第二十話 商いと策謀
永禄六年(一五六三年)春。
椎茸の収穫を終えた黒川領では、干し椎茸づくりが本格的に始まっていた。
館の裏では庄吉たちが椎茸を並べ、春の柔らかな陽射しと風に当てて丁寧に乾燥させている。
一方、養蜂場では冬を越えた蜂たちが花々を渡り、巣箱の周りを忙しなく飛び交っていた。
領内には、少しずつではあるが新しい活気が生まれ始めていた。
秋の調練を終えてからというもの、宗久は狩猟の際にも新九郎へ小隊の指揮を任せるようになっていた。
獣を追う者。
谷へ回る者。
退路を塞ぐ者。
兵をどう動かせば無駄なく獲物を仕留められるか。
狩りは戦とは異なる。
だが、人を率いるという点では同じだった。
新九郎は一度一度の狩猟を通じて、将としての経験を静かに積み重ねていた。
◇
その日。
山田市兵衛が再び黒川館を訪れた。
書院へ通された市兵衛は、宗久と新九郎へ深く頭を下げる。
「宗久様、若様」
「京と堺より戻ってまいりました」
宗久は静かに頷いた。
「どうであった」
市兵衛は嬉しそうに木箱を開く。
中には、黒川領で作られた干し椎茸が整然と並んでいた。
「京の商人方も、堺の商人方も大変驚いておられました」
「この品質なら十分売り物になる、と」
「試しではございますが、すでに注文も頂いております」
宗久は思わず目を細めた。
「もう売れたのか」
「はい」
「量はまだ少のうございます」
「ですが、品質の良い品は必ず次へ繋がります」
◇
市兵衛は干し椎茸を一つ摘まみながら続けた。
「若様のお考えには、いつも驚かされます」
「普通は収穫ができれば満足するもの」
「ですが若様は、その先――どう売るか、どう利益を生むかまで考えておられる」
新九郎は穏やかに微笑んだ。
「父上から何度も教わりました」
「武だけでは領は豊かになりません」
「民が働き、商いが栄えてこそ国は強くなる」
「私は、その言葉を忘れぬよう心掛けているだけです」
宗久は静かに息子を見つめた。
「……よく覚えていたな」
「はい」
「兵を育てるにも銭が要ります」
「領民が安心して暮らせてこそ、人も集まります」
「そして商いが栄えれば、さらに領は豊かになります」
「すべて繋がっているのだと思います」
宗久は満足そうに頷いた。
「その通りだ」
◇
市兵衛はさらに書状を差し出した。
「もう一つ、ご報告がございます」
「尾張の商人からも取り引きの申し出がございました」
「黒川領を通る荷も、以前より増えております」
宗久は兵庫へ視線を向ける。
「街道はどうだ」
兵庫は即座に答えた。
「見回りを増やして以来、野盗の姿は見ておりませぬ」
「商人も安心して往来しております」
宗久は静かに頷いた。
「ならば良い」
◇
市兵衛が帰った後。
宗久は庭先で干し椎茸が並ぶ様子を眺めながら、小さく呟いた。
「黒川も少しずつ変わってきたな」
新九郎も同じ景色を見つめる。
養蜂。
椎茸。
商人の往来。
どれも小さな変化だった。
だが、その一つ一つが黒川領の力となっている。
(戦だけでは国は栄えない)
(民が豊かになり、商いが栄え、その上で武がある)
その積み重ねこそが、乱世を生き抜く国を作る。
新九郎は静かに拳を握った。
だが、その頃――。
美濃では、黒川領とは対照的に、不穏な空気がゆっくりと広がり始めていた。
◇
美濃と尾張を行き来する商人たちの間では、こんな話が交わされていた。
宿場の茶屋。
荷を運び終えた商人たちが、一息つきながら湯飲みを傾ける。
「なあ、聞いたか?」
「最近、尾張境の国人衆の中に、織田へ近づいてる奴がいるらしいぞ」
「へぇ、本当か?」
「まだ表立ってって話じゃねえ」
「でも、信長ってのは商人の扱いが上手いらしい」
「道は安全になったし、荷を奪われる心配も減ったって話だ」
別の商人も頷く。
「商いするなら、安全な道が一番だからな」
「尾張へ行く商人も、前よりずいぶん増えた」
「なるほどなぁ」
「そりゃ国人連中だって気になるわけだ」
「人も銭も尾張へ流れりゃ、放っとけねえもんな」
商人たちは世間話のつもりで口にしていた。
だが、その噂は荷とともに街道を渡り、美濃各地へ広がっていく。
「織田へ近づく国人がいるらしい」
そんな話が、やがて国人たちの耳にも届き始めていた。
◇
同じ頃――。
稲葉山城。
評定の間には、美濃国主・斎藤龍興と重臣たちが集まっていた。
家臣の一人が静かに口を開く。
「殿」
「尾張では織田信長が勢いを増しております」
「国境の国人の中には、織田と通じているとの噂もございます」
龍興は不機嫌そうに扇を閉じた。
「噂に振り回される必要はない」
「美濃は父祖の代より守り続けてきた国だ」
「尾張の成り上がりなど恐れるに足らぬ」
重臣たちは互いに顔を見合わせる。
やがて、稲葉一鉄が一歩前へ進み出た。
「殿」
「信長を侮るべきではございませぬ」
「桶狭間にて今川義元を討ち、尾張をまとめ上げつつあります」
「今のうちより備えを固め、国人衆との結び付きを強めるべきかと存じます」
龍興は眉をひそめた。
「一鉄」
