1:まだ腐るには早すぎる
明け方から振り続ける雨は、まだ経験の浅い彼にとっては好都合だった。雨は五感を遮り、標的への接近を容易にした。
古びた漆喰から所々レンガが顔を出している壁に囲まれた薄暗い昼下がりの路地裏で、一人の青年が三人の剣を提げた男たちと対峙していた。十数歩の間合いを挟んで、互いが互いの出方をうかがっている。
派手な服装に身を包むリーダー格の男は腕や首の刺青が目立ち、その取り巻きの二人は粗野が人の形をしたような半裸の男たちだった。
対する青年は、全身を雨具で覆っており、シルエットから武装を知る事は出来ない。
対峙する三人には青年が戦士なのか魔術師なのか、その詳しい素性を推し測る事が出来なかったが、刺客である事だけは分かった。
リーダー格の男は交渉が決裂した事を瞬時に理解し、口を開いた。
「さて、刺客が送り込まれたという事は、交渉の余地は無いのか?」
「いえ、まだ交渉の余地はありますよ。だって俺の事なんて知らないでしょう?」
そう言いながら青年は雨具のフードを脱ぎ素顔を晒す。
目付きの悪い緑色の瞳が、垂れ下がった前髪の隙間から男達を見据えていた。
男たちは互いに顔を見合わせて軽く眉を動かし、無名の青年を小馬鹿にするような口調で言葉を投げかける。
「確かに……三流だな、見たことが無い。天下のカヴァロッティ商会も人員不足か?」
「そうですね。
「……あぁ!?」
男たちは自分たちも三流扱いに巻き込まれたのが余程気に障ったのか、声を荒げて怒りの感情でこめかみを痙攣させていた。
「骨壺の準備はできてんだろうなァ!」
リーダー格の男の啖呵を皮切りに取り巻きの二人は武器に手をかける――筈だった。二人が武器を握ることは無く、青年が投げたナイフが二人の首を的確に貫き、二人は血を流しながら崩れ落ちる。
男は青年が投げたナイフを見切る事は出来なかったが、投げた時に翻った雨具の下で、十数本のナイフが身を潜めている事は見逃さなかった。男は恐ろしく的確な脅威の飛び道具を警戒して、青年から大きく距離を取った。
青年は不用意に相手を刺激しないように最後の警告を口にする。
「不毛ですし、武器を抜かないで貰えるとありがたいのですが」
「お前が鞘になるって言うなら考えてやるよ」
「じゃあ……交渉決裂ですね」
雨はいつの間にか小降りなっていた。
崩れ落ちた取り巻きたちから流れ出た血がゆっくりと路地に広がりつつあった。
リーダー格の男は倒れ伏す仲間たちに目をやり、ゆっくりと視線を青年の方に合わせる。
男は引き下がれないと決意を固め、この場で勝負を決めるために名乗りを上げる。この時の男の表情はこの街に掃いて捨てるほど居るような悪党のそれでは無く、戦う覚悟を持った一人の男の表情へと変わっていた。
「ヴェルデ商会所属、ロレンツォ・アルバーノ」
「……カヴァロッティ商会所属、古市シノブ。異界人だ」
シノブとロレンツォの間に緊張が走る。
屋根の上では屍肉を狙うカラスが二人の行く末を眺めていた。そのカラスが鳴いた時、示し合わせたかのように二人は同時に動き出す。
ロレンツォは懐から短い魔術用の杖を取り出すが、シノブは既にナイフを投げつけており、杖は自ら吸い込まれるようにナイフに当たり、そのまま後方に弾かれて飛んで行く。
距離を取って尚、正確にナイフが投擲された事に驚きつつも、ロレンツォは冷静に次の一手を考える。
殺気を感じたカラスが飛ぼうとするのと同時に、彼は腰に提げた剣に手を向かわせるが――
シノブの眼が光り、落ちる雨粒よりも素早く動いて距離を詰め、鋭い足払いでロレンツォを宙に浮かせ、彼が地に落ちるよりも速く、勢いそのままに踵落としでその首をへし折った。
――ロレンツォは剣を握る前に地面に叩き付けられ、カラスが実際に飛び立てたのは彼が地に伏した後だった。
地に伏したロレンツォは、シノブへ向けた驚愕の表情を顔に貼り付けたまま、その場から動く事は無かった。
「ちゃんと埋葬はします、暫く野晒しなのは勘弁してください」
