灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第十一話 慈悲深い聖女

 宿場町へ入る前の昼、ノアは街道を外れて野兎を捕まえた。

 

「今夜は肉!」

 

 両手で掲げる顔は、数日前までと変わらない。リュシアへ冷たい言葉を浴びせられても、彼は一行の空気を明るくしようとしていた。

 

「誰がさばくの?」とセレナ。

 

「僕」

 

「誰が焼く」

 

「カイル以外」

 

「なぜ俺を見る」

 

 カイルが不満そうに言う。ノアは兎をエルドへ渡し、枯れ枝を集め始めた。

 

「五つ灯亭の試作品にしよう。兎肉と香草の串焼き。名物になるよ」

 

 誰も返事をしなかった。

 

 ノアは手を止めず、明るい声を続ける。

 

「店の前に長椅子も置こう。金のない旅人は、そこで休んでいい。獣人でも人間でも、靴が泥だらけでも追い出さない」

 

「掃除するのは誰」とセレナ。

 

「皿洗い係」

 

「仕事が増えましたね」とエルド。

 

「嫌なら料理を覚えて」

 

 串へ肉を刺しながら、ノアはリュシアをちらりと見た。

 

「甘い味も作る。リュシア、蜂蜜好きだろ」

 

「知りません」

 

「荷物に入ってる。薬草茶に、こっそり多く入れるし」

 

「見ていたんですか」

 

「斥候だからね」

 

 得意そうに耳を立てる。

 

「僕、みんなの好きなもの覚えてるよ。カイルは塩辛い干し肉。セレナは砂糖菓子。興味ないって顔で一番食べる。エルドは温かければ何でも感動する」

 

「貧しい舌ですみません」

 

「僕は全部」

 

「知ってるわ」とセレナ。

 

「だから僕が注文を取れば完璧」

 

 ノアは五本の串を火のそばへ並べた。

 

 一番焦げていないものを、リュシアへ差し出す。

 

「蜂蜜、塗ったよ」

 

 受け取れば、彼はまだ希望を持つ。

 

「甘い肉は嫌いです」

 

「前、カイルの失敗した鍋に蜂蜜を入れようとしたじゃん」

 

「あれは味を直すためです」

 

「一口だけでも」

 

「いりません」

 

 ノアは差し出した串を見つめ、自分でかじった。

 

「おいしいのにな」

 

 笑う声が、少しだけかすれた。

 

 リュシアは何も食べなかった。空腹より、蜂蜜の焼ける匂いがつらかった。

 

 旅が終わったら、本当に作ってほしかった。

 

 五つ灯亭の窓辺で、全員の好物を並べてほしかった。

 

 その願いを顔に出さないよう、宿場町が見えるまで一人で先を歩いた。

 

 リュネまで二日という町で、宿の主人はノアを見て言った。

 

「獣は厩だ」

 

 カイルが銀貨を出す手を止めた。

 

 セレナの周囲で、空気が冷える。

 

 いつもなら、リュシアが最初に口を開いた。

 

「一人部屋を四つお願いします」

 

 宿の主人は人数を数えた。

 

「そこの神官も入れて、五人じゃないのか」

 

「ノアは雇った案内人です。部屋まで用意する契約ではありません」

 

 自分の声が、遠くから聞こえた。

 

 ノアの耳が伏せる。

 

「リュシア」とカイルが低く呼んだ。

 

「一人部屋を五つだ」

 

 銀貨を卓へ置く。

 

「うちは獣人を泊めない」

 

「なら全員、別の宿へ行くわ」とセレナ。

 

「いいよ」

 

 ノアが先に扉を開けた。

 

「厩、慣れてる。馬は文句言わないし」

 

 笑っていたが、尾は力なく垂れていた。

 

 カイルが主人をにらみつけ、ノアを追う。セレナも続き、エルドだけがリュシアの横へ残った。

 

「これが必要ですか」

 

「はい」

 

「彼はあなたを疑いながらも、信じる理由を探しています」

 

「なら、なくします」

 

 外へ出ると、三人は厩の前にいた。カイルが別の宿を探すと言い、ノアが首を振っている。

 

「明日は早い。もういいって」

 

「よくない」

 

「僕は平気」

 

「それを大丈夫とは言わない、とカイルは言うはずです」

 

 リュシアが口を挟む。

 

 カイルの顔が強張った。

 

「あなたに関係ないでしょう」

 

「関係ある。ノアは仲間だ」

 

「私は、そう言った覚えはありません」

 

 ノアがこちらを見る。

 

「五つ灯亭は?」

 

「冗談です」

 

