黒い炎は、四人の中央へ落ちた。
カイルがノアを抱えて横へ飛び、セレナの結界が爆風を受ける。白い灰が巻き上がり、空洞の壁へ亀裂が走った。
「リュシア、やめろ!」
「その名で呼ぶなと言ったでしょう」
彼女の声には、もう一つの声が重なっていた。
灰色の髪が宙へ広がり、頭上の冠から黒い火が滴る。青い髪紐は焼け、足元に落ちた。
カイルは終火の剣を構えた。
「灰の王を取り込んだのか」
「ええ。この力が欲しかった」
「町を焼いたのも、このためか」
「百十二人は、よい薪でした」
ノアが短剣を抜く。
「あんたを、絶対に許さない」
その目には涙があった。
リュシアの胸の中で、灰の王が笑う。
『見よ。望みどおり、お前は憎まれた』
望んだのではない。
必要だっただけだ。
言い返す隙に、魔神の意識が右腕を奪った。黒い槍がノアへ飛ぶ。
急所は心臓。
リュシアは腕をわずかにそらした。
槍はノアの耳をかすめ、背後の壁へ刺さる。
ノアが低く走り込む。短剣がリュシアの脇腹を裂いた。痛みがある。まだ自分の身体だと分かる。
反撃の炎を放つ。彼の足元を狙い、退路を塞ぐ。
セレナの氷槍が上空から降った。
リュシアは黒い壁を作る。氷と火がぶつかり、蒸気が空洞を包んだ。
「カイル、右から!」
セレナの声。
赤い剣が蒸気を裂く。
終火の刃が肩へ食い込む直前、リュシアは身を引いた。頬が浅く切れ、血が灰へ落ちる。
「遅いですね」
「黙れ!」
「騎士団で何を学んだんです? 守ることも、斬ることもできない」
カイルの剣筋が乱れる。
リュシアは胸元へ黒い火を打ち込んだ。鎧が砕け、彼は床を転がる。
心臓は外した。
カイルは割れた胸当てを捨て、再び立った。
「隊列を戻す! ノアは足、セレナは冠、エルドは動きを止めろ!」
旅のあいだ、何度も繰り返した陣形だった。
敵がリュシアに変わっても、四人の身体は覚えている。
ノアが柱を蹴って低く滑り込み、踵を切る。リュシアは跳んで避け、彼の背へ火を放った。セレナの氷鏡が割り込み、炎を天井へそらす。
「右、空いてる!」
ノアが叫ぶ。
カイルの剣が右肩を狙う。リュシアは黒い刃で受けた。
力がぶつかる。
「どうして、あの手紙を毎月くれた」
カイルが剣越しに聞く。
「何の話です」
「二年前の手紙だ! 俺を剣としか思ってなかったなら、どうして」
「暇だったからです」
「嘘だ!」
「返事もしなかったくせに」
本音が混ざった。
カイルの目が揺れる。
「書いた」
「え?」
「毎月、返事を書いた。出せなかった。修行がつらいなんて知られたくなくて、格好のいいことだけ書こうとして、書き直しているうちに次の手紙が来た」
知らなかった。
「全部、鞄にある。帰ったら渡すつもりだった」
帰ったら。
その言葉で力が緩んだ。
灰の王が隙を奪う。黒い刃がカイルの喉へ向かった。
リュシアは無理やり手首をひねり、刃を肩へずらした。赤い血が飛ぶ。
カイルは倒れながらも見た。
今の一撃も、途中で変わった。
「リュシア、お前は」
「黙って!」
黒い風で彼を吹き飛ばした。
胸の中で、返事を読みたかったと思った。
一通残らず、全部。
『なぜ殺さぬ』
灰の王が身体の奥で叫ぶ。
『憎ませたのだろう。ならば喰らえ。こやつらの命を得れば、お前は死なずに済む』
ほんの一瞬、その誘惑に心が揺れた。
生きたい。
死にたくない。
彼らを殺したいのではない。ただ、自分も一緒に生きたい。
けれど一人でも命を奪えば、リュシアではなくなる。
「嫌です」
声に出ていた。
「何が?」
セレナが聞く。
リュシアは笑った。
「あなたたちのように弱い者を殺すのは、つまらないと言ったんです」
