなら、隠す意味すらない」

 

 ブラックは冷淡に言い放った。セリアは一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直して壁を見つめ直す。

 

「意図的に隠されているのですね」

「古い時代の術式に、現代の魔法を強引に接続している。元の構造も理解せず、表面だけを利用したのだろう」

 

 ブラックが指差した一角を、セリアも角度を変えながら注意深く観察する。

 一見すれば無秩序な傷にしか見えなかった細い溝が、一定の法則に従って繋がり、複雑な紋様を描いていることが分かった。

 古い魔法陣の上に、別の術式が乱雑に刻み加えられている。

 壊れた器を補修しながら、本来とは異なる目的へ無理に転用しているような歪な構成だった。

 

「稚拙にもほどがある。古い器の力へ縋りながら、その本質すら理解していない。上から刻み足したものなど、幼子の落書きにも劣る」

「それほど酷い術式なのですか?」

 

 ブラックは即座に答える。

 

「粗末という言葉すら生温い。対象の肉体も魔力の流れも理解せず、ただ力を流し込み、無理やり形を変えようとしているだけだ」

 

 そう言って、指先で壁の一部をなぞる。

 

「ここでは流れが衝突し、互いを削っている。こちらは負荷を増やすだけで、何の意味もない。対象となる器の限界を考えず、力だけを押し込めば内側から崩壊するのは当然だ」

 

 ブラックは手を下ろし、石壁から一歩離れて続けた。

 

「これは術ではない。無知な者が力を弄び、偶然の成果を待ちながら肉を壊しているだけだ」

 

 セリアの脳裏に先ほど読んだ資料の文字がよみがえる。

 無機質に並んでいた記録が、一つの意味を持って繋がっていく。

 

「最初から、成功するように組まれた術式ではなかった……」

「器を理解せず、力だけを注ぎ込めば壊れる。その程度の理すら知らぬ者が、生命の進化を語っているらしい。愚かさに底があるのなら、これを作った者は、その底さえ踏み抜いているだろうな」

 

 ブラックの声に冷え切った嘲笑が混じる。ガルドは壁を睨みつけた。

 

「失敗するって分かってて、何人にも同じことをしたのかよ」

 

 ブラックは何の感情も見せずに答える。

 

「分かっていたからこそ、数を用意したのだろう。一人が壊れれば次を使い、次も耐えられなければ、さらに別の者へ同じことを繰り返す。偶然一つでも望んだ結果が生まれれば、積み重ねた屍を成功への礎と呼ぶつもりだったのだ」

 

 部屋へ重い静寂が落ちた。

 

「……最低だ」

 

 ブラックはゆっくりと視線を向け、その言葉を嘲るように口元を歪めた。

 

「最低、だと? まるで、そこが人間の底であるかのような口ぶりだな」

「全部の人間が、こんなことをするわけじゃない」

「そう信じていなければ己を保てぬのなら、好きに縋ればよい」

 

 冷たく言って、ブラックは壁へ残された歪な術式を一瞥した。

 

「だが、目の前へ突きつけられた事実まで、貴様の理想で塗り潰すな。ここで人間が同族を資材として扱ったことは、どれほど綺麗な言葉を並べようと変わらん」

 

 セリアも反論できなかった。人は醜さだけでなく、優しさや誇りを持っていると伝えたかった。

 しかし、この部屋へ残されたものが、その言葉を軽々しく口にすることを許さなかった。

 セリアは回収した資料を外套の内側へ大切に収め、静かに立ち上がる。

 

「先へ進みましょう。まだ、この施設には確認すべき場所が残っています」

 

 声には怒りを押し殺した硬さがあった。ガルドも頷き、短剣の柄へ手を添える。

 ブラックは何も言わず、すでに部屋の外へ歩き始めていた。

 

 

  ◇

 

 

 三人がさらに奥へ進むと、廊下は幾つもの方向へ複雑に枝分かれしていた。その左右には牢屋として使われていたらしい狭い部屋が並んでいる。

 鉄格子は赤錆に覆われ、その多くが大きく歪んでいる。中には内側から力任せに引き曲げられたような痕跡を残すものもあり、床には何かを引きずった跡が幾筋も続いていた。

 

 壁面には、爪や指先で必死に掻き毟ったような傷が無数に刻まれている。

 

 別の部屋には石造りの実験台が残され、その周囲には壊れた拘束具が転がっていた。壁一面には複雑な魔法陣が幾重にも描かれ、乾いた血は黒く変色し、棚には空になった薬瓶や砕けた魔石が無造作に積み上げられている。

