灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第十三話 裏切り者の完成

 百十二人分の灰を前に、誰も剣を下ろせなかった。

 

 カイルの刃はリュシアの胸へ向いたままだった。赤い火を映し、細かく震えている。

 

「嘘だと言え」

 

「なぜです」

 

「君が町の人を殺したなんて、信じられない」

 

「信じたくない、の間違いでしょう」

 

「同じだ!」

 

 カイルの声が割れた。

 

「君は子どもの擦り傷さえ放っておけなかった。知らない獣人のために兵士の前へ出た。自分が死にかけても人を――」

 

「だから、疲れたんです」

 

 リュシアは燃える町を見た。

 

「傷を引き受ければ聖女と呼ばれ、優しくすれば感謝される。でも私には何も残らない。なら、聖女の名を使って欲しいものを得たほうがいい」

 

「欲しいものって、何」とセレナ。

 

「力です」

 

「灰祷会との手紙にあった、灰の力?」

 

「ええ」

 

 セレナはリュシアの目を見た。

 

 嘘を見抜こうとしている。

 

 左手は終火の剣の柄を握っていた。右手の火傷も布の下へ隠れている。

 

「灰の王を倒すんじゃなかったの」

 

「倒して、その力を取り込む。灰の王ができたことなら、聖女にもできるはずです」

 

「そんな記録はなかった」とエルドが言った。

 

 全員が彼を見る。

 

 リュシアの心臓が跳ねる。

 

「あなたは、何を知ってるの」とセレナ。

 

 エルドは灰色の髪を風に揺らし、リュシアを見た。

 

 今ここで話せば、すべてが終わる。

 

 町の人々は助かったと。リュシアが死ぬつもりだと。

 

 彼の唇が開く。

 

「灰の王を人へ移す術は存在します」

 

 そこまでだった。

 

 真実ではある。すべてではない。

 

「ほら」とリュシアは笑った。「エルドは最初から、そのために同行しています」

 

「違います」

 

「元灰祷会の神官が、何の見返りもなく私たちを助けると?」

 

 エルドの顔から血の気が引く。

 

 また彼の罪を使った。

 

 セレナが杖をエルドへ向ける。

 

「二人で私たちを利用したの?」

 

「私は――」

 

「彼は必要なことをしただけです」とリュシア。「責めるなら私を」

 

「かばうのね」

 

「共犯ですから」

 

 ノアが立ち上がった。

 

 足元から、煤けた木馬を拾う。避難したパン屋の息子が途中で落とし、リュシアが道に残したものだった。

 

「これ、子どものだよ」

 

 その声には、怒りも涙もなかった。

 

「うん」とリュシア。

 

「あんた、見たの」

 

「誰を?」

 

「この子。ここにいた子。泣いてた? 助けてって言った?」

 

 リュシアは木馬を知っている。持ち主の少年は母親の背で眠りながら、坑道を通った。

 

「覚えていません」

 

 ノアは木馬を握りしめた。

 

「僕を助けたのも、名前で呼んだのも、全部、自分が気持ちよくなるためだった?」

 

「昨日、話したでしょう」

 

「最後に一回だけ聞く」

 

 琥珀の目が、まっすぐリュシアを射抜く。

 

「僕たちは、仲間じゃなかった?」

 

 声が出なかった。

 

 ほんの一瞬。

 

 その一瞬を、ノアは期待として受け取った。

 

 リュシアは笑った。

 

「最初から、一度も」

 

 ノアの手から木馬が落ちた。

 

「……裏切り者」

 

 小さな言葉だった。

 

 灰の王を滅ぼす鍵が、ようやく一つ回った。

 

 リュシアはほほ笑んだまま、胸の中で崩れ落ちた。

 

 カイルが終火の剣を取り上げた。

 

 リュシアの手から離れた途端、赤い刃が激しく燃え上がる。剣は彼を担い手として選んだ。

 

「皮肉ですね」とリュシア。

 

「黙れ」

 

 カイルは剣を鞘へ納め、リュシアの両手を縄で縛った。

 

「王都へ連行する」

 

「灰の王が先です」とエルド。

 

「まだこいつの言葉を聞くのか」

 

「聞かなくても事実です。灰の揺籃はすでに開き始めている。四遺物を運ばなければ、七日以内に王都で復活する」

 

「こいつを連れていけば、灰の力を渡すことになる」

 

「連れていかなければ、王都の二十七万が死ぬ」

 

 エルドは初めて、犠牲者の数字を口にした。

 

 セレナの目が細くなる。

 

「どうして正確な数を知ってるの」

 

「灰祷会の記録です」

 

