灰の揺籃へ向かう三日間、リュシアの縄は一度も解かれなかった。
食事のときはエルドが手伝い、眠るときはカイルが縄の端を握った。セレナは必要な治療だけをし、ノアは近づかなかった。
五人で歩いているのに、旅立ったころよりずっと遠い。
最初の夜、雨が降った。
灰を含んだ黒い雨だった。触れると皮膚が焼けるため、セレナが小さな結界を張る。五人が身を寄せれば入れる広さなのに、リュシアだけは木へつながれ、結界の外にいた。
雨粒が肩へ落ちる。
痛みを覚悟して目を閉じると、赤いものが頭上へ広がった。
カイルの外套だった。
「勘違いするな」
彼はリュシアを見ず、外套を木の枝へ結びつけた。
「儀式の前に死なれたら困るだけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「では、余計なことをしないでください」
以前と同じ言葉を返す。
カイルは何も言わず、結界へ戻った。赤い外套の下には、二人分の体温が残っている。最初の灰狼に裂かれ、水没聖堂で血を吸い、今また雨からリュシアを守っていた。
顔を埋めたい衝動を、縛られた手でこらえた。
雨の向こうから、ノアの声がした。
「なんで、まだ優しくするの」
「優しくしてない」
「してるよ」
「なら、お前は見捨てられるのか」
ノアは答えなかった。
リュシアも目を閉じた。
夜明け前、寒さで目を覚ますと、外套の下に小さな包みがあった。
蜂蜜を塗った黒パン。
誰が置いたかは分からない。カイルは見張りをしていたが、こちらを見ない。セレナは眠ったふりをし、ノアは背を向け、エルドは祈っている。
リュシアは包みを開かなかった。
食べれば、まだ家族のように思っていると伝わってしまう。
朝、包みをそのまま地面へ置いた。
「いらないんですか」
エルドが聞く。
「毒が入っているかもしれません」
「私が味見をしましょうか」
「あなたが置いたんですか」
「いいえ」
ノアの尾がわずかに動いた。
リュシアは気づかないふりをした。
「では、捨ててください」
歩き出してから、振り返らなかった。
けれど昼の休憩で、ノアがあの黒パンを一人で食べているのが見えた。乱暴にかじり、蜂蜜の甘さなどしない顔をしていた。
リュシアの腹が鳴った。
カイルには聞こえたらしい。干し肉を出しかけ、手を止めた。
誰も何も差し出さなかった。
望んだとおりなのに、空腹よりそのことが痛かった。
翌朝、雨はやんだ。
灰の山には草木が一本もない。地面は焼けた骨のように白く、歩くたび足跡から煙が上がる。空に鳥はなく、風の音さえしなかった。
昼、ノアが前方の亀裂へ耳を澄ませた。
「何かいる。人じゃない。たくさん」
灰魔の群れが斜面を下りてきた。
カイルが終火の剣を抜き、セレナが杖を構える。エルドはリュシアの縄を岩へ結んだ。
「ここにいてください」
「逃げません」
「あなたの言葉を信じろと?」
「信じているから、皆さんは苦しいのでしょう」
エルドの目が細くなる。
「あなたは本当に、嫌な少女になりました」
「憎いですか」
「ええ」
即答だった。
「私を真実の共犯にし、彼らを騙す役へ戻した。あなたの選択を正しいと言えと迫った。私はあなたを憎みます」
「よかった」
「そして、その憎しみ以上に、あなたを哀れんでいる自分も憎い」
エルドは戦場へ向かった。
四人の戦いを、リュシアは岩陰から見た。
カイルの剣が赤い弧を描き、灰魔を一太刀で焼き切る。セレナの氷が群れの足を止め、ノアが背後へ回って核を断つ。エルドの祈りが灰を地面へ縫い留める。
いつの間にか、四人は自分がいなくても戦えるようになっていた。
うれしかった。
寂しかった。
最後の一体がノアへ飛びかかった。カイルが間に合わない。セレナの魔法も遠い。
リュシアは星縫いの針を持っていない。縄を切れない。
代わりに左手を伸ばした。
