第27話は、自分の中で少し納得できない部分があったためリメイクしました。
半兵衛の行動理由や龍興の心情をより深く描き、美濃の情勢が変化していく流れを分かりやすく修正しています。
第27話 稲葉山城の策士
永禄七年(一五六四年)五月。
竹中半兵衛が稲葉山城を押さえてから、すでに三か月が過ぎていた。
美濃では大きな戦は起きていない。
だが、国中は張り詰めた空気に包まれていた。
◇
稲葉山城。
天守を望む広間では、半兵衛が静かに帳面へ目を通していた。
城兵たちは持ち場を守り、普段と変わらぬよう城内を巡回している。
主を失った城とは思えぬほど、秩序は保たれていた。
略奪もなければ、城下への無用な干渉もない。
半兵衛が城を押さえた後、まず命じたのは兵の統制と城下の安堵であった。
そのため、城兵たちの間にも大きな混乱は起きていなかった。
城は不思議なほど静かだった。
重治が部屋へ入り、一礼する。
「兄上」
「兵糧の改めが終わりました」
半兵衛は顔を上げる。
「不足は」
「ございませぬ」
「城兵たちにも動揺は少なく、このままなら当面は持ちこたえられます」
半兵衛は静かに頷いた。
「そうですか」
◇
重治は兄の横へ座る。
「兄上」
「龍興様は各地の国人へ兵を集めるよう命じられたそうです」
「近いうちに稲葉山城へ向かわれる、と」
半兵衛は穏やかな表情のまま答えた。
「そうでしょうな」
「城を奪われたままでは、国主として立つ瀬がありません」
「ですが、攻め急げば損害も大きくなります」
重治は兄を見つめた。
「兄上は、迎え撃たれるのでございますか」
半兵衛は静かに首を横へ振った。
「必要以上に斎藤家の兵を傷つけるつもりはありません」
「敵は織田であって、斎藤ではないのですから」
◇
重治は少し考え、小さく尋ねた。
「では、兄上は何を待っておられるのでしょう」
半兵衛はしばらく沈黙した。
やがて、城下町を見下ろしながら静かに口を開く。
「私は龍興様へ考えていただきたかったのです」
「なぜ十六人で城を奪われたのかを」
「城が弱かったからではありません」
「兵が少なかったからでもありません」
「人の心が離れ始めていた」
「ただ、それだけです」
重治は黙って耳を傾けていた。
「龍興様がその理由を見つめ直し、美濃をまとめ直されるのであれば、この一件にも意味があります」
「ですが、もし何も変わらぬのであれば……」
半兵衛はその先を口にしなかった。
◇
一方。
稲葉山城の外では、美濃各地の国人たちが静かに様子を窺っていた。
「まだ動かぬのか」
「龍興様も慎重になっておられる」
「半兵衛殿も城から打って出る気配はない」
誰も先に動こうとはしない。
互いに相手の出方を見極めようとしていた。
◇
斎藤家直轄の支城。
龍興は重臣たちと軍議を続けていた。
守就が地図を指差す。
「稲葉山城へ通じる街道は押さえております」
「兵糧の搬入も徐々に難しくなっております」
一鉄も続ける。
「力攻めは避けるべきです」
「半兵衛は兵法に長けております」
「攻める側が損をいたします」
龍興は静かに頷いた。
「ならば包囲を続ける」
「半兵衛が何を考えておるのか……」
「余自身、この目で確かめねばならぬ」
重臣たちは静かに頭を下げた。
◇
同じ頃。
尾張・小牧山城。
信長は美濃から届いた書状を読み終えると、小さく笑った。
「まだ動かねぇか」
丹羽長秀が尋ねる。
「半兵衛にございますか」
「ああ」
「城を守るだけなら、とっくに打って出てる」
「そうしねぇってことは、まだ龍興を待ってる」
勝家は腕を組む。
「殿は、半兵衛が城を返すとお考えで」
信長は静かに頷いた。
「返すだろうよ」
「欲で動いた男じゃねぇ」
「だからこそ、美濃は厄介なんだ」
信長は地図の稲葉山城を指先で軽く叩いた。
「さて……」
「龍興は、その気持ちに応えられるかねぇ」
初夏の風が、美濃と尾張の国境を静かに吹き抜けていた。
戦はまだ始まっていない。
しかし、美濃の命運を左右する時は、確実に近づいていた。
◇
永禄七年(一五六四年)六月
竹中半兵衛が稲葉山城を押さえてから、四か月
ついに斎藤龍興は軍を動かした。
稲葉山城を取り囲むように、斎藤方の陣が次々と築かれていく。
各地の国人衆も兵を率いて集まり始めた。
