ブラックの背を追い、セリアとガルドは廊下の奥へ進んだ。
通路は少しずつ幅を狭め、天井も低くなっている。壁に残る魔石灯は大半が光を失い、割れずに残った幾つかが、濡れた石床を青白く照らしていた。
部屋ごとに入り混じっていた臭いが、今は一つの方向から流れてくる。
やがて、大きな石扉が行く手を塞いだ。人の背丈を大きく上回る扉には亀裂が走り、傾いた片側が床を削っている。
ガルドが足を止めた。
「……この奥だけは、開けた途端に何か出てきそうだな」
「察しがついたのなら、道を空けろ」
ブラックは歩調を緩めず、扉へ近づいた。
セリアは剣を構え直し、石の表面を確かめる。亀裂の縁が手前へ盛り上がり、隙間には黒く乾いたものがこびりついていた。
「中から、繰り返し叩かれたようです」
「ああ。出ようとした奴がいたんだろうな」
ガルドが答えたところで、ブラックは扉へ手を伸ばした。
「おい、待て。せめて仕掛けがないか確かめてから――」
「同じ忠告を何度繰り返すつもりだ」
横目でガルドを見た時には、その手はもう石に触れていた。
「私を案じる暇があるなら、貴様自身の身の置き所を考えておけ」
軽く肘を伸ばしただけに見えた。
次の瞬間、石を削る重い音が廊下を満たした。歪んだ蝶番が軋み、扉の下端が床へ深い溝を刻みながら、ゆっくりと内側へ押し開かれていく。天井から砂が降り、ガルドは半歩下がった。
「…………。忠告する方が馬鹿みたいだ」
「ようやく気づいたか」
ブラックは手を離し、開いた隙間へ身体を滑り込ませた。
冷気と一緒に肺へ入り込む薬品の臭いは、これまでの部屋より遥かに強い。
広い地下室だった。天井を支える太い柱の間に、大小のガラス容器が並んでいる。
人一人を立たせたまま収められそうな円筒もあれば、低い台に据えられた箱型のものもある。多くは割れ、流れ出した液体が床へ黒い筋を残していた。
その一つに、人の肩らしい輪郭が浮かんでいた。
「誰かいます」
ガラス越しに見えた腕は細く、液体の中で力なく垂れている。
顔は陰になって判別できない。胸も指先も動かなかった。
ガルドも隣に立ち、容器の上部に目を走らせる。
「ここを開ければ……」
「無駄だ。そこにはもう、命は残っていない」
ガルドの手が、容器に届く前に止まった。
「どなたも、ですか」
セリアの問いに、ブラックは他の容器へ一度目を向けた。
「形を保たせてあるだけだ」
床には、容器を据えていたと思われる丸い跡が幾つも残っていた。
壁際の棚も一部だけが空になり、重いものを運んだ車輪の跡が、破片の間を横切っている。
「運び出すものは選んだらしいな」
ブラックはその跡を辿るように目を動かした。
「残されたのは、連れていく必要のないものだけだ」
「人を、荷物みたいに……」
セリアはガラスから手を離した。指先が冷たい。
村で帰りを待たれている六人のうち、誰かがここにいるのだろうか。
隣の容器も覗き込んだが、濁った液体に顔が隠れている。
その時、ブラックが部屋の奥を見た。
「……一つだけ、捨て損なったものがあるか」
倒れた棚の向こうから、何かを引きずる音がした。
濡れた布を石へ擦りつけるような音。そこに硬いものが床を叩く音が重なる。
いったん止まったかと思えば、また近づいてくる。ガルドの耳がぴんと立った。
「セリア、下がれ」
短剣を構えながら前へ出る。セリアも容器から離れ、音のする方へ剣先を向けた。
奥の通路で、影が動いた。魔石灯の届く場所へ現れたそれを見て、ガルドは息を呑んだ。
かろうじて二本の脚で立っているものの、身体の左右で大きさが違う。異様に膨れた右腕が床近くまで垂れ、その先には長い爪が伸びていた。左肩から突き出した黒い骨が、歩くたびに壁を掠める。
裂けた口元から息が漏れ、濁った目が三人の間をゆっくりと動いていく。
その顔には、人だった頃の輪郭が僅かに残っていた。
「これも……実験で?」
「壁に刻まれていた術式の行き着く先だ。壊れるまで力を注ぎ込み、止めることもできずに放り出したのだろう」