「僕に看板を作れって言った」

 

「旅のあいだ、機嫌よく働いてもらうためです」

 

「木彫りの猫、大切にするって」

 

「捨てました」

 

 嘘だった。

 

 今も荷の底、衣服の間に包んである。

 

 右手の親指が動きそうになる。両腕を組んで隠した。

 

「どうして、そんなこと言うんだよ」

 

 ノアは怒っていなかった。怒るより先に、理由を求めている。

 

「僕が何かした?」

 

「何も。最初から、あなたに期待していません」

 

「だったら、関所でなんで助けた」

 

 来た。

 

 言わなければならない言葉が。

 

 何度も鏡へ向かって練習した。それでもノアの顔を見ると、喉が閉じた。

 

「リュシア」

 

 彼が一歩、近づく。

 

「僕、あんたに助けられたからついてきたんじゃない。初めて普通に話してくれたから、一緒にいたいと思った」

 

 知っている。

 

「獣人とか、案内人とかじゃなくて、ノアって呼んでくれた」

 

 知っている。

 

「あれも、全部嘘だったの?」

 

 リュシアは爪が食い込むほど腕をつかんだ。

 

「獣人を仲間にしておけば、慈悲深い聖女に見えると思ったの」

 

 ノアの目から、光が消える。

 

「関所には大勢いました。濡れ衣を着せられた獣人を救えば、皆が私を褒めるでしょう? あなたは案内もできた。ちょうどよかったんです」

 

「違う」

 

「同じ食卓へ座らせて、名前を呼ぶだけで、あなたは何でもしてくれた」

 

「違うよ」

 

「勘違いさせて、ごめんなさい」

 

 謝罪の形をした刃だった。

 

 ノアの耳が完全に伏せられた。尾は動かない。

 

 カイルがリュシアの前へ立った。

 

「もう黙れ」

 

「事実を話しただけです」

 

「これ以上、ノアを傷つけるな」

 

「守る相手を変えたんですね。よかった」

 

 カイルの拳が上がった。

 

 けれど、その腕をノアがつかんだ。

 

「いい」

 

 かすれた声だった。

 

「殴ったって、嘘が本当になるわけじゃない」

 

 ノアはリュシアを見た。

 

「僕は、まだ信じないから」

 

 そう言って、厩へ入っていった。

 

 その夜、四人は別の宿へ移った。

 

 リュシアだけは最初の宿に泊まった。これ以上同じ場所にいたくないと言って。

 

 扉を閉め、鍵をかける。

 

 荷袋をひっくり返し、衣服の底から木彫りの猫を取り出した。耳の大きさが違い、尾が二本ある。

 

「捨てていません」

 

 誰もいない部屋で言う。

 

「大切にしています」

 

 木彫りを胸へ抱く。

 

「ごめんなさい、ノア」

 

 声を抑える必要はなかった。隣室には誰もいない。

 

 それでも泣き声を聞かれるのが怖くて、毛布へ顔を押しつけた。

 

 夜半、窓を小石が叩いた。

 

 開けると、ノアが軒の上にしゃがんでいた。

 

「入れて」

 

「帰ってください」

 

「窓から落ちる」

 

 仕方なく中へ入れると、彼は濡れた布包みを卓へ置いた。

 

「何ですか」

 

「看板」

 

 布の中には、一枚の木板があった。五つの小さな灯が並び、その下に不器用な文字で『五つ灯亭』と彫られている。右端には、尾が二本ある山猫。

 

「リュネに着くまでに渡したかった。でも、今、渡す」

 

「いりません」

 

「いらないなら、あんたが捨てて」

 

 ノアはまっすぐリュシアを見る。

 

「僕の目を見て、全部嘘だったって言ってよ」

 

「言ったでしょう」

 

「目を見てない」

 

「ノア」

 

「僕は鼻が利く。嘘をつく人は、汗と息の匂いが変わる。あんたはずっと、怖い匂いがする」

 

 気づかれていた。

 

「何を怖がってるの」

 

「あなたに分かることではありません」

 

「分かるかもしれない。話してくれれば」

 

「分からない」

 

「なんで決めるんだよ!」

 

 初めて、ノアが声を荒らげた。

 

「僕は何もできない? 獣人だから? 子どもだから? あんたに助けられた側だから?」

 

 違う。

 

 誰より優しいから、話せない。

 

 リュシアは木板を持ち上げた。

 

「分からない理由を、教えましょうか」

 

 部屋の暖炉へ投げ込む。

 

 乾いた木に火が移った。

 

「あなたの気持ちなど、最初から必要ないからです」

 

