第二十八話 美濃の限界
永禄七年(一五六四年)六月。
稲葉山城を囲む斎藤軍。
美濃各地から集められた兵たちが、城の周囲へ陣を築いていた。
しかし、龍興は未だ攻撃の命を出していなかった。
◇
本陣。
広げられた美濃の地図を前に、龍興は静かに座っていた。
稲葉山城。
各地の国人領。
尾張との国境。
その全てを、ただ黙って見つめる。
以前の龍興ならば、迷うことなく城へ攻めかかっていたかもしれない。
奪われた居城を取り戻す。
斎藤家の威信を守る。
それは当主として当然の責務であった。
稲葉山城を失ったままでは、国主として立つことはできない。
だからこそ兵を集めた。
だが、時が経つほどに胸の内には別の思いが生まれていた。
疑問だった。
なぜ半兵衛は、城を奪った後も動かないのか。
なぜ、自分へ刃を向けることなく城に留まっているのか。
何を考えているのか。
それを知りたかった。
◇
「殿」
声をかけたのは、一鉄だった。
龍興はゆっくりと顔を上げる。
「……一鉄」
「半兵衛と話をする」
一鉄は静かに頷いた。
龍興の表情に迷いはない。
「余は、あの者の考えが分からぬ」
「城を奪った後、なぜ何もせぬのか」
「なぜ、余を討つ機会がありながら動かぬのか」
龍興は地図へ視線を戻す。
「ただ城を取り戻すだけでは、何も変わらぬ気がする」
その言葉に、一鉄は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
稲葉山城。
龍興は供を連れ、城門をくぐった。
かつて、自分が主として立っていた城。
今は半兵衛が守る場所。
しかし、龍興が目にしたものは予想とは違っていた。
兵たちは規律を守り、城内は整えられている。
城下にも大きな騒ぎはない。
略奪もない。
民を苦しめるような命も出されていない。
龍興は静かに周囲を見渡した。
半兵衛は、ただ城を奪っただけではなかった。
何かを示そうとしている。
その思いを抱えたまま、龍興は広間へ向かった。
◇
広間。
半兵衛は龍興を迎えた。
二人は静かに向かい合う。
かつては主君と家臣。
今は、城を奪った者と奪われた者。
だが、そこに憎しみはなかった。
先に口を開いたのは龍興だった。
「半兵衛」
「余は聞きたい」
半兵衛は静かに頭を下げる。
「何なりと」
「なぜ、このようなことをした」
「なぜ、城を手にした後も動かぬ」
「そなたは、一体何を見ている」
半兵衛はしばらく沈黙した。
そして、静かに口を開く。
「殿」
「私は、斎藤家を滅ぼすために動いたのではございませぬ」
龍興は黙って続きを待った。
半兵衛は城下へ視線を向ける。
「美濃を見ていただくためにございます」
「美濃……」
「はい」
「この国が、なぜ揺らぎ始めているのかを」
◇
半兵衛は静かに続けた。
「原因は、城の守りではございませぬ」
「兵の数でもございませぬ」
「人の心にございます」
龍興は黙って聞いていた。
「家臣が主君へ本音を言えなくなる」
「国人たちが、斎藤家の先行きを不安に思う」
「その小さな揺らぎが積み重なれば、国は内側から崩れていきます」
龍興は視線を落とした。
思い返せば、心当たりはあった。
重臣たちの進言。
国人たちの態度。
表面では従っているように見えても、その内側にあるものを見ようとしていなかった。
◇
「……余に、変われというのか」
龍興が静かに問う。
半兵衛は首を横に振った。
「私が申し上げることではございませぬ」
「ですが」
「この国を守りたいと願われるならば、向き合わねばならぬことかと存じます」
龍興は目を閉じた。
そこにあったのは怒りではなかった。
自分が見落としていたものへの悔しさだった。
◇
稲葉山城を後にした龍興は、馬上から美濃の地を見つめていた。
城を取り戻す。
それだけでは足りない。
家臣をまとめ。
国人との関係を改め。
美濃そのものを変えなければならない。
龍興は静かに拳を握る。
「……余は、変わらねばならぬ」
しかし――。
一人の当主が変わろうとしても。
長い年月をかけて積み重なった不信を消すには、時間が必要だった。
そして美濃に残された時間は、決して多くはなかった。
◇
永禄七年(一五六四年)七月。
稲葉山城。
龍興は、再び評定の間に座っていた。
城は戻った。
