百十二人分の灰を前に、誰も剣を下ろせなかった。
カイルの刃はリュシアの胸へ向いたままだった。赤い火を映し、細かく震えている。
「嘘だと言え」
「なぜです」
「君が町の人を殺したなんて、信じられない」
「信じたくない、の間違いでしょう」
「同じだ!」
カイルの声が割れた。
「君は子どもの擦り傷さえ放っておけなかった。知らない獣人のために兵士の前へ出た。自分が死にかけても人を――」
「だから、疲れたんです」
リュシアは燃える町を見た。
「傷を引き受ければ聖女と呼ばれ、優しくすれば感謝される。でも私には何も残らない。なら、聖女の名を使って欲しいものを得たほうがいい」
「欲しいものって、何」とセレナ。
「力です」
「灰祷会との手紙にあった、灰の力?」
「ええ」
セレナはリュシアの目を見た。
嘘を見抜こうとしている。
左手は終火の剣の柄を握っていた。右手の火傷も布の下へ隠れている。
「灰の王を倒すんじゃなかったの」
「倒して、その力を取り込む。灰の王ができたことなら、聖女にもできるはずです」
「そんな記録はなかった」とエルドが言った。
全員が彼を見る。
リュシアの心臓が跳ねる。
「あなたは、何を知ってるの」とセレナ。
エルドは灰色の髪を風に揺らし、リュシアを見た。
今ここで話せば、すべてが終わる。
町の人々は助かったと。リュシアが死ぬつもりだと。
彼の唇が開く。
「灰の王を人へ移す術は存在します」
そこまでだった。
真実ではある。すべてではない。
「ほら」とリュシアは笑った。「エルドは最初から、そのために同行しています」
「違います」
「元灰祷会の神官が、何の見返りもなく私たちを助けると?」
エルドの顔から血の気が引く。
また彼の罪を使った。
セレナが杖をエルドへ向ける。
「二人で私たちを利用したの?」
「私は――」
「彼は必要なことをしただけです」とリュシア。「責めるなら私を」
「かばうのね」
「共犯ですから」
ノアが立ち上がった。
足元から、煤けた木馬を拾う。避難したパン屋の息子が途中で落とし、リュシアが道に残したものだった。
「これ、子どものだよ」
その声には、怒りも涙もなかった。
「うん」とリュシア。
「あんた、見たの」
「誰を?」
「この子。ここにいた子。泣いてた? 助けてって言った?」
リュシアは木馬を知っている。持ち主の少年は母親の背で眠りながら、坑道を通った。
「覚えていません」
ノアは木馬を握りしめた。
「僕を助けたのも、名前で呼んだのも、全部、自分が気持ちよくなるためだった?」
「昨日、話したでしょう」
「最後に一回だけ聞く」
琥珀の目が、まっすぐリュシアを射抜く。
「僕たちは、仲間じゃなかった?」
声が出なかった。
ほんの一瞬。
その一瞬を、ノアは期待として受け取った。
リュシアは笑った。
「最初から、一度も」
ノアの手から木馬が落ちた。
「……裏切り者」
小さな言葉だった。
灰の王を滅ぼす鍵が、ようやく一つ回った。
リュシアはほほ笑んだまま、胸の中で崩れ落ちた。
カイルが終火の剣を取り上げた。
リュシアの手から離れた途端、赤い刃が激しく燃え上がる。剣は彼を担い手として選んだ。
「皮肉ですね」とリュシア。
「黙れ」
カイルは剣を鞘へ納め、リュシアの両手を縄で縛った。
「王都へ連行する」
「灰の王が先です」とエルド。
「まだこいつの言葉を聞くのか」
「聞かなくても事実です。灰の揺籃はすでに開き始めている。四遺物を運ばなければ、七日以内に王都で復活する」
「こいつを連れていけば、灰の力を渡すことになる」
「連れていかなければ、王都の二十七万が死ぬ」
エルドは初めて、犠牲者の数字を口にした。
セレナの目が細くなる。
「どうして正確な数を知ってるの」
「灰祷会の記録です」
嘘ではない。最初の試算は灰祷会も知っていたのだろう。
