灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

10 / 17
第十話 妹ではない少女

 リュシアがカイルを傷つけた翌日から、セレナは二人分の沈黙まで面倒を見るようになった。

 

「塩を取って」

 

 カイルに頼まれれば、卓の中央にある塩壺をリュシアの前へ置く。

 

「自分で取れる」とカイル。

 

「そう? 傷のせいで腕まで短くなったのかと思った」

 

 リュシアが食事を残せば、何も言わず干し果物を荷へ入れる。

 

 ノアが無理に冗談を言って空回りすると、頭を小突いて黙らせる。

 

 誰の味方もしない顔で、全員がばらばらにならないよう糸を結び続けていた。

 

 その優しさを切るのが、リュシアには一番難しかった。

 

 山を下りるにつれ、空から降る灰は濃くなった。昼でも太陽が白くかすみ、街道沿いの木々は葉を落としている。

 

 途中、壊れた荷車のそばで母子が助けを求めていた。

 

 母親の足は車輪に挟まれ、幼い娘が泣きながら手を握っている。五人が荷台を持ち上げると、セレナはすぐに傷の状態を確かめた。

 

「骨は折れていない。けれど今日は歩かないで」

 

 治癒の光を当て、包帯を巻く。その間ずっと、娘はセレナの外套をつかんで離さなかった。

 

「お姉ちゃん、お母さん死なない?」

 

「死なせないわ。だからあなたは、あっちの鞄から水を持ってきて。できる?」

 

「できる」

 

「よし。偉い」

 

 セレナは子どもの頭を撫でた。

 

 その手つきは、リュシアの髪を結うときとは違った。相手が怖がらないよう、ゆっくり近づき、すぐに離れる。

 

 ミアの代わりだから、誰かに優しくするのではない。

 

 この人は、目の前に困っている者がいれば、自分のやり方で手を伸ばすのだ。

 

 リュシアには最初から分かっていた。

 

「あなたは治さないの?」

 

 母親が聖女の印を見て尋ねた。

 

「私の力より、セレナの治療のほうが適切です」

 

「珍しい聖女さまね。普通は自分の奇跡を見せたがるものなのに」

 

 セレナが振り返る。

 

 昨日までなら、その言葉をうれしく思っただろう。

 

「奇跡を安売りする必要がないだけです」

 

 リュシアはあえて冷たく答えた。

 

 母親の表情が曇り、娘がセレナの後ろへ隠れる。

 

「先へ行きます」

 

 背を向けると、セレナが追ってきた。

 

「あんな言い方をする必要はなかったでしょう」

 

「事実です」

 

「あなたは前に、獣人の子どもへ無理に手を伸ばさないことを学んだ。でも、手を引っ込めることと突き放すことは違う」

 

「教えないでください」

 

「リュシア」

 

「私の姉でもないのに」

 

 その一言で、セレナは足を止めた。

 

 リュシアは振り返らなかった。

 

 このあと何を言うのか、自分でも分かっていたからだ。

 

 五人は古い狩猟小屋で夜を越すことにした。

 

 カイルとノアが食料を探し、エルドが周囲に結界を張る。セレナは小屋の浴室に湯を出し、リュシアを呼んだ。

 

「服を脱いで」

 

「急ですね」

 

「右肩の傷。ここ数日、包帯を見せてないでしょう」

 

「治りました」

 

「嘘ね」

 

 逃げ道を塞ぐ言い方だった。

 

 リュシアはしぶしぶ上着を脱いだ。縫った傷は赤く腫れ、一部が開いている。悪化に気づいていたが、セレナへ頼るわけにはいかなかった。

 

「馬鹿」

 

 セレナの声は低かった。

 

「薬は塗っていました」

 

「古い包帯の上からでしょう。どうして言わないの」

 

「これくらいで止まりたくなかったので」

 

「誰も止まるとは言ってない。歩きながらでも診られた」

 

 湯で傷を洗われ、リュシアは歯を食いしばった。

 

「痛い?」

 

「いいえ」

 

「嘘」

 

「嘘では」

 

「左手」

 

 右の親指が、また指の節へ触れていた。

 

 セレナはその手を取り、湯の中へ沈めた。

 

「癖を隠すことばかり上手になっても、嘘そのものは上手にならないわよ」

 

「では、信じてください」

 

「何を」

 

「私がカイルに言ったことです」

 

 セレナの手が止まる。

 

「聞いていたんですか」

 

「宿じゅうに聞こえてた。彼、声が大きいから」

 

「私は?」

 

「あなたの声は小さかった。でも、言葉のほうが大きかった」

 

 セレナは新しい包帯を取り、傷へ薬を塗った。

 

