宿場町へ入る前の昼、ノアは街道を外れて野兎を捕まえた。
「今夜は肉!」
両手で掲げる顔は、数日前までと変わらない。リュシアへ冷たい言葉を浴びせられても、彼は一行の空気を明るくしようとしていた。
「誰がさばくの?」とセレナ。
「僕」
「誰が焼く」
「カイル以外」
「なぜ俺を見る」
カイルが不満そうに言う。ノアは兎をエルドへ渡し、枯れ枝を集め始めた。
「五つ灯亭の試作品にしよう。兎肉と香草の串焼き。名物になるよ」
誰も返事をしなかった。
ノアは手を止めず、明るい声を続ける。
「店の前に長椅子も置こう。金のない旅人は、そこで休んでいい。獣人でも人間でも、靴が泥だらけでも追い出さない」
「掃除するのは誰」とセレナ。
「皿洗い係」
「仕事が増えましたね」とエルド。
「嫌なら料理を覚えて」
串へ肉を刺しながら、ノアはリュシアをちらりと見た。
「甘い味も作る。リュシア、蜂蜜好きだろ」
「知りません」
「荷物に入ってる。薬草茶に、こっそり多く入れるし」
「見ていたんですか」
「斥候だからね」
得意そうに耳を立てる。
「僕、みんなの好きなもの覚えてるよ。カイルは塩辛い干し肉。セレナは砂糖菓子。興味ないって顔で一番食べる。エルドは温かければ何でも感動する」
「貧しい舌ですみません」
「僕は全部」
「知ってるわ」とセレナ。
「だから僕が注文を取れば完璧」
ノアは五本の串を火のそばへ並べた。
一番焦げていないものを、リュシアへ差し出す。
「蜂蜜、塗ったよ」
受け取れば、彼はまだ希望を持つ。
「甘い肉は嫌いです」
「前、カイルの失敗した鍋に蜂蜜を入れようとしたじゃん」
「あれは味を直すためです」
「一口だけでも」
「いりません」
ノアは差し出した串を見つめ、自分でかじった。
「おいしいのにな」
笑う声が、少しだけかすれた。
リュシアは何も食べなかった。空腹より、蜂蜜の焼ける匂いがつらかった。
旅が終わったら、本当に作ってほしかった。
五つ灯亭の窓辺で、全員の好物を並べてほしかった。
その願いを顔に出さないよう、宿場町が見えるまで一人で先を歩いた。
リュネまで二日という町で、宿の主人はノアを見て言った。
「獣は厩だ」
カイルが銀貨を出す手を止めた。
セレナの周囲で、空気が冷える。
いつもなら、リュシアが最初に口を開いた。
「一人部屋を四つお願いします」
宿の主人は人数を数えた。
「そこの神官も入れて、五人じゃないのか」
「ノアは雇った案内人です。部屋まで用意する契約ではありません」
自分の声が、遠くから聞こえた。
ノアの耳が伏せる。
「リュシア」とカイルが低く呼んだ。
「一人部屋を五つだ」
銀貨を卓へ置く。
「うちは獣人を泊めない」
「なら全員、別の宿へ行くわ」とセレナ。
「いいよ」
ノアが先に扉を開けた。
「厩、慣れてる。馬は文句言わないし」
笑っていたが、尾は力なく垂れていた。
カイルが主人をにらみつけ、ノアを追う。セレナも続き、エルドだけがリュシアの横へ残った。
「これが必要ですか」
「はい」
「彼はあなたを疑いながらも、信じる理由を探しています」
「なら、なくします」
外へ出ると、三人は厩の前にいた。カイルが別の宿を探すと言い、ノアが首を振っている。
「明日は早い。もういいって」
「よくない」
「僕は平気」
「それを大丈夫とは言わない、とカイルは言うはずです」
リュシアが口を挟む。
カイルの顔が強張った。
「あなたに関係ないでしょう」
「関係ある。ノアは仲間だ」
「私は、そう言った覚えはありません」
ノアがこちらを見る。
「五つ灯亭は?」
「冗談です」
「僕に看板を作れって言った」
「旅のあいだ、機嫌よく働いてもらうためです」
「木彫りの猫、大切にするって」