 

「……酷い臭いだ」

 

 ガルドは堪えきれないように鼻を押さえた。鋭敏な嗅覚を持つ彼には、この場所へ残された苦痛まで感じ取れてしまうかのようだった。

 セリアも静かに周囲を見回していたが、進むほどに表情は険しくなっていく。

 これまで騎士として戦場も、魔物に襲われた村も、盗賊に焼かれた集落も見てきた。

 しかし、ここにはそれらとは異なる異様さがあった。

 命を奪うためではなく、命を使い潰すために造られた場所。その違いが肌を粟立たせるほどの嫌悪感となって胸へ迫ってくる。

 ブラックは壁へ刻まれた魔法陣を眺め、冷たく言い放った。

 

「場所を変え、同じ失敗を繰り返しているだけか」

 

 そう言って、今度は床へ積み重なる拘束具を見下ろして続ける。

 

「己の無能を認める知性すら持たず、犠牲の数だけを増やして進歩したつもりになる。これほど醜悪な停滞を誇れるのは、人間くらいのものだろうな」

 

 三人の足音は、さらに暗い施設の奥へ続いた。

 やがて狭い小部屋へ足を踏み入れた時、先頭を歩いていたガルドが何かへ気付き、不意に立ち止まった。

 

「……これ」

 

 掠れた声を漏らし、部屋の隅へしゃがみ込む。

 埃と泥にまみれた小さなものを拾い上げると、それは片腕の欠けた木彫りの人形だった。

 腕も脚も不揃いで、顔も簡単に削られているだけの粗末な作りだったが、その不格好さには不思議な温もりが残されていた。

 誰かが大切な者のため、慣れない手で木を削り、時間をかけて形へしたことが伝わってくる。

 人形は泥と埃に汚れ、片方の腕は途中から欠けており、表面には乾いた血にも見える黒い染みがこびりついていた。

 ガルドは何も言わず、それを見つめている。

 いつもなら冗談の一つでも口にする彼の顔から、明るさは完全に消えていた。

 セリアも人形へ目を向けたまま、言葉を失っていた。

 この場所には子供まで連れてこられていたのかもしれない。

 人形の持ち主も、ここで実験を受けたのかもしれない。

 確かな証拠はない。それでも、そんな想像が生まれてしまうだけの痕跡が、この施設にはあまりにも多く残されていた。

 

 ブラックは木彫りの人形へ一度だけ視線を落とした。

 込められていた思いを推し量る様子はなく、その目はすぐに部屋の壁へ向けられる。

 

「感傷へ沈むのは後にしろ」

 

 冷たい声に、ガルドが顔を上げた。

 

「少しくらい黙ってられないのか」

「無価値な感情に浸り、目の前の手掛かりを見落とす愚かさを指摘してやっただけだ」

 

 ブラックが顎で壁の一角を示す。そこには、これまで見てきた魔法陣とは異なる紋様が刻まれていた。

 術式ではなく、何者かが自らの存在を示すために残した紋章だった。

 円を基調とした意匠の中へ黒曜石を思わせる黒い輪が描かれ、その中心には、夜明けの光を歪めたような奇妙な形が刻み込まれている。

 セリアもその存在に気付き、慎重に近づいた。

 

「これは……」

 

 指先で触れようとして、寸前で手を止める。

 

「見たことのない紋章です」

 

 ガルドも木彫りの人形を手にしたまま壁を見上げた。

 

「どこかの貴族の家紋か?」

「少なくとも、私が知る王国貴族のものではありません。王家や騎士団の紋章とも違います」

 

 セリアは記憶を辿るように目を細める。

 

「国外の組織である可能性もありますが、この意匠には見覚えがありません」

 

 ブラックは小さく鼻を鳴らした。

 

「己を特別だと思い込みたい愚物が、群れへ名を与えるために作った印だろう」

 

 そう言って壁へ刻まれた紋章を冷たく見据える。

 

「人を攫い、肉を弄び、獣へ変える程度の行いへ大仰な印を掲げるとは、随分と安っぽい選民意識だ」

 

 誰がこの紋章を作ったのかは、まだ分からない。

 組織の名も規模も目的も不明だったが、この印が施設を動かしていた者たちと無関係でないことだけは明らかだった。

 セリアは鞄から帳面を取り出し、円の大きさや内部の線、中心へ刻まれた歪な模様まで見落とさないよう、丁寧に書き写していく。

 

「王都へ戻れば、騎士団の資料と照合できます。この印が何を意味するのかは分かりませんが、重要な手掛かりになるはずです」

 