「信じないわ」

 

「なぜ」

 

「本当にカイルを剣としか思っていないなら、あんなに苦しそうな顔をしない」

 

「顔の話ばかりですね」

 

「魔法使いは観察が仕事なの」

 

「では、セレナは私の何を見ていたんですか」

 

 言うつもりはなかった。

 

 まだ先延ばしにしたかった。

 

 でもセレナは、カイルよりも早く真相に近づいている。待つと決めながら、リュシアの傷を見つけ、嘘を一つずつ剥がそうとしている。

 

 ここで止めなければならない。

 

「私ではなく、ミアさんを見ていたんでしょう」

 

 包帯を巻く手が、ぴたりと止まった。

 

「何を言ってるの」

 

「私の髪を結って、食事を気にして、傷を叱る。亡くなった妹にできなかったことを、私でやり直しているだけ」

 

「違う」

 

「違いません。私を妹の代わりにしていたのでしょう」

 

 セレナの指が震えた。

 

「あなたは、私自身なんて見ていなかった」

 

 言葉を置いたあと、湯の音だけが残った。

 

 セレナは怒鳴らなかった。

 

「そう思っていたの」

 

 静かな声だった。

 

「はい」

 

「いつから」

 

「最初から」

 

「水没聖堂で、ミアの話を聞いたときも?」

 

「かわいそうだと思いました。妹を失った人の機嫌を取れば、旅が楽になるとも」

 

 頬を打たれた。

 

 乾いた音が浴室に響く。

 

 痛みより先に、ほっとした。

 

 これでいい。

 

「……ごめんなさい」

 

 セレナが、自分の打った手を見つめていた。

 

「謝るんですか」

 

「手を上げたことは私が悪い」

 

「妹さんを侮辱したのに?」

 

「それでもよ」

 

 セレナは目を閉じ、息を整えた。

 

「ミアとあなたを重ねたことが、一度もないとは言わない。最初に髪を結ったとき、あの子を思い出した。あなたが無茶をすると、あの日に戻ったみたいに怖くなる」

 

 リュシアの胸が痛んだ。

 

 そこまで正直に話されて、なお嘘を返さなければならない。

 

「でも、あなたはミアじゃない。ミアは水が嫌いで、裁縫が下手で、苦い薬を飲むと泣いた。あなたは水へ勝手に飛び込み、裁縫が上手で、苦いものを我慢する」

 

 ミアが死んだ朝、セレナは妹の髪を結わなかった。

 

 王立学院の入学試験を控え、魔術書を読み直していた。ミアは赤いリボンを持って部屋へ来て、「今日は二つに結って」と頼んだ。

 

『自分でやりなさい。もう十歳でしょう』

 

 追い返した。

 

 その日、村へ灰魔が出た。

 

 セレナが駆けつけたとき、赤いリボンは泥の中に落ちていた。妹の髪は、自分で結ぼうとして片側だけ歪んでいた。

 

 あと五分、手を止めていれば。

 

 髪を結いながら話を聞いていれば、ミアが森へ木苺を取りに行く予定だと知れたかもしれない。

 

 七年間、同じ考えを繰り返した。

 

 だからリュシアの髪を初めて見たとき、櫛を取った。確かにミアを思い出した。

 

 けれど二度目からは違う。

 

 リュシアの髪は細く、絡まりやすい。強く引くと、痛くても我慢してしまう。右側から編むと落ち着くらしく、眠そうな朝には少しだけ頭を預けてくる。

 

 そんな違いを一つずつ知った。

 

 妹にできなかったことを埋めるためではない。

 

 目の前の少女が、何でも大丈夫と言って我慢するから、せめて髪を結うあいだだけは世話を焼きたかった。

 

「あなたが、私をどう見ていたかは分かった」とセレナ。「でも、私があなたをどう見ているかまで決めないで」

 

「決めていません」

 

「決めたわ。妹の代わりだと。そうでなければ困るみたいに」

 

 リュシアは目をそらした。

 

「私があなた自身を大事にしていたら、何か都合が悪いの?」

 

 答えはなかった。

 

 セレナはそこで、問いを重ねるべきだった。

 

 逃がさず、肩をつかみ、何が都合悪いのか聞くべきだった。

 

 けれどリュシアの青ざめた顔を見て、これ以上追えば折れると思った。

 

 その判断が優しさだったのか、臆病だったのか。

 

 一年後まで、セレナには分からない。

 

 セレナは赤くなった頬へ手を伸ばしかけ、止めた。

 

「私が見ていたのは、あなたよ。リュシア」

 

 名前を呼ばれただけで、泣きそうになった。

 

