リュネは、灰の軍勢に包囲されていた。
石壁の外を、数百の灰魔が埋めている。焼けた獣、人の骨をつなぎ合わせた巨人、黒い翼を持つ鳥。昼夜を問わず壁へ押し寄せ、町の兵士は眠ることもできない。
「第四封印が壊されました」
町を覆う黒煙を見て、エルドが言った。
「灰祷会は剣を奪えないと知り、封印そのものを攻撃した。これで復活は早まります。残された時間は、長くて七日」
リュシアは指を握った。
十五日あるはずだった時間が、半分以下になった。
五人が北門へ着いたとき、投石で塔が崩れた。
カイルとノアが瓦礫から兵を引きずり出し、セレナが氷壁で穴を塞ぐ。リュシアは倒れた者の呪いだけを暁の杯で洗った。もう、傷を引き受けることはしない。
塔の下から、子どもの泣き声がした。
石材の隙間に伝令役の少年が挟まっている。カイルが剣を差し込み、ノアと二人で瓦礫を持ち上げた。
「待って、脚が石に」
セレナが周囲だけを凍らせる。ひび割れた石が縮み、わずかな隙間ができた。
リュシアは手を伸ばしかけ、止める。少年の脚には深い裂傷がある。移せばすぐに助けられる。
だがカイルがこちらを見た。
「俺たちでできる」
敵意の混じった声だった。それでも言葉は、水没聖堂で交わした約束と同じだった。
皆が耐えられる傷まで奪わない。
ノアが少年を抱き出し、セレナが止血する。エルドは痛みを和らげる祈りを唱えた。
リュシアが何もしなくても、少年は助かった。
「ありがとう、聖女さま」
母親が駆け寄り、なぜかリュシアへ頭を下げた。
「私は何も」
「あなたのお仲間が助けてくれました」
もう仲間ではないと自分で言った。彼らもそう思い始めている。それでも町の人には、まだ同じ一行に見える。
「お礼は、あちらへ」
リュシアは四人を示し、先に礼拝堂へ向かった。
背後で少年が「聖女さまも、ありがとう」と叫んだ。
振り返らなかった。
「聖女さま!」
町長のダレスは白髭を灰まみれにして駆けてきた。
「どうか終火の剣を。封印殿は中央礼拝堂の地下です。ですが、扉が開かない」
地下の石扉には、古い文字が刻まれていた。
『灰の軍勢、天を覆いしとき。終わりの火、滅びの地に目覚める』
「町が滅びるまで開かないってこと?」ノアが顔をしかめる。
「文字どおりとは限らない」とエルド。「古代の儀式は比喩を好む」
「調べてる時間はないわ」
地上で爆音がした。灰の巨人が東壁へ取りついたらしい。
カイルは町の地図を広げた。
「北と東は持たない。住民を西門から逃がす。セレナが壁を維持、ノアは避難路を確認。エルドは地下扉を調べてくれ」
「カイルは?」
「東壁で時間を稼ぐ。リュシアは町長と住民をまとめて――」
「私が地下へ行きます」
全員の目が集まる。
「聖痕が必要です。エルドと調べます」
「一人にはしない」とカイル。
「町を守る人が必要でしょう」
「だからって」
「監視なら、エルドがいます」
エルドは何も言わなかった。
カイルは迷い、最終的にうなずいた。
「勝手なことはするな」
「分かっています」
リュシアは左手を外套の中へ隠した。
地下扉を調べるふりをして、エルドと二人になった。
「読めたんですね」とエルド。
「はい」
星縫いの針を文字の間へ差し込むと、隠された文が浮かぶ。
『命にあらず。帰る家を灰へ捧げよ』
必要なのは町の滅びであって、住民の命ではない。
町を空にして焼けば、剣は得られる。
「皆に話しましょう」とエルド。
「話しません」
「リュシア」
「この町を使います」
言葉にするだけで、口の中が苦くなった。
「住民を助ける。そして仲間には、私が生贄にしたと思わせる」
「彼らが避難を手伝えば、真実を知る」
「だから四人を遠ざけます」
リュシアは町の古地図を指した。封印殿から西の廃坑へ、細い避難坑が伸びている。入口は礼拝堂の倉庫。百十二人の住民を、灰魔に気づかれず外へ出せる。