カイルは剣の柄を握った。
「世界か、こいつか。そういうことか」
「はい」
エルドの声がかすれた。
「選ぶのは、あなたです」
カイルは長いあいだ動かなかった。
やがて終火の剣を腰へ差し、リュシアを見た。
「灰の揺籃まで連れていく。そこでお前が何かすれば、俺が斬る」
幼なじみではなく、裏切り者へ向ける言葉だった。
「できますか?」
「やる」
リュシアはうなずいた。
「期待しています、騎士さま」
「私は反対よ」とセレナが言った。
カイルが振り返る。
「このまま神殿へ連れていくことに。灰の王を取り込むのが目的なら、望みどおりになる」
「ここで殺すの?」とノア。
「眠らせて王都へ送る。私たちだけで遺物を運ぶ」
「最後の門は聖痕でしか開きません」とエルド。
「なら聖痕のある腕だけでも」
セレナは言い切れなかった。
腕を切り落として運ぶ。その案が一瞬でも頭をよぎったことに、自分で青ざめる。
「私なら構いませんよ」とリュシア。
「黙って!」
セレナの声が震えた。
「あなたが何を望んでいるかなんて、もう信じない。だからこそ、あなたの望みどおりにはしたくない」
「でも七日しかない」とノア。「王都には、子どもも獣人もいる。リュネの人たちみたいに、僕たちが間に合わなくて死ぬ」
木馬を握る。
「僕はリュシアを許さない。でも、こいつを止めるために王都を見捨てたら、同じになる」
ノア自身が、任務を続けることを選んだ。
セレナは目を閉じる。
「両手を縛る。遺物は全部こちらで持つ。眠るときも一人にしない。少しでも術を使えば、私が止める」
「それでいい」とカイル。
「よくない。何一つよくないわ」
それでもセレナは縄へ拘束の魔法を重ねた。
四人全員が、自分で選んだ。
リュシアを連れて、灰の揺籃へ行くことを。
出発前、セレナがリュシアの荷物を調べた。
薬草、裁縫道具、祈祷書、蜂蜜の空き壺。衣服の底にある木彫りの猫と焼けた看板へ手が届きそうになり、リュシアはわざと終火の剣へ視線を動かした。
「その剣はカイルが持つんですか」
セレナの注意がそちらへ向く。
「あなたには触らせない」
鞄は口を閉じられ、カイルの馬へ載せられた。
青い髪紐だけは、リュシアの髪に残った。
「それも術具じゃないでしょうね」とセレナ。
「ただの紐です」
二人の間で、以前と同じ言葉が繰り返された。
セレナは外そうとして手を伸ばし、触れる直前で止めた。
「本当に、ただの紐よ」
今度の声は、自分へ言い聞かせるようだった。
一行が町を出るとき、ノアは焼け跡から石を拾った。
一つ、二つ。道端へ積み始める。
「何をしてる」とカイル。
「百十二個、積む」
「時間がない」
「分かってる。でも、墓もないなんて嫌だ」
カイルは黙って石を拾った。
セレナも、エルドも続く。
リュシアは縛られたまま見ていた。
百十二人は生きている。これは墓ではない。
けれど真実を言えない以上、止めることもできなかった。
四人は一刻を使い、小さな石塚を作った。
最後の石をノアが置く。
「名前、誰も知らない」
「リュネと刻みましょう」とエルド。
杖の先で平たい石へ文字を彫る。
リュシアには、町そのものの墓に見えた。
人は生きていても、家は戻らない。自分が奪ったものは確かにある。
「祈らないの?」とノア。
「私に祈られても、不愉快でしょう」
「そうだね」
ノアは石塚へ背を向けた。
リュシアは歩き出す前に、一度だけ頭を下げた。
誰にも見られないよう、ほんの一瞬だけ。
その夜、一行は焼けた町の外で休んだ。
野営地を決める前、セレナは一人で町へ戻った。
カイルは止めなかった。何かを確かめずにはいられないのだと、皆が分かっていた。
一刻後、灰に汚れて戻った彼女は、リュシアの前へ立った。
「骨がない」
ノアが顔を上げる。
