第二十一話 揺らぐ主従
永禄六年(一五六三年)初夏。
田植えを終えた黒川領では、青々とした苗が風に揺れ、領民たちは田の草取りや水の管理に追われていた。
裏山では蜜蜂が花々を飛び回り、椎茸の原木にも新たな菌が静かに根付き始めている。
戦乱の世とは思えぬほど、黒川領には穏やかな日々が流れていた。
◇
その日。
宗久は三十名ほどの足軽を率い、山へ入っていた。
目的は狩猟である。
しかし宗久にとって、それは獣を仕留めるためだけではなかった。
兵を率いる者を育てる場でもある。
「新九郎」
「はい、父上」
「今日もお前が指揮を執れ」
「承知いたしました」
新九郎は兵たちの前へ進み、周囲の山を見渡した。
尾根の高さ。
谷の深さ。
風向き。
獣道。
すべてを静かに観察する。
「第一隊は谷へ」
「第二隊は尾根を回ってください」
「第三隊は私と共に正面から進みます」
「はっ!」
三十名の足軽は命令に従い、それぞれ持ち場へ散っていく。
やがて谷から鹿が飛び出した。
「今です!」
新九郎の声とともに弓が放たれる。
驚いた鹿は尾根へ逃れようとするが、そこには第二隊が待ち構えていた。
退路を失った鹿は方向を変え、最後は槍隊に囲まれる。
無駄な動きは一つもない。
狩りは短時間で終わった。
宗久は静かに頷く。
「良い采配だ」
「兵を走らせ過ぎておらぬ」
「ありがとうございます」
宗久は獲物ではなく、新九郎を見て言った。
「兵を率いる者は、自ら一番槍を競う必要はない」
「兵が力を発揮できる場を作ることこそ、将の務めだ」
「はい」
新九郎は深く頭を下げた。
その教えを胸へ刻みながら、静かに槍を納めた。
◇
数日後。
黒川館へ一騎の使者が駆け込んできた。
「稲葉山城より使者にございます!」
書院へ通された使者は、宗久へ恭しく書状を差し出した。
「龍興様よりのお召しにございます」
宗久は封を切り、静かに目を通す。
やがて新九郎へ視線を向けた。
「新九郎」
「はい」
「評定のため、国人衆を稲葉山城へ集めるそうだ」
新九郎は静かに頷く。
「やはり、あの噂でしょうか」
宗久も書状を畳みながら答えた。
「おそらくな」
「近頃、美濃中で尾張の話ばかり聞く」
「殿も放ってはおけぬのであろう」
宗久は少し考えた後、口を開いた。
「今回は、お前も同行せよ」
「私も、ですか」
「うむ」
「家を継ぐ者ならば、戦だけではなく評定も見ておかねばならぬ」
「国人たちが何を考え、何を語るのか」
「それを自分の目で見よ」
「承知いたしました」
◇
三日後。
宗久と新九郎は稲葉山城へ向けて馬を進めていた。
街道には同じように登城する国人衆の姿が見える。
やがて安藤家をはじめ、近隣の国人たちと合流した。
「宗久殿」
「これは」
互いに挨拶を交わす。
だが、以前のような和やかさはない。
誰もがどこか口数少なく、相手の様子を窺っているようだった。
しばらく進んだ頃、一人の国人がぽつりと口を開いた。
「最近は、どこへ行っても尾張の話ばかりだな」
隣を歩く男が苦笑する。
「商人というものは、噂話が好きだからな」
「いや」
「今回は、商人だけではあるまい」
別の国人が静かに言う。
「村でも聞いた」
「織田へ近づく国人がおるらしい、と」
「誰のことだ」
「さあな」
「名までは知らぬ」
「だから気味が悪い」
その言葉に、一瞬だけ空気が重くなる。
誰も続きを話そうとはしなかった。
新九郎は馬上から、その様子を静かに見つめていた。
(誰も名を知らない)
(それでも、皆が噂を口にしている)
(……人は噂を信じているのではない)
(噂を気にせずにはいられなくなっている)
