リュシアがカイルを傷つけた翌日から、セレナは二人分の沈黙まで面倒を見るようになった。
「塩を取って」
カイルに頼まれれば、卓の中央にある塩壺をリュシアの前へ置く。
「自分で取れる」とカイル。
「そう? 傷のせいで腕まで短くなったのかと思った」
リュシアが食事を残せば、何も言わず干し果物を荷へ入れる。
ノアが無理に冗談を言って空回りすると、頭を小突いて黙らせる。
誰の味方もしない顔で、全員がばらばらにならないよう糸を結び続けていた。
その優しさを切るのが、リュシアには一番難しかった。
山を下りるにつれ、空から降る灰は濃くなった。昼でも太陽が白くかすみ、街道沿いの木々は葉を落としている。
途中、壊れた荷車のそばで母子が助けを求めていた。
母親の足は車輪に挟まれ、幼い娘が泣きながら手を握っている。五人が荷台を持ち上げると、セレナはすぐに傷の状態を確かめた。
「骨は折れていない。けれど今日は歩かないで」
治癒の光を当て、包帯を巻く。その間ずっと、娘はセレナの外套をつかんで離さなかった。
「お姉ちゃん、お母さん死なない?」
「死なせないわ。だからあなたは、あっちの鞄から水を持ってきて。できる?」
「できる」
「よし。偉い」
セレナは子どもの頭を撫でた。
その手つきは、リュシアの髪を結うときとは違った。相手が怖がらないよう、ゆっくり近づき、すぐに離れる。
ミアの代わりだから、誰かに優しくするのではない。
この人は、目の前に困っている者がいれば、自分のやり方で手を伸ばすのだ。
リュシアには最初から分かっていた。
「あなたは治さないの?」
母親が聖女の印を見て尋ねた。
「私の力より、セレナの治療のほうが適切です」
「珍しい聖女さまね。普通は自分の奇跡を見せたがるものなのに」
セレナが振り返る。
昨日までなら、その言葉をうれしく思っただろう。
「奇跡を安売りする必要がないだけです」
リュシアはあえて冷たく答えた。
母親の表情が曇り、娘がセレナの後ろへ隠れる。
「先へ行きます」
背を向けると、セレナが追ってきた。
「あんな言い方をする必要はなかったでしょう」
「事実です」
「あなたは前に、獣人の子どもへ無理に手を伸ばさないことを学んだ。でも、手を引っ込めることと突き放すことは違う」
「教えないでください」
「リュシア」
「私の姉でもないのに」
その一言で、セレナは足を止めた。
リュシアは振り返らなかった。
このあと何を言うのか、自分でも分かっていたからだ。
五人は古い狩猟小屋で夜を越すことにした。
カイルとノアが食料を探し、エルドが周囲に結界を張る。セレナは小屋の浴室に湯を出し、リュシアを呼んだ。
「服を脱いで」
「急ですね」
「右肩の傷。ここ数日、包帯を見せてないでしょう」
「治りました」
「嘘ね」
逃げ道を塞ぐ言い方だった。
リュシアはしぶしぶ上着を脱いだ。縫った傷は赤く腫れ、一部が開いている。悪化に気づいていたが、セレナへ頼るわけにはいかなかった。
「馬鹿」
セレナの声は低かった。
「薬は塗っていました」
「古い包帯の上からでしょう。どうして言わないの」
「これくらいで止まりたくなかったので」
「誰も止まるとは言ってない。歩きながらでも診られた」
湯で傷を洗われ、リュシアは歯を食いしばった。
「痛い?」
「いいえ」
「嘘」
「嘘では」
「左手」
右の親指が、また指の節へ触れていた。
セレナはその手を取り、湯の中へ沈めた。
「癖を隠すことばかり上手になっても、嘘そのものは上手にならないわよ」
「では、信じてください」
「何を」
「私がカイルに言ったことです」
セレナの手が止まる。
「聞いていたんですか」
「宿じゅうに聞こえてた。彼、声が大きいから」
「私は?」
「あなたの声は小さかった。でも、言葉のほうが大きかった」