「一刻で避難。二刻目に真名の鈴で灰魔を町へ呼び、私が星縫いの針で結界を張る。家々が焼ければ地下扉が開く」
「カイルたちは戻ります」
「西の丘に灰祷会の術者がいると、偽の情報を流します。町を焼く術式の核だと」
「実際には?」
「避難坑の出口です。四人がいれば、住民が出たあとを守れる」
真実を知らずに、住民を守ることになる。
エルドの顔が歪んだ。
「あなたは彼らの善意を、どこまで利用するのです」
「最後まで」
「私が断れば?」
「一人でやります」
エルドは目を閉じた。
「また私は、約束を正しさの代わりにする」
「違います。今回は人を救えます」
「そして四人を壊す」
「生きていれば、治ります」
「あなたはそれしか言わない」
エルドは杖を握りしめ、しばらく黙っていた。
「避難は私が指揮します。あなたは町長を説得してください」
町長ダレスは、計画を聞いて長いあいだ礼拝堂を見上げた。
「この町は、私の祖父の祖父より前からある」
「失えば、戻りません」
「命があれば、建て直せると言うのでしょう」
「簡単には言えません。家は、建物だけではありませんから」
修道院が灰になるところを想像した。洗濯物を干す庭も、鐘楼も、マルタ院長の小さな部屋も。
「でも、皆さんに死んでほしくありません」
ダレスはリュシアの目を見た。
「仲間にも話せないのですか」
「はい」
「その顔で、悪人のふりができますか」
「しなければなりません」
町長は深く息を吐き、避難鐘を一度だけ鳴らした。
それからは早かった。
住民は持てる荷だけをまとめ、礼拝堂の倉庫へ集まった。泣く子、家を離れたがらない老人、戸口へ何度も戻る者。リュシアは一人ずつ坑道へ送り出した。
パン屋の女主人が、煤けた木馬を落とした。
「息子のものです」
拾って渡す。
「聖女さまも一緒に?」
「あとから行きます」
嘘ではない。生きて坑道を通るとは言っていない。
百十二人には、それぞれ置いていくものがあった。
鍛冶屋は火床の炭を一つ、布へ包んだ。新しい土地で最初の火を起こすという。
教師は学校の名簿を胸へ抱えた。生徒の名だけは町と一緒に焼かせない。
宿屋の娘は看板を外そうとし、重すぎて諦めた。代わりに扉の鍵を持っていく。
「戻れないのに?」
「戻るためじゃありません。ここが家だったって、忘れないため」
娘は鍵を握った。
リュシアも荷の中の木彫りの猫を思った。未来の店はまだ存在しない。それでも自分にとっては、帰る場所と同じだった。
老人が一人、坑道の入口で座り込んだ。
「わしは残る。この歳で別の土地へ行っても仕方ない」
「仕方なくありません」
「家内はこの町に眠っとる」
「墓標の文字を写しました」
ダレスが紙を差し出す。リュシアが頼み、避難前に墓地を回っていた。
「新しい土地に、同じ墓標を作れます」
「同じではない」
「はい。でも、あなたがいなければ、奥さまの話を知る人もいなくなります」
老人は長く黙り、紙を受け取った。
「聖女さまは、ずるいことを言う」
「よく言われます」
「今、初めて言ったわい」
老人は立ち上がり、坑道へ入った。
最後の子どもが見えなくなるまで、リュシアは入口にいた。
全員が生きて出られる保証はない。だからエルドを先に向かわせた。彼なら必ず百十二人を守る。信じているから、共犯にした。
最後にダレスが入口へ立った。
「一年。住民はリュネの名を捨て、北西の自治領に身を隠します。あなたの仲間にも、生存を知らせない」
「お願いします」
「一年後には、真実を」
「エルドが話します」
ダレスは頭を下げた。
「あなたの名を、私たちは忘れません」
その言葉が一番つらかった。
坑道を閉じる。
少し遅れて、礼拝堂の隠し階段からエルドが戻った。
外套は土に汚れ、袖には子どもを抱いた跡が残っている。
「百十二人、全員が出口を通りました。歩けない者は交代で運んでいます。ダレスも今、向かいました」
「灰魔は?」
「西の谷に三体。処理しました」
