灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第十二話 生贄の町

 リュネは、灰の軍勢に包囲されていた。

 

 石壁の外を、数百の灰魔が埋めている。焼けた獣、人の骨をつなぎ合わせた巨人、黒い翼を持つ鳥。昼夜を問わず壁へ押し寄せ、町の兵士は眠ることもできない。

 

「第四封印が壊されました」

 

 町を覆う黒煙を見て、エルドが言った。

 

「灰祷会は剣を奪えないと知り、封印そのものを攻撃した。これで復活は早まります。残された時間は、長くて七日」

 

 リュシアは指を握った。

 

 十五日あるはずだった時間が、半分以下になった。

 

 五人が北門へ着いたとき、投石で塔が崩れた。

 

 カイルとノアが瓦礫から兵を引きずり出し、セレナが氷壁で穴を塞ぐ。リュシアは倒れた者の呪いだけを暁の杯で洗った。もう、傷を引き受けることはしない。

 

 塔の下から、子どもの泣き声がした。

 

 石材の隙間に伝令役の少年が挟まっている。カイルが剣を差し込み、ノアと二人で瓦礫を持ち上げた。

 

「待って、脚が石に」

 

 セレナが周囲だけを凍らせる。ひび割れた石が縮み、わずかな隙間ができた。

 

 リュシアは手を伸ばしかけ、止める。少年の脚には深い裂傷がある。移せばすぐに助けられる。

 

 だがカイルがこちらを見た。

 

「俺たちでできる」

 

 敵意の混じった声だった。それでも言葉は、水没聖堂で交わした約束と同じだった。

 

 皆が耐えられる傷まで奪わない。

 

 ノアが少年を抱き出し、セレナが止血する。エルドは痛みを和らげる祈りを唱えた。

 

 リュシアが何もしなくても、少年は助かった。

 

「ありがとう、聖女さま」

 

 母親が駆け寄り、なぜかリュシアへ頭を下げた。

 

「私は何も」

 

「あなたのお仲間が助けてくれました」

 

 もう仲間ではないと自分で言った。彼らもそう思い始めている。それでも町の人には、まだ同じ一行に見える。

 

「お礼は、あちらへ」

 

 リュシアは四人を示し、先に礼拝堂へ向かった。

 

 背後で少年が「聖女さまも、ありがとう」と叫んだ。

 

 振り返らなかった。

 

「聖女さま!」

 

 町長のダレスは白髭を灰まみれにして駆けてきた。

 

「どうか終火の剣を。封印殿は中央礼拝堂の地下です。ですが、扉が開かない」

 

 地下の石扉には、古い文字が刻まれていた。

 

『灰の軍勢、天を覆いしとき。終わりの火、滅びの地に目覚める』

 

「町が滅びるまで開かないってこと?」ノアが顔をしかめる。

 

「文字どおりとは限らない」とエルド。「古代の儀式は比喩を好む」

 

「調べてる時間はないわ」

 

 地上で爆音がした。灰の巨人が東壁へ取りついたらしい。

 

 カイルは町の地図を広げた。

 

「北と東は持たない。住民を西門から逃がす。セレナが壁を維持、ノアは避難路を確認。エルドは地下扉を調べてくれ」

 

「カイルは?」

 

「東壁で時間を稼ぐ。リュシアは町長と住民をまとめて――」

 

「私が地下へ行きます」

 

 全員の目が集まる。

 

「聖痕が必要です。エルドと調べます」

 

「一人にはしない」とカイル。

 

「町を守る人が必要でしょう」

 

「だからって」

 

「監視なら、エルドがいます」

 

 エルドは何も言わなかった。

 

 カイルは迷い、最終的にうなずいた。

 

「勝手なことはするな」

 

「分かっています」

 

 リュシアは左手を外套の中へ隠した。

 

 地下扉を調べるふりをして、エルドと二人になった。

 

「読めたんですね」とエルド。

 

「はい」

 

 星縫いの針を文字の間へ差し込むと、隠された文が浮かぶ。

 

『命にあらず。帰る家を灰へ捧げよ』

 

 必要なのは町の滅びであって、住民の命ではない。

 

 町を空にして焼けば、剣は得られる。

 

「皆に話しましょう」とエルド。

 

「話しません」

 

「リュシア」

 

「この町を使います」

 

 言葉にするだけで、口の中が苦くなった。

 

「住民を助ける。そして仲間には、私が生贄にしたと思わせる」

 

「彼らが避難を手伝えば、真実を知る」

 

「だから四人を遠ざけます」

 

 リュシアは町の古地図を指した。封印殿から西の廃坑へ、細い避難坑が伸びている。入口は礼拝堂の倉庫。百十二人の住民を、灰魔に気づかれず外へ出せる。

 

