第二十六話 斉藤家の威光
永禄七年(一五六四年)二月。
春はまだ遠く、美濃の山々には冷たい風が吹いていた。
その日、稲葉山城では近習の一人が祝言を挙げることとなり、城内は祝いの空気に包まれていた。
台所では料理人が忙しく立ち働き、酒樽が次々と運び込まれる。
廊下では家臣たちが笑い声を交わし、普段よりも人の出入りが多かった。
「今日はめでたい日だな」
「久しぶりに酒が飲める」
番兵たちもどこか表情が緩んでいた。
誰一人、この日が美濃の歴史を揺るがす一日になるとは思っていなかった。
◇
城下町。
竹中半兵衛の屋敷では、十六名の郎党が静かに支度を整えていた。
鎧は身につけない。
槍も刀も表へは出さない。
大きな長持の中へ武具を収め、その上へ布団や衣類を重ねて隠していく。
重治は蓋を閉め、小さく頷いた。
「兄上」
「準備が整いました」
半兵衛は長持を見つめたまま静かに答える。
「これで最後です」
「今なら、まだ引き返せます」
誰も動かなかった。
半兵衛は冬空を見上げる。
(龍興様)
(私は貴方を見限ったのではございませぬ)
(どうか、この出来事の意味を受け止めてくだされ)
やがて静かに歩き出した。
◇
稲葉山城・搦手門。
長持を積んだ荷車が門前で止まる。
番兵が歩み寄った。
「今日は荷が多いな」
重治は困ったように頭を下げる。
「弟が病に伏しております」
「しばらく城下で療養させることになりまして、身の回りの品を運んでおります」
番兵は長持を軽く叩いた。
鈍い音が返る。
祝いの日ということもあり、門の警備は普段より慌ただしい。
中まで改める者はいなかった。
「通れ」
「ありがとうございます」
長持は何事もなく城内へ運び込まれた。
◇
門を抜けたところで、半兵衛は静かに足を止める。
周囲を見回した。
見張りは少ない。
近習たちの多くは祝いの席へ集まっている。
半兵衛はゆっくりと目を閉じた。
「始めます」
その一言だった。
郎党たちは一斉に長持を開く。
布団の下から槍が現れ、刀が抜かれる。
重治が低く命じた。
「行け!」
最も近くにいた門番が振り返る。
「何──」
最後まで言葉は続かなかった。
槍が鋭く突き出され、門番はその場へ崩れ落ちる。
同時に他の郎党たちも一斉に動き出した。
門番。
見張り。
近習。
不意を突かれた者たちは次々と制圧されていく。
城内へ悲鳴が響いた。
「敵襲!」
「竹中勢だ!」
「門が破られた!」
祝いの席は一瞬で騒然となった。
◇
御殿。
龍興は突然の騒ぎに立ち上がる。
「何事だ!」
一人の近習が血相を変えて駆け込んできた。
「殿!」
「竹中半兵衛が兵を率いて城内へ攻め入りました!」
龍興は目を見開く。
「半兵衛だと!」
「馬鹿な!」
その時、廊下から激しい物音が近付いてきた。
近習たちは慌てて刀を抜く。
「殿、お逃げください!」
「しかし!」
「今は御身が第一にございます!」
龍興は歯を食いしばる。
鎧を着る暇もない。
着替える余裕もない。
そのまま数名の近習に守られながら裏口へ走った。
◇
一方。
半兵衛は御殿の手前で立ち止まっていた。
郎党が尋ねる。
「追われますか」
半兵衛は静かに首を横へ振る。
「龍興様を討つつもりはございません」
「ただ、一度だけ城をお借りします」
「それで龍興様がお目覚めになれば、美濃はまだ救えます」
やがて郎党が戻ってきた。
「龍興様は城外へ退かれました」
半兵衛は小さく目を閉じた。
「……ご無事で何よりです」
その声には安堵が滲んでいた。
その日、稲葉山城は竹中勢の手に落ちた。
わずか十六名。
前代未聞の稲葉山城乗っ取りは、これより美濃全土を震わせることになる。
◇
龍興は供回りに守られ、安全な場所まで退いていた。
着の身着のまま城を脱したため、羽織には土が付き、履物にも泥がこびり付いている。
近習たちは沈痛な面持ちで頭を下げていた。
誰も口を開かない。
やがて、一人の近習が静かに報告する。
「殿……」
「半兵衛が城を占めました」
龍興は拳を強く握り締めた。
「……半兵衛」
怒りが胸へ込み上げる。
「余を裏切ったというのか」
近習たちは一斉に頭を下げた。
「その通りにございます」
「竹中半兵衛こそ逆臣」
「殿へ刃を向けた不忠者にございます」
しかし龍興は、その言葉へすぐには頷かなかった。
半兵衛は幼い頃より仕え、何度も諫言を重ねてきた男である。
その半兵衛が、本当に私欲だけで動いたのか。
その疑問だけが胸へ残っていた。
「……なぜだ」
誰へ向けたものでもない呟きが、静かに漏れた
◇
その頃。
安藤守就の屋敷には、守就、稲葉一鉄、氏家卜全の三人が集まっていた。
部屋には重苦しい空気が漂う。
最初に口を開いたのは守就だった。
