灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第十五話 約束の剣

 黒い炎は、四人の中央へ落ちた。

 

 カイルがノアを抱えて横へ飛び、セレナの結界が爆風を受ける。白い灰が巻き上がり、空洞の壁へ亀裂が走った。

 

「リュシア、やめろ!」

 

「その名で呼ぶなと言ったでしょう」

 

 彼女の声には、もう一つの声が重なっていた。

 

 灰色の髪が宙へ広がり、頭上の冠から黒い火が滴る。青い髪紐は焼け、足元に落ちた。

 

 カイルは終火の剣を構えた。

 

「灰の王を取り込んだのか」

 

「ええ。この力が欲しかった」

 

「町を焼いたのも、このためか」

 

「百十二人は、よい薪でした」

 

 ノアが短剣を抜く。

 

「あんたを、絶対に許さない」

 

 その目には涙があった。

 

 リュシアの胸の中で、灰の王が笑う。

 

『見よ。望みどおり、お前は憎まれた』

 

 望んだのではない。

 

 必要だっただけだ。

 

 言い返す隙に、魔神の意識が右腕を奪った。黒い槍がノアへ飛ぶ。

 

 急所は心臓。

 

 リュシアは腕をわずかにそらした。

 

 槍はノアの耳をかすめ、背後の壁へ刺さる。

 

 ノアが低く走り込む。短剣がリュシアの脇腹を裂いた。痛みがある。まだ自分の身体だと分かる。

 

 反撃の炎を放つ。彼の足元を狙い、退路を塞ぐ。

 

 セレナの氷槍が上空から降った。

 

 リュシアは黒い壁を作る。氷と火がぶつかり、蒸気が空洞を包んだ。

 

「カイル、右から!」

 

 セレナの声。

 

 赤い剣が蒸気を裂く。

 

 終火の刃が肩へ食い込む直前、リュシアは身を引いた。頬が浅く切れ、血が灰へ落ちる。

 

「遅いですね」

 

「黙れ!」

 

「騎士団で何を学んだんです? 守ることも、斬ることもできない」

 

 カイルの剣筋が乱れる。

 

 リュシアは胸元へ黒い火を打ち込んだ。鎧が砕け、彼は床を転がる。

 

 心臓は外した。

 

 カイルは割れた胸当てを捨て、再び立った。

 

「隊列を戻す! ノアは足、セレナは冠、エルドは動きを止めろ!」

 

 旅のあいだ、何度も繰り返した陣形だった。

 

 敵がリュシアに変わっても、四人の身体は覚えている。

 

 ノアが柱を蹴って低く滑り込み、踵を切る。リュシアは跳んで避け、彼の背へ火を放った。セレナの氷鏡が割り込み、炎を天井へそらす。

 

「右、空いてる!」

 

 ノアが叫ぶ。

 

 カイルの剣が右肩を狙う。リュシアは黒い刃で受けた。

 

 力がぶつかる。

 

「どうして、あの手紙を毎月くれた」

 

 カイルが剣越しに聞く。

 

「何の話です」

 

「二年前の手紙だ! 俺を剣としか思ってなかったなら、どうして」

 

「暇だったからです」

 

「嘘だ!」

 

「返事もしなかったくせに」

 

 本音が混ざった。

 

 カイルの目が揺れる。

 

「書いた」

 

「え?」

 

「毎月、返事を書いた。出せなかった。修行がつらいなんて知られたくなくて、格好のいいことだけ書こうとして、書き直しているうちに次の手紙が来た」

 

 知らなかった。

 

「全部、鞄にある。帰ったら渡すつもりだった」

 

 帰ったら。

 

 その言葉で力が緩んだ。

 

 灰の王が隙を奪う。黒い刃がカイルの喉へ向かった。

 

 リュシアは無理やり手首をひねり、刃を肩へずらした。赤い血が飛ぶ。

 

 カイルは倒れながらも見た。

 

 今の一撃も、途中で変わった。

 

「リュシア、お前は」

 

「黙って!」

 

 黒い風で彼を吹き飛ばした。

 

 胸の中で、返事を読みたかったと思った。

 

 一通残らず、全部。

 

『なぜ殺さぬ』

 

 灰の王が身体の奥で叫ぶ。

 

『憎ませたのだろう。ならば喰らえ。こやつらの命を得れば、お前は死なずに済む』

 

 ほんの一瞬、その誘惑に心が揺れた。

 

 生きたい。

 

 死にたくない。

 

 彼らを殺したいのではない。ただ、自分も一緒に生きたい。

 

 けれど一人でも命を奪えば、リュシアではなくなる。

 

「嫌です」

 

 声に出ていた。

 

「何が?」

 