 嘘ではない。最初の試算は灰祷会も知っていたのだろう。

 

 カイルは剣の柄を握った。

 

「世界か、こいつか。そういうことか」

 

「はい」

 

 エルドの声がかすれた。

 

「選ぶのは、あなたです」

 

 カイルは長いあいだ動かなかった。

 

 やがて終火の剣を腰へ差し、リュシアを見た。

 

「灰の揺籃まで連れていく。そこでお前が何かすれば、俺が斬る」

 

 幼なじみではなく、裏切り者へ向ける言葉だった。

 

「できますか?」

 

「やる」

 

 リュシアはうなずいた。

 

「期待しています、騎士さま」

 

「私は反対よ」とセレナが言った。

 

 カイルが振り返る。

 

「このまま神殿へ連れていくことに。灰の王を取り込むのが目的なら、望みどおりになる」

 

「ここで殺すの?」とノア。

 

「眠らせて王都へ送る。私たちだけで遺物を運ぶ」

 

「最後の門は聖痕でしか開きません」とエルド。

 

「なら聖痕のある腕だけでも」

 

 セレナは言い切れなかった。

 

 腕を切り落として運ぶ。その案が一瞬でも頭をよぎったことに、自分で青ざめる。

 

「私なら構いませんよ」とリュシア。

 

「黙って!」

 

 セレナの声が震えた。

 

「あなたが何を望んでいるかなんて、もう信じない。だからこそ、あなたの望みどおりにはしたくない」

 

「でも七日しかない」とノア。「王都には、子どもも獣人もいる。リュネの人たちみたいに、僕たちが間に合わなくて死ぬ」

 

 木馬を握る。

 

「僕はリュシアを許さない。でも、こいつを止めるために王都を見捨てたら、同じになる」

 

 ノア自身が、任務を続けることを選んだ。

 

 セレナは目を閉じる。

 

「両手を縛る。遺物は全部こちらで持つ。眠るときも一人にしない。少しでも術を使えば、私が止める」

 

「それでいい」とカイル。

 

「よくない。何一つよくないわ」

 

 それでもセレナは縄へ拘束の魔法を重ねた。

 

 四人全員が、自分で選んだ。

 

 リュシアを連れて、灰の揺籃へ行くことを。

 

 出発前、セレナがリュシアの荷物を調べた。

 

 薬草、裁縫道具、祈祷書、蜂蜜の空き壺。衣服の底にある木彫りの猫と焼けた看板へ手が届きそうになり、リュシアはわざと終火の剣へ視線を動かした。

 

「その剣はカイルが持つんですか」

 

 セレナの注意がそちらへ向く。

 

「あなたには触らせない」

 

 鞄は口を閉じられ、カイルの馬へ載せられた。

 

 青い髪紐だけは、リュシアの髪に残った。

 

「それも術具じゃないでしょうね」とセレナ。

 

「ただの紐です」

 

 二人の間で、以前と同じ言葉が繰り返された。

 

 セレナは外そうとして手を伸ばし、触れる直前で止めた。

 

「本当に、ただの紐よ」

 

 今度の声は、自分へ言い聞かせるようだった。

 

 一行が町を出るとき、ノアは焼け跡から石を拾った。

 

 一つ、二つ。道端へ積み始める。

 

「何をしてる」とカイル。

 

「百十二個、積む」

 

「時間がない」

 

「分かってる。でも、墓もないなんて嫌だ」

 

 カイルは黙って石を拾った。

 

 セレナも、エルドも続く。

 

 リュシアは縛られたまま見ていた。

 

 百十二人は生きている。これは墓ではない。

 

 けれど真実を言えない以上、止めることもできなかった。

 

 四人は一刻を使い、小さな石塚を作った。

 

 最後の石をノアが置く。

 

「名前、誰も知らない」

 

「リュネと刻みましょう」とエルド。

 

 杖の先で平たい石へ文字を彫る。

 

 リュシアには、町そのものの墓に見えた。

 

 人は生きていても、家は戻らない。自分が奪ったものは確かにある。

 

「祈らないの?」とノア。

 

「私に祈られても、不愉快でしょう」

 

「そうだね」

 

 ノアは石塚へ背を向けた。

 

 リュシアは歩き出す前に、一度だけ頭を下げた。

 

 誰にも見られないよう、ほんの一瞬だけ。

 

 その夜、一行は焼けた町の外で休んだ。

 

 野営地を決める前、セレナは一人で町へ戻った。

 

 カイルは止めなかった。何かを確かめずにはいられないのだと、皆が分かっていた。

 

 一刻後、灰に汚れて戻った彼女は、リュシアの前へ立った。

 