「捨てました」
嘘だった。
今も荷の底、衣服の間に包んである。
右手の親指が動きそうになる。両腕を組んで隠した。
「どうして、そんなこと言うんだよ」
ノアは怒っていなかった。怒るより先に、理由を求めている。
「僕が何かした?」
「何も。最初から、あなたに期待していません」
「だったら、関所でなんで助けた」
来た。
言わなければならない言葉が。
何度も鏡へ向かって練習した。それでもノアの顔を見ると、喉が閉じた。
「リュシア」
彼が一歩、近づく。
「僕、あんたに助けられたからついてきたんじゃない。初めて普通に話してくれたから、一緒にいたいと思った」
知っている。
「獣人とか、案内人とかじゃなくて、ノアって呼んでくれた」
知っている。
「あれも、全部嘘だったの?」
リュシアは爪が食い込むほど腕をつかんだ。
「獣人を仲間にしておけば、慈悲深い聖女に見えると思ったの」
ノアの目から、光が消える。
「関所には大勢いました。濡れ衣を着せられた獣人を救えば、皆が私を褒めるでしょう? あなたは案内もできた。ちょうどよかったんです」
「違う」
「同じ食卓へ座らせて、名前を呼ぶだけで、あなたは何でもしてくれた」
「違うよ」
「勘違いさせて、ごめんなさい」
謝罪の形をした刃だった。
ノアの耳が完全に伏せられた。尾は動かない。
カイルがリュシアの前へ立った。
「もう黙れ」
「事実を話しただけです」
「これ以上、ノアを傷つけるな」
「守る相手を変えたんですね。よかった」
カイルの拳が上がった。
けれど、その腕をノアがつかんだ。
「いい」
かすれた声だった。
「殴ったって、嘘が本当になるわけじゃない」
ノアはリュシアを見た。
「僕は、まだ信じないから」
そう言って、厩へ入っていった。
その夜、四人は別の宿へ移った。
リュシアだけは最初の宿に泊まった。これ以上同じ場所にいたくないと言って。
扉を閉め、鍵をかける。
荷袋をひっくり返し、衣服の底から木彫りの猫を取り出した。耳の大きさが違い、尾が二本ある。
「捨てていません」
誰もいない部屋で言う。
「大切にしています」
木彫りを胸へ抱く。
「ごめんなさい、ノア」
声を抑える必要はなかった。隣室には誰もいない。
それでも泣き声を聞かれるのが怖くて、毛布へ顔を押しつけた。
夜半、窓を小石が叩いた。
開けると、ノアが軒の上にしゃがんでいた。
「入れて」
「帰ってください」
「窓から落ちる」
仕方なく中へ入れると、彼は濡れた布包みを卓へ置いた。
「何ですか」
「看板」
布の中には、一枚の木板があった。五つの小さな灯が並び、その下に不器用な文字で『五つ灯亭』と彫られている。右端には、尾が二本ある山猫。
「リュネに着くまでに渡したかった。でも、今、渡す」
「いりません」
「いらないなら、あんたが捨てて」
ノアはまっすぐリュシアを見る。
「僕の目を見て、全部嘘だったって言ってよ」
「言ったでしょう」
「目を見てない」
「ノア」
「僕は鼻が利く。嘘をつく人は、汗と息の匂いが変わる。あんたはずっと、怖い匂いがする」
気づかれていた。
「何を怖がってるの」
「あなたに分かることではありません」
「分かるかもしれない。話してくれれば」
「分からない」
「なんで決めるんだよ!」
初めて、ノアが声を荒らげた。
「僕は何もできない? 獣人だから? 子どもだから? あんたに助けられた側だから?」
違う。
誰より優しいから、話せない。
リュシアは木板を持ち上げた。
「分からない理由を、教えましょうか」
部屋の暖炉へ投げ込む。
乾いた木に火が移った。
「あなたの気持ちなど、最初から必要ないからです」
ノアは燃える看板を見た。
取り出そうと手を伸ばしかけ、やめた。