セレナは新しい包帯を取り、傷へ薬を塗った。
「信じないわ」
「なぜ」
「本当にカイルを剣としか思っていないなら、あんなに苦しそうな顔をしない」
「顔の話ばかりですね」
「魔法使いは観察が仕事なの」
「では、セレナは私の何を見ていたんですか」
言うつもりはなかった。
まだ先延ばしにしたかった。
でもセレナは、カイルよりも早く真相に近づいている。待つと決めながら、リュシアの傷を見つけ、嘘を一つずつ剥がそうとしている。
ここで止めなければならない。
「私ではなく、ミアさんを見ていたんでしょう」
包帯を巻く手が、ぴたりと止まった。
「何を言ってるの」
「私の髪を結って、食事を気にして、傷を叱る。亡くなった妹にできなかったことを、私でやり直しているだけ」
「違う」
「違いません。私を妹の代わりにしていたのでしょう」
セレナの指が震えた。
「あなたは、私自身なんて見ていなかった」
言葉を置いたあと、湯の音だけが残った。
セレナは怒鳴らなかった。
「そう思っていたの」
静かな声だった。
「はい」
「いつから」
「最初から」
「水没聖堂で、ミアの話を聞いたときも?」
「かわいそうだと思いました。妹を失った人の機嫌を取れば、旅が楽になるとも」
頬を打たれた。
乾いた音が浴室に響く。
痛みより先に、ほっとした。
これでいい。
「……ごめんなさい」
セレナが、自分の打った手を見つめていた。
「謝るんですか」
「手を上げたことは私が悪い」
「妹さんを侮辱したのに?」
「それでもよ」
セレナは目を閉じ、息を整えた。
「ミアとあなたを重ねたことが、一度もないとは言わない。最初に髪を結ったとき、あの子を思い出した。あなたが無茶をすると、あの日に戻ったみたいに怖くなる」
リュシアの胸が痛んだ。
そこまで正直に話されて、なお嘘を返さなければならない。
「でも、あなたはミアじゃない。ミアは水が嫌いで、裁縫が下手で、苦い薬を飲むと泣いた。あなたは水へ勝手に飛び込み、裁縫が上手で、苦いものを我慢する」
ミアが死んだ朝、セレナは妹の髪を結わなかった。
王立学院の入学試験を控え、魔術書を読み直していた。ミアは赤いリボンを持って部屋へ来て、「今日は二つに結って」と頼んだ。
『自分でやりなさい。もう十歳でしょう』
追い返した。
その日、村へ灰魔が出た。
セレナが駆けつけたとき、赤いリボンは泥の中に落ちていた。妹の髪は、自分で結ぼうとして片側だけ歪んでいた。
あと五分、手を止めていれば。
髪を結いながら話を聞いていれば、ミアが森へ木苺を取りに行く予定だと知れたかもしれない。
七年間、同じ考えを繰り返した。
だからリュシアの髪を初めて見たとき、櫛を取った。確かにミアを思い出した。
けれど二度目からは違う。
リュシアの髪は細く、絡まりやすい。強く引くと、痛くても我慢してしまう。右側から編むと落ち着くらしく、眠そうな朝には少しだけ頭を預けてくる。
そんな違いを一つずつ知った。
妹にできなかったことを埋めるためではない。
目の前の少女が、何でも大丈夫と言って我慢するから、せめて髪を結うあいだだけは世話を焼きたかった。
「あなたが、私をどう見ていたかは分かった」とセレナ。「でも、私があなたをどう見ているかまで決めないで」
「決めていません」
「決めたわ。妹の代わりだと。そうでなければ困るみたいに」
リュシアは目をそらした。
「私があなた自身を大事にしていたら、何か都合が悪いの?」
答えはなかった。
セレナはそこで、問いを重ねるべきだった。
逃がさず、肩をつかみ、何が都合悪いのか聞くべきだった。
けれどリュシアの青ざめた顔を見て、これ以上追えば折れると思った。
その判断が優しさだったのか、臆病だったのか。
一年後まで、セレナには分からない。
セレナは赤くなった頬へ手を伸ばしかけ、止めた。