異形の視線がブラックへ定まった。喉の奥で音が膨らみ、地下室を震わせる咆哮が響く。
巨体が前へ傾き、割れたガラスを蹴散らして突進してきた。
「ブラックさん!」
セリアが叫んだ時には、肥大した右腕が振り上げられていた。ガルドが横へ跳び、セリアも柱の脇に身を引く。
ブラックだけは、腕を組んだまま立っていた。
爪が頭上から落ちてくる。それは、彼の額に届く寸前で止まった。衝突音さえしない。
爪の先とブラックの間には僅かな隙間があり、そこから先には、何かに阻まれたように動かなかった。
異形は肩を押し込み、全身を震わせながら力を込める。だが、腕の位置は変わらない。
ガルドは着地した姿勢のまま、目を見開いていた。
「何も……してねえのに」
ブラックは爪の先を一瞥し、その向こうにある濁った目へ視線を移した。
「その程度の力を得るために、人の形まで失ったか」
異形が再び吠え、もう一方の腕を持ち上げる。
「騒ぐな」
その一言に、部屋の空気が沈んだ。セリアは突然肩へかかった重みに足を踏ん張る。
異形の巨体が真下へ引き落とされ、轟音と共に石床が砕けた。異形は床に伏したまま腕を突っ張ったが、身体を持ち上げることができない。長い爪だけが石を掻き、甲高い音を立てている。
ブラックは組んでいた腕を解いた。
足元の破片を気にすることもなく近づき、もがく異形を見下ろす。
「何をされたのかも、己が何であったのかも分からぬままか」
濁った目が彼を捉えた。異形は顎を上げようとして、また床へ押し戻される。
ブラックは右手を上げた。セリアの剣先が、ゆっくりと下がった。
「もうよい。消えろ」
差し向けられた指が、僅かに動いた。
異形の身体を押さえていた力が、今度は周囲から狭まっていく。巨体の輪郭が歪み、声を上げる間もなく、その内側へ呑み込まれていった。
一瞬で、そこには何もなくなった。
砕けた床の上を黒紫色の靄が漂い、それもやがて消えた。爪の音だけが耳に残り、ガルドはしばらく短剣を下ろせなかった。
「……あっさり片づけやがって。あれ、俺たちだけなら無事じゃ済まなかったぞ」
「見れば分かる」
「だったら、もう少し何か……」
ブラックが振り向いた。
「貴様らに手を焼かせるものが、私の相手になるとは限らん」
ガルドは口を閉じた。セリアは異形のいた場所へ近づいた。爪が残した傷が何本も重なり、石の表面を深く削っている。
「……元は、人間だったのですね」
「その形を残していただけだがな」
あの姿で、どれほど長くこの地下を彷徨っていたのだろうか。
「戻すことは……できなかったのでしょうか」
「意思も理性も、すでに失われていた。あれを生かしておけば、いずれ貴様へ礼でも述べると思ったか」
セリアは柄を握り締めた。
「……申し訳、ありません」
「何を詫びている」
「私は……」
顔を上げたものの、その先を口にできなかった。
「謝りさえすれば、務めを果たせた気になるか。便利な良心だな」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
ガルドが一歩近づいたが、ブラックはすでに背を向けていた。
「ならば聞くな。悼むなり、詫びるなり、好きにすればよい。私は付き合わん」
倒れた棚の向こうへ進み、半ば崩れた壁の隙間へ目を向ける。その奥には、人が通れるほどの細い通路が続いていた。
セリアは一度だけ息を整え、剣を持ち直した。ガルドも床へ残った爪痕を振り返り、後に続く。
◇
通路に入ると、臭気は急に薄くなった。
地下室からそれほど離れていないのに、鼻に届くのは濡れた石の匂いばかりだった。
「ここだけ、妙に綺麗だな」
「撤収の際に、何か処理をしたのかもしれません」
セリアは壁際に目を配った。足跡は残っていたが、これまでのような液体の染みや、引きずられた血の跡は見当たらない。
通路はほどなく、小さな円形の部屋へ出た。
床のほぼ全体を魔法陣が占めている。幾重にも重なる円の内側に文字が刻まれていたが、中央から外周へかけて焼け焦げ、細い溝はところどころ崩れていた。
セリアは入口近くで膝をついた。