「半兵衛は、とうとう決断したか」
一鉄は静かに首を横へ振る。
「半兵衛を責めても始まらぬ」
「問題は、もっと先にある」
守就が視線を向ける。
一鉄は地図へ目を落としたまま続けた。
「今日より、美濃中の国人は龍興様を量るようになる」
「誰が味方で、誰が敵か」
「ではない」
「この斎藤家へ、このまま命を預けられるか」
「皆、その答えを胸の内で考え始める」
部屋は静まり返る。
一鉄は静かに息を吐いた。
「国が乱れる時とは、槍を交える時ではない」
「人が迷い始めた時だ」
守就は小さく頷いた。
「龍興様が、この出来事をどう受け止められるか」
「それが、美濃のこれからを決めよう」
卜全は腕を組み、低く言う。
「仮に殿がお心を改められたとしても、それだけでは足りぬ」
「国人衆は結果を見る」
「これから先の振る舞いこそが問われる」
三人は黙って頷いた。
◇
同じ頃。
美濃各地の国人たちの館にも、稲葉山城乗っ取りの報せが相次いで届けられていた。
「十六人で、稲葉山城が……」
「そんな馬鹿な」
驚きと動揺が、館々を包む。
ある国人の館。
当主は勢いよく立ち上がると、広間を何度も歩き回った。
「稲葉山城だぞ!」
「なぜ、そのようなことになった!」
誰もすぐには答えられない。
重苦しい沈黙だけが広間を支配していた。
やがて年長の家老が静かに一歩前へ進み、深く頭を下げる。
「恐れながら申し上げます」
当主は鋭い視線を向けた。
「申せ」
「この一件で最も恐れるべきは、竹中半兵衛殿ではございませぬ」
「では何だ」
家老は静かに顔を上げた。
「稲葉山城が、わずか十六名に乗っ取られたという事実にございます」
当主は眉をひそめる。
「故に、ではないのか」
家老は静かに首を横へ振った。
「十六人で城を落とせたのは、城兵たちの心が一つではなかったからにございます」
「龍興様がおられる居城にて、命を懸けて守ろうという気概があれば、十六人で事を成すことなど到底できませぬ」
広間は静まり返る。
家老はさらに続けた。
「これは城が弱かったのではございませぬ」
「斎藤家の威光が、以前ほど国中へ届かなくなっているということにございます」
「そのことを、美濃中の国人が知ってしまいました」
当主は腕を組み、深く息を吐く。
「……なるほど」
「半兵衛一人が恐ろしいのではない」
「十六人で稲葉山城を奪えるほど、斎藤家が弱っていたという事実こそが恐ろしいのか」
家老は深く頭を下げた。
「恐れながら、その通りにございます」
「これより先、国人衆は皆、自らの家を守ることを第一に考え始めましょう」
「誰が味方で、誰が敵か」
「それぞれが見極めようといたします」
「我らも例外ではございませぬ」
当主は腕を組み、しばらく黙り込んだ。
そして静かに口を開く。
「……ならば」
「まず守るべきは、この城か」
家老は深く頷いた。
「はっ」
「兵糧を改め、見張りを増やし、城兵の備えも見直すべきかと存じます」
当主は大きく息を吐いた。
「よし」
「すぐに始めよ」
「一つとして怠るな」
「承知いたしました」
家老は再び深く頭を下げた。
そのやり取りは、この館だけではなかった。
美濃各地の国人たちもまた、それぞれの館で急ぎ兵糧を点検し、城門を固め、見張りを増やしていく。
誰もが、己の家だけは守らねばならない。
そんな思いが、美濃中へ静かに広がり始めていた。
◇
黒川館。
夕刻、一騎の早馬が門前へ駆け込んだ。
「急報!」
「稲葉山城、一時竹中勢に占拠されました!」
兵庫が書状を読み終えると、書院は静まり返った。
宗久はゆっくりと地図へ視線を落とす。
「……そうか」
しばらく黙した後、小さく口を開いた。
「戦は、まだ始まっておらぬ」
「されど、美濃は大きく揺れよう」
兵庫も静かに頷く。
「はい」
宗久は新九郎へ目を向けた。
「新九郎」
「お前は、この一件をどう見る」
新九郎は広げられた地図の稲葉山城へ静かに視線を落とした。
「半兵衛殿は、城を奪いました」
「ですが、龍興様を討たれたわけではありません」
宗久は黙って続きを待つ。
「だからこそ、美濃中が見ているのは、これからです」
「龍興様が、この出来事をどう受け止められるのか」
「何を変え、何を守ろうとなさるのか」
「皆、それを見極めようとするでしょう」
兵庫は静かに息を吐いた。
「確かに……」
「国人たちも、その一点を見ておりましょうな」
宗久はゆっくりと頷く。
「城は取り戻せる」
「だが、人の信はそう容易く戻らぬ」
「龍興様にとって、これからが正念場ということか」
「はい」
新九郎は静かに答えた。
歴史を知る新九郎だからこそ分かる。
この出来事は終わりではない。
ここから先、龍興がどう動くか。