「……そっか」
声から、すべての力が抜けていた。
「僕、馬鹿だな」
窓から出ていく。今度は振り返らなかった。
屋根を三つ越えたところで、ノアは動けなくなった。
煙突の陰へ座り、膝を抱える。夜風は冷たいのに、燃える看板を見ていた目だけが熱かった。
檻にいたころ、見世物小屋の主人は毎日、優しい声で餌をくれた。
『いい子にしていれば、痛いことはしない』
客の前で輪をくぐり、耳を触らせ、獣の真似をする。言うとおりにすれば肉がもらえた。主人は笑って頭を撫でた。
逃げたあと、その優しさが一番怖くなった。
リュシアは違うと思った。
何も求めず、名前で呼んだ。床ではなく椅子を勧めた。水が怖いとき、手を引かず隣に座った。
違うと信じたかっただけなのかもしれない。
「ここにいたか」
カイルが隣の屋根へ上がってきた。
「足音、大きすぎ。斥候なら三回死んでる」
「騎士だからいい」
「よくないよ」
カイルは少し離れて座った。近づきすぎない距離を取るのは、リュシアより上手だった。
「看板を燃やされた」とノア。
「見た」
「止めてよ」
「俺に止める権利はない」
「騎士なのに?」
「騎士でも、何でも止められるわけじゃない」
カイルは両手を見る。
「俺も、自分ならリュシアを守れると思ってた。ずっと」
「守れてないね」
「ああ」
怒ると思ったのに、素直に認めた。
「僕、まだ嘘だと思ってる」
「俺も思いたい」
「思いたい、だけ?」
「手紙がある。灰祷会の印も。本人も認めた」
「証拠がなければ信じる?」
カイルは答えられなかった。
「僕は信じるよ」とノア。「だって、あの子が僕を普通に扱ってくれたのは本当だから。理由が何でも、あのときの僕はうれしかった」
「強いな」
「違う。怖いんだ」
ノアは耳を伏せた。
「リュシアまで嘘なら、僕を普通に見てくれた人が一人もいなくなる」
「俺たちがいる」
「あんたたちは、リュシアがいたから僕と会った」
「会った理由と、今そばにいる理由は違う」
カイルは手を差し出さなかった。ただ隣に座り続けた。
夜が明けるまで、二人はほとんど話さなかった。
それでもノアは、一人で泣かずに済んだ。
足音が遠ざかるまで待ち、リュシアは暖炉へ手を入れた。
熱い木板を引き出す。手のひらが焼け、皮膚が赤くただれた。それでも火を叩き消した。
五つの灯のうち、二つは黒く焼け落ちていた。
残った三つを指でなぞる。
翌朝、ノアは笑っていた。
いつもより大きな声で、カイルと話している。リュシアが近づくと笑顔を消し、視線をそらした。
それでいい。
朝食のあと、卓の端に兎肉の包みが残されていた。蜂蜜と香草の匂いがする。ノアは何も言わず、皆より先に宿を出た。
リュシアは誰も見ていないことを確かめて、包みを荷へ入れた。
昼になっても食べられなかった。夜になれば傷むと分かっていても、捨てられなかった。
午後、街道脇の小川で休んだとき、包みを開いた。
肉は冷え、蜂蜜が固まっている。少し酸っぱい匂いもした。
食べれば、ノアの気持ちを受け取ったことになる。
捨てれば、また同じものを二度と作ってもらえない気がした。
リュシアは小さくちぎり、口へ入れた。
冷たくても、少し傷みかけていても、おいしかった。蜂蜜の甘さと香草の苦みがした。
「名物にできます」
誰もいない川辺でつぶやく。
「五つ灯亭の」
残りもすべて食べた。
涙が止まらず、味は途中から分からなくなった。
包み紙は洗って乾かし、木彫りの猫と焼けた看板を包むために使った。
ノアには、最後まで知られないはずだった。
そう思いながら、リュシアは火傷した手を袖へ隠した。
リュネへ向かう道の空には、黒い煙が昇っていた。
町の方角だった。