灰の揺籃を出た四人を、青空が迎えた。
灰のない空を見たのは、旅立ってから初めてだった。
山のふもとには王国軍が来ていた。黒い火が消え、灰魔が崩れたことで勝利を知った兵士たちは、四人の姿を見ると歓声を上げた。
「英雄たちのお帰りだ!」
誰も帰ってきてはいなかった。
カイルは終火の剣を持ち、赤い外套を両腕へ抱えていた。外套の内側には白い灰がわずかに残っている。歩くたび、少しずつ風にさらわれた。
「聖女さまは?」
若い兵士が聞いた。
カイルは答えられなかった。
セレナが代わりに言った。
「死んだわ」
「灰の王との戦いで?」
「灰の王になって、死んだ」
それだけで、話は兵士たちの間を駆けた。
聖女は魔神の力に魅入られた。
リュネの町を生贄にし、灰の王を取り込んだ。
四英雄が裏切り者を討ち、世界を救った。
王都へ着くまでの七日で、物語は美しく整えられた。
都の門には花が積まれ、百の鐘が鳴った。通りを埋める人々が、カイルたちの名を叫ぶ。
「灰断ちの騎士、カイル!」
「氷華の魔女、セレナ!」
「山猫の英雄、ノア!」
「悔悟の神官、エルド!」
誰が考えたのか分からない呼び名が、紙吹雪とともに降る。
カイルは馬に乗らなかった。終火の剣を布で包み、人々の顔を見ずに歩いた。
沿道の子どもが木の剣を振る。
「ぼくも裏切り者の聖女を倒す!」
足が止まった。
母親が子どもの頭を撫でる。
「英雄さまみたいに強くなろうね」
カイルは吐きそうになり、口を押さえた。
王城の前には、リュシアの像があった。
討伐隊が三つ目の遺物を得たころ、教会が建てさせたものだという。白い石の少女は胸へ手を当て、慈悲深く笑っている。実物より大人びていて、よそ行きの聖女らしい顔だった。
その首に縄がかけられていた。
「倒せ!」
群衆が叫ぶ。
兵士が縄を引き、像が台座から落ちた。石の頭が割れ、笑顔が砕ける。
ノアが耳を塞いだ。
それでも音は聞こえた。
人々は破片へ唾を吐き、灰を投げた。リュネで拾われたという灰だった。百十二人の命を悼むため、裏切り者の像を同じ灰で汚す。
「やめろ!」
ノアが叫んだ。
歓声が止まる。
彼は像の破片へ駆け寄り、石の顔を抱えた。
「もう死んだ。僕たちが殺した。それで足りるだろ!」
群衆の目が冷たくなる。
「獣人は聖女に騙されていたそうだ」
「まだ情があるのか」
「同類なんじゃないか」
囁きはノアの耳に、すべて届いた。
カイルが彼の肩をつかむ。
「行こう」
「でも」
「ここにいたら、俺が誰かを斬る」
剣帯へ触れた手は、震えていた。
王城では、勝利の式典と審問が待っていた。
リュシアが本当に裏切ったのか。
灰祷会と通じていた証拠はあるか。
リュネの住民を犠牲にしたのを見たか。
一つずつ聞かれた。
カイルは偽の密書を提出した。
セレナは、リュシアが真名の鈴で灰魔を呼ぶのを見たと証言した。急所を狙わなかったことは話さなかった。聞かれなかったからだと、自分へ言い訳した。
ノアは、星縫いの針で拘束されたこと、町が焼かれる間、住民を逃がせなかったことを話した。
エルドは、灰の王を人へ移す術をリュシアが知っていたと認めた。それ以上は沈黙した。
四人の言葉で、裏切りは歴史上の事実になった。
公式記録の末尾に、カイルが署名した。
『聖女リュシア・アルヴェインは自ら灰の王を受け入れ、終火の剣により討たれた。討ち手、カイル・レインフォード』
署名の途中で、インクがにじんだ。
「お見事でした」
記録官が言った。
カイルには、別の声に聞こえた。
約束、守ってくれてありがとう。
嘲笑が耳の奥へ残っている。
祝宴には出なかった。
その前に、四人は「勝利の間」へ通された。
白い大理石の壁には歴代英雄の肖像が並ぶ。王は一人ずつに勲章をかけ、民を救った功績を称えた。