シノブは殺した相手たちを道の脇に丁寧に移動させ、詫びるようにそう言い残す。どこか不満げな表情をしながら、流れた血の匂いが漂う路地裏から足早に出て行った。
路地裏から出た時に見上げた空模様は、先ほどまで雨が降っていたとは思えない程晴れやかになっており、彼の心の空模様とは対照的であった。吹き抜ける潮風がシノブの髪を揺らし街の中を駆け巡る。この街でこのような出来事は日常に過ぎないのであった。
シノブは思う事は多くあったがそれに見合う言葉を見つけられず、結局口から出た言葉は単純であった。
「――――何だかなぁ」
◇◆◇◆◇◆
シノブは今回の仕事を報告するために、自身の所属する組織――カヴァロッティ商会――の所有するアジトの一つへと向かった。大通りからまた路地裏へ、時々後ろを警戒しながら旧市街の奥へと歩みを進める。
シノブは人の気配も無く誰も寄り付かないような、苔むした古くひび割れた壁が並ぶ細い路地を進んで行く。そして突き当りの建物の古ぼけた木のドアを開けると、身体を滑り込ませるように扉の奥へと音も無く姿を消した。
ドアの先には人の生活の痕跡はなく、ただかび臭い空間が広がっており、木の床や壁の所々にシミが出来ていた。その部屋の隅には、中身の無い食器棚の陰に隠れるように、獣人の少女が簡素なスツールに座って待っていた。
その黒髪の少女は襟足の外ハネが目立つショートカットで前髪だけが白く、大きな猫耳が目立つ猫系の獣人だった。彼女はしなやかな細身の体躯をしており、その鋭い瞳は薄い青色をしていた。
彼女は顔を上げてシノブの顔をみると、シノブに向けた人差し指を軽く動かして報告を促した。
「首尾は?」
「えー、あー、転がってる……かな」
「交渉は決裂したんだ」
「してた、が正しいかな。デュナの方で上手くしてくれてなかったのか?」
「はて?」
デュナと呼ばれた少女は、こてんと可愛らしく首を傾げてとぼける。
シノブは自分の同僚と教育係を兼任している、デュナの適当な仕事ぶりに頭を抱える事しか出来なかった。
デュナは別の生き物のように自在に動く自分の尻尾を見ながら、シノブの事を見透かすように言葉を続ける。
「どうせ挑発したんでしょ」
「いや、俺は自分からはしないぞ」
「いやいや、してるね」
「……さては仕事せずに見てたな?」
シノブはデュナに少し問い詰めるように聞くが、デュナはシノブの顔を少し見てから悪びれもせず肩をすくめるだけだった。しかしシノブの目線が誤魔化しきれなさそうなのを悟ると、話を逸らすように褒めだした。
「まぁでも、あの実力の三人を相手に怪我も無事に帰って来たのは、こっちにきて一か月の人間にしては上出来なんじゃない?」
「異界人の異能込みで、だけどな」
「殺しに躊躇が無くなってたじゃん。そこが大きいよ」
「……そう思うか?」
シノブは、自分が本当に殺しに躊躇が無かったと思っているのかと訴えるが、デュナの態度はあっけらかんとしていた。
「加速してる思考の中で葛藤されても、分かる訳ないじゃん」
「客観的には……そうだよな」
自分の心境を理解してもらえない事に暗い顔をするシノブに、デュナは特にシノブの様子を気にすることなく素朴な疑問を投げかける。
「前から思ってたけどさ、そこまでやりたくも無い仕事をしてまでお友達に拘る必要性ってある? 前の世界じゃこういう事はしてなかったし、今もやりたくないんでしょ?」
「ああ、したくないよ。でもな、この街に入った時に誓いあったんだ。いつか三人でデカい事をしようって。だから助けないと」
「……ふーん、そういうものなの?」
「俺にとってはな。俺がこの血濡れた道を進むには十分な理由なんだ」
そう言ってシノブは、今何をしているかは知らない二人の親友――金剛ケンタロウと道明寺イオリ――の事を頭に思い浮かべ、元気にやっているだろうかとその身を案じる。
そして、一カ月程前に三人揃ってこの世界に来た時の事を思い返していた。