セレナの目が細くなった。
急所を外した。その事実だけで、リュネの灰も、ミアの記憶を刃にされた痛みも消えはしない。何かを隠していると疑いながら、セレナは同時に、目の前の少女が自分たちを裏切ったと信じていた。
ノアも同じだった。
殺されなかったことに迷い、それでも百十二人を見捨てたリュシアを許せなかった。優しかった過去を知っているからこそ、今の彼女を心から憎んだ。
愛情と憎悪は、どちらか一つだけが入る器ではない。
四人の中には、どちらも本物として残っていた。
「ノア、下がって」
「まだ戦える」
「違う。見て」
セレナは黒い炎の跡を指した。
床には、四人が立っていた場所だけが白く残っている。最初の爆発も、槍も、炎も、すべて半歩ずれていた。
「一度も急所を狙ってない」
空洞が静まった。
カイルが起き上がる。
「リュシア」
「違う!」
今度こそ本気で炎を放った。
セレナの結界を割り、杖を弾く。それでも火は彼女の顔を避けた。
「エルド!」とセレナ。「あなた、何を知ってるの!」
エルドは祈りの杖を構えたまま、動けずにいた。
「答えて!」
「私は――」
『話せ』
灰の王がリュシアの口で囁いた。
『真実を話せば、この娘は生きるかもしれぬぞ』
嘘だ。
でもエルドの目が揺れた。
「約束を、守ってください」
リュシア自身の声がこぼれた。
カイルたちが聞いた。
「何の約束?」とノア。
エルドの顔が崩れる。
「言えない」
「どうして!」
「私が、約束したからです」
「この状況でも?」
「だからこそ」
セレナがエルドの胸ぐらをつかんだ。
「あの子が死んでも?」
「……はい」
その一言で、残っていた信頼が切れた。
カイルはエルドを見ず、終火の剣を握り直した。
「俺たちを騙して、何をしようとしてる」
「世界を救おうとしています」
「なら全部話せ!」
「話せば、救えない」
エルドの声は泣いていた。
「どうしてだよ」とノア。「仲間だろ」
「もう、違います」
エルドは杖をリュシアの影へ突き立てた。
祈りの鎖が伸び、彼女の両足を拘束する。
「私はあなたを憎む」
リュシアへ向けた言葉だった。
「私に同じ罪を繰り返させた。正しいかを選ばず、約束に従うだけの人間へ戻した。あなたの勝手な犠牲で、すべてを救えると思う傲慢さを憎む」
鎖がきつく締まる。
「それでも、死んでほしくない」
最後の言葉は、祈りの音に消えた。
灰の王が鎖を破ろうとする。リュシアは内側から力を抑えた。
ノアが飛び込む。
短剣の柄で膝を打つ。身体が傾いたところへ、セレナの氷が右腕を封じた。
「こんなの、何かがおかしい」
ノアは息を切らし、リュシアを見上げた。
「あんたが町を焼いた。僕を騙した。それは見た。でも今も、僕を殺さない」
「殺す価値がないだけです」
「また、そうやって」
ノアの声が震える。
「僕が一番傷つく言葉を選ぶ」
気づかないでほしかった。
リュシアは残った左手を上げた。
黒い火がノアの背後へ集まる。灰の王が王都へ送ろうとしていた軍勢が、空洞の壁から生まれ始めていた。
時間がない。
「もう終わりです」
炎を爆発させ、三人を吹き飛ばす。
エルドの鎖が切れ、セレナの氷が砕けた。
リュシアは中央へ立つ。
カイルだけが剣を杖にして起き上がった。
「来てください」
「嫌だ」
「王都が灰になりますよ」
「別の方法がある」
「ありません」
「探す」
「いつまで?」
記録庫でエルドへ返した問いと同じだった。
壁の亀裂から灰魔が這い出す。数十、数百。この神殿を出れば、三日で王都へ着く。
「俺は君を守る」
カイルは血を流しながら言った。
「まだ言うんですか」
「何度でも言う」
