思えば、最初に会った人物が婆さんで良かった。あの人との出会いが無ければ、このマリノヴァーレに来ていなかっただろうから。
まあ、こんな仕事をしなくて済んでいたかもしれないが……
「ルイスッ! 先に行きな! アンタが一人先に行く方が速い!」
婆さんはその老体から出るとは思えないような声量で従者の一人に先に行くように命じ、命じられたルイスさんは馬を全速力で走らせた。
婆さんは先程の叫ぶような指示とは違い、心配するような声色で独り言のように呟き始めた。
「確か……この先に浅瀬の道がある、さっきの連中かもしれないねぇ」
「……いったいこの先に何が?」
「だいぶ駆逐されたとはいえ、世界にはまだまだ怪物が多いのさ」
つい先ほど会話をした相手が危険な状態かもしれないと聞いて、背筋が凍るような、元の世界ではあまり感じた事がない感覚が襲ってくる。
カーブを曲がると点在する木々の間から、三、四メートル程度の巨人のような姿が見え、続いて先に向かった従者のルイスさんが戦っている光景が見える。
川の近くで馬車が止まった瞬間、ケンタロウが吹き飛ばすような勢いでドアを開けて飛び出した。
「ケンタロウッ! 待ちなッ! 危ないよ!」
ケンタロウは婆さんの制止の声を聞かずに、雄たけびを上げながら一直線に向かっていく。途中に突き出ていた錆付いた剣の柄を持つと、力任せに引き抜いた。
そのあまりにも長大で人が持つにはあまりにも大きい筈の剣を、一度肩に担ぎ上げると、ハンマー投げの要領で泥の巨人のような何かに向けて振り投げた。
そのケンタロウが放った一擲は泥の巨人に当たり、巨人の上半身はものの見事に弾け飛んだ。
「やったか!?」
と、ついついその場に居たほぼ全員が口を揃えて言った時、ケンタロウだけが苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべながら呟く。
「いや……やってないな」
ケンタロウの言う通りで、泥の巨人は崩れて沈んでいったように見えたが、周囲の泥を集めてさっきの倍以上に大きくなってゆく。
泥の中に一体どれ程の武具が埋没していたのだろうか、巨人の身体は泥の中から引きずり出した防具を、身を守る鎧として纏っていく。
先程までとは違い泥の巨人というよりも巨大な泥の騎士と言った方が適切だと思った。
泥の騎士は先程ケンタロウが投げた長大な剣を武器にして再び暴れ始める。
重量を増した巨躯から放たれる一撃一撃が大地を振動させ、近くにいたルイスさんは、回避に専念することで手一杯なようだった。
「クソッ……もしや不死者の類か!」
ルイスさんが悪態をつきながらも手にしたメイスを一撫ですると、メイスが紫の炎に包まれる。
「いや、まだだ。俺にもまだ何か出来る事はある筈だ!」
ケンタロウはまだ諦めずに勝てる算段を探していた。
「まさか……これ程とはねぇ」
婆さんも敵の強大さを前にしてもなお、涼し気な表情を崩さない。むしろ微笑んでいるようにさえ見える。
そして手にした杖の持ち手に手をかけると、杖に仕込まれた白銀の刃が姿を現した。
俺は恐怖のあまり一歩後退り、踵に当たった硬い物を確認する。骨だ。
「……俺にできる事は、何も無いのか……?」
俺が未だ戦意を失わない皆の反応を見て無力感に打ちひしがれていたその時、後ろから足音が近づいてくる。
「――ユーゲン・ユーゲン・ゴッズ・ゴー……ノストラダムス。――カイザー……スイザー――」
イオリが珍妙な言葉を羅列しながら、とても香ばしいポーズを決めながら一歩ずつ前へと進んで行く。すれ違うその時にイオリから凄まじいパワーの流れを感じた。何なんだ一体?
