第二十二話 揺れ始めた美濃
永禄六年(一五六三年)夏。
黒川領では田植えを終えた田が一面に広がり、若苗が風に揺れていた。
裏山では蜜蜂が花々を飛び回り、椎茸の原木も静かに育ち続けている。
それでも、領内に満ちる空気は以前のような安堵だけではなかった。人々は口にこそ出さぬものの、どこかで次の騒ぎを予感しているような、張りつめた静けさがあった。
◇
昼過ぎ。
「山田市兵衛殿がお見えにございます!」
家臣の声が館へ響く。
宗久は書院で静かに頷いた。
「お通しせよ」
やがて市兵衛が深く頭を下げる。
「宗久様、若様」
「京、堺、尾張より戻ってまいりました」
「長旅、ご苦労であった」
宗久が労うと、市兵衛は木箱を開いた。
中には黒川領で作られた干し椎茸と、小さな壺が収められている。
「干し椎茸は相変わらず評判にございます」
「京でも堺でも、味だけではなく保存の利く品として重宝されておりました」
「そして、こちらが蜂蜜にございます」
宗久は壺の蓋を開ける。
ふわりと甘く上品な香りが書院へ広がった。
宗久は思わず笑みを浮かべる。
「見事な香りだ」
「尾張の商人も、黒川領でこのような品が採れるのかと興味を示しておりました」
新九郎は静かに頷く。
「蜂も順調に増えています」
「来年は、さらに多く採れるでしょう」
「それは楽しみでございます」
市兵衛も嬉しそうに頷いた。
だが、その表情はすぐに引き締まる。
「ただ……近頃の街道は少し様子が変わって参りました」
宗久が目を向ける。
「様子が変わったとは」
「荷を運ぶ商人だけではございませぬ」
「街道や橋をじっくり見て回る者」
「山道へ入り、道筋を確かめる者」
「商いの者に見えても、荷より地形を気にしているような者が目立つようになりました」
宗久は静かに息を吐いた。
「……世も、落ち着かなくなってきたか」
「はい」
「町でも宿場でも、そのような者を見掛けるようになりました」
「商人たちも、ただの旅人ではあるまいと噂しております」
書院には静かな空気が流れる。
宗久は蜂蜜の壺へそっと蓋を戻した。
甘い香りだけが、しばらく部屋に残っていた。
市兵衛は深く一礼する。
「今後も何かございましたら、すぐにお知らせいたします」
「頼んだぞ」
市兵衛は踵を返しかけたが、不意に何かを思い出したように足を止めた。
「……そういえば、もう一つ気になることがございました」
宗久が顔を上げる。
「何だ」
市兵衛は少し考えるように視線を落とした。
「うまく申せぬのですが……」
「京でも、堺でも、尾張でも」
「どこへ参りましても、人々の様子がどこか違うのでございます」
「……違う、とは」
「市は賑わっております」
「商いも普段どおりにございます」
「酒を酌み交わし、笑っている者もおります」
そこまで言うと、市兵衛は小さく首を振った。
「ですが……」
「皆、何かを待っているようでございました」
書院が静まり返る。
宗久は何も言わず、市兵衛の言葉を噛みしめるように目を伏せた。
新九郎もまた、その一言だけが胸に引っ掛かった。
何を待っているのか。
誰にも分からない。
それでも、市兵衛ほど各地を歩く男がそう感じたという事実は、軽く受け流せるものではなかった。
「……承知した」
宗久は静かに頷いた。
「これからも気付いたことがあれば知らせてくれ」
「はっ」
市兵衛は深く頭を下げると、今度こそ静かに書院を後にした。
◇
尾張・清洲城。
城下では鍛冶場の槌音が絶えず響き、兵糧を積んだ荷駄が次々と城内へ運び込まれていた。
表向きは普段と変わらぬ城下。
しかし、その裏では信長の命を受けた者たちが絶えず諸国を行き来している。
その日も、一人の男が人目を避けるように城へ入った。
旅装束に身を包み、深く編み笠を被った男である。
近習に導かれ、静かに信長の前へ進み出る。
男は畳へ額が着くほど深く頭を下げた。
「お目通り、恐悦至極にございます」
信長は男を一瞥するだけで口を開く。
「面を上げろ」
男はゆっくりと顔を上げた。
「名は申せませぬ」
「ですが、美濃の内情をお伝えに参りました」
信長は口元をわずかに緩める。
「申せ」
男は周囲を一度見回し、声を潜めた。
「稲葉山城で評定が開かれました」
「龍興様は、織田へ通じる者などおらぬ、すべて噂に過ぎぬと仰せになりました」
信長は静かに聞いている。
男は続けた。