宗久もまた、無言のまま前を見据えて馬を進めていた。
やがて一行の前に、美濃の本城・稲葉山城がその雄大な姿を現す。
高くそびえる天守を見上げながら、新九郎は静かに息を吐いた。
今日の評定は、美濃のこれからを左右するものになる。
そんな予感が胸の内に静かに広がっていた。
◇
近習に案内され、宗久ら国人衆は評定の間へ入った。
広間には美濃各地の国人が顔を揃えている。
皆、一様に神妙な面持ちだった。
やがて上座に、美濃国主・斎藤龍興が姿を現す。
家臣たちは一斉に頭を下げた。
「龍興様」
龍興はゆっくりと席へ着き、集まった国人たちを見渡した。
「皆の者、よく集まった」
「近頃、尾張に関する妙な噂が飛び交っておる」
広間が静まり返る。
龍興は扇を静かに閉じた。
「尾張境の国人が織田へ通じておる」
「織田へ寝返る者がおる」
「そのような話を耳にした者も多かろう」
何人かの国人が小さく頷いた。
龍興は鼻で笑う。
「だが、案ずるには及ばぬ」
「所詮は根も葉もない噂だ」
「美濃は父祖の代より守り続けてきた国」
「尾張の成り上がりごときに揺らぐものではない」
力強く言い切る龍興。
しかし、その言葉とは裏腹に、広間の空気は重いままだった。
◇
一人の国人が恐る恐る口を開く。
「龍興様」
「噂が本当かどうかではなく、家中が疑い合うことを案じております」
「皆が隣を疑えば、まとまるものもまとまりませぬ」
龍興は少し眉をひそめた。
「疑う必要などない」
「皆、斎藤家の家来ではないか」
「余が信じておるのだ」
「そなたらも余を信じればよい」
その言葉に、広間はさらに静まり返る。
信じたい。
だが、信じるだけで済む状況ではない。
そう思っている者が少なくなかった。
◇
やがて稲葉一鉄が静かに進み出た。
「殿」
「誰も殿を疑っているわけではございませぬ」
「ですが、人の心は噂一つで揺らぎます」
「今こそ国人衆との結び付きをより強めるべきかと存じます」
龍興は一鉄を見据えた。
「一鉄」
「そなたまで噂に振り回されるか」
「織田信長など、尾張一国をまとめたに過ぎぬ」
「美濃の力には及ばん」
一鉄は何かを言いかけたが、静かに口を閉ざした。
広間には再び重苦しい沈黙が流れる。
◇
評定は大きな決定もなく終わった。
国人たちは三々五々、城を後にする。
帰路。
誰からともなく小さな声が聞こえた。
「結局、噂は噂のままか」
「殿が心配ないと仰るなら、それで良いのではないか」
「……本当にそうなら良いがな」
言葉はそこで途切れる。
誰も深く踏み込もうとはしない。
家を守るためには、余計な言葉は慎む。
それもまた、乱世を生きる国人の知恵だった。
◇
宗久と新九郎も城を後にした。
馬を並べ、稲葉山を下る。
しばらく無言だった宗久が口を開く。
「今日の評定、どう見た」
新九郎は少し考えてから答えた。
「皆、同じ話を聞いていました」
「ですが、誰一人として確かなことは知りませんでした」
宗久は頷く。
「そうだ」
「だからこそ厄介なのだ」
新九郎は続ける。
「殿は噂を否定されました」
「ですが、国人の方々が不安に思っていることまでは消えませんでした」
宗久は息を吐いた。
「人の心は、命令一つでは動かぬ」
「戦より難しいこともある」
新九郎は静かに頷く。
今日の評定で見たのは、敵との戦ではない。
同じ味方でありながら、それぞれが胸の内に不安を抱える姿だった。
(乱世は、人の心から崩れていくこともある)
そのことを、新九郎は改めて胸へ刻む。
美濃の空には初夏の青空が広がっていた。
だが、その空の下では、誰にも見えぬ亀裂が、少しずつ広がり始めていた。