 セレナが聞く。

 

 リュシアは笑った。

 

「あなたたちのように弱い者を殺すのは、つまらないと言ったんです」

 

 セレナの目が細くなった。

 

 急所を外した。その事実だけで、リュネの灰も、ミアの記憶を刃にされた痛みも消えはしない。何かを隠していると疑いながら、セレナは同時に、目の前の少女が自分たちを裏切ったと信じていた。

 

 ノアも同じだった。

 

 殺されなかったことに迷い、それでも百十二人を見捨てたリュシアを許せなかった。優しかった過去を知っているからこそ、今の彼女を心から憎んだ。

 

 愛情と憎悪は、どちらか一つだけが入る器ではない。

 

 四人の中には、どちらも本物として残っていた。

 

「ノア、下がって」

 

「まだ戦える」

 

「違う。見て」

 

 セレナは黒い炎の跡を指した。

 

 床には、四人が立っていた場所だけが白く残っている。最初の爆発も、槍も、炎も、すべて半歩ずれていた。

 

「一度も急所を狙ってない」

 

 空洞が静まった。

 

 カイルが起き上がる。

 

「リュシア」

 

「違う!」

 

 今度こそ本気で炎を放った。

 

 セレナの結界を割り、杖を弾く。それでも火は彼女の顔を避けた。

 

「エルド!」とセレナ。「あなた、何を知ってるの!」

 

 エルドは祈りの杖を構えたまま、動けずにいた。

 

「答えて!」

 

「私は――」

 

『話せ』

 

 灰の王がリュシアの口で囁いた。

 

『真実を話せば、この娘は生きるかもしれぬぞ』

 

 嘘だ。

 

 でもエルドの目が揺れた。

 

「約束を、守ってください」

 

 リュシア自身の声がこぼれた。

 

 カイルたちが聞いた。

 

「何の約束?」とノア。

 

 エルドの顔が崩れる。

 

「言えない」

 

「どうして!」

 

「私が、約束したからです」

 

「この状況でも?」

 

「だからこそ」

 

 セレナがエルドの胸ぐらをつかんだ。

 

「あの子が死んでも?」

 

「……はい」

 

 その一言で、残っていた信頼が切れた。

 

 カイルはエルドを見ず、終火の剣を握り直した。

 

「俺たちを騙して、何をしようとしてる」

 

「世界を救おうとしています」

 

「なら全部話せ!」

 

「話せば、救えない」

 

 エルドの声は泣いていた。

 

「どうしてだよ」とノア。「仲間だろ」

 

「もう、違います」

 

 エルドは杖をリュシアの影へ突き立てた。

 

 祈りの鎖が伸び、彼女の両足を拘束する。

 

「私はあなたを憎む」

 

 リュシアへ向けた言葉だった。

 

「私に同じ罪を繰り返させた。正しいかを選ばず、約束に従うだけの人間へ戻した。あなたの勝手な犠牲で、すべてを救えると思う傲慢さを憎む」

 

 鎖がきつく締まる。

 

「それでも、死んでほしくない」

 

 最後の言葉は、祈りの音に消えた。

 

 灰の王が鎖を破ろうとする。リュシアは内側から力を抑えた。

 

 ノアが飛び込む。

 

 短剣の柄で膝を打つ。身体が傾いたところへ、セレナの氷が右腕を封じた。

 

「こんなの、何かがおかしい」

 

 ノアは息を切らし、リュシアを見上げた。

 

「あんたが町を焼いた。僕を騙した。それは見た。でも今も、僕を殺さない」

 

「殺す価値がないだけです」

 

「また、そうやって」

 

 ノアの声が震える。

 

「僕が一番傷つく言葉を選ぶ」

 

 気づかないでほしかった。

 

 リュシアは残った左手を上げた。

 

 黒い火がノアの背後へ集まる。灰の王が王都へ送ろうとしていた軍勢が、空洞の壁から生まれ始めていた。

 

 時間がない。

 

「もう終わりです」

 

 炎を爆発させ、三人を吹き飛ばす。

 

 エルドの鎖が切れ、セレナの氷が砕けた。

 

 リュシアは中央へ立つ。

 

 カイルだけが剣を杖にして起き上がった。

 

「来てください」

 

「嫌だ」

 

「王都が灰になりますよ」

 

「別の方法がある」

 

「ありません」

 

「探す」

 

「いつまで?」

 

 記録庫でエルドへ返した問いと同じだった。

 

 壁の亀裂から灰魔が這い出す。数十、数百。この神殿を出れば、三日で王都へ着く。

 

「俺は君を守る」

 

 カイルは血を流しながら言った。

 

「まだ言うんですか」

 

「何度でも言う」

 