「一刻で避難。二刻目に真名の鈴で灰魔を町へ呼び、私が星縫いの針で結界を張る。家々が焼ければ地下扉が開く」

 

「カイルたちは戻ります」

 

「西の丘に灰祷会の術者がいると、偽の情報を流します。町を焼く術式の核だと」

 

「実際には?」

 

「避難坑の出口です。四人がいれば、住民が出たあとを守れる」

 

 真実を知らずに、住民を守ることになる。

 

 エルドの顔が歪んだ。

 

「あなたは彼らの善意を、どこまで利用するのです」

 

「最後まで」

 

「私が断れば?」

 

「一人でやります」

 

 エルドは目を閉じた。

 

「また私は、約束を正しさの代わりにする」

 

「違います。今回は人を救えます」

 

「そして四人を壊す」

 

「生きていれば、治ります」

 

「あなたはそれしか言わない」

 

 エルドは杖を握りしめ、しばらく黙っていた。

 

「避難は私が指揮します。あなたは町長を説得してください」

 

 町長ダレスは、計画を聞いて長いあいだ礼拝堂を見上げた。

 

「この町は、私の祖父の祖父より前からある」

 

「失えば、戻りません」

 

「命があれば、建て直せると言うのでしょう」

 

「簡単には言えません。家は、建物だけではありませんから」

 

 修道院が灰になるところを想像した。洗濯物を干す庭も、鐘楼も、マルタ院長の小さな部屋も。

 

「でも、皆さんに死んでほしくありません」

 

 ダレスはリュシアの目を見た。

 

「仲間にも話せないのですか」

 

「はい」

 

「その顔で、悪人のふりができますか」

 

「しなければなりません」

 

 町長は深く息を吐き、避難鐘を一度だけ鳴らした。

 

 それからは早かった。

 

 住民は持てる荷だけをまとめ、礼拝堂の倉庫へ集まった。泣く子、家を離れたがらない老人、戸口へ何度も戻る者。リュシアは一人ずつ坑道へ送り出した。

 

 パン屋の女主人が、煤けた木馬を落とした。

 

「息子のものです」

 

 拾って渡す。

 

「聖女さまも一緒に?」

 

「あとから行きます」

 

 嘘ではない。生きて坑道を通るとは言っていない。

 

 百十二人には、それぞれ置いていくものがあった。

 

 鍛冶屋は火床の炭を一つ、布へ包んだ。新しい土地で最初の火を起こすという。

 

 教師は学校の名簿を胸へ抱えた。生徒の名だけは町と一緒に焼かせない。

 

 宿屋の娘は看板を外そうとし、重すぎて諦めた。代わりに扉の鍵を持っていく。

 

「戻れないのに?」

 

「戻るためじゃありません。ここが家だったって、忘れないため」

 

 娘は鍵を握った。

 

 リュシアも荷の中の木彫りの猫を思った。未来の店はまだ存在しない。それでも自分にとっては、帰る場所と同じだった。

 

 老人が一人、坑道の入口で座り込んだ。

 

「わしは残る。この歳で別の土地へ行っても仕方ない」

 

「仕方なくありません」

 

「家内はこの町に眠っとる」

 

「墓標の文字を写しました」

 

 ダレスが紙を差し出す。リュシアが頼み、避難前に墓地を回っていた。

 

「新しい土地に、同じ墓標を作れます」

 

「同じではない」

 

「はい。でも、あなたがいなければ、奥さまの話を知る人もいなくなります」

 

 老人は長く黙り、紙を受け取った。

 

「聖女さまは、ずるいことを言う」

 

「よく言われます」

 

「今、初めて言ったわい」

 

 老人は立ち上がり、坑道へ入った。

 

 最後の子どもが見えなくなるまで、リュシアは入口にいた。

 

 全員が生きて出られる保証はない。だからエルドを先に向かわせた。彼なら必ず百十二人を守る。信じているから、共犯にした。

 

 最後にダレスが入口へ立った。

 

「一年。住民はリュネの名を捨て、北西の自治領に身を隠します。あなたの仲間にも、生存を知らせない」

 

「お願いします」

 

「一年後には、真実を」

 

「エルドが話します」

 

 ダレスは頭を下げた。

 

「あなたの名を、私たちは忘れません」

 

 その言葉が一番つらかった。

 

 坑道を閉じる。

 

 少し遅れて、礼拝堂の隠し階段からエルドが戻った。

 

 外套は土に汚れ、袖には子どもを抱いた跡が残っている。

 

「百十二人、全員が出口を通りました。歩けない者は交代で運んでいます。ダレスも今、向かいました」

 

「灰魔は?」

 

「西の谷に三体。処理しました」

 

 リュシアの膝から力が抜けそうになる。

 

 全員、生きている。

 

「よかった」

 

