灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第十四話 灰の揺籃

 灰の揺籃へ向かう三日間、リュシアの縄は一度も解かれなかった。

 

 食事のときはエルドが手伝い、眠るときはカイルが縄の端を握った。セレナは必要な治療だけをし、ノアは近づかなかった。

 

 五人で歩いているのに、旅立ったころよりずっと遠い。

 

 最初の夜、雨が降った。

 

 灰を含んだ黒い雨だった。触れると皮膚が焼けるため、セレナが小さな結界を張る。五人が身を寄せれば入れる広さなのに、リュシアだけは木へつながれ、結界の外にいた。

 

 雨粒が肩へ落ちる。

 

 痛みを覚悟して目を閉じると、赤いものが頭上へ広がった。

 

 カイルの外套だった。

 

「勘違いするな」

 

 彼はリュシアを見ず、外套を木の枝へ結びつけた。

 

「儀式の前に死なれたら困るだけだ」

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うな」

 

「では、余計なことをしないでください」

 

 以前と同じ言葉を返す。

 

 カイルは何も言わず、結界へ戻った。赤い外套の下には、二人分の体温が残っている。最初の灰狼に裂かれ、水没聖堂で血を吸い、今また雨からリュシアを守っていた。

 

 顔を埋めたい衝動を、縛られた手でこらえた。

 

 雨の向こうから、ノアの声がした。

 

「なんで、まだ優しくするの」

 

「優しくしてない」

 

「してるよ」

 

「なら、お前は見捨てられるのか」

 

 ノアは答えなかった。

 

 リュシアも目を閉じた。

 

 夜明け前、寒さで目を覚ますと、外套の下に小さな包みがあった。

 

 蜂蜜を塗った黒パン。

 

 誰が置いたかは分からない。カイルは見張りをしていたが、こちらを見ない。セレナは眠ったふりをし、ノアは背を向け、エルドは祈っている。

 

 リュシアは包みを開かなかった。

 

 食べれば、まだ家族のように思っていると伝わってしまう。

 

 朝、包みをそのまま地面へ置いた。

 

「いらないんですか」

 

 エルドが聞く。

 

「毒が入っているかもしれません」

 

「私が味見をしましょうか」

 

「あなたが置いたんですか」

 

「いいえ」

 

 ノアの尾がわずかに動いた。

 

 リュシアは気づかないふりをした。

 

「では、捨ててください」

 

 歩き出してから、振り返らなかった。

 

 けれど昼の休憩で、ノアがあの黒パンを一人で食べているのが見えた。乱暴にかじり、蜂蜜の甘さなどしない顔をしていた。

 

 リュシアの腹が鳴った。

 

 カイルには聞こえたらしい。干し肉を出しかけ、手を止めた。

 

 誰も何も差し出さなかった。

 

 望んだとおりなのに、空腹よりそのことが痛かった。

 

 翌朝、雨はやんだ。

 

 灰の山には草木が一本もない。地面は焼けた骨のように白く、歩くたび足跡から煙が上がる。空に鳥はなく、風の音さえしなかった。

 

 昼、ノアが前方の亀裂へ耳を澄ませた。

 

「何かいる。人じゃない。たくさん」

 

 灰魔の群れが斜面を下りてきた。

 

 カイルが終火の剣を抜き、セレナが杖を構える。エルドはリュシアの縄を岩へ結んだ。

 

「ここにいてください」

 

「逃げません」

 

「あなたの言葉を信じろと?」

 

「信じているから、皆さんは苦しいのでしょう」

 

 エルドの目が細くなる。

 

「あなたは本当に、嫌な少女になりました」

 

「憎いですか」

 

「ええ」

 

 即答だった。

 

「私を真実の共犯にし、彼らを騙す役へ戻した。あなたの選択を正しいと言えと迫った。私はあなたを憎みます」

 

「よかった」

 

「そして、その憎しみ以上に、あなたを哀れんでいる自分も憎い」

 

 エルドは戦場へ向かった。

 

 四人の戦いを、リュシアは岩陰から見た。

 

 カイルの剣が赤い弧を描き、灰魔を一太刀で焼き切る。セレナの氷が群れの足を止め、ノアが背後へ回って核を断つ。エルドの祈りが灰を地面へ縫い留める。

 

 いつの間にか、四人は自分がいなくても戦えるようになっていた。

 

 うれしかった。

 

 寂しかった。

 

 最後の一体がノアへ飛びかかった。カイルが間に合わない。セレナの魔法も遠い。

 

 リュシアは星縫いの針を持っていない。縄を切れない。

 

 代わりに左手を伸ばした。

 

 距離がある。触れられない。

 

 それでも聖痕が強く光り、ノアの胸へ入るはずだった爪傷を引いた。

 

 リュシアの胸が裂ける。

 

 血が服を染めた。

 