 ガルドは手の中の木彫りの人形を見下ろした。

 誰のものだったのかは分からず、持ち主が今も生きているのかも分からない。

 それでも、この血と埃にまみれた場所へ置き去りにすることだけはできなかった。

 

「この人形も持って帰る。村の誰かなら、持ち主を知ってるかもしれない」

 

 鞄から布を取り出し、壊れた人形を慎重に包む。

 

「そうですね。小さなものでも、誰かへ繋がる手掛かりになるかもしれません」

 

 書き写しを終えたセリアは帳面を閉じ、壁の紋章をもう一度見つめた。

 この施設で行われていた実験と、壁へ刻まれた印が無関係であるはずはない。

 この紋章を掲げる者たちこそが、人々を攫い、魔物を歪め、人間を材料として扱っていたのだろう。

 

「実験記録と術式、それにこの紋章の写しがあれば、騎士団も正式な調査へ動けるはずです」

「これだけ証拠が揃ってるんだ。言い逃れはできないだろ」

 

 ガルドも頷いた。

 ブラックは二人の会話へ関心を示さず、部屋のさらに奥、まだ見えていない壁の向こう側へ意識を向けていた。

 施設全体へ染み付いた魔力は濃いものの、その大半はすでに流れを失っている。

 ここへ残されているのは過去の残滓ばかりであり、強い臭気を放ちながらも、新たな動きはほとんど感じられなかった。

 ブラックは静かに目を細める。

 

「この場所は、すでに捨てられている」

 

 セリアとガルドが同時に振り返った。

 

「捨てられている?」

 

 ガルドの問いにブラックは冷ややかに答える。

 

「壁へ染み込んだ力も、床へ刻まれた術式も、すでに流れを失っている。貴様は腐った死骸から臭いが消えなければ、それを生きていると呼ぶのか」

「じゃあ、ここを使っていた奴らはもういないのか?」

「必要なものを持ち出し、失敗したものと消しきれなかった痕跡だけを置いて移ったのだろう。これほど狭く、術式も粗末な場所が中心であるはずがない。ここは人間を使い潰し、失敗した残骸を捨てるための末端に過ぎん」

 

 セリアの表情が強張った。

 

「……では、本拠地は別にあるのですね」

「貴様にも、ようやく理解できたか」

 

 ブラックの声音にはなんの迷いもなかった。

 

「ここで得た結果を持ち帰り、さらに実験を続けている場所がある。少なくとも、この穴蔵よりは規模も設備も整っているだろう」

 

 部屋の空気がさらに重くなる。

 ここで見つけたものだけでも十分に異常だった。何人もの人間が番号を与えられ、魔力を流し込まれ、壊れるまで使われている。

 それでも、この施設は中心ではなく、使い終えたものを捨てる場所に過ぎない。

 その事実が意味するものはあまりに大きかった。

 

「では、今もどこかで同じ実験が……」

 

 セリアは無意識に資料を抱える腕へ力を込める。

 

「同じとは限らん。ここで積み上げた失敗を利用し、さらに効率よく人間を壊している可能性もある」

 

 ブラックは淡々と訂正した。ガルドの表情が険しくなる。

 

「わざわざ、そんな言い方をする必要があるか?」

「事実を柔らかい言葉で包めば、犠牲になった者が戻るのか」

 

 ブラックはガルドへ冷たい視線を向ける。

 

「貴様らは現実が気に入らなければ呼び名を変え、見えなくなったつもりになる。何と呼ぼうと、そこで人間が壊されている事実は変わらん」

 

 ガルドは反論しかけたものの、結局言葉を飲み込んだ。彼の言い方は冷酷だったが、否定できる根拠はなかった。

 セリアは静かに息を吸い、揺らぎかけた気持ちを整える。

 

「急いで王都へ報告する必要があります。この資料を騎士団へ届け、他の施設についても調査しなければなりません」

 

 その声には焦りと明確な決意が宿っていた。ブラックは何も答えず、部屋の外へ向かって歩き始める。

 

「待てよ。もう戻るのか?」

 

 ガルドが呼びかけると、ブラックは足を止めずに言い放った。

 

「誰が、ここで終わりだと言った」

 

 冷たい声が、薄暗い廊下の奥へ響く。

 

「残滓しか残っていないとはいえ、この施設にはまだ消されていない気配がある」

 

 ブラックはさらに深い闇へ視線を向けた。

 

「人間共の稚拙な後始末が、どれほど醜いものか。神であるこの私が、最後まで見届けてやろう」

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