 リュシアは泣きそうになった。

 

 黒い冠の火を強く燃やす。

 

「あなたの誓いは、最初から何の意味もなかった」

 

 カイルの足が止まる。

 

「私一人すら守れなかったんだから」

 

 最も深く刺さる場所へ、最後の刃を入れた。

 

 カイルの目に、涙が浮かんだ。

 

「そうだな」

 

 終火の剣が赤く燃える。

 

「俺は君を守れなかった」

 

 一歩、近づく。

 

「町の人たちも守れなかった」

 

 さらに一歩。

 

「だから、これ以上は奪わせない」

 

 カイルが走った。

 

 リュシアは黒い槍を作る。

 

 心臓を狙うように構え、最後の瞬間に半歩ずらした。

 

 槍がカイルの脇を通り過ぎる。

 

 終火の剣が、リュシアの胸を貫いた。

 

 熱い。

 

 痛い。

 

 思っていたより、ずっと痛かった。

 

 呼吸ができない。足から力が抜け、カイルの肩へ倒れ込む。

 

 彼は剣を離さず、リュシアの身体を支えた。

 

「終わりだ、灰の王」

 

 憎しみを込めた声だった。

 

 胸の中で、魔神が絶叫する。

 

 暁の杯から光があふれ、星縫いの針が魂を縫い閉じる。真名の鈴がひとりでに鳴り、終火の刃が灰の王の核を焼いた。

 

 成功した。

 

 カイルが、世界を救ってくれた。

 

 リュシアは血の味がする口を動かした。

 

「約束……守ってくれて、ありがとう」

 

 声は、自分にも聞こえないほど小さかった。

 

「何だ」

 

 カイルが顔を近づける。

 

 聞こえなかったのかもしれない。

 

 それでよかった。

 

 帰る約束ではない。

 

 守る約束を、彼は果たした。

 

 リュシアではなく、リュシアが守りたかったすべてを守った。

 

 黒い冠が崩れる。

 

 灰色の髪が、毛先から白い灰へ変わった。

 

 怖い。

 

 消えたくない。

 

 カイルの服をつかみたかったが、指はもう動かなかった。

 

 最後に見えたのは、彼の泣いている顔だった。

 

 ごめんなさい。

 

 声にはならない。

 

 リュシアの身体が灰になり、カイルの腕からこぼれた。

 

 赤い外套を広げても、受け止められない。

 

 指の間を抜け、白い灰が床へ積もる。

 

 青い髪紐だけが一瞬残った。布は黒い火に焼かれ、小さな銀の留め金だけが灰の上へ落ちた。

 

 カイルは終火の剣を握ったまま、灰を見下ろしていた。

 

「最後まで」

 

 声が震える。

 

「最後まで、俺を笑ったのか」

 

 リュシアの言葉は、嘲笑としてしか届かなかった。

 

 空洞の壁から生まれかけていた灰魔が、一斉に崩れた。

 

 黒い火は消え、降り続いていた灰も止まる。

 

 地上では、千年ぶりの青空が広がっていた。

 

 世界は救われた。

 

 ノアは灰の中へ両手を入れた。

 

「何か残ってるかもしれない」

 

 指で何度も掘る。

 

「髪とか、骨とか。聖痕とか。治せるものが」

 

「ノア」とセレナ。

 

「灰から戻す魔法、あるだろ。真名の鈴がある。名前を呼べば魂が帰るって」

 

 力を失った鈴を拾い、鳴らす。

 

 音はしなかった。

 

「リュシア」

 

 もう一度振る。

 

「リュシア、帰ってこいよ!」

 

 鈴は沈黙したままだった。

 

 セレナは灰の上に落ちた銀の留め金を拾った。青い紐は焼け、わずかな繊維だけがこびりついている。

 

「私が、気づいてた」

 

 留め金を握る。

 

「攻撃が外れてるって。もっと早く言えば。戦う前に気づけば」

 

「結果は変わりません」とエルド。

 

「あなたに言われたくない!」

 

 セレナの火がエルドの頬をかすめた。

 

 彼は避けなかった。

 

「そうですね」

 

「何を知ってたの」

 

「言えません」

 

「リュシアは死んだのよ!」

 

「それでも、言えない」

 

 セレナは杖を振り上げたが、最後には下ろした。

 

 カイルは動かなかった。

 

 赤い外套に残った灰を包もうとして、何度も布の端を合わせる。包むたび灰が隙間からこぼれ、白い床と混じった。

 

「どれが、リュシアの灰なんだ」

 

 誰にも分からない。

 

「俺は、何を持って帰ればいい」

 

 返事はなかった。

 

 四人の誰も、空を見上げなかった。

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