 ノアは無傷で灰魔を倒し、すぐに振り返った。

 

 目が合う。

 

 しまったと思った。

 

「今、何した」

 

「何も」

 

「僕、刺されたはずだった」

 

「見間違いです」

 

 リュシアは身体を岩の陰へ隠した。

 

 ノアが駆け寄ろうとする。カイルが腕をつかんだ。

 

「罠かもしれない」

 

「でも血が」

 

「近づくな」

 

 自分で植えた疑いが、自分を守った。

 

 セレナだけは近づき、無言で傷を見た。

 

「爪傷ね」

 

「岩で切りました」

 

「岩に指が生えていた?」

 

 包帯を巻きながら、セレナはノアを見た。

 

「今の傷、位置も深さも、あの子が受けるはずだったものと同じ」

 

「偶然です」

 

「あなたは、どこまで嘘を重ねるの」

 

「信じたくないものを、嘘と呼んでいるだけでしょう」

 

 セレナの手が止まった。

 

「そうかもしれない」

 

 包帯を強く結ぶ。

 

「でも私は、自分の目を信じる。最後まで」

 

 その言葉が怖かった。

 

 灰の揺籃は、山頂の火口にあった。

 

 巨大な石の門が地面から斜めに突き出し、黒い亀裂から人の囁きが漏れている。門の前には四つの台座が並んでいた。

 

 カイルが暁の杯、星縫いの針、真名の鈴を置く。終火の剣だけは手元に残した。

 

 暁の杯へ水が満ちた。

 

 表面には、これまで五人が引き受け、分かち合った傷が映る。灰狼の咬傷。水底で裂けた肩。カイルの腿。ノアの脇腹。エルドの古い傷。

 

『傷を分かつ者に、暁は宿る』

 

 杯の銘が光った。

 

 星縫いの針からは五本の糸が伸びた。一本はリュシア、残る四本は仲間へ。けれど糸の途中には黒い結び目がいくつもある。彼女がついた嘘の数だった。

 

『離れた魂を結び、偽りの孤独を縫い閉じる』

 

 真名の鈴が風もないのに揺れる。

 

『愛する者の名を呼べ。その魂は闇より帰る』

 

 三つの銘は、今のリュシアには残酷だった。

 

 傷を分かち、魂を結び、愛する者の名を呼ぶ。

 

 旅の中で学んだすべてと、最後の儀式に必要な憎悪は正反対に見える。

 

「何か起きているの」とセレナ。

 

「遺物が、持ち主を確かめています」

 

「持ち主は誰?」

 

「もう、私ではありません」

 

 杯の水へ触れると、五人の傷が消えた。針の糸は黒い結び目ごと台座へ吸い込まれ、鈴は沈黙する。

 

 ここから先、遺物が守るのは人ではなく、儀式そのものだった。

 

「開けろ」

 

 リュシアの縄を解き、聖痕を門へ当てさせる。

 

「中へ入れば、戻れません」

 

「脅しか」

 

「忠告です」

 

「お前の忠告は聞かない」

 

「そうでしたね」

 

 聖痕が黒く染まる。

 

 門が開いた。

 

 内部は神殿ではなく、巨大な空洞だった。

 

 足元に白い灰が積もり、天井から黒い根のようなものが垂れている。中央には、人の形をした灰の塊が玉座へ座っていた。その頭には、黒い炎の冠。

 

 灰の王。

 

『ようやく来たか』

 

 声は耳ではなく、全員の頭の中に響いた。

 

『愛に飢えた、小さな器よ』

 

 リュシアの足が止まる。

 

「耳を貸すな」とカイル。

 

『騎士よ。お前はまだ、この娘を守りたい』

 

「黙れ」

 

『魔女は疑っている。獣は信じたがっている。神官はすべてを知って沈黙した』

 

 エルドの顔が強張る。

 

 セレナが杖を向けた。

 

「すべてを知ってる、とは?」

 

『問え。お前が待つことを選んだ間、この娘が何を選んだか』

 

「挑発です」とリュシア。「魔神の言葉を信じるんですか」

 

 自分が言うと、ひどい冗談だった。

 

『真実を聞かせてやろう』

 

 灰の王が立ち上がる。

 

 黒い根が四人の足元へ伸び、それぞれ違う幻を映した。

 

 カイルの前には、十歳のリュシアが現れた。

 

 灰狼の傷を腹へ移し、血に濡れた寝台で笑っている。

 

『お前が弱かったから、この娘は傷ついた』

 

 次に、終火の剣を持つ今のカイルが映る。刃の先には灰冠の少女。

 

『今度も守れぬ。守るという誓いこそが、この娘を死へ追いやる』

 

「それでも誓う」

 

 カイルは幻へ剣を振った。

 

「守れなかった数だけ、やめる理由にはならない」

 

 セレナの前にはミアが立った。赤いリボンを片側だけ結び、手を伸ばしている。

 