リュシアは泣きそうになった。
黒い冠の火を強く燃やす。
「あなたの誓いは、最初から何の意味もなかった」
カイルの足が止まる。
「私一人すら守れなかったんだから」
最も深く刺さる場所へ、最後の刃を入れた。
カイルの目に、涙が浮かんだ。
「そうだな」
終火の剣が赤く燃える。
「俺は君を守れなかった」
一歩、近づく。
「町の人たちも守れなかった」
さらに一歩。
「だから、これ以上は奪わせない」
カイルが走った。
リュシアは黒い槍を作る。
心臓を狙うように構え、最後の瞬間に半歩ずらした。
槍がカイルの脇を通り過ぎる。
終火の剣が、リュシアの胸を貫いた。
熱い。
痛い。
思っていたより、ずっと痛かった。
呼吸ができない。足から力が抜け、カイルの肩へ倒れ込む。
彼は剣を離さず、リュシアの身体を支えた。
「終わりだ、灰の王」
憎しみを込めた声だった。
胸の中で、魔神が絶叫する。
暁の杯から光があふれ、星縫いの針が魂を縫い閉じる。真名の鈴がひとりでに鳴り、終火の刃が灰の王の核を焼いた。
成功した。
カイルが、世界を救ってくれた。
リュシアは血の味がする口を動かした。
「約束……守ってくれて、ありがとう」
声は、自分にも聞こえないほど小さかった。
「何だ」
カイルが顔を近づける。
聞こえなかったのかもしれない。
それでよかった。
帰る約束ではない。
守る約束を、彼は果たした。
リュシアではなく、リュシアが守りたかったすべてを守った。
黒い冠が崩れる。
灰色の髪が、毛先から白い灰へ変わった。
怖い。
消えたくない。
カイルの服をつかみたかったが、指はもう動かなかった。
最後に見えたのは、彼の泣いている顔だった。
ごめんなさい。
声にはならない。
リュシアの身体が灰になり、カイルの腕からこぼれた。
赤い外套を広げても、受け止められない。
指の間を抜け、白い灰が床へ積もる。
青い髪紐だけが一瞬残った。布は黒い火に焼かれ、小さな銀の留め金だけが灰の上へ落ちた。
カイルは終火の剣を握ったまま、灰を見下ろしていた。
「最後まで」
声が震える。
「最後まで、俺を笑ったのか」
リュシアの言葉は、嘲笑としてしか届かなかった。
空洞の壁から生まれかけていた灰魔が、一斉に崩れた。
黒い火は消え、降り続いていた灰も止まる。
地上では、千年ぶりの青空が広がっていた。
世界は救われた。
ノアは灰の中へ両手を入れた。
「何か残ってるかもしれない」
指で何度も掘る。
「髪とか、骨とか。聖痕とか。治せるものが」
「ノア」とセレナ。
「灰から戻す魔法、あるだろ。真名の鈴がある。名前を呼べば魂が帰るって」
力を失った鈴を拾い、鳴らす。
音はしなかった。
「リュシア」
もう一度振る。
「リュシア、帰ってこいよ!」
鈴は沈黙したままだった。
セレナは灰の上に落ちた銀の留め金を拾った。青い紐は焼け、わずかな繊維だけがこびりついている。
「私が、気づいてた」
留め金を握る。
「攻撃が外れてるって。もっと早く言えば。戦う前に気づけば」
「結果は変わりません」とエルド。
「あなたに言われたくない!」
セレナの火がエルドの頬をかすめた。
彼は避けなかった。
「そうですね」
「何を知ってたの」
「言えません」
「リュシアは死んだのよ!」
「それでも、言えない」
セレナは杖を振り上げたが、最後には下ろした。
カイルは動かなかった。
赤い外套に残った灰を包もうとして、何度も布の端を合わせる。包むたび灰が隙間からこぼれ、白い床と混じった。
「どれが、リュシアの灰なんだ」
誰にも分からない。
「俺は、何を持って帰ればいい」
返事はなかった。
四人の誰も、空を見上げなかった。