「百十二人が死んだなら、何か残るはずよ。歯、骨、金具。灰魔が相手でも、全員が跡形もなく消えるなんて」
希望が、ノアの目へ戻りかける。
リュシアはエルドを見ないようにした。
「灰の軍勢には、人の魂ごと燃やすものがいます」とエルドが言った。「七つの村でも、遺骨はほとんど残らなかった」
ノアの耳が再び伏せた。
セレナはエルドをにらむ。
「あなた、どちらの味方なの」
「今の私には、答える資格がありません」
「便利ね。罪悪感のある顔をしていれば、何も言わずに済む」
杖の先に火が灯る。
「でも、町の西側だけ灰魔の足跡が少なかった。礼拝堂の倉庫には、新しい擦り跡もあった。何かを運び出した跡よ」
リュシアの背を冷たい汗が伝う。
「住民の財産でしょう」と答えた。「剣を得たあと、価値のあるものは使えるように移しました」
「どこへ」
「灰祷会が回収します」
セレナは反論しなかった。
だが信じてもいない。
「最後まで調べるわ」
「お好きに」
「あなたが隠しているものを見つけたら、そのときは」
セレナは言葉を切った。
抱きしめるとも、殺すとも言えなかったのだろう。
「そのときは、私が自分で選ぶ」
彼女は背を向けた。
リュシアは息を吐いた。セレナがあと半日調べれば、避難坑を見つけるかもしれない。
だから急がなければならない。
灰の揺籃へ。皆の疑いが真実へ届く前に。
休むといっても、誰も眠らなかった。リュシアは木へつながれ、カイルが剣を持って見張る。セレナは遠くで町の灰を調べ、ノアは一人、木馬を削るように煤を落としていた。
エルドが水を持ってくる。
「罪人にも水は必要でしょう」
「ありがとうございます」
唇へ器を当ててもらい、少し飲む。
カイルの視線が外れた隙に、リュシアは袖から薄い包みを落とした。
エルドが拾う。
「何です」
「手紙です」
ベルクレアを出てから、少しずつ書いていた。夜ごと、皆が眠ったあとに。日記は燃やしたが、一人ずつへの言葉だけはどうしても捨てられなかった。
「儀式のあと、聖ルーメン修道院へ持っていってください」
「自分で渡してください」
「できません」
「代わりの方法は、まだ」
「間に合わなかったときのためです」
エルドは受け取ろうとしない。
「お願いします」
「私は、あなたの頼みを聞くたび罪を増やす」
「これで最後です」
「その言葉ほど信用できないものはない」
それでも彼は包みを懐へ入れた。
「真実はいつ話せば」
「封印の残滓は一年で消えます。それまでは、私を憎む心が必要です」
「一年後なら?」
「全部、話してください。町の人たちのことも、私のことも」
「彼らは耐えられない」
「耐えます。皆、強いから」
「強さを、壊してよい理由にしないでください」
リュシアは答えられなかった。
「手紙には、何と?」
「私を憎んだまま生きてください、と」
「一年後に真実を知れば、無理です」
「なら、前へ進む理由を見つけてくれるはずです」
「あなたは、本当に残酷な人だ」
「知っています」
エルドは膝をつき、縛られたリュシアの手へ触れた。
縄の擦れ傷が淡い光に包まれる。
「治さないでください。疑われます」
「これくらいは、私の罪です」
「あなたの傷ではありません」
「あなたが選んだ傷でもない」
エルドの声が震えた。
「こんなものを選択と呼ばないでください」
カイルがこちらを向き、エルドは立ち上がった。
夜明け前、灰の向こうに黒い山が見えた。
山腹には、人の目のような赤い亀裂が走っている。
灰の揺籃。
最後の神殿まで、あと三日。
リュシアは眠るふりをしながら、皆の息遣いを聞いた。
カイルは一度も剣から手を離さない。
セレナは泣かない。
ノアはもう、リュシアの名を呼ばない。
エルドだけが真実を知り、何も言わない。
裏切り者は、完成した。
あとは彼らの手で、殺されるだけだった。