第二十七話 策士への誘い
永禄七年(一五六四年)三月。
竹中半兵衛による稲葉山城占拠の報は、美濃だけでなく尾張にも瞬く間に広がっていた。
◇
尾張・小牧山城
信長は書院で重臣たちとともに美濃の情勢について話し合っていた。
一人の使番が静かに頭を下げる。
「殿」
「稲葉山城はいまだ竹中半兵衛が押さえております」
信長は短く頷いた。
「そうか」
柴田勝家が腕を組む。
「殿」
「今こそ美濃へ兵を進める好機にございましょう」
丹羽長秀も続けた。
「龍興は城を失い、美濃中も動揺しております」
「攻めるなら、今かと」
しかし信長は静かに首を横へ振った。
「まだ早ぇ」
家臣たちは互いの顔を見合わせた。
勝家が不思議そうに尋ねる。
「何故にございます」
信長は地図へ目を落とした。
指先は稲葉山城で止まる。
「半兵衛は城が欲しくて動いた訳じゃねぇ」
長秀が目を細めた。
「そうお考えでございますか」
「多分な」
信長は小さく笑った。
「だが、人の腹の内なんざ、本人しか分からねぇ」
「だから確かめる」
勝家が首を傾げる。
「どのように」
信長は筆を取った。
静かな筆音だけが書院へ響く。
やがて一通の書状を書き終えると、封を閉じた。
「使者を出す」
「半兵衛へだ」
長秀が呟く。
「半兵衛へ……」
信長は不敵に笑った。
「稲葉山城を織田へ渡すなら相応の地位も、領地も与えてやる」
「そう書いてある」
勝家は眉をひそめた。
「殿」
「本気で家臣へ迎えるおつもりで」
「さあな」
信長は肩をすくめた。
「もし欲で動いた男なら、話は早ぇ」
「だが――」
そこで言葉を切る。
「俺ぁ、あいつはそんな男じゃねぇと思ってる」
◇
長秀は静かに尋ねた。
「ならば、何故このような書状を」
信長は地図から目を離さない。
「確かめてぇんだ」
「竹中半兵衛という男が」
「何を捨て」
「何を守る男なのか」
「それが分かりゃ、いずれ戦う時も、味方になる時も役に立つ」
勝家は腕を組んだまま苦笑した。
「人を試すための書状、にございますか」
信長は笑う。
「人は口じゃ分からねぇ」
「餌を前にした時、初めて本性が見える」
◇
信長は書状を一人の使者へ差し出した。
「これを半兵衛へ届けろ」
「誰にも気付かれるな」
使者は深く頭を下げる。
「はっ」
その日の夕刻。
密使は人目を避けるように小牧山城を後にした。
春まだ浅い街道を、一騎の馬が静かに美濃へ向かって駆けていく。
信長は縁側へ立ち、その背を見送っていた。
「さあ、半兵衛」
「お前がどんな男か」
「見せてもらおうじゃねぇか」
夕日に染まる西の空を見つめながら、信長は静かに笑みを浮かべた
◇
数日後――。
美濃・稲葉山城。
半兵衛のもとへ、一騎の使者が静かに姿を現した。
「竹中半兵衛様に、尾張より書状にございます」
重治が書状を受け取り、半兵衛へ差し出す。
半兵衛は封を切ると、静かに目を通した。
そこには短く、しかし力強い言葉が記されていた。
『稲葉山城を織田へ渡すならば、相応の地位と領地を与える』
『その才、我がために振るえ』
半兵衛は読み終えると、小さく目を閉じた。
「……やはり」
重治が兄の表情を見つめる。
「兄上」
「織田信長にございますか」
「はい」
「予想しておりました」
◇
半兵衛は書状を丁寧に畳み、火へくべた。
紙は静かに燃え上がり、やがて灰となる。
重治が言う。
「返事は、いかがなさいます」
半兵衛は迷うことなく答えた。
「書きます」
「信長殿には、礼を尽くさねばなりませぬ」
筆を取り、静かに墨を含ませる。
さらさらと筆が走る。
迷いはなかった。
◇
やがて書状は完成した。
重治が目を通す。
そこには、こう記されていた。
『このたびのお心遣い、誠にありがたく存じます』
『されど、私は斎藤家の家臣にございます』
『今回の一件は、主君を諫めるためのものであり、私欲によるものではございませぬ』
『ゆえに、稲葉山城を織田家へお渡しすることも、織田家へ仕えることもできませぬ』
『ご厚意のみ、ありがたく頂戴いたします』
重治は静かに息を吐いた。
「兄上らしい返書です」
半兵衛は苦く笑う。
「信長殿ならば、この返事も読んでおられたでしょう」
「それでも送ってこられた」
「信長殿は、私の志がどこにあるか、お知りになりたかったのでしょう」
◇
数日後。
尾張・小牧山城。
密使が帰還し、信長へ返書を差し出した。
信長は無言で封を切り、最後まで読み終える。
そして静かに笑った。
「やっぱりな」
勝家が尋ねる。
「殿」
「断られましたか」
「ああ」
「一寸もぶれちゃいねぇ」
長秀も返書へ目を落とした。
「欲ではなく、義を選ばれましたな」
信長は返書を丁寧に畳む。
「だからこそ惜しい」
「こういう男は、敵に回すと厄介だ」
勝家は腕を組む。
「ならば、今のうちに討ってしまうべきでは」
信長は首を横へ振った。
「違ぇ」
「あいつは斎藤家を支えてる男だ」
「今討てば、美濃中の反発を招く」
「それに……」
信長は小さく笑う。
「義を貫く男は嫌いじゃねぇ」
◇
信長は立ち上がり、美濃の地図を見つめた。
指先は稲葉山城ではなく、その周囲の国人たちの領地を静かになぞる。
「半兵衛は手に入らなかった」
「だが、それでいい」
「美濃はまだ揺れている」
「揺れている木は、いずれ自ら倒れる」
長秀は静かに頷いた。
「殿は、お待ちになるので」
「ああ」
「急ぐ戦ほど負ける」
「待って、待って、最後に全部取る」
信長は不敵な笑みを浮かべた。
その視線は、すでに稲葉山城のさらに先――。
美濃全土を見据えていた。