『お姉ちゃん。今度は置いていかないで』

 

 セレナの唇が震えた。

 

「ミアは、そんなことを言わない」

 

『なぜ分かるの。最後の言葉も聞かなかったくせに』

 

「分からないわ」

 

 セレナは涙を流したまま、杖を向けた。

 

「分からないから、あなたにあの子の言葉を決めさせない」

 

 氷が幻を砕いた。

 

 ノアの周囲には、人間たちが集まった。関所の兵士、見世物小屋の主人、獣人を追い出した宿屋。

 

 皆が彼へ勲章をつけ、笑っている。

 

『英雄になれば、人間はお前を愛す。力を得よ。二度と獣と呼ばせるな』

 

「勲章がない僕を獣って呼ぶなら、そんな愛はいらない」

 

『聖女の慈悲は欲しがった』

 

 ノアの顔が歪む。

 

「欲しかったよ」

 

 それでも短剣を握る。

 

「だから、嘘だったなら自分で怒る。あんたに笑われる筋合いはない」

 

 幻の喉を切り裂いた。

 

 エルドの前には、灰になった八十三人が並んだ。

 

『赦す』

 

 一斉に同じ言葉を言う。

 

『我を受け入れれば、死者は皆お前を赦す』

 

「あなたが彼らの赦しを語るな」

 

 エルドは杖を地面へ突いた。

 

「赦されないまま生きる。それが私の選んだ罰です」

 

 四つの幻が消える。

 

 灰の王の冠が大きく揺らいだ。

 

 結びつきは弱さだけではない。魔神が理解できなかった強さを、四人はそれぞれ持っていた。

 

 空洞全体が揺れた。壁の亀裂から黒い腕が伸び、四人を捕らえる。カイルの剣が腕を焼くが、切った端から増えていく。

 

『器よ。お前は死にたくない』

 

 リュシアの前に、修道院の庭が現れた。

 

 春の日差し。白い洗濯物。マルタ院長が薬草茶を入れ、子どもたちが走っている。

 

 庭の隣には、小さな店があった。

 

 扉の上に、五つの灯を描いた看板。

 

 ノアが窓を開け、セレナが帳簿をつけ、エルドが皿を割っている。カイルがこちらへ手を伸ばす。

 

「帰ろう、リュシア」

 

 望んだ未来が、すべてそこにあった。

 

『我を拒めば、この幻を現実にしてやる』

 

「嘘です」

 

『我を受け入れよ。王都を焼く必要はない。仲間も殺さぬ。お前は生きられる』

 

 手を伸ばせば届く。

 

 死なずに済む。

 

 世界と一人を比べる必要もない。

 

「リュシア!」

 

 遠くでカイルの声がした。

 

 幻の彼も手を伸ばしている。

 

 どちらが本物か、一瞬分からなくなった。

 

 リュシアは左手の小指を握った。

 

 祭りの夜の温度は、幻よりずっと不器用だった。カイルの手は剣だこが硬く、少し汗ばんでいた。

 

「あなたには、作れません」

 

 灰の王を見上げる。

 

「五つ灯亭の看板で、猫の尾が二本あることを知らないでしょう」

 

 幻の看板では、整った猫が一匹、普通の尾を揺らしていた。

 

 偽物だ。

 

「私たちの未来は、あなたが作るには不格好すぎます」

 

 リュシアは暁の杯を取り、自分の胸へ水を注いだ。

 

 聖痕が全身へ広がる。

 

 星縫いの針を心臓の上へ刺し、魂を肉体へ縫い留める。

 

 真名の鈴を鳴らした。

 

「灰の王。あなたのすべてを、私へ」

 

『やめろ!』

 

 初めて、魔神の声に恐怖が混じった。

 

 リュシアは玉座の灰へ両手を触れた。

 

 千年分の傷と呪いが、身体へ流れ込む。

 

 焼かれた村。殺された人々。灰の王自身が抱いた憎しみ。無数の声が魂を引き裂く。

 

 叫んだ。

 

 自分の声か、魔神の声か分からない。

 

 金色の髪が根元から灰色に変わる。青い髪紐が黒い火に包まれ、ほどけた。頭上に炎が集まり、冠の形を作る。

 

 四人を捕らえていた腕が消えた。

 

 カイルたちが床へ落ちる。

 

 リュシアは、もうそこに立っていなかった。

 

 灰色の髪をなびかせ、黒い炎の冠を戴く者が、彼らを見下ろしている。

 

「リュシア?」

 

 ノアが名を呼ぶ。

 

 返事をしてはいけない。

 

 灰の王の意識が、身体の中で暴れている。気を抜けば、本当に仲間を殺す。

 

 リュシアは黒い火を手のひらへ集めた。

 

「その名で呼ばないで」

 

 四人へ向けて、最初の炎を放った。

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