第二十五話 歪んだ忠義②
永禄六年(一五六三年)冬。
冷たい風が美濃の山々を吹き抜け、木々の葉もすっかり落ちていた。
黒川館では冬支度が進み、兵たちは交代で見張りに立ち、職人たちは普請を続けている。
その日の昼過ぎ。
一人の武士が館を訪れた。
「竹中半兵衛殿がお見えです」
兵庫の声に、宗久はゆっくり顔を上げた。
「……半兵衛殿か」
やがて書院へ通された男は、静かに一礼する。
まだ二十代半ば。
細身ながら鋭い眼差しを持ち、その立ち姿にはどこか学者のような落ち着きがあった。
「竹中半兵衛にございます」
「突然の訪問、お許しくだされ」
宗久は笑みを浮かべる。
「何を申される」
「半兵衛殿が来られるなら、いつでも歓迎だ」
二人は席へ着いた。
新九郎も宗久の傍らへ座る。
半兵衛は新九郎へ目を向け、小さく笑った。
「こちらが新九郎殿ですな」
「噂は以前より耳にしております」
新九郎は深く頭を下げる。
「黒川新九郎です」
「お会いできて光栄です」
半兵衛は少し驚いたように目を細めた。
八歳の子とは思えぬ受け答えだった。
「……礼儀正しい」
宗久は苦笑する。
「少々大人び過ぎておる」
「それも個性よ」
書院に穏やかな笑いが広がった。
◇
しばらく世間話を交わした後。
半兵衛は新九郎へ問い掛ける。
「新九郎殿」
「一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「武とは何のためにあると思われますか」
宗久も兵庫も静かに二人を見守る。
新九郎は少し考え、ゆっくり答えた。
「家を守るためです」
「……ほう」
「ですが、それだけでは足りません」
半兵衛の目がわずかに細くなる。
「続けてください」
「父上より教わりました」
「家が残らなくては民は守れません」
「だから武とは、家を守る力です」
「ですが、家を守る理由は民を守るためです」
「武そのものが目的ではございません」
書院は静まり返った。
半兵衛は思わず息を止める。
(家を守るために武がある)
(だが、家は民を守るために残る)
九歳の子が語るには、あまりにも筋が通っていた。
半兵衛は静かに笑う。
「見事なお考えです」
「私も同じように思っております」
新九郎も微笑み返した。
「半兵衛殿も、そうなのですね」
「ええ」
「国とは城ではありません」
「人です」
「民がおり、家臣がおり、その上に主君がおられる」
「誰か一人だけでは国は成り立ちませぬ」
二人の会話に、宗久は思わず目を閉じた。
(……年齢を忘れる)
兵庫も同じ思いだった。
九歳の少年と若き軍師。
その会話は、まるで長年語り合ってきた友のようだった。
◇
帰り際。
半兵衛は新九郎へ静かに言う。
「新九郎殿」
「また、お話しいたしましょう」
新九郎は笑みを浮かべる。
「ぜひ」
「私も半兵衛殿のお話をもっと聞きたいです」
半兵衛は小さく笑った。
「私もです」
「年齢は離れておりますが、こうして語り合える方はそう多くありません」
そう言って館を後にする。
宗久はその背中を見送りながら呟いた。
「……半兵衛殿がお前を気に入ったようだな」
新九郎は静かに頷いた。
「私も、とても話しやすい方でした」
こうして二人は初めて出会った。
◇
永禄七年(一五六四年)
稲葉山城。
城内の空気は、以前にも増して重くなっていた。
竹中半兵衛は廊下を静かに歩いていた。
行き交う者たちは頭こそ下げるものの、以前のように気軽に声を掛けてくる者はいない。
遠巻きに見る。
それだけだった。
半兵衛は苦笑する。
(やはり、こうなりましたか)
諫言をしてから数か月。
近習たちの嫌がらせは、露骨ではない。
書状は遅れる。
面会は後回し。
評定では末席。
誰も命令していない。
だから誰も咎められない。
それが一番厄介だった。
◇
その日の夕刻。
安藤守就の屋敷。
守就は酒を注ぎながら静かに言った。
「半兵衛」
「お前はまだ耐えるつもりか」
半兵衛は杯を受け取り、小さく笑った。
「はい」
「私一人が耐えれば済む話です」
守就は首を横へ振る。
「違う」
「お前が耐えている間にも、美濃は弱っておる」
半兵衛は静かに目を閉じた。
「……分かっております」
「ですが、龍興様は悪いお方ではございません」
「まだお若い」
「周りが見えなくなっているだけです」
守就は低く呟く。
「その周りを見えなくしている者たちがおる」
半兵衛は頷いた。
「近習たちです」
「彼らは忠義のつもりなのでしょう」
「殿をお守りしたい」
「殿に嫌な思いをさせたくない」
「その思いだけで動いております」
「ですが――」
半兵衛は静かに杯を置いた。
「忠義とは、主君の耳に心地よい言葉だけを届けることではありませぬ」
「誤りを正し、危うきを救うこと」
「それこそが家臣の務めです」
守就は静かに頷いた。
「以前、お前が申しておったな」
半兵衛は遠く庭を見つめる。
「ええ」
「国とは城ではありません」
「人です」
「民がおり、家臣がおり、その上に主君がおられる」
「誰か一人だけでは国は成り立ちませぬ」
「主君もまた、人によって支えられる存在なのです」
「その支えを遠ざければ、最後には主君お一人だけが残ります」
「それでは国は滅びます」
守就は深く息を吐いた。
「……美濃は、その道を歩き始めておる」
半兵衛は小さく頷く。
「だからこそ」
「私は龍興様をお守りしたいのです」
守就が驚いたように半兵衛を見る。
「守る……だと」
「はい」
「龍興様ご自身を」
「龍興様が国を失えば、龍興様もまた不幸になります」
「私はそれを望みませぬ」
「ならばどうする」
半兵衛は静かに答えた。
「一度だけ」
「龍興様に現実をご覧いただくしかありませぬ」
「城が奪われる恐ろしさ」
「家臣が離れる恐ろしさ」
「主君が孤立する恐ろしさ」
「それを身をもって知っていただければ、きっと変わられるはずです」
守就は息を呑んだ。
「まさか……」
半兵衛は静かに夜空を見上げる。
「龍興様を討つつもりはございません」
「命を奪うつもりもございません」
「ただ、一度だけ城をお借りします」
「それで龍興様がお目覚めになれば、美濃はまだ救えます」
守就は長い沈黙の末、小さく目を閉じた。
「……危うい賭けだ」
半兵衛は穏やかに笑った。
「ですが」
「何もせず滅びを待つよりは、ずっと良い賭けです」
春の夜風が静かに庭木を揺らす。
この夜交わされた言葉は、やがて世にいう「稲葉山城乗っ取り」へと繋がっていく。
それは謀反ではない。
若き主君を救いたいと願った、一人の家臣の歪んだ忠義の始まりであった。