「騎士カイル。そなたの剣が世界を救った」
「はい」
違う、と言えなかった。
世界を救ったのは、剣を受け入れたリュシアだ。けれど彼女が裏切り者なら、その功績まで語れない。
セレナには王立学院の上級魔術師位が、ノアには金貨と市民権が、エルドには過去の罪への特赦が与えられた。
「市民権って何」とノア。
「王都で人として認められる権利です」と役人。
「昨日まで、僕は人じゃなかったの?」
役人は笑顔を固めた。
「これは名誉なことで」
「リュシアは、紙なんかなくても僕を人だって知ってたよ」
広間が静まる。
カイルはノアの腕をつかんだ。止めるためではなく、一人にしないためだった。
「勲章は受け取る。金貨も。リュネの遺族に渡して」
存在しない遺族へ金が送られる。その皮肉を知るのはエルドだけだった。
彼は特赦の書状を受け取らない。
「罪は王に許されたものではありません」
「では何を望む」と王。
「何も」
また沈黙を選んだ。
その夜、祝宴を避けた四人は同じ控室へ集まった。
旅のころなら食事を持ち込んで卓を囲んだだろう。今は誰も椅子へ座らない。
「リュシア、最後に僕を殺さなかった」とノア。
「俺もだ」とカイル。
「全員よ」とセレナ。「一度も急所を狙っていない」
「だったら、全部乗っ取られてなかった」
「でも町を焼いたのは彼女自身。あのときは、まだ灰の王を入れていなかった」
ノアはエルドを見る。
「あんたが知ってることを話せば、つながるんじゃないの」
「話せません」
ノアが飛びかかり、エルドを壁へ押しつけた。
「リュシアは死んだ! 誰との約束を守ってるんだよ!」
「死んでも、約束は消えません」
「生きてる僕たちはどうでもいいの?」
エルドは答えなかった。
カイルがノアを引き離す。
「もういい。聞いて何が変わる。俺が刺したことは変わらない」
「でも」
「裏切った理由があっても、町は戻らない」
カイルは自分へ言い聞かせていた。
五人目のいない部屋で、四人は初めて別々の扉から出ていった。
与えられた部屋へ戻り、終火の剣を床へ置く。剣を捨てようとすれば、王都を救った聖遺物として教会が回収する。手元へ置けば、胸を貫いた感触を毎晩思い出す。
どちらも耐えられず、彼は剣を抱いて壁へ座った。
泣くことはできなかった。
裏切り者を殺した英雄が泣けば、彼女を惜しんでいることになる。
愛情は灰の王の道になる。
エルドに言われたわけでもないのに、身体のどこかがまだそう信じていた。
一月後、カイルは王国騎士団の正騎士へ昇進した。
任務へ出れば、誰より前で剣を振った。怪我をしても治療を断った。痛みは自分のものだと、あの子が教えたから。
けれど傷が治るたび、ひどく腹が立った。
リュシアの傷は、もう治らない。
夜は机へ向かい、手紙を書いた。
『リュシアへ。王都の南門に、店によさそうな空き家があった』
書いてから、破る。
『リュシアへ。今日、子どもの傷を見て、君の手を探した』
また破る。
王都へいた二年間、彼女への返事を書いて出せなかった。死んだあとになって、毎晩のように書ける。
破った手紙は捨てられず、箱へたまった。生前に出せなかった手紙と合わせ、百通を越えた。
ある日、見習い騎士が聞いた。
「裏切り者を刺したとき、世界のためなら迷わなかったんですか」
カイルは答えられなかった。
迷った。今も迷い続けている。英雄の物語では、その部分だけが切り捨てられる。
「迷わない剣を、強いと思うな」
それだけを教えた。
三月後、セレナはリュネへ戻った。
町は焼け跡のまま封鎖されている。灰を掘り返し、地下礼拝堂を調べ、西側の倉庫で崩れた坑道を見つけた。
誰かが大勢で通った跡がある。