それが、美濃という国の行く末を大きく左右することになる。
書院には再び静けさが戻る。
誰も言葉を発さなかった。
皆、それぞれに、美濃の未来を思い描いていた。
◇
数日後――。
稲葉山城を脱した斎藤龍興は、斎藤家直轄の支城へ身を寄せていた。
急ごしらえの評定の間には、美濃の重臣たちが顔を揃えている。
稲葉一鉄。
安藤守就。
氏家卜全。
そして数名の宿老たち。
誰の表情にも笑みはなかった。
龍興は重臣たちを見回し、静かに口を開く。
「申せ」
「今、美濃はどうなっておる」
守就が一礼する。
「稲葉山城は、いまだ竹中半兵衛が押さえております」
「城兵の多くは従っておりますが、半兵衛に味方したというより、不意を突かれ従わざるを得なかった者が大半かと」
龍興は拳を握った。
「半兵衛……」
「余を討つこともできたはずだ」
「それをせず、城だけを奪った」
「奴の狙いは何だ」
部屋が静まり返る。
やがて一鉄がゆっくりと口を開いた。
「半兵衛が私欲で動く男とは思えませぬ」
「恐らくは、殿へ何かを示そうとしたのでしょう」
「ですが、理由が何であれ、城を奪った事実は変わりませぬ」
卜全も頷く。
「城を占めた以上、もはや謀反と見られても致し方ありませぬ」
龍興は苦く息を吐いた。
「……そうか」
守就が地図を広げる。
「問題は、これからでございます」
「稲葉山城を、いかに取り戻すか」
卜全が地図の城を指差す。
「兵を集め、一気に攻める手もございます」
一鉄は静かに首を横へ振った。
「相手は半兵衛」
「無策に攻めれば、こちらの損害が大きくなりましょう」
「包囲して兵糧を断つか」
「あるいは城兵へ呼び掛け、内から開かせるか」
守就も腕を組む。
「どちらにせよ、急ぎ過ぎてはなりませぬ」
その時、一人の家臣が新たな書状を持って広間へ入った。
「各地の国人より報せにございます」
守就が受け取り、目を通す。
「……兵を動かした国人はおりませぬ」
「皆、様子を見ております」
龍興が尋ねる。
「寝返る者は」
「今のところ確認されておりませぬ」
「ですが、皆、この一件の行く末を見定めようとしております」
一鉄は静かに目を閉じた。
「今、美濃の国人が見ているのは半兵衛ではございませぬ」
「殿が、この事態へどう応じられるか」
「それを見ております」
部屋は再び静まり返る。
龍興はしばらく黙っていた。
やがてゆっくりと顔を上げる。
「……稲葉山城は必ず取り戻す」
「そして、美濃を再び一つにまとめる」
その言葉へ重臣たちは静かに頭を下げた。
しかし、その胸中には同じ思いがあった。
稲葉山城を取り戻すだけでは足りない。
失われたものは、城だけではない。
美濃の行く末を左右する戦いは、すでに始まっていた。
◇
その夜。
龍興は斎藤家直轄の支城で、一人灯の消えかけた部屋へ座っていた。
外では冷たい風が板戸を鳴らしている。
昼間まで重臣たちと軍議を重ねていた部屋も、今は静まり返っていた。
誰もいない。
ようやく一人になれた。
龍興はゆっくりと目を閉じる。
(……余は、何を間違えた)
脳裏へ浮かぶのは、祖父・斎藤道三。
「美濃の蝮」と恐れられ、一代で国を奪い取った男。
次に浮かぶのは父・義龍。
父は父で、多くの敵を退け、美濃をまとめ続けた。
その二人の背中は、幼い頃の龍興にはあまりにも大きかった。
(父上……)
若くして当主となった日を思い出す。
重臣たち。
国人たち。
皆が自分を見ていた。
「若い殿」
「本当に務まるのか」
そう思われていることくらい、龍興にも分かっていた。
だからこそ。
弱さだけは見せまいと決めた。
不安でも。
迷っていても。
堂々としていなければならない。
軍記物に登場する名将たちのように。
決して動じぬ主君でいようとした。
(余には……)
(何も無かった)
祖父ほどの知略も。
父ほどの戦功も。
家臣へ誇れる実績も。
まだ一つも無い。
だからこそ、強く見せるしかなかった。
それだけだった。
龍興は静かに拳を握る。
その拳はわずかに震えていた。
(だが……)
(信長は違う)
桶狭間。
今川義元を討ち取った男。
その名は今や尾張だけではない。
美濃の者までも口にする。
比べられる。
祖父と。
父と。
そして信長と。
(余は……)
(本当に、この国を背負えているのだろうか)
その言葉だけは、誰にも聞かせることはできなかった。
龍興はゆっくり立ち上がる。
障子を開けると、冬の夜空が広がっていた。
冷たい風が頬を打つ。
「……まだ終わってはおらぬ」
その声は、自分へ言い聞かせるようだった。
失ったものは大きい。
だが、城は取り返せる。
問題は。
失われ始めた人の心だった。
龍興は夜空を見上げたまま、静かに目を閉じた。