「転移陣です。かなり損傷していますが、この配列なら……」
焼け残った線を辿り、途中で目を止める。
「……だめですね。行き先に関わる部分まで壊されています。これでは、どこへ繋がっていたのか分かりません」
「用が済んだ後で焼いたのだろう」
「それなら、ここにいた連中は全員これで逃げたのか?」
ブラックの視線が部屋の奥へ動いた。
「全員ではない」
「そこまでお分かりになるとは」
壁際から誰かの声がした。セリアは立ち上がり、ガルドと共に武器を向けた。
奥の窪みから、一人の男が姿を現した。黒いローブの裾が床を擦り、深く被ったフードの下には、口元だけが見えている。
男は剣先を気にした様子もなく三人を見渡し、最後にブラックのところで視線を止めた。
「報告にあった、予定にない人物……あなたでしたか」
ブラックは答えない。ガルドが短剣を向けたまま問いただす。
「何者だ? ここで何をしてる」
「この施設の管理を任されていました。今は、残された仕事を片づけているところです」
「管理者……。では、ここで何が行われていたのかも、ご存じなのですね」
「もちろんです。私が記録をまとめていましたから」
男はセリアに顔を向けて、続ける。
「ただ、ここでの作業は終わっています。必要な資料と成果の移送も済みました。あなた方が見つけられたのは、失敗例ばかりでしょう」
ガルドの耳が後ろに伏せられた。
「失敗例、だと?」
「融合に耐えられなかったもの。それを経過を観察するのも、この施設の役目です」
「村から連れてこられた人たちを、そう呼んでいるのですか」
男は僅かに首を傾けた。
「ここでは被験体として扱います。出自によって記録の方法を変える理由はありません」
踏み出しかけたガルドの前に、セリアが腕を伸ばした。男へ向けた剣先は下げなかった。
「あなた方は何者です。人々を攫ってまで、何を成し遂げようとしているのですか」
「人間という種の、次を探っています」
男の口元が緩んだ。
「人は、あまりにも脆い。病に倒れ、飢えや寒さだけで命を落とす。なら、その身体を変えればいいのです。魔獣の強さを取り込めば、今まで耐えられなかったものにも耐えられるようになる。私たちは、その方法を確かめているのです」
「さっきのあれが、お前の言う強さかよ。まともに歩くこともできずに、あんな姿で閉じ込められてたんだぞ」
「すべてが成功するわけではありません」
「何人をああしたんだ!」
「人数までは覚えていません」
男は返事を待つようにガルドを見ていた。そこに、セリアが口を開いた。
「あなたにとって、人の命は何なのですか?」
「研究に必要な素材です」
ブラックの靴音がした。セリアの傍らを通り、男の前へ進み出る。
「よくもまあ、そこまで聞くに堪えぬ言葉を並べられるものだ」
男の笑みが僅かに止まった。
「……あなたも、この方々と同じお考えですか」
「私を、その者らと一括りにするな。同族を喰らい尽くして滅ぶのなら、それも人間に相応しい末路だろう」
セリアは彼の背を見た。ブラックは男から目を離さず、続けた。
「だが、壊すことしかできぬ無能を、進化という言葉で飾るな。耳が汚れる」
フードの陰から覗く顎に力が入った。
「あなたは、いったい何者なのですか」
「身の程を知らぬ問いだな」
床の小さな石片が震えた。欠けた術式の溝から砂が浮き、男のローブの裾をかすめて宙へ上がっていく。
「神を前にして、己に素性を尋ねる資格があると思うか」
「神……?」
「疑うのは構わん。もっとも、その目が何の役にも立たぬのなら、残しておく必要もなかろう」
浮いた石片の一つが、男の頬の横で砕けた。男は動かなかった。こめかみから伝った汗が顎へ落ちる。
「……失礼しました。少なくとも、私の知る人間の力ではありませんね」
「貴様の乏しい見識など、聞いてはおらん」
男は唇を結び、しばらくしてから胸元へ手を添えた。
「我々は、『黒曜の黎明』と名乗っています」
「黒曜の黎明……」
セリアはその名を繰り返した。