距離がある。触れられない。
それでも聖痕が強く光り、ノアの胸へ入るはずだった爪傷を引いた。
リュシアの胸が裂ける。
血が服を染めた。
ノアは無傷で灰魔を倒し、すぐに振り返った。
目が合う。
しまったと思った。
「今、何した」
「何も」
「僕、刺されたはずだった」
「見間違いです」
リュシアは身体を岩の陰へ隠した。
ノアが駆け寄ろうとする。カイルが腕をつかんだ。
「罠かもしれない」
「でも血が」
「近づくな」
自分で植えた疑いが、自分を守った。
セレナだけは近づき、無言で傷を見た。
「爪傷ね」
「岩で切りました」
「岩に指が生えていた?」
包帯を巻きながら、セレナはノアを見た。
「今の傷、位置も深さも、あの子が受けるはずだったものと同じ」
「偶然です」
「あなたは、どこまで嘘を重ねるの」
「信じたくないものを、嘘と呼んでいるだけでしょう」
セレナの手が止まった。
「そうかもしれない」
包帯を強く結ぶ。
「でも私は、自分の目を信じる。最後まで」
その言葉が怖かった。
灰の揺籃は、山頂の火口にあった。
巨大な石の門が地面から斜めに突き出し、黒い亀裂から人の囁きが漏れている。門の前には四つの台座が並んでいた。
カイルが暁の杯、星縫いの針、真名の鈴を置く。終火の剣だけは手元に残した。
暁の杯へ水が満ちた。
表面には、これまで五人が引き受け、分かち合った傷が映る。灰狼の咬傷。水底で裂けた肩。カイルの腿。ノアの脇腹。エルドの古い傷。
『傷を分かつ者に、暁は宿る』
杯の銘が光った。
星縫いの針からは五本の糸が伸びた。一本はリュシア、残る四本は仲間へ。けれど糸の途中には黒い結び目がいくつもある。彼女がついた嘘の数だった。
『離れた魂を結び、偽りの孤独を縫い閉じる』
真名の鈴が風もないのに揺れる。
『愛する者の名を呼べ。その魂は闇より帰る』
三つの銘は、今のリュシアには残酷だった。
傷を分かち、魂を結び、愛する者の名を呼ぶ。
旅の中で学んだすべてと、最後の儀式に必要な憎悪は正反対に見える。
「何か起きているの」とセレナ。
「遺物が、持ち主を確かめています」
「持ち主は誰?」
「もう、私ではありません」
杯の水へ触れると、五人の傷が消えた。針の糸は黒い結び目ごと台座へ吸い込まれ、鈴は沈黙する。
ここから先、遺物が守るのは人ではなく、儀式そのものだった。
「開けろ」
リュシアの縄を解き、聖痕を門へ当てさせる。
「中へ入れば、戻れません」
「脅しか」
「忠告です」
「お前の忠告は聞かない」
「そうでしたね」
聖痕が黒く染まる。
門が開いた。
内部は神殿ではなく、巨大な空洞だった。
足元に白い灰が積もり、天井から黒い根のようなものが垂れている。中央には、人の形をした灰の塊が玉座へ座っていた。その頭には、黒い炎の冠。
灰の王。
『ようやく来たか』
声は耳ではなく、全員の頭の中に響いた。
『愛に飢えた、小さな器よ』
リュシアの足が止まる。
「耳を貸すな」とカイル。
『騎士よ。お前はまだ、この娘を守りたい』
「黙れ」
『魔女は疑っている。獣は信じたがっている。神官はすべてを知って沈黙した』
エルドの顔が強張る。
セレナが杖を向けた。
「すべてを知ってる、とは?」
『問え。お前が待つことを選んだ間、この娘が何を選んだか』
「挑発です」とリュシア。「魔神の言葉を信じるんですか」
自分が言うと、ひどい冗談だった。
『真実を聞かせてやろう』
灰の王が立ち上がる。
黒い根が四人の足元へ伸び、それぞれ違う幻を映した。
カイルの前には、十歳のリュシアが現れた。
灰狼の傷を腹へ移し、血に濡れた寝台で笑っている。
『お前が弱かったから、この娘は傷ついた』
次に、終火の剣を持つ今のカイルが映る。刃の先には灰冠の少女。
『今度も守れぬ。守るという誓いこそが、この娘を死へ追いやる』
「それでも誓う」
カイルは幻へ剣を振った。