 その一言だけは、聖女の演技ではなかった。

 

「まだ終わっていません」

 

 エルドが血のついた布を渡す。自分の脇腹の古傷を開き、合図の術へ使ったらしい。

 

「この血で西の丘へ偽の術式を描きます。カイルたちは私が戻ったあとに誘導する。私は皆さんと一緒に町へ戻り、何も知らなかったように振る舞います」

 

「そこまでしなくても」

 

「共犯にしたのは、あなたでしょう」

 

 責める声ではなかった。そのことが、かえって苦しかった。

 

「いつか、怒ってください」

 

「今も怒っています」

 

 エルドは血を持って階段を上った。

 

 しばらくして西壁の外に黒い光が上がった。偽りの合図。

 

 リュシアも涙を拭い、仲間のところへ戻った。

 

 リュシアは四人のところへ走った。

 

「西の丘に、灰祷会の術式があります。町を焼くための核です」

 

「どこで知った」とカイル。

 

「地下の記録です」

 

「俺たちを行かせて、君は?」

 

「封印殿を開けます」

 

「一緒に行く」

 

「間に合いません!」

 

 初めて、切迫した本心を混ぜた。

 

「町が滅びます。私を疑うなら、ノアを残してください」

 

 名を呼ばれたノアが顔を上げる。

 

「私が何かすれば、止めればいい」

 

 カイルは迷った。

 

 その間に、西壁の外で黒い光が上がる。エルドの合図だった。

 

「行って!」

 

 セレナが決めた。

 

「術式は私たちが壊す。リュシア、あなたは剣を。ノア、ここに残って」

 

 ノアは短剣を抜いた。

 

「妙なことしたら、止める」

 

「できますか」

 

「やるよ」

 

 三人が西門へ走る。

 

 姿が見えなくなると、リュシアは真名の鈴を取り出した。

 

「何するの」

 

「終火の剣を、目覚めさせます」

 

 鈴を鳴らす。

 

 澄んだ音が、町の外へ広がった。

 

 灰魔たちが一斉に動きを止める。

 

 次の瞬間、すべてが北門へ殺到した。

 

「リュシア!」

 

 ノアの叫びを背に、星縫いの針を地面へ刺す。光の糸が通りを走り、彼を礼拝堂の外へ縫い留めた。身体を傷つけない拘束だ。

 

「放せ! 住民を逃がさなきゃ!」

 

「もう、逃げる人はいません」

 

 リュシアは礼拝堂の扉を閉じた。

 

 最初の灰魔が町へ入る。

 

 黒い火が家の屋根へ移った。乾いた色布が燃え、窓が割れる。通りに置かれた荷や服が灰になる。

 

 ノアは拘束を解こうともがき続けた。

 

「やめろ! まだ中に人がいる!」

 

 いない。

 

 そう言えば、彼は安心する。

 

 リュシアは言わなかった。

 

 町じゅうの鐘が炎で落ちる。家々が崩れ、人々の暮らしが消えていく。

 

 涙が出そうになる。悪人は、町を焼いて泣かない。

 

 唇の内側を噛み、地下へ降りた。

 

 石扉は赤く光っていた。

 

『帰る家、灰へ還りしとき。終わりの火、担い手を選ばん』

 

 聖痕を当てる。

 

 扉が開き、黒い台座の上に一本の剣が現れた。

 

 刃は炎のように赤く、柄は夜のように黒い。触れた瞬間、右手が焼けた。剣はリュシアを担い手と認めない。それでも布を巻き、両手で持ち上げる。

 

 地上へ戻ると、町は炎の海だった。

 

 ノアの拘束は解けている。西から戻ったカイルたちが、燃える門をくぐってきた。

 

「術式なんかなかった!」

 

 カイルの声が聞こえた。

 

 ノアが彼へ駆け寄る。

 

「リュシアが灰魔を呼んだ! 町の人が、中に――」

 

 言葉にならない。

 

 セレナが周囲を見た。道には焼けた荷物、子どもの靴、灰になった人影のような跡。灰魔に喰われた死者は、何も残さない。

 

 リュシアは終火の剣を持ち、炎の中から歩いていった。

 

 カイルが剣を抜く。

 

「何をした」

 

「見れば分かるでしょう」

 

「町の人たちは」

 

「百十二人」

 

 正確な数を告げた。

 

「その命で、終火の剣を手に入れました」

 

 ノアが膝をつく。

 

 セレナは何も言わない。

 

 カイルの剣先が、リュシアの胸へ向けられた。

 

 その目に、初めてはっきりとした憎しみがあった。

 

 終火の剣は、両手の中で赤く燃えている。

 

 リュシアは思った。

 

 これで、世界を救える。

 

 そして心の中では、焼けていく町へ何度も謝り続けた。

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