 ノアは燃える看板を見た。

 

 取り出そうと手を伸ばしかけ、やめた。

 

「……そっか」

 

 声から、すべての力が抜けていた。

 

「僕、馬鹿だな」

 

 窓から出ていく。今度は振り返らなかった。

 

 屋根を三つ越えたところで、ノアは動けなくなった。

 

 煙突の陰へ座り、膝を抱える。夜風は冷たいのに、燃える看板を見ていた目だけが熱かった。

 

 檻にいたころ、見世物小屋の主人は毎日、優しい声で餌をくれた。

 

『いい子にしていれば、痛いことはしない』

 

 客の前で輪をくぐり、耳を触らせ、獣の真似をする。言うとおりにすれば肉がもらえた。主人は笑って頭を撫でた。

 

 逃げたあと、その優しさが一番怖くなった。

 

 リュシアは違うと思った。

 

 何も求めず、名前で呼んだ。床ではなく椅子を勧めた。水が怖いとき、手を引かず隣に座った。

 

 違うと信じたかっただけなのかもしれない。

 

「ここにいたか」

 

 カイルが隣の屋根へ上がってきた。

 

「足音、大きすぎ。斥候なら三回死んでる」

 

「騎士だからいい」

 

「よくないよ」

 

 カイルは少し離れて座った。近づきすぎない距離を取るのは、リュシアより上手だった。

 

「看板を燃やされた」とノア。

 

「見た」

 

「止めてよ」

 

「俺に止める権利はない」

 

「騎士なのに?」

 

「騎士でも、何でも止められるわけじゃない」

 

 カイルは両手を見る。

 

「俺も、自分ならリュシアを守れると思ってた。ずっと」

 

「守れてないね」

 

「ああ」

 

 怒ると思ったのに、素直に認めた。

 

「僕、まだ嘘だと思ってる」

 

「俺も思いたい」

 

「思いたい、だけ?」

 

「手紙がある。灰祷会の印も。本人も認めた」

 

「証拠がなければ信じる?」

 

 カイルは答えられなかった。

 

「僕は信じるよ」とノア。「だって、あの子が僕を普通に扱ってくれたのは本当だから。理由が何でも、あのときの僕はうれしかった」

 

「強いな」

 

「違う。怖いんだ」

 

 ノアは耳を伏せた。

 

「リュシアまで嘘なら、僕を普通に見てくれた人が一人もいなくなる」

 

「俺たちがいる」

 

「あんたたちは、リュシアがいたから僕と会った」

 

「会った理由と、今そばにいる理由は違う」

 

 カイルは手を差し出さなかった。ただ隣に座り続けた。

 

 夜が明けるまで、二人はほとんど話さなかった。

 

 それでもノアは、一人で泣かずに済んだ。

 

 足音が遠ざかるまで待ち、リュシアは暖炉へ手を入れた。

 

 熱い木板を引き出す。手のひらが焼け、皮膚が赤くただれた。それでも火を叩き消した。

 

 五つの灯のうち、二つは黒く焼け落ちていた。

 

 残った三つを指でなぞる。

 

 翌朝、ノアは笑っていた。

 

 いつもより大きな声で、カイルと話している。リュシアが近づくと笑顔を消し、視線をそらした。

 

 それでいい。

 

 朝食のあと、卓の端に兎肉の包みが残されていた。蜂蜜と香草の匂いがする。ノアは何も言わず、皆より先に宿を出た。

 

 リュシアは誰も見ていないことを確かめて、包みを荷へ入れた。

 

 昼になっても食べられなかった。夜になれば傷むと分かっていても、捨てられなかった。

 

 午後、街道脇の小川で休んだとき、包みを開いた。

 

 肉は冷え、蜂蜜が固まっている。少し酸っぱい匂いもした。

 

 食べれば、ノアの気持ちを受け取ったことになる。

 

 捨てれば、また同じものを二度と作ってもらえない気がした。

 

 リュシアは小さくちぎり、口へ入れた。

 

 冷たくても、少し傷みかけていても、おいしかった。蜂蜜の甘さと香草の苦みがした。

 

「名物にできます」

 

 誰もいない川辺でつぶやく。

 

「五つ灯亭の」

 

 残りもすべて食べた。

 

 涙が止まらず、味は途中から分からなくなった。

 

 包み紙は洗って乾かし、木彫りの猫と焼けた看板を包むために使った。

 

 ノアには、最後まで知られないはずだった。

 

 そう思いながら、リュシアは火傷した手を袖へ隠した。

 

 リュネへ向かう道の空には、黒い煙が昇っていた。

 

 町の方角だった。

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