「ハァーーッ!」
イオリはそう叫ぶと両手を上げた状態で、頭上に巨大な青白い玉を出現させた。この膨大なエネルギーの塊をイオリが創り出したというのか――
泥の騎士はイオリの溢れ出るパワーを脅威と感じたのか、ルイスさんを無視してイオリの方に――つまり俺たちの方に向かってきた。
そう皆がイオリに注目していた時に、俺は視界の端に泥の中で蠢く何かを発見した。
よく見るとそれは人の形をしており、まだ小さい子供のように見えた。
「あっ、人が――」
「――このイオリに抜かりはない、案ずるな。フォーカスポーカス、アブラカタブラ……!」
イオリは俺の言葉を聞いて、巨大だった青白い玉を手元で圧縮し手のひらサイズにまで縮小させた。それはガラス球に閉じ込められた宇宙のようだった。
ルイスさんがイオリの玉から異様な気配を感じ取ったのか、後ろで庇っていた人を持ち上げて泥の騎士から離れる。
俺も見えた子供の下に向かって走って行く。泥に足を足られる事も無く今までで一番速く走った。
子供を泥の中から引き上げて異様な気配がした方を見上げると、すぐ目の前を泥の騎士が通り過ぎて行く。どうやら余程イオリを脅威と感じているのか、俺たちのような雑魚には微塵も興味が無い様子だった。
「備えろよシノブ。我が名はイオリ、道明寺イオリ! ……泥濘に潜む魔物よ、これにて――フィナーレだ」
イオリはそう言って
イオリがナイトキャップを脱ぎ去ると、中から無駄にサラサラなロングヘア―が現れて、そよ風が軽くその髪を揺らした。
俺は震える子供の手を強く握りしめて背中をさする。
そうしていると先程馬車に乗っていた恰幅の良い男性が走って来て、俺と子供を抱き寄せる。
「本っ当によかった! 無事でよかった! ありがとう……ありがとう……」
彼は心の底から安堵しているのか、顔を歪ませながら涙を流し、感謝の言葉を述べ続ける。
きっとこの二人は親子だったのだろう。俺自身は何も出来なかったけれど、二人共無事で本当によかった。
そしてもう一人、泥だらけの女性が泥に足を取られながら走って来る。
「ベン! ベン! 無事なのね! 貴方も無事で良かったわ、アーロン」
女性は俺たちのもとに駆け寄るや否や、俺も含めた三人を抱きしめて涙を流す。きっとこの三人は家族だったのだろう。――俺はこの仲睦まじい一家のことを少し羨ましく感じた。
「あなた方のおかげで一家三人共無事でした。本当にありがとう……。この御恩は一生忘れません」
「いえ、自分は何も出来ませんでしたし、感謝はあそこのイオリに――」
「そんな! 私は見ておりましたわ、貴方が息子を庇ってくれていたところを」
一家の感謝を受け取るべきは、実際に泥の騎士を倒したイオリだと思ってそう口にしたが、俺にも感謝される理由があったらしい。
小恥ずかしくなった俺は耳たぶを少し掻いて、謙遜を口にすることしかできなかった。
「いや、俺なんか。元の世界でも大した人間じゃ無かったですし――」
そう言った時にハッと思い出した。婆さんがこの世界には異界人を良く思わない人たちがごまんといると言っていた事を。
俺はまずいと思ったが、それは杞憂だった。
「――あなた方がどのような経緯でこの世界に来たのか、どのような力があるのかは存じませんが、私たちを助けて下さったことは事実です。そのような人たちを邪険にするなど、とても私どもには出来ませんよ」
「ええ。それに、貴方は自分を卑下してはダメよ。本当の勇気を持っている人だけが、咄嗟に動けるのだから」
「……あ、ありが……とう……!」
その言葉に俺は婆さんが言っていたもう一つの事、何者かよりも何が出来るかが重要という事の一端を理解したような気がして、心の奥底から温かいものが込み上げてくるのを感じた。
ようやく話が出来るような落ち着きを取り戻したベン君の背中を、俺はもう一度優しくさすった。
「全員無事だね? 動けるものは一家に手を貸してやりな! 村までもう少しだから行くよ!」
婆さんはてきぱきと指示を飛ばしており、場慣れしていると感じた。
俺とケンタロウ、イオリの三人、婆さんとその従者の二人、そして三人の一家の全員の無事を確認した所で、男性が口を開いた。
「皆様、先程は本当に危ない所を助けて下さってありがとうございました。私はアーロン・クールベと言います。妻はベロニカ、息子はベンジャミンと言います」
そう言って軽く頭を下げると、ベロニカさんとベン君もそれに続く。
俺たちはこの尊い一家を助ける事が出来たらしい。
婆さんとクールベさん一家は婆さんの馬車の中に入り、俺たちは歩いて移動する事になった。
歩いているとイオリが話しかけてきた。
「どうだったよシノブ、このイオリ様の華麗なる異世界デビューを。誰一人被害を出さずにそして完璧に怪物を討伐したのを」
「ああ、一番近くで見てたよ。どういう原理か分からないしどうなったのかも分からなかったけど」
「あれか、あれは何処か別の場所へ飛ばしただけさ」
「はぁ? 何処に?」
「さぁな。俺は雰囲気で魔法を使っているからな」
魔法って雰囲気で使えるものなのだろうか?
「俺にもできるかな?」
「できるさ」
イオリに乗せられて指パッチンで火を出せるか試したけれど、何も起きずただいい音で指が鳴っただけで、イオリに鼻で笑われた。この野郎……
「悪いなシノブ。この万能魔法は俺専用だったみたいだ」
「じゃあ俺も難しいのか?」
ケンタロウも俺と同じ様に指パッチンをするが、銃声のような破裂音が指から放たれるだけで何も起きなかった。何て治安の悪い指先なんだ。
「そこまでいったら、摩擦で物理的に火が付きそうだな」
「もうちょっと頑張ってみるか」
「うるさいからやめろ」
二人は明らかに元の世界とは違って何らかの力に目覚めている様子だった。
何も無い俺は、歩いて指パッチンを続けながら今回の反省点を探し始める。
ベロニカさんには自分を卑下するなと言われたが、先を歩く二人を見ていると、自分がやったことの小ささをヒシヒシと感じる。
思い返せば、俺はベン君を庇っていただけだ。それも、イオリが周囲への被害を抑える攻撃にした結果、庇う必要性すら無かったように思える。
もっと自分に出来た事はないか? 俺は二人と違って何も出来ていなくないか? そもそも俺だけ何か特殊な能力のようなものってないんじゃ……そうだったらこの先どうなってしまうのか。
頭の中で悶々とこれからについて考えていたら、目の前に村らしきものが見えてきた。
……ああ、俺にも出来る事って何なんだろう……