 右手を握りしめる。

 

「そう思いたいなら、ご自由に」

 

「どうして、そんなに必死に嫌われようとするの」

 

 核心だった。

 

 リュシアは濡れた髪を背へ払い、笑った。

 

「買いかぶられるのに、飽きただけです」

 

 浴室を出ると、扉の外にカイルがいた。

 

 頬の赤みに気づき、セレナを見る。

 

「何があった」

 

「女同士の話よ」

 

「でも」

 

「入ったら凍らせる」

 

 カイルは口を閉ざした。

 

 リュシアは彼の横を通り過ぎる。追いかける足音はなかった。

 

 夜、狩猟小屋の皆が眠ったあと、リュシアは外へ出た。

 

 木の根元で、旅立ちからつけていた小さな日記を燃やす。出来事を書いたものではない。未来にやりたいことを、思いつくたび記していた。

 

 五つ灯亭の窓は大きくする。

 

 蜂蜜菓子を売る。

 

 ノアの寝室には鍵をつける。勝手に厨房へ入るから。

 

 セレナの誕生日を聞く。

 

 カイルに、返事のなかった手紙を本当は待っていたと話す。

 

 残しておけば、誰かが見つける。

 

 自分の言葉が嘘だったと伝わってしまう。

 

 頁が一枚ずつ黒く丸まる。

 

「何を燃やしているの」

 

 振り返ると、セレナがいた。

 

「不要なものです」

 

 彼女は近づかなかった。

 

「記録庫から帰ってから、あなたは変わった」

 

「そうでしょうか」

 

「エルドは何か知ってる。あなたはそれを隠してる」

 

「本人が話すまで待つのでしょう?」

 

 自分で言って、その卑怯さに吐き気がした。

 

 セレナの顔が強張る。

 

「ええ。そう決めた」

 

「なら、待ってください」

 

 助けて、と言えたなら。

 

 今問いただして、と頼めたなら。

 

 リュシアの唇は動かなかった。

 

 セレナはしばらく立っていた。やがて外套を脱ぎ、リュシアの肩へかける。

 

「話したくなったら、起こして」

 

「そんな日は来ません」

 

「それでも」

 

 セレナは小屋へ戻った。

 

 一度も振り返らなかった。

 

 小屋の中では、カイルが起きていた。

 

「リュシアは」

 

「外。少し一人にして」

 

「何を燃やしてる」

 

「聞かなかった」

 

 カイルは立ち上がりかける。

 

「待って」とセレナは止めた。「今行けば、もっと閉じる」

 

「待って、手遅れになったら?」

 

 その問いは、七年前からセレナの中にあった。

 

「明日、私が話す」

 

「明日でいいのか」

 

「本人が話せるまで待つことも必要よ」

 

 同じ言葉を、今度は自分へ言い聞かせた。

 

 カイルは納得していなかった。それでも浴室で二人に何かあったと察し、座り直した。

 

 セレナは毛布へ入っても眠れなかった。

 

 外套を貸したため、肩が寒い。

 

 返しに来たときに、もう一度聞こう。

 

 そう決めた。

 

 リュシアは夜明け前、皆が眠ったと思ったころに外套を畳んで置いた。

 

 セレナは目を開けなかった。

 

 話す機会を、自分から一度見送った。

 

 リュシアは外套に顔を埋めた。火が消えるまで、声を出さずに泣いた。

 

 翌朝、セレナは髪を結ってくれなかった。

 

 青い紐はリュシアが自分で結んだ。鏡がなくても、結び目がひどく曲がっているのが分かった。

 

 誰も直さなかった。

 

 出発してしばらく、リュシアは何度も紐へ触れた。

 

 緩んでいる気がする。結び直せば、もっと曲がる。以前ならセレナが黙って直した。

 

 前を歩くセレナの手も、何度か持ち上がっては下りた。

 

 昼の休憩で、青い紐がとうとうほどけた。

 

 風にさらわれ、斜面へ落ちる。

 

 セレナの魔法が反射的に飛んだ。小さな氷が紐の端を地面へ留める。

 

 二人の目が合う。

 

「大切なものなのでしょう」とセレナ。

 

「ただの紐だと言ったのは、セレナです」

 

「そうね」

 

 彼女は拾わず、先へ行った。

 

 リュシアは氷を両手で溶かし、濡れた紐を結び直した。

 

 ただの紐ではないことを、二人とも知っていた。

 

 それでも、もう相手の髪へ触れる理由を見つけられなかった。

 

 旅は南へ進む。

 

 リュネまで、あと六日。

 

 灰の王が目覚めるまで、あと二十一日。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。