「そなたまで臆したことを申すか」
「美濃の兵は尾張などに劣りはせぬ」
「案ずるには及ばぬ」
広間は静まり返る。
一鉄はそれ以上言葉を続けなかった。
言っても聞き入れられないことを悟ったからである。
◇
評定が終わり、重臣たちは廊下へ出た。
安藤守就が小さく息を吐く。
「殿は、まだ信長を軽く見ておられる」
氏家卜全も腕を組んだ。
「戦だけではない」
「信長は人も金も集め始めている」
稲葉一鉄は遠く尾張の方角を見つめながら静かに言う。
「今、美濃が一つにならねばならぬ時なのだが……」
誰も答えなかった。
重臣たちの胸には、言いようのない不安だけが残っていた。
◇
一方、美濃各地の国人たちも、それぞれの館で静かに情勢を見極めていた。
ある国人が家老へ問い掛ける。
「尾張では、織田がさらに力を増しておるそうだな」
「はっ」
「境目の国人の中には、織田方へ近づく者もいるとの噂にございます」
男は静かに目を閉じた。
「……我ら国人にとって最も大切なのは、一族と領地を守ることだ」
「主家が傾けば、それに殉じて家まで滅ぼすわけにはいかぬ」
家老も重々しく頷く。
「その通りにございます」
「されど、今はまだ斎藤家への忠義を尽くす時」
「軽々しく動けば、かえって家を危うくいたします」
男はゆっくりと立ち上がり、尾張の方角へ目を向けた。
「時勢を見誤るな」
「家を残すためには、戦だけではなく、いつ動くべきかを見極めねばならぬ」
同じような会話は、美濃各地の国人の館でも交わされていた。
まだ誰も動かない。
しかし、それぞれが己の家を守るため、静かに乱世の行方を見定め始めていた。
◇
その数日後。
黒川館。
兵庫が一通の書状を手に書院へ入った。
「宗久様」
「美濃各地で、尾張に関する妙な噂が広がっております」
宗久は書状を受け取り、静かに目を通す。
「……国人が織田へ近づいている、か」
兵庫は頷いた。
「真偽は定かではございませぬ」
「ですが、街道を行き交う商人の間では、かなり広まっているようにございます」
宗久は書状を畳むと、新九郎へ目を向けた。
「新九郎」
「はい、父上」
「このような話をどう見る」
新九郎は少し考え、静かに答えた。
「噂そのものより、噂が広まっていることが気になります」
「何も無ければ、人はここまで同じ話を口にはいたしません」
「商人も国人も、皆が時勢を気にし始めているのでしょう」
宗久は腕を組んだ。
「ふむ……」
新九郎は地図へ目を落としながら続ける。
「商人たちの話では、織田信長様は戦だけではなく、人や商人を味方につけることにも長けた御方だと申します」
「もし、この噂が意図して広められたものだとすれば――」
「美濃の国人同士に疑いを生じさせることが目的なのかもしれません」
兵庫は思わず息を呑んだ。
「噂そのものを戦に使う、と」
「はい」
「誰一人寝返っていなくとも、『誰かが織田へ付くかもしれない』と思わせるだけで、人は互いを疑います」
「疑いは結束を弱めます」
「そして、まとまれぬ国は攻めやすくなります」
書院は静まり返った。
宗久はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷く。
「信長……」
「戦だけではなく、人の心まで読む男というわけか」
新九郎は静かに頭を下げた。
「まだ推測に過ぎません」
「ですが、その可能性も考えて備えるべきかと存じます」
◇
その頃――。
尾張・清洲城。
書院には織田信長と数名の近習が集まっていた。
一人の家臣が静かに頭を下げる。
「殿」
「商人たちへの手配は済みました」
「美濃へ向かう者たちには、例の話をそれとなく伝えております」
信長は杯を手にしたまま、小さく笑った。
「そうか」
「人の口ほど、よく働くものはねぇ」
家臣が顔を上げる。
「『尾張境の国人が織田へ近づいている』との噂にございます」
「商人同士で話が広まり始めました」
信長はゆっくりと立ち上がり、美濃の方角を眺めた。
「噂ってぇのは面白ぇ」
「一人が話せば二人へ」
「二人が話せば十人へ」
「そのうち、誰もが本当だと思い始める」
家臣は静かに頷く。
「ですが、実際にはまだ誰一人として織田へ付いてはおりませぬ」
信長は不敵な笑みを浮かべた。
「それで十分だ」
「大事なのは、本当かどうかじゃねぇ」
「そうかもしれねぇ、と相手に思わせることだ」
「国人ってぇのは、自分の家が一番大事だからな」
「隣が織田へ付くらしいと聞けば、不安になる」
「不安は疑いを生み、疑いは国を弱くする」
信長は美濃の地図へ指を滑らせる。
「龍興がその火を消せなけりゃ、美濃は内側から崩れる」
「俺たちゃ、その時を待てばいい」
家臣たちは深く頭を下げた。
「はっ」
信長は静かに笑う。
「戦は槍や鉄砲を交える前から始まってる」
「人の心を動かした方が勝つんだ」
その噂は商人の荷とともに街道を渡り、美濃中へ広がっていく。
まだ誰一人として織田へ寝返ってはいない。
だが、「誰かが織田へ付くらしい」という疑念だけが、人々の胸に静かに根を下ろし始めていた。