「守れなかった数だけ、やめる理由にはならない」
セレナの前にはミアが立った。赤いリボンを片側だけ結び、手を伸ばしている。
『お姉ちゃん。今度は置いていかないで』
セレナの唇が震えた。
「ミアは、そんなことを言わない」
『なぜ分かるの。最後の言葉も聞かなかったくせに』
「分からないわ」
セレナは涙を流したまま、杖を向けた。
「分からないから、あなたにあの子の言葉を決めさせない」
氷が幻を砕いた。
ノアの周囲には、人間たちが集まった。関所の兵士、見世物小屋の主人、獣人を追い出した宿屋。
皆が彼へ勲章をつけ、笑っている。
『英雄になれば、人間はお前を愛す。力を得よ。二度と獣と呼ばせるな』
「勲章がない僕を獣って呼ぶなら、そんな愛はいらない」
『聖女の慈悲は欲しがった』
ノアの顔が歪む。
「欲しかったよ」
それでも短剣を握る。
「だから、嘘だったなら自分で怒る。あんたに笑われる筋合いはない」
幻の喉を切り裂いた。
エルドの前には、灰になった八十三人が並んだ。
『赦す』
一斉に同じ言葉を言う。
『我を受け入れれば、死者は皆お前を赦す』
「あなたが彼らの赦しを語るな」
エルドは杖を地面へ突いた。
「赦されないまま生きる。それが私の選んだ罰です」
四つの幻が消える。
灰の王の冠が大きく揺らいだ。
結びつきは弱さだけではない。魔神が理解できなかった強さを、四人はそれぞれ持っていた。
空洞全体が揺れた。壁の亀裂から黒い腕が伸び、四人を捕らえる。カイルの剣が腕を焼くが、切った端から増えていく。
『器よ。お前は死にたくない』
リュシアの前に、修道院の庭が現れた。
春の日差し。白い洗濯物。マルタ院長が薬草茶を入れ、子どもたちが走っている。
庭の隣には、小さな店があった。
扉の上に、五つの灯を描いた看板。
ノアが窓を開け、セレナが帳簿をつけ、エルドが皿を割っている。カイルがこちらへ手を伸ばす。
「帰ろう、リュシア」
望んだ未来が、すべてそこにあった。
『我を拒めば、この幻を現実にしてやる』
「嘘です」
『我を受け入れよ。王都を焼く必要はない。仲間も殺さぬ。お前は生きられる』
手を伸ばせば届く。
死なずに済む。
世界と一人を比べる必要もない。
「リュシア!」
遠くでカイルの声がした。
幻の彼も手を伸ばしている。
どちらが本物か、一瞬分からなくなった。
リュシアは左手の小指を握った。
祭りの夜の温度は、幻よりずっと不器用だった。カイルの手は剣だこが硬く、少し汗ばんでいた。
「あなたには、作れません」
灰の王を見上げる。
「五つ灯亭の看板で、猫の尾が二本あることを知らないでしょう」
幻の看板では、整った猫が一匹、普通の尾を揺らしていた。
偽物だ。
「私たちの未来は、あなたが作るには不格好すぎます」
リュシアは暁の杯を取り、自分の胸へ水を注いだ。
聖痕が全身へ広がる。
星縫いの針を心臓の上へ刺し、魂を肉体へ縫い留める。
真名の鈴を鳴らした。
「灰の王。あなたのすべてを、私へ」
『やめろ!』
初めて、魔神の声に恐怖が混じった。
リュシアは玉座の灰へ両手を触れた。
千年分の傷と呪いが、身体へ流れ込む。
焼かれた村。殺された人々。灰の王自身が抱いた憎しみ。無数の声が魂を引き裂く。
叫んだ。
自分の声か、魔神の声か分からない。
金色の髪が根元から灰色に変わる。青い髪紐が黒い火に包まれ、ほどけた。頭上に炎が集まり、冠の形を作る。
四人を捕らえていた腕が消えた。
カイルたちが床へ落ちる。
リュシアは、もうそこに立っていなかった。
灰色の髪をなびかせ、黒い炎の冠を戴く者が、彼らを見下ろしている。
「リュシア?」
ノアが名を呼ぶ。
返事をしてはいけない。
灰の王の意識が、身体の中で暴れている。気を抜けば、本当に仲間を殺す。
リュシアは黒い火を手のひらへ集めた。
「その名で呼ばないで」
四人へ向けて、最初の炎を放った。