「古い人の形を越え、新たな生命の時代を迎えるための集まりです」
「立派な名をつければ、人攫いじゃなくなるとでも思ってるのか」
ガルドへ目を向け、男はわずかに息を吐いた。
「今の価値観では、理解し難いでしょう。しかし、変化には常に犠牲が伴います」
「犠牲にされる方々は、それを選んでいません。あなた方が一方的に奪ったのです。理想を語る前に、その事実に答えなさい」
男は少しだけ黙り、それから口元を上げた。
「選べる者ばかりではありませんよ。世界を動かすのは、選ぶだけの力を持つ者です。弱い者が望むものを並べたところで、それを実現できるわけではない」
低い笑い声に、男の視線がブラックへ戻った。
「強者が選ぶ、か」
「間違っていますか?」
「力もなく己の願いだけを叫ぶ者が、何一つ変えられぬことは確かだ」
男の表情が僅かに緩んだ。
「では、あなたなら――」
「それで、貴様はいつから強者になった?」
ブラックが一歩近づくと、男は反射的に足を引いた。
「抵抗できぬ者を縛り、借りた術式で肉を弄ぶ。それで、己が選ぶ側に立ったつもりか」
さらに一歩詰め、男の踵が壁際の石へ当たった。
「貴様の理屈に従うのなら、ここで貴様の未来を決めるのは私だな」
男の喉が動いた。
「素材に選択は不要なのだろう?」
セリアがブラックの横顔を見た時、男の右手がローブの内側へ動いた。
「手を出しなさい!」
剣を向け直した先で、黒い魔石が光った。握り込んだ指の隙間から、紫色の光が漏れている。
ブラックは動かなかった。
「それを使えば、私から逃れられると?」
「あなたに勝てるとは思っていません。ですが、このまま何も伝えずに終わるわけにはいかない」
男が魔石へ力を込めると、紫色の光が床へ落ちた。
焼けた魔法陣の一部に細い線が灯り、男の足元へ繋がっていく。失われた部分を魔石の光が補い、崩れた術式が狭い範囲で形を取り戻し始めた。
「まだ使えます! あの魔石が――」
「逃がすか!」
セリアが言い終えるより早く、ガルドが踏み込んだ。
短剣が男の右手へ迫る。その寸前、紫色の膜が二人の間に生まれ、刃を弾いた。
ガルドが体勢を戻す間に、セリアが横から斬りつける。剣が障壁へ食い込み、表面を亀裂が走った。
男の口元が苦しげに歪む。それでも魔石を離さず、足元へ視線を落とした。光の中で、ローブの裾が薄く透け始めている。
「もう一度だ、セリア!」
ガルドが短剣を構える。セリアも剣を引いた。障壁の亀裂を狙い、踏み出そうとした肩へ、手が置かれた。
強く掴まれてはいない。それなのに、身体は少しも前へ進まない。
「ブラックさん……?」
「そこまでだ」
「まだ、止められます!」
「止める必要がないと言っている」
ガルドが反対側から飛び出しかけたが、その身体も見えない力に押し返された。靴底が床を滑り、セリアの隣で踏みとどまる。
「何してるんだ! あいつ逃げるぞ!」
ブラックは答えない。転移陣の中で、男が顔を上げた。
「……見逃す、と?」
「許しを得たような顔をするな。貴様をここで消すより、使い道があると判断しただけだ」
男の身体を包む光が、膝から腰へ上がっていく。
「戻るのだろう。貴様に仕事を与えた人間のところへ」
「……ええ」
「ならば伝えろ。神の目の届かぬ場所など、どこにもないとな」
魔石の唸る音が高まった。男は瞬きもせず、ブラックを見ている。
「地下へ潜ろうと、群れの名を変えようと同じことだ。私が消すと決めた時には、貴様らの理想も研究も、共に終わる」
握られた魔石に細かなひびが入った。男の唇が動いたが、言葉にはならない。
「貴様らの掲げる夜明けとやらが、二度と光の差さぬ闇へ沈む瞬間を、怯えながら待つがよい」
魔石が砕けた。
紫色の光が一瞬だけ部屋を満たし、男の姿を呑み込んだ。直後、床を走っていた光が消え、焼け残っていた術式まで黒く崩れ落ちる。
肩から手が離れると、セリアはすぐに前へ出た。
「……どうして」
ガルドがブラックへ向き直った。
「あいつを捕まえれば、聞き出せたこともあっただろ」
「あの男が、すべてを知っているとでも思ったか」
