灰が降り始めたのは、朝の鐘が二つ鳴ったころだった。
聖ルーメン修道院の庭で洗濯物を干していたリュシアは、白いシーツに落ちた黒いひとひらを指でつまんだ。雪より軽く、煤より乾いている。指の腹ですり潰すと、嫌な冷たさだけを残して消えた。
「また山火事でしょうか」
独り言に答えたのは、籠の中からひょいと顔を出した七歳の少女だった。
「晴れてるのに?」
「お日様が出ていても、山は燃えることがあります」
「じゃあ、お日様が消してくれればいいのに」
「それは名案ですね。今度、お願いしてみましょう」
リュシアが真面目な顔でうなずくと、少女はけらけら笑った。笑った拍子に、抱えていたシーツの山へ足を取られる。転ぶ、とリュシアが手を伸ばすより早く、少女は敷石に膝をぶつけた。
「いた……」
みるみる涙がたまった。リュシアはそばにしゃがみ、擦りむいた膝へ手を重ねる。
「少し、くすぐったいですよ」
左胸の聖痕が熱を持った。服の下で白い蔓が伸び、肩を越え、手首まで淡く輝く。少女の膝から赤みが引くのと同時に、リュシアの膝が鋭く痛んだ。
顔には出さない。これはもう、息を吸うのと同じくらい身についたことだった。
「ほら、治りました」
「聖女さま、すごい!」
「まだ聖女ではありません。ただの洗濯係です。ですから、転ばないように籠を持ってくださいね」
少女は元気よく返事をし、何もなかった足で駆けていった。代わりに血のにじんだ自分の膝を、リュシアは長いスカートで隠す。
「――リュシア」
背後から落ちた声は低く、よく通った。
しまった、と思ったときには遅かった。
回廊の柱にもたれ、マルタ院長が腕を組んでいる。六十を越えた小柄な女性だが、眉間の皺ひとつで騎士団を整列させられそうな人だった。
「治療室へ」
「でも、洗濯物が」
「治療室へ」
「はい」
逆らえる者は修道院にいない。
治療室で消毒液を塗られながら、リュシアは窓の外を見た。灰はまだ、花びらのように静かに落ちている。春の若葉に積もるさまは、遠目にはきれいですらあった。
マルタ院長は傷へ布を巻き終えると、その膝をぴしゃりと叩いた。
「痛っ」
「痛いのではないか」
「今のは院長さまが叩いたからです」
「その前からだ。お前はどうして、自分の痛みなら数に入れなくてよいと思う」
いつもの小言だった。だから、いつものように笑ってやり過ごせるはずだった。
「あの子は、もう痛くありません」
「質問に答えていない」
「答えになっていると思います」
院長は深く息を吐いた。怒っているのではなく、悲しんでいる。そのことが分かるから、リュシアは余計に目を合わせにくかった。
自分の手には、人の傷を引き受ける力がある。
その力がなければ、自分がここで育ててもらう理由はなかったのではないか。幼いころに一度そう考えてから、その疑いは胸の底へ根を張った。誰かの役に立てた日は、ここにいていいと思える。誰も傷つかなかった日は、うれしいはずなのに少し不安になる。
「リュシア」
院長が何かを言いかけたとき、外で馬のいななきが響いた。
続いて、正門の鐘が激しく鳴る。来客を告げる三回ではない。誰かが勝手に綱を引いているような、せわしない音だった。
「まさか、もう来たのか」
院長が苦い顔で立ち上がる。
「誰がです?」
返事はなかった。
玄関広間へ向かう途中で、リュシアは自分の膝の痛みを忘れた。
開け放たれた扉の向こうに、一人の少年が立っていた。
雨も降っていないのに、焦げ茶の髪はひどく乱れている。肩から赤い外套を下げ、胸には銀の獅子を刻んだ王国騎士団の徽章。二年前より背が伸び、少年らしい丸みの抜けた顔には、見慣れない小さな傷があった。
それでも、緑の目だけは変わらない。
「リュシア」
名を呼ばれた瞬間、二年という時間が急に短くなった。
「カイル?」
「よかった」
彼は笑った。次の瞬間には大股で近づき、リュシアの両肩をつかんでいる。
「無事だな。どこも痛くないか。具合は。灰を吸ってないだろうな」
「待ってください。質問が多いです」