守就
一鉄
卜全
それぞれが持ち場を固め、城を完全に包囲する。
だが、誰一人として攻撃の命は下されなかった。
広間では重臣たちが地図を囲んでいた。
守就が静かに口を開く。
「殿」
「包囲は完了いたしました」
「ですが、攻めるべきではございませぬ」
龍興が眉をひそめる
「何故だ」
一鉄が続けた。
「半兵衛は城を知り尽くしております」
「力攻めを行えば、多くの兵を失います」
卜全も頷く。
「敵は十六名ではございませぬ」
「今は城兵も半兵衛へ従っております」
「攻めれば、美濃同士で血を流すだけです」
龍興は黙って地図を見つめた。
拳が自然と握られる。
城は目の前にある。
それでも奪い返せない。
その現実が胸へ重くのしかかっていた。
◇
一方
稲葉山城
半兵衛は城下へ広がる斎藤勢の陣を静かに見つめていた。
谷にも尾根にも、斎藤家の旗が並んでいる。
重治が足音を忍ばせて近づいた。
「兄上」
「龍興様のお軍が出揃いました」
半兵衛はゆっくりと頷く。
「……そうですか」
「ようやく、お越しになられましたな」
重治は兄の横顔を見つめる
「いよいよ戦になりますか」
半兵衛は静かに首を振った。
「できることなら、避けたいものです」
「龍興様も、ここに集まった兵も、皆、美濃を守るための者たちです」
「その命を、この城で失わせる訳にはまいりませぬ」
半兵衛は遠くに揺れる斎藤家の旗へ目を向ける
「私は城を奪うために兵を挙げたのではありません」
「龍興様に、この国の現実を見ていただきたかった」
「わずか十六人で城を取られた理由を、お考えいただきたかったのです」
重治は兄の言葉を噛みしめるように頷く。
「兄上のお気持ちが、殿へ届けばよいのですが」
半兵衛は静かに微笑んだ。
「届かなくとも構いませぬ」
「私にできることは、ここまでです」
「後は、龍興様がお決めになること」
◇
その日の夕刻
龍興は重臣たちだけを広間へ残した。
誰も口を開かない。
重苦しい沈黙だけが部屋を支配していた。
やがて龍興が静かに口を開く
「……半兵衛は、何を考えておる」
守就は静かに一歩前へ出た。
「恐れながら申し上げます」
「半兵衛は殿へ弓を引くために動いたのではございますまい」
龍興は静かに視線を向ける
「ならば、何のためだ」
守就はゆっくりと言葉を選んだ。
「殿に、お分かりいただきたかったのでございましょう」
「美濃は外から崩れるのではなく、内から揺らぎ始めているということを」
広間は再び静まり返る
龍興はゆっくりと目を閉じた
あの日の光景が脳裏によみがえる
半兵衛は追ってこなかった
討とうと思えば討てたはずだ
それでも、自分は生かされた
龍興は静かに息を吐く
「……余に、考えよと言うのか」
一鉄は静かに口を開く
「半兵衛が何を思ったかは、本人のみぞ知ること」
「されど、殿がお答えを出されねばならぬ時が来たことだけは、間違いございませぬ」
龍興はゆっくりと顔を上げた
その瞳には、怒りだけではない迷いの色も宿っていた
◇
長い沈黙が広間を包んだ。
龍興はゆっくりと立ち上がる。
そして広げられた美濃の地図へ歩み寄った。
稲葉山城。
各地の国人領。
尾張との国境。
一つひとつを静かに見つめる。
やがて低く口を開いた。
「……余は、半兵衛を討ちたいとは思わぬ」
重臣たちは顔を上げた。
「だが」
「このまま城を預けておく訳にもいかぬ」
「稲葉山城は斎藤家の居城だ」
「必ず取り戻す」
守就が静かに頷く。
「はっ」
龍興はさらに続けた。
「だが、兵を無駄には死なせぬ」
「力攻めは行わぬ」
「まずは使者を送り、半兵衛の真意を聞く」
「その上で、道を決める」
一鉄は静かに頭を下げた。
「賢明なるご判断かと存じます」
龍興は深く息を吐く。
「……余は、まだ若い」
「未熟なところもあろう」
「だからこそ、これよりは家臣の言葉にも耳を傾ける」
その一言に、守就、一鉄、卜全は静かに目を見合わせた。
誰も口には出さなかった。
だが、その表情にはわずかな安堵が浮かんでいた。
龍興は地図の稲葉山城へ視線を向ける。
「半兵衛」
「そなたが命を懸けて余へ示したかったもの……」
「この目で確かめよう」
初夏の風が障子を揺らした。
稲葉山城奪還へ向けた動きは、静かに始まろうとしていた。