第二十四話 歪んだ忠義①
永禄六年(一五六三年)晩秋。
稲葉山城では、朝から家臣たちが慌ただしく行き交っていた。
評定を終えたばかりの廊下を、二人の男が並んで歩いている。
安藤守就。
そして、その隣には若き軍師・竹中半兵衛の姿があった。
守就が静かに口を開く。
「近頃は城中まで妙に慌ただしい」
半兵衛も頷く。
「尾張の動きを皆が気にしております」
「それだけ美濃が揺れているのでしょう」
その時だった。
廊下の向こうから、数名の近習を従えた斎藤龍興が姿を現した。
守就と半兵衛は足を止め、頭を下げる。
「龍興様」
龍興は二人を見つけると、小さく頷いた。
「守就か」
「半兵衛もおるな」
「面を上げよ」
二人は静かに顔を上げた。
龍興はどこか余裕を見せるような笑みを浮かべている。
「城中では皆、尾張尾張とうるさい」
「信長ごときに怯え過ぎだ」
半兵衛は静かに口を開いた。
「恐れではございませぬ」
「備えにございます」
龍興は眉をひそめる。
「何が違う」
「敵を恐れて右往左往する必要はない」
「国主たる者が揺らがねば、美濃も揺らがぬ」
その言葉に半兵衛は一歩だけ進み出た。
「確かに、国主が動揺を見せぬことは大切にございます」
「ですが、揺らがぬことと、耳を閉ざすことは違います」
龍興の表情がわずかに曇る。
半兵衛は続けた。
「信長は桶狭間以来、兵だけではなく人心を集めております」
「今、美濃が最も必要としているのは、家臣や国人の声を聞き、一つにまとめることかと存じます」
廊下は静まり返った。
龍興は半兵衛をじっと見つめる。
「つまり」
「余は家臣達の話を聞いておらぬと申すか」
半兵衛は静かに頭を下げた。
「そのようなつもりではございませぬ」
「ただ、今は平時とは違います」
「多くの知恵を集める時にございます」
龍興は鼻で小さく笑った。
「知恵ばかり集めていては、国主は務まらぬ」
「最後に決めるのは余だ」
「余が揺らがねば、美濃も揺らがぬ」
そう言い残すと、龍興は近習を従えて歩き去っていった。
重苦しい沈黙が残る。
守就は小さく息を吐いた。
「半兵衛」
「少々言い過ぎたな」
半兵衛は苦笑する。
「……分かっております」
「ですが、申し上げずにはおれませんでした」
その時だった。
龍興の後ろに控えていた若い近習が足を止め、振り返る。
鋭い視線が半兵衛へ向けられた。
「竹中殿」
「殿のお言葉に、ずいぶんと口を挟まれるものですな」
半兵衛は静かに頭を下げた。
「諫言も家臣の務めにございます」
近習は冷たく笑う。
「務め、ですか」
「その務めも、ほどほどになされることです」
そう言い残し、去っていった。
守就はその背中を見送りながら眉をひそめる。
「嫌な目をしておった」
半兵衛は静かに笑った。
「構いませぬ」
「私が嫌われるだけで、美濃が良くなるなら安いものです」
しかし、その日の出来事は、小さな波紋となって城中へ広がっていく。
半兵衛のもとへ届くはずの書状は、なぜか遅れるようになった。
龍興への取次ぎも以前より待たされることが増え、近習たちの態度もどこか冷たくなっていく。
些細なことばかりだった。
だが、その積み重ねは、やがて竹中半兵衛を城中で孤立させていく。
◇
龍興へ諫言してから数日。
稲葉山城。
表向きは何一つ変わらなかった。
龍興はこれまで通り政務を執り、評定も開かれている。
しかし、城中には少しずつ妙な空気が流れ始めていた。
◇
ある日の朝。
半兵衛は登城すると、近習へ声を掛けた。
「龍興様へ申し上げたいことがございます」
近習は一礼する。
「少々お待ちくだされ」
半兵衛は静かに待った。
一刻。
また一刻。
ようやく戻ってきた近習は頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「ただ今、お取込み中にございます」
半兵衛は穏やかに頷いた。
「承知しました」
そのまま城を後にする。
しかし、その直後。
別の家臣は何事もなく龍興のもとへ通されていった。
◇
数日後。
評定の席。
以前まで半兵衛の席は守就や重臣の近くに置かれていた。
だが、その日は違った。
「竹中殿」
「本日は、あちらのお席へ」
案内されたのは部屋の隅だった。
半兵衛は何も言わず静かに腰を下ろす。
守就は一瞬だけ眉をひそめた。
(席が変わっておる……)
だが評定の最中に口を挟むことはできない。
◇
昼過ぎ。
廊下を歩く半兵衛の横を、若い近習たちが通り過ぎる。
「竹中殿」
「殿もお忙しい」
「何でも御意見を申し上げればよいというものではありませぬぞ」
半兵衛は静かに微笑んだ。
「肝に銘じます」
近習たちは顔を見合わせ、小さく笑いながら去っていく。
◇
その様子を見ていた守就は、夕刻、半兵衛を自室へ招いた。
「半兵衛」
「近頃のこと、気付いておるな」
半兵衛は苦笑した。
「はい」
「皆まで申されますな」
守就は腕を組む。
「殿のお言葉ではない」
「近習どもが勝手に動いておる」
「お前が先日の諫言で殿の面目を潰したと思い込んでおるのだ」
半兵衛は静かに頷いた。
「私も、そのように感じております」
「殿へ申し上げよう」
守就が言うと、半兵衛は首を横へ振った。
「どうか、おやめください」
「何故だ」
「殿は何も命じておられませぬ」
「それなのに私が訴えれば、殿は近習を罰せねばならなくなります」
「それでは城中がさらに乱れます」
守就は深く息を吐いた。
「お前は……」
「損な役回りばかり選ぶ」
半兵衛は照れたように笑う。
「昔からそう申されます」
◇
それからも近習たちの態度は変わらなかった。
半兵衛が訪ねても「殿はご多忙」と面会を後回しにされる。
評定では発言の機会が以前より減った。
城中では、
「殿のお気持ちを考えれば当然だ」
そんな噂まで囁かれ始める。
誰も龍興の命令とは言わない。
近習たちも、
「殿のご心中をお察ししているだけ」
そう言えば済む話だった。
だからこそ、誰も咎めることができない。
守就は遠くからその様子を見つめ、小さく拳を握った。
半兵衛は何も言わない。
ただ静かに、美濃の行く末だけを案じ続けていた。
小さな綻びは、誰にも気付かれぬまま少しずつ広がっていく。
それは――竹中半兵衛が斎藤家を去る日へと続く、静かな始まりであった。