「顔色が白い」
「これは昔からです」
「痩せた」
「カイルが大きくなったから、そう見えるだけです」
そこで彼の視線が下がった。スカートの裾から、巻きたての包帯がのぞいている。
笑顔が消えた。
「誰の傷だ」
「転んだ子がいて」
「着いて早々これか!」
「カイルこそ、再会して早々怒鳴らないでください」
「二年ぶりでも十年ぶりでも怒る。君は――」
「客人の前だよ、レインフォード」
冷ややかな女の声が、扉から飛んできた。
黒髪を肩で切りそろえた若い女性が、旅装の埃を払いながら入ってくる。紫の目がリュシアを上から下まで確かめ、最後にカイルの手を見た。
「それとも王国騎士は、聖女候補を玄関で揺さぶるのが正式な挨拶なの?」
「揺さぶってはいない」
「時間の問題に見えるけれど」
カイルは慌てて手を離した。
「リュシア、彼女はセレナ・ヴァイス。王立学院の魔法使いだ。今回の討伐隊の一人で――」
「討伐隊?」
聞き返したリュシアに、カイルは口を閉ざした。
マルタ院長が、その続きを引き取った。
「灰の王が目覚めようとしている」
玄関の外では、白い空から灰が降り続けていた。
千年前、北の大地を焼き、数え切れない人を灰へ変えた魔神。子どもを寝かしつける昔話にも、その名は出てくる。悪い子の枕元には灰の王が立つ。嘘をつく子の舌は灰にされる。
けれど院長の声は、昔話をする声ではなかった。
「四日前、王都の聖火が黒く染まった。各地で封印の亀裂が確認されている。千年前と同じ兆しだそうだ」
セレナが筒状に丸めた書状を差し出した。赤い蝋に王家と大聖堂、二つの印が押されている。
「灰の王を封じ直すには、四つの聖遺物と、身代わりの聖痕を持つ者が必要。現在、教会が把握している聖痕の持ち主は、あなた一人よ」
「つまり」
「あなたを聖女として、討伐隊に迎えたい」
迎えたい、という言葉の形をした命令だった。
リュシアは書状を受け取った。羊皮紙は重くない。それなのに、腕を下へ引かれるような気がした。
「断ることはできますか」
カイルが息をのむ。
セレナはごまかさなかった。
「形式上は。でも封印が破れれば、最初に呑まれるのは北部よ。この修道院も無事では済まない」
窓辺に集まった子どもたちが、灰の向こうの馬を見て騒いでいる。先ほど転んだ少女もいた。膝の痛みを忘れた顔で笑っていた。
選択など、最初からなかった。
それでもリュシアは、すぐに返事をしなかった。怖くなかったわけではない。修道院の外へ出たことは、数えるほどしかない。魔神どころか、野盗にだって会ったことはなかった。
食事の前の祈りも、夜ごとの鐘も、干したばかりのシーツの匂いもない場所へ行く。
「リュシア」
カイルが一歩進み出た。
「俺も行く。今度は、俺が君を守る」
十歳の夏にも、彼は同じことを言った。
灰狼に腹を裂かれた彼から傷を移し、三日三晩熱を出したリュシアの枕元で。泣き腫らした顔をして、小指を差し出した。
今度は俺が君を守る。
あのころより大きな手が、今は剣の柄に置かれていた。
リュシアは少しだけ笑った。
「では、お願いします」
その返事に、カイルの肩から力が抜けた。
「私、王都までの道も知りませんから」
「そっちか?」
「大事なことです」
「地図くらい読めるだろう」
「修道院の畑の地図なら」
セレナが小さく吹き出した。カイルは不満そうだったが、二年前と同じように眉尻を下げて笑った。
別れの準備は、日が傾くまでに終えられた。
持っていけるものは少ない。着替え、薬草、裁縫道具、祈祷書。マルタ院長は蜂蜜の小壺を荷物の底へ押し込んだ。
「薬草茶に入れなさい。お前は苦いものを我慢すれば効き目が増すと思っている節がある」
「そんなことは」
「ある」
「……はい」
院長は荷紐をきつく結び、それからリュシアの頬を両手で包んだ。
「役に立たなくても、お前には帰る場所がある」
胸の奥を見透かされたようで、リュシアは目を伏せた。
「そんな顔をするな。帰ってきたら、洗濯を一月分やらせる」
「それは帰りたくなくなりますね」