「少なくとも、俺たちよりは知ってる!」
ブラックは焼けた転移陣へ目を落とした。
「末端の施設を預かる者だ。行き先さえ、あの石に決められていた」
「だからって、逃がす理由にはならないだろ」
「戻れば、巣の中が騒ぐ」
ガルドは呆れたように額を押さえた。
「お前のことを、報告させるためか」
「穴という穴を覗いて回るより、這い出してくるのを待つ方が手間も省ける」
「そのために、俺たちまで止めたのかよ」
セリアは魔石の消えた場所から顔を上げた。
「相手が証拠を消そうとすれば、捕らえられている方々が殺されるかもしれません」
「そうだな」
「分かっていて、行かせたのですか」
ブラックがセリアを見た。
「人間の救出が目的だと、一度でも言ったか」
セリアは剣の柄へ目を落とした。握り直しても、指は強張ったままだった。
「私には、見過ごすことはできません」
「ならば、貴様が動けばよい。王都へ戻り、騎士を集め、人間のために力を尽くせ」
「だからこそ、ここで一人でも捕らえる必要が――」
「私の行いを、貴様の務めに従わせようとするな」
声が低くなった。
「間に合わずに失うものがあれば、己の力のなさを恨め」
ガルドが口を開きかけると、セリアは小さく首を振った。剣を鞘へ戻す。
「村へ戻ります。王都へ報告を送り、すぐに調査を進めてもらわなければなりません」
「好きにしろ」
ブラックは円形の部屋を出ていった。セリアは焼けた魔法陣をもう一度見下ろし、ガルドと共に後を追った。
◇
施設の入口を抜けると、枝に残っていた雫がセリアの肩へ落ちた。
顔を上げた先には、灰色の空が細く見えている。森は相変わらず薄暗く、鳥の声も聞こえない。
セリアは濡れた葉と土の匂いを、ゆっくりと吸い込んだ。
ガルドは少し離れた木の傍らで、長く息を吐いた。
「……鼻に染みついたな。まだ、あの臭いがする」
耳を伏せたまま、顔を擦る。
セリアは遺跡を振り返った。蔦の垂れた入口も、崩れた石柱も、来た時と変わっていない。
「ここへ通じる道も報告しておきます。騎士団が来るまでは、村の方々に近づかないよう徹底してもらわなければ」
外套の内側へ手を添える。持ち出した資料は、きちんと収まっていた。
「残っている記録や遺体の確認も必要です。施設を封鎖して、調査できる者を送ってもらいます」
「分かってる。……できれば、次に入る時は空っぽになっててほしいけどな」
先に歩き出していたブラックが、振り返らずに言った。
「入りたくなければ、貴様だけ外で待っていればよい」
「少し愚痴っただけだろ。旅の連れに、それくらい聞いてくれてもいいじゃないか」
ブラックの足が止まった。
「連れ、だと?」
ゆっくりと目を向けられ、ガルドは肩をすくめた。
「そんな大層な意味で言ったんじゃない」
「ならば、言葉を選べ。貴様らを傍らに置いているのは、この世界で多少の役に立つからだ」
「……お前と話すと、本当に疲れる」
「離れることを禁じた覚えもないが」
ブラックは再び前を向いた。
ガルドはその背を睨んだが、言い返さなかった。短く息を吐き、鞄の位置を直す。
その手が、布に包んだ木彫りの人形に触れたところで止まった。
欠けた腕の感触が、布越しに伝わってきた。ガルドは黙って手を下ろし、歩き始めた。
三人は来た道を辿り、村へ向かった。
セリアは途中で何度も木々の配置を振り返った。枝分かれした道では足を止め、戻る方からも遺跡への道筋を確かめる。
外套の内側で、資料の角が胸に当たった。
村長に何から話せばよいのか。
考えかけたところで靴が泥に沈み、彼女は木の幹へ手をついた。
少し前を行くブラックの耳に、泥を踏む音が届いていた。
背後で足音が遅れたが、振り返らなかった。濡れた枝を避けると、木々の隙間から村へ続く坂道が見えた。
「黒曜の黎明……」
あの男は、最後に何か言おうとしていた。
今ごろは続きを喋れているだろうか。誰を前に、どんな顔で。
ブラックは低く笑い、ぬかるみを越えた。後ろからガルドに何か尋ねられたが、答える気にはならなかった。