「骨がない」

 

 ノアが顔を上げる。

 

「百十二人が死んだなら、何か残るはずよ。歯、骨、金具。灰魔が相手でも、全員が跡形もなく消えるなんて」

 

 希望が、ノアの目へ戻りかける。

 

 リュシアはエルドを見ないようにした。

 

「灰の軍勢には、人の魂ごと燃やすものがいます」とエルドが言った。「七つの村でも、遺骨はほとんど残らなかった」

 

 ノアの耳が再び伏せた。

 

 セレナはエルドをにらむ。

 

「あなた、どちらの味方なの」

 

「今の私には、答える資格がありません」

 

「便利ね。罪悪感のある顔をしていれば、何も言わずに済む」

 

 杖の先に火が灯る。

 

「でも、町の西側だけ灰魔の足跡が少なかった。礼拝堂の倉庫には、新しい擦り跡もあった。何かを運び出した跡よ」

 

 リュシアの背を冷たい汗が伝う。

 

「住民の財産でしょう」と答えた。「剣を得たあと、価値のあるものは使えるように移しました」

 

「どこへ」

 

「灰祷会が回収します」

 

 セレナは反論しなかった。

 

 だが信じてもいない。

 

「最後まで調べるわ」

 

「お好きに」

 

「あなたが隠しているものを見つけたら、そのときは」

 

 セレナは言葉を切った。

 

 抱きしめるとも、殺すとも言えなかったのだろう。

 

「そのときは、私が自分で選ぶ」

 

 彼女は背を向けた。

 

 リュシアは息を吐いた。セレナがあと半日調べれば、避難坑を見つけるかもしれない。

 

 だから急がなければならない。

 

 灰の揺籃へ。皆の疑いが真実へ届く前に。

 

 休むといっても、誰も眠らなかった。リュシアは木へつながれ、カイルが剣を持って見張る。セレナは遠くで町の灰を調べ、ノアは一人、木馬を削るように煤を落としていた。

 

 エルドが水を持ってくる。

 

「罪人にも水は必要でしょう」

 

「ありがとうございます」

 

 唇へ器を当ててもらい、少し飲む。

 

 カイルの視線が外れた隙に、リュシアは袖から薄い包みを落とした。

 

 エルドが拾う。

 

「何です」

 

「手紙です」

 

 ベルクレアを出てから、少しずつ書いていた。夜ごと、皆が眠ったあとに。日記は燃やしたが、一人ずつへの言葉だけはどうしても捨てられなかった。

 

「儀式のあと、聖ルーメン修道院へ持っていってください」

 

「自分で渡してください」

 

「できません」

 

「代わりの方法は、まだ」

 

「間に合わなかったときのためです」

 

 エルドは受け取ろうとしない。

 

「お願いします」

 

「私は、あなたの頼みを聞くたび罪を増やす」

 

「これで最後です」

 

「その言葉ほど信用できないものはない」

 

 それでも彼は包みを懐へ入れた。

 

「真実はいつ話せば」

 

「封印の残滓は一年で消えます。それまでは、私を憎む心が必要です」

 

「一年後なら?」

 

「全部、話してください。町の人たちのことも、私のことも」

 

「彼らは耐えられない」

 

「耐えます。皆、強いから」

 

「強さを、壊してよい理由にしないでください」

 

 リュシアは答えられなかった。

 

「手紙には、何と?」

 

「私を憎んだまま生きてください、と」

 

「一年後に真実を知れば、無理です」

 

「なら、前へ進む理由を見つけてくれるはずです」

 

「あなたは、本当に残酷な人だ」

 

「知っています」

 

 エルドは膝をつき、縛られたリュシアの手へ触れた。

 

 縄の擦れ傷が淡い光に包まれる。

 

「治さないでください。疑われます」

 

「これくらいは、私の罪です」

 

「あなたの傷ではありません」

 

「あなたが選んだ傷でもない」

 

 エルドの声が震えた。

 

「こんなものを選択と呼ばないでください」

 

 カイルがこちらを向き、エルドは立ち上がった。

 

 夜明け前、灰の向こうに黒い山が見えた。

 

 山腹には、人の目のような赤い亀裂が走っている。

 

 灰の揺籃。

 

 最後の神殿まで、あと三日。

 

 リュシアは眠るふりをしながら、皆の息遣いを聞いた。

 

 カイルは一度も剣から手を離さない。

 

 セレナは泣かない。

 

 ノアはもう、リュシアの名を呼ばない。

 

 エルドだけが真実を知り、何も言わない。

 

 裏切り者は、完成した。

 

 あとは彼らの手で、殺されるだけだった。

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