「国人衆は誰一人として逆らいませなんだ」
「されど……」
「納得している者もまた、おりませぬ」
信長の目が細くなる。
「ほう」
「皆、互いに様子を窺っております」
「今はまだ斎藤家へ従う」
「ですが、尾張も無視できぬ」
「そのような空気にございます」
信長は地図へ視線を落とした。
そこには美濃と尾張の国境が描かれている。
「そうか」
ただ、それだけを答えた。
男は恐る恐る尋ねる。
「殿」
「我らは、これから……」
信長は男の言葉を遮るように静かに言う。
「まだ動くな」
「家を守れ」
「時が来れば、その時に動けばいい」
男は深く頭を下げた。
「はっ」
男が退室すると、部屋には池田恒興と丹羽長秀だけが残った。
池田が口を開く。
「殿」
「美濃の者が、自らこちらへ参るようになりましたな」
信長は静かに笑った。
「人は不安になると、自ら出口を探し始める」
「無理に引っ張る必要はねぇ」
長秀が地図を見つめながら言う。
「では、国境へ兵を出しているのも……」
「ああ」
信長は頷く。
「攻めるためじゃねぇ」
「見せるためだ」
二人は黙って信長を見る。
信長は国境へ指を置いた。
「兵が動けば噂になる」
「噂は人の口から口へ渡る」
「そして疑いは、勝手に育つ」
池田は思わず息を呑んだ。
「戦わずして、美濃を揺らすと」
信長は不敵に笑う。
「戦は槍や鉄砲だけでするもんじゃねぇ」
「相手の心が揺れりゃ、それだけで半分は勝ったようなもんだ」
清洲城の外では、兵たちが静かに国境へ向けて出立していく。
その一隊は決して大軍ではない。
だが、その姿を見た者は必ず誰かへ語る。
そして、その話はやがて噂となり、美濃中へ広がっていく。
信長はその様子を思い浮かべながら、小さく笑みを浮かべた。
「急ぐ必要はねぇ」
「実が熟れるまで待てばいい」
静かなその一言は、美濃へ向けられた策そのものだった。
◇
その報せは、ほどなく稲葉山城にも届いていた。
慌ただしい足音が廊下を駆け抜け、一人の使番が評定の間へ飛び込んできた。
「ご注進!」
「尾張方、およそ千二百の兵が国境へ姿を現しました!」
広間の空気が一変する。
龍興は静かに顔を上げた。
「千二百か」
「はっ」
「街道沿いを進み、橋や渡し場、村々の周辺を見て回っております」
重臣たちは互いに顔を見合わせた。
やがて稲葉一鉄が一歩前へ進み出る。
「殿」
「兵を差し向けるべきにございます」
「このままでは、織田方に美濃を侮られましょう」
龍興はゆっくりと頷いた。
「よかろう」
「兵を出せ」
「国境まで進み、織田勢を押し返せ」
「深入りはするな」
「美濃の力を見せれば、それで十分だ」
「はっ!」
命を受けた武将は足早に広間を後にした。
◇
数日後
再び急使が稲葉山城へ戻ってきた。
「ご注進!」
「織田勢、兵を引きました!」
「我らが兵の到着を知ると、戦うことなく尾張へ退いております!」
その報せを聞いた龍興は満足そうに笑みを浮かべた。
「見たか」
「織田など、その程度よ」
「美濃が兵を動かせば、たちまち退くではないか」
側近たちも安堵したように頭を下げる。
「お見事にございます」
「さすがは殿にございます」
龍興は機嫌よく扇を広げた。
「これで織田も懲りたであろう」
「噂など、じきに消える」
「信長とやらも、美濃へ手を出すほど愚かではなかったようだ」
広間には笑みが戻る。
だが、その輪へ加わらぬ者たちもいた。
◇
評定が終わり、廊下へ出た一鉄は小さく息を吐いた。
その隣へ安藤守就が歩み寄る。
「一鉄殿」
「いかが思われます」
一鉄は静かに首を振った。
「……引くのが早すぎる」
「千二百もの兵を動かしておきながら、一戦も交えず退くとは思えぬ」
氏家卜全も腕を組む。
「我らが兵を見て恐れたとは考えにくい」
「攻めることが目的ではなく、我らがどう動くかを見ていたのではあるまいか」
守就も重々しく頷いた。
「兵を集めるまでの日数」
「動員できる兵の数」
「国境の守り」
「すべて見られたのやもしれませぬ」
三人はしばらく黙ったまま立ち尽くした。
城内からは龍興の笑い声が聞こえてくる。
一鉄はその声へ耳を傾け、小さく呟いた。
「……願わくば、我らの考え過ぎであればよいのだが」
誰も答えなかった。
夏の風が稲葉山城を吹き抜ける。
穏やかな風とは裏腹に、美濃を巡る見えぬ駆け引きは、すでに始まっていた。