その先は落盤で塞がれ、反対側の出口を探しても灰嵐に埋もれていた。
「何を隠したの」
誰もいない礼拝堂で、セレナは問いかけた。
答えはない。
待つと決めた夜を思い出す。
日記を燃やすリュシアへ外套をかけ、本人が話すまで待つと言った。
あのとき肩をつかんで、問いただしていれば。
エルドを凍らせてでも、すべて吐かせていれば。
自分は優しさではなく、怖さから待ったのではないか。リュシアが助けを求めたら、またミアのときのように救えないと知るのが怖かったのではないか。
セレナは坑道の壁を何度も魔法で砕いた。
魔力が尽き、指から血が出るまで。
王都へ戻ると、教会の書庫へ封印記録の閲覧を申請した。
「聖女の堕落に関する研究」と理由を書いたため、すぐ許可が出た。
歴史書には、リュシアが幼いころから虚栄心の強い少女だったと記されている。旅立つ前から灰祷会と接触し、獣人を従者として利用し、セレナの妹を侮辱した、と。
最後の一つは、セレナしか知らないはずだった。
審問で話した記憶はない。だが怒りのまま記録官へ漏らしたのかもしれない。何気ない一言が、歴史を汚す材料になった。
セレナは本を燃やそうとした。
直前でやめ、頁をすべて写した。
いつか間違いを証明するとき、誰がどんな嘘を加えたか必要になる。
その「いつか」を自分が信じていることには、気づかないふりをした。
五か月後、ノアが姿を消した。
英雄の称号は、獣人への差別をなくさなかった。
王都の食堂で入店を断られたとき、店主は彼の勲章を見て態度を変えた。
「これは英雄さま。気づかず失礼を」
ノアは勲章を外した。
「これがなかったら、僕は獣なんだろ」
「そういう意味では」
「同じだよ」
関所でリュシアが手を差し出した日を思い出す。
あの優しさも、勲章と同じだったのだと思った。慈悲深い聖女を飾るための道具。
初めて普通に扱ってくれた人など、最初からいなかった。
ノアは宿へ一枚の紙を残した。
『探さないで。仲間だったことはないから』
リュシアに返す言葉のようだった。
カイルとセレナは探した。獣人街、港、北の山。手がかりは見つからなかった。
エルドだけは、ノアが南の国境へ向かったと知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
彼は一年のあいだ、沈黙することを自分へ課した。
月に一度、リュネの住民が隠れる自治領を訪ねた。百十二人は生きていた。家を失い、狭い倉庫で身を寄せながら、リュシアの名を悪く言う者は一人もいなかった。
「真実を話せるのは、いつです」と町長ダレスは毎回聞いた。
「一年後です」
「英雄たちは持ちますか」
「分かりません」
「あなたは?」
エルドは答えなかった。
聖ルーメン修道院へも、手紙の包みを運んだ。
マルタ院長は、リュシアが裏切ったという教会の布告を暖炉で燃やしていた。
「あの子は、人を裏切れるほど器用ではない」
「信じているのですか」
「信じているのではない。知っている」
エルドは真実を話したくなった。
そのたび、リュシアとの約束を思い出した。
同じ罪を繰り返している。
正しいかを選ばず、約束に従っているだけ。
一年が過ぎるまで、あと三日。
エルドは四通の招待状を書いた。
カイルへ。
セレナへ。
行方をくらませたノアへ。
そして、リュネの町長へ。
『聖ルーメン修道院へ来てください。リュシア・アルヴェインについて、話すべき真実があります』
最後の一通を書き終え、エルドは初めて祈った。
灰の王ではなく、どこかにいるはずの少女へ。
「私は、約束を守りました」
返事はない。
「だからどうか、一度だけ、私を憎んでください」
窓の外では、灰のない春の雨が降っていた。