だが、美濃が抱えていた問題まで消えたわけではない。
半兵衛との対話で突きつけられたもの。
それは、城を失ったことではなく、斎藤家そのものが抱えていた弱さであった。
◇
稲葉山城・評定の間。
龍興は重臣たち、そして美濃各地の国人衆を集めていた。
守就。
一鉄。
卜全。
斎藤家を支える重臣たち。
そして、それぞれの領地を守る国人たち。
広間に並ぶ者たちを、龍興は静かに見渡した。
以前の自分ならば、皆が斎藤家に従うのは当然だと思っていた。
だが、今は違う。
家臣たちが何を思っているのか。
国人たちが何を恐れているのか。
それを知らずして、美濃を治めることなどできない。
◇
龍興はゆっくりと口を開いた。
「皆に伝えたいことがある」
広間に沈黙が広がる。
誰も口を挟まない。
ただ、主君の言葉を待っていた。
「余は……これまで見えていなかったものがあった」
龍興は静かに言葉を続ける。
「当主であるという立場に甘え、皆が支えてくれていることを忘れていた」
重臣たちは黙って聞いていた。
「これよりは、己の考えだけで決めぬ」
「家臣の言葉を聞く」
「国人たちの思いにも耳を傾ける」
「そして、美濃を一つにまとめ直す」
その言葉に、広間の空気がわずかに揺れた。
◇
しばしの沈黙の後。
守就が静かに頭を下げる。
「殿のお覚悟、確かに承りました」
「我らは、これからも斎藤家を支えて参ります」
一鉄も続いた。
「殿が美濃を守るために歩まれるのであれば、我らも力を尽くしましょう」
卜全も静かに頷く。
龍興は三人の姿を見つめた。
以前ならば、家臣が支えることを当然と思っていた。
だが今は違う。
その忠義が、決して当たり前ではなかったことを理解していた。
◇
しかし――。
全てがすぐに変わるわけではなかった。
評定の場で龍興の言葉を聞いた国人たちは、それぞれの思いを抱えていた。
龍興が変わろうとしている。
それは確かに伝わった。
斎藤家をもう一度支えようと考える者もいた。
だが、長く続いた不安は簡単には消えない。
斎藤家は、この先も美濃を守れるのか。
織田信長の勢いに対抗できるのか。
もし敗れた時、自らの領地を守ることができるのか。
国人たちは、それぞれの未来を考えていた。
忠誠を改めて誓う者。
静かに様子を見る者。
別の道を探ろうとする者。
美濃の心は、まだ一つには戻っていなかった。
◇
その頃。
半兵衛は、美濃の情勢を聞いていた。
重治が静かに口を開く。
「兄上」
「龍興様は、変わられましたな」
半兵衛は静かに頷く。
「はい」
「殿ご自身が気付かれたのでしょう」
「美濃を守るためには、己が変わらねばならぬと」
重治は少し安堵した。
しかし、半兵衛の表情は晴れなかった。
「ですが……」
「それだけでは、美濃は変わりませぬ」
「一人の当主が変わったとしても、国を立て直すには時間が必要です」
「家臣の心を繋ぎ直し、国人たちの不安を消すには、年月がかかる」
半兵衛は静かに目を伏せた。
「そして……」
「信長殿は、その変化を待ってはくれぬでしょう……」
◇
尾張。
小牧山城。
信長は、美濃から届いた報せに目を通していた。
「龍興が動いたか」
丹羽長秀が尋ねる。
「斎藤家の立て直しを始めたようにございます」
信長は小さく笑った。
「遅ぇな」
長秀は黙って信長を見る。
「殿」
信長は地図へ視線を落とした。
「変わろうとすることは悪くねぇ」
「むしろ、遅くても変われる奴は強ぇ」
だが――。
信長の指が、美濃へ向けられる。
「国を変えるには時間がいる」
「家臣の心をまとめるにも」
「国人を繋ぎ直すにもな」
信長は静かに目を細めた。
「その時間を、俺は待つつもりはねぇ」
◇
龍興は変わろうとしていた。
家臣たちも、それを支えようとしていた。
だが、美濃が抱えた問題は、一人の当主が変わるだけでは解決できない。
失われた信頼。
揺らいだ忠誠。
迫り来る織田の勢力。
美濃には、立て直すための時間が足りなかった。
美濃の限界。
それは龍興一人の問題ではなく。
長い年月をかけて生まれた、国そのものの傷であった。
◇
そして同じ頃。
美濃の山間にある黒川領では、新たな時代へ向けた準備が静かに進んでいた。
美濃が揺らぐ中。
一つの国人領だけが、確かな力を蓄え始めていた。