「減らさんぞ」
抱きしめられた。骨ばった細い腕は、思いのほか強かった。
リュシアも腕を回したかった。けれどそうすれば泣いてしまいそうで、荷物の紐を握りしめた。
夕暮れ前、一行は修道院を出た。
馬は二頭。セレナが一頭を使い、リュシアはカイルの後ろに乗せられた。自分でも乗れると言ったが、膝の怪我を理由に却下された。
「落ちるなよ」
「落ちたら自分で治します」
「そういう問題じゃない」
坂を下り始めたところで、裏の森から鳥が一斉に飛び立った。
セレナが馬を止める。
「静かに」
風はない。なのに木々がざわめいていた。
最初に匂いが来た。濡れた薪を焼いたような、喉に貼りつく臭い。
次に、黒い影が茂みを突き破った。
狼に似ていた。けれど皮膚は焼け崩れ、肋骨の間で黒い火が明滅している。目のある場所には、灰の詰まった穴しかなかった。
「灰魔!」
カイルがリュシアを馬から下ろし、剣を抜く。
一頭ではない。二頭、三頭。木々の間に黒い火が増えていく。その向こうには修道院の鐘楼が見えた。
「ここで止める」
カイルが先頭の灰狼を迎え撃った。横薙ぎの剣が首を裂く。血の代わりに噴いた灰を、セレナの風が森の奥へ吹き返した。
「吸わないで! 肺を焼かれるわ!」
彼女の杖から氷の槍が走り、二頭目を地面へ縫い留める。
リュシアは馬の陰にいるよう命じられた。けれど、三頭目がカイルの死角から飛びかかるのが見えた。
「カイル!」
彼は振り向きざまに腕を上げた。牙が籠手を砕き、その下へ食い込む。カイルは顔を歪めながらも、狼の腹へ剣を突き上げた。
灰狼が崩れる。
「大した傷じゃない!」
そう言った腕から、黒い筋が肩へ向かって伸びていた。
ただの傷ではない。呪いだ。
リュシアは駆け寄った。
「来るな!」
「動かないで」
「リュシア、これは移すな!」
聞かなかった。籠手の隙間へ指を差し込み、彼の腕に触れる。
聖痕が燃えた。
噛まれた痛みが腕を砕き、黒い冷気が血管の中へ流れ込む。一瞬、目の前が暗くなる。膝が折れそうになるのをこらえ、最後の一筋まで引き受けた。
カイルの傷が閉じる。
代わりにリュシアの袖が血で濡れた。
「どうして!」
怒声と同時に、彼女の背後で獣の息がした。
伏せる間もなかった。
カイルがリュシアを抱えて地面へ転がる。灰狼の爪が彼の赤い外套を裂いた。セレナの火球が獣を呑み、今度こそ森が静まった。
「だから、来るなと言った!」
カイルの顔が近い。怒っているのに、目の奥は怯えていた。
「でも、呪いが」
「君が死んだら何の意味もない!」
「死んでいません」
「今は、だ!」
言い返そうとして、痛みに息が詰まった。傷口から黒い灰がこぼれている。
セレナが素早く膝をつき、止血の魔法をかけた。紫の目が、責めるでもなくリュシアを見つめる。
「痛い?」
その聞き方があまりに静かで、リュシアは反射的な笑顔を作り損ねた。
「……少し」
「そう。なら、痛い顔をしなさい。治療する側が困るから」
叱られているのか、許されているのか分からなかった。
カイルは唇を強く結び、リュシアを抱き上げた。
「歩けます」
「知ってる」
「重いですよ」
「軽すぎて腹が立ってる」
「どちらにしても怒るんですね」
「君が怒らせるからだ」
胸元へ額を預けると、鎧の下で心臓が速く鳴っていた。
自分を守ると言った人を、また自分が助けてしまった。きっと彼は悔しいのだろう。それでもリュシアは、彼が無傷でいることにほっとした。
「大丈夫」
小さく告げる。
「私が痛いだけなら、みんなは先へ進めるでしょう?」
カイルの足が止まった。
「それを、大丈夫とは言わない」
返ってきた声は、怒りよりも苦しそうだった。
修道院の鐘が鳴る。
振り返れば、丘の上で子どもたちとマルタ院長がこちらを見送っていた。灰の降る世界で、窓に灯った明かりだけが金色に見えた。
リュシアは痛む腕を抱き、帰ってくる場所を目に焼きつけた。
このときの彼女は、まだ信じていた。
灰の王を倒せば、全員でここへ帰れるのだと。