リュシアの膝から力が抜けそうになる。
全員、生きている。
「よかった」
その一言だけは、聖女の演技ではなかった。
「まだ終わっていません」
エルドが血のついた布を渡す。自分の脇腹の古傷を開き、合図の術へ使ったらしい。
「この血で西の丘へ偽の術式を描きます。カイルたちは私が戻ったあとに誘導する。私は皆さんと一緒に町へ戻り、何も知らなかったように振る舞います」
「そこまでしなくても」
「共犯にしたのは、あなたでしょう」
責める声ではなかった。そのことが、かえって苦しかった。
「いつか、怒ってください」
「今も怒っています」
エルドは血を持って階段を上った。
しばらくして西壁の外に黒い光が上がった。偽りの合図。
リュシアも涙を拭い、仲間のところへ戻った。
リュシアは四人のところへ走った。
「西の丘に、灰祷会の術式があります。町を焼くための核です」
「どこで知った」とカイル。
「地下の記録です」
「俺たちを行かせて、君は?」
「封印殿を開けます」
「一緒に行く」
「間に合いません!」
初めて、切迫した本心を混ぜた。
「町が滅びます。私を疑うなら、ノアを残してください」
名を呼ばれたノアが顔を上げる。
「私が何かすれば、止めればいい」
カイルは迷った。
その間に、西壁の外で黒い光が上がる。エルドの合図だった。
「行って!」
セレナが決めた。
「術式は私たちが壊す。リュシア、あなたは剣を。ノア、ここに残って」
ノアは短剣を抜いた。
「妙なことしたら、止める」
「できますか」
「やるよ」
三人が西門へ走る。
姿が見えなくなると、リュシアは真名の鈴を取り出した。
「何するの」
「終火の剣を、目覚めさせます」
鈴を鳴らす。
澄んだ音が、町の外へ広がった。
灰魔たちが一斉に動きを止める。
次の瞬間、すべてが北門へ殺到した。
「リュシア!」
ノアの叫びを背に、星縫いの針を地面へ刺す。光の糸が通りを走り、彼を礼拝堂の外へ縫い留めた。身体を傷つけない拘束だ。
「放せ! 住民を逃がさなきゃ!」
「もう、逃げる人はいません」
リュシアは礼拝堂の扉を閉じた。
最初の灰魔が町へ入る。
黒い火が家の屋根へ移った。乾いた色布が燃え、窓が割れる。通りに置かれた荷や服が灰になる。
ノアは拘束を解こうともがき続けた。
「やめろ! まだ中に人がいる!」
いない。
そう言えば、彼は安心する。
リュシアは言わなかった。
町じゅうの鐘が炎で落ちる。家々が崩れ、人々の暮らしが消えていく。
涙が出そうになる。悪人は、町を焼いて泣かない。
唇の内側を噛み、地下へ降りた。
石扉は赤く光っていた。
『帰る家、灰へ還りしとき。終わりの火、担い手を選ばん』
聖痕を当てる。
扉が開き、黒い台座の上に一本の剣が現れた。
刃は炎のように赤く、柄は夜のように黒い。触れた瞬間、右手が焼けた。剣はリュシアを担い手と認めない。それでも布を巻き、両手で持ち上げる。
地上へ戻ると、町は炎の海だった。
ノアの拘束は解けている。西から戻ったカイルたちが、燃える門をくぐってきた。
「術式なんかなかった!」
カイルの声が聞こえた。
ノアが彼へ駆け寄る。
「リュシアが灰魔を呼んだ! 町の人が、中に――」
言葉にならない。
セレナが周囲を見た。道には焼けた荷物、子どもの靴、灰になった人影のような跡。灰魔に喰われた死者は、何も残さない。
リュシアは終火の剣を持ち、炎の中から歩いていった。
カイルが剣を抜く。
「何をした」
「見れば分かるでしょう」
「町の人たちは」
「百十二人」
正確な数を告げた。
「その命で、終火の剣を手に入れました」
ノアが膝をつく。
セレナは何も言わない。
カイルの剣先が、リュシアの胸へ向けられた。
その目に、初めてはっきりとした憎しみがあった。
終火の剣は、両手の中で赤く燃えている。
リュシアは思った。
これで、世界を救える。
そして心の中では、焼けていく町へ何度も謝り続けた。