「私が見ていたのは、あなたよ。リュシア」
名前を呼ばれただけで、泣きそうになった。
右手を握りしめる。
「そう思いたいなら、ご自由に」
「どうして、そんなに必死に嫌われようとするの」
核心だった。
リュシアは濡れた髪を背へ払い、笑った。
「買いかぶられるのに、飽きただけです」
浴室を出ると、扉の外にカイルがいた。
頬の赤みに気づき、セレナを見る。
「何があった」
「女同士の話よ」
「でも」
「入ったら凍らせる」
カイルは口を閉ざした。
リュシアは彼の横を通り過ぎる。追いかける足音はなかった。
夜、狩猟小屋の皆が眠ったあと、リュシアは外へ出た。
木の根元で、旅立ちからつけていた小さな日記を燃やす。出来事を書いたものではない。未来にやりたいことを、思いつくたび記していた。
五つ灯亭の窓は大きくする。
蜂蜜菓子を売る。
ノアの寝室には鍵をつける。勝手に厨房へ入るから。
セレナの誕生日を聞く。
カイルに、返事のなかった手紙を本当は待っていたと話す。
残しておけば、誰かが見つける。
自分の言葉が嘘だったと伝わってしまう。
頁が一枚ずつ黒く丸まる。
「何を燃やしているの」
振り返ると、セレナがいた。
「不要なものです」
彼女は近づかなかった。
「記録庫から帰ってから、あなたは変わった」
「そうでしょうか」
「エルドは何か知ってる。あなたはそれを隠してる」
「本人が話すまで待つのでしょう?」
自分で言って、その卑怯さに吐き気がした。
セレナの顔が強張る。
「ええ。そう決めた」
「なら、待ってください」
助けて、と言えたなら。
今問いただして、と頼めたなら。
リュシアの唇は動かなかった。
セレナはしばらく立っていた。やがて外套を脱ぎ、リュシアの肩へかける。
「話したくなったら、起こして」
「そんな日は来ません」
「それでも」
セレナは小屋へ戻った。
一度も振り返らなかった。
小屋の中では、カイルが起きていた。
「リュシアは」
「外。少し一人にして」
「何を燃やしてる」
「聞かなかった」
カイルは立ち上がりかける。
「待って」とセレナは止めた。「今行けば、もっと閉じる」
「待って、手遅れになったら?」
その問いは、七年前からセレナの中にあった。
「明日、私が話す」
「明日でいいのか」
「本人が話せるまで待つことも必要よ」
同じ言葉を、今度は自分へ言い聞かせた。
カイルは納得していなかった。それでも浴室で二人に何かあったと察し、座り直した。
セレナは毛布へ入っても眠れなかった。
外套を貸したため、肩が寒い。
返しに来たときに、もう一度聞こう。
そう決めた。
リュシアは夜明け前、皆が眠ったと思ったころに外套を畳んで置いた。
セレナは目を開けなかった。
話す機会を、自分から一度見送った。
リュシアは外套に顔を埋めた。火が消えるまで、声を出さずに泣いた。
翌朝、セレナは髪を結ってくれなかった。
青い紐はリュシアが自分で結んだ。鏡がなくても、結び目がひどく曲がっているのが分かった。
誰も直さなかった。
出発してしばらく、リュシアは何度も紐へ触れた。
緩んでいる気がする。結び直せば、もっと曲がる。以前ならセレナが黙って直した。
前を歩くセレナの手も、何度か持ち上がっては下りた。
昼の休憩で、青い紐がとうとうほどけた。
風にさらわれ、斜面へ落ちる。
セレナの魔法が反射的に飛んだ。小さな氷が紐の端を地面へ留める。
二人の目が合う。
「大切なものなのでしょう」とセレナ。
「ただの紐だと言ったのは、セレナです」
「そうね」
彼女は拾わず、先へ行った。
リュシアは氷を両手で溶かし、濡れた紐を結び直した。
ただの紐ではないことを、二人とも知っていた。
それでも、もう相手の髪へ触れる理由を見つけられなかった。
旅は南へ進む。
リュネまで、あと六日。
灰の王が目覚めるまで、あと二十一日。