幕間 将の五危
野盗討伐から数日後。
黒川館の庭には、朝の澄んだ空気が流れていた。
新九郎は一人、木刀を振っていた。
何度振っても、あの日の感触だけは消えない。
刀を受けた重み。
肉を断った感触。
倒れ伏した野盗の姿。
(俺は、人を斬った)
領民を守るため。
そう分かっていても、胸の奥には重いものが残っていた。
その時だった。
「新九郎」
宗久が静かに庭へ姿を現した。
「父上」
新九郎は木刀を下ろし、一礼する。
宗久はしばらく息子を見つめると、縁側へ腰を下ろした。
「こちらへ来い」
「はい」
新九郎も父の前へ座る。
しばらく沈黙が続いた。
やがて宗久が静かに口を開く。
「まだ迷っておるな」
新九郎は少しだけ目を伏せた。
「……はい」
「あの日から、あの男の顔が頭から離れません」
「眠ろうとしても思い出します」
宗久は静かに頷いた。
「それでよい」
「何も感じぬ者では、将にはなれぬ」
風が庭木を揺らす。
宗久は遠くを見つめながら続けた。
「今日は、お前に兵法を一つ教える」
「将には五つの危うさがある」
「孫子の言葉だ」
新九郎は背筋を伸ばした。
「将の五危……」
「第一」
「必死」
「死を恐れぬ者だ」
「勇敢に聞こえる」
「だが、そのような将は無謀な戦を選ぶ」
「将が討たれれば、兵も領民も家族も路頭に迷う」
新九郎は静かに頷いた。
「将の命は、自分だけのものではないのですね」
「その通りだ」
「第二」
「必生」
「生きることばかり考える者だ」
「命を惜しみ過ぎれば、戦うべき時にも退く」
「兵は、そのような将へ命を預けようとはせぬ」
「死を恐れず」
「されど死に急がず」
「その間を歩くのが将だ」
「第三」
「忿速」
「短気な者」
「怒りに任せれば敵の策へ飛び込む」
「挑発に乗る将ほど扱いやすい者はない」
宗久の声は穏やかだった。
「怒りは剣より鋭く己を傷つける」
「忘れるな」
「はい」
「第四」
「廉潔」
新九郎は少し首を傾げた。
「廉潔……」
「誉ればかり求め、少しの恥も嫌う者だ」
「時には退くことも」
「頭を下げることも」
「民を守るためなら必要になる」
「見栄を守って国を失えば、本末転倒よ」
新九郎は宗久の言葉を一つ一つ噛み締めた。
「そして第五」
「愛民」
新九郎は驚いたように顔を上げる。
「民を愛することも危ういのですか」
宗久は静かに頷いた。
「民を思うことは将として当然だ」
「だが、情だけで物事を決めれば、多くを救うために少数を切り捨てる決断ができぬ」
「将は時に、苦しい決断を下さねばならん」
「その重みから逃げることは許されぬ」
宗久は新九郎を真っ直ぐ見つめた。
「あの日、お前は人を斬った」
「あれは領民を守るために必要な一太刀だった」
「だが、それだけで満足してはならぬ」
「将とは、人を斬る者ではない」
「人を生かすために、時として人を斬る者だ」
新九郎は深く頭を下げた。
「……肝に銘じます」
宗久は息子の肩へ静かに手を置いた。
「昔、お前へ話したことを覚えておるか」
「家が残らねば、民は守れぬ」
「はい」
「そして民がいなければ、家もまた存在できぬ」
「将とは、その両方を背負う者なのだ」
新九郎は力強く頷いた。
野盗との戦で知った乱世。
そして今日、父から教わった将としての覚悟。
その教えは、生涯忘れることのない重みとなって、新九郎の胸へ静かに刻まれた。