灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第十七話 古い修道院の手紙

 一年ぶりに聖ルーメン修道院を訪れたカイルは、門の前で足を止めた。

 

 庭には白いシーツが干され、子どもたちが籠を運んでいる。何も変わっていない。今にもリュシアが回廊から顔を出し、「遅いですよ」と笑いそうだった。

 

 腰の終火の剣が、急に重くなる。

 

「入らないの?」

 

 背後にセレナがいた。

 

 黒髪は一年で少し伸び、目の下には薄い隈がある。王立学院の外套ではなく、旅のころと同じ灰色の外套を着ていた。

 

「入る資格があると思うか」

 

「資格の話を始めたら、私もないわ」

 

「俺が殺した」

 

「知ってる。目の前にいたから」

 

 セレナは門を押した。

 

「だから来たのよ」

 

 礼拝堂にはエルドが待っていた。

 

 祭壇の前の長卓に、蜂蜜入りの薬草茶が四つ並んでいる。五つ目の席は空だった。

 

「ノアは?」とカイル。

 

「来ています」

 

 エルドが後方を見る。

 

 柱の陰から、砂色の耳が現れた。

 

 ノアは痩せていた。髪は伸び、耳の片方に新しい裂傷がある。視線を合わせず、一番遠い椅子へ座った。

 

「久しぶり」とセレナ。

 

「手紙を読みに来ただけ。仲直りしに来たんじゃない」

 

「分かってる」

 

「探したとか、言わないで」

 

「言わない」

 

 セレナは唇を噛み、隣の椅子へ座った。

 

 マルタ院長が奥から出てきた。

 

 カイルを見ると、平手で頬を打った。

 

 乾いた音が礼拝堂へ響く。

 

「これは、あの子を殺した分だ」

 

「はい」

 

 もう一度、反対の頬を打つ。

 

「これは、一年も一人で抱えた分だ」

 

 カイルは顔を上げた。

 

「泣くことまで我慢するな。あの子と同じ馬鹿になる」

 

 院長はそれだけ言い、五つ目の椅子へ座った。

 

「始めなさい、エルド」

 

「その前に、飲みなさい」と院長。

 

 誰も手をつけていない薬草茶を示した。

 

「リュシアが好きだった味だ」

 

 ノアが一口飲む。

 

「苦い」

 

「蜂蜜を入れてある」

 

「それでも苦い」

 

「あの子は蜂蜜を三杯入れた」

 

「それ、薬草茶じゃなくて蜂蜜湯じゃない?」

 

 ノアがかすかに笑い、すぐ口元を押さえた。

 

「笑っていい」と院長。「ここでは、あの子を裏切り者として振る舞わなくていい」

 

 その言葉で、四人の肩から少しだけ力が抜けた。

 

 カイルも茶を飲んだ。幼いころ、一口で吐き出した味だった。リュシアは笑いながら自分の蜂蜜を半分くれた。

 

 同じ味なのに、今は飲み込むしかない。

 

「エルド。一つも隠すな」

 

「はい」

 

「俺たちを守るための嘘もいらない」

 

「分かりました」

 

 エルドは手を卓の上へ置いた。震えを隠さないためだった。

 

 エルドは一年間の沈黙を、一つずつ解いた。

 

 秘密の記録庫。

 

 聖女が灰の王を自分の魂へ移し、仲間に憎まれて殺されなければならないこと。

 

 真実を知った憎しみでは、儀式が成立しないこと。

 

 リュシアが死にたくないと泣いたこと。

 

 それでも王都二十七万のために、皆を欺くと決めたこと。

 

「待って」

 

 セレナが止めた。

 

「記録庫から帰った朝、あなたたちは一緒だった」

 

「はい」

 

「あなたは、知っていたの」

 

「はい」

 

「私が聞いたときも?」

 

「知っていました」

 

 セレナの手に氷が生まれた。

 

 次の瞬間、エルドは椅子ごと壁へ叩きつけられていた。

 

「なぜ言わなかった!」

 

「約束したからです」

 

「約束? あの子が死ぬ約束を守って、何になるの!」

 

 氷の刃が喉元へ向く。

 

 エルドは逃げなかった。

 

「何にもなりません」

 

「なら!」

 

「私が間違えました」

 

 あまりにまっすぐ認められ、セレナの刃が止まる。

 

「あのとき話せば、儀式は失敗した。王都は滅んだかもしれない。代わりの方法も見つからなかった。それでも私は、自分で選ぶべきでした。約束を理由に、リュシア一人へ選択を押しつけた」

 

「そうよ」

 

「はい」

 

「私だって、同じ」

 

 氷が砕けた。

 

「おかしいと分かってた。記録庫が原因だと分かってた。なのに、本人が話すまで待つなんて、優しいふりをした」

 

 セレナは両手で顔を覆う。

 

「問いただして、私には救えないことを知るのが怖かっただけなのに」

 

「違います」

 

 エルドの言葉を、セレナは首を振って拒んだ。

 

「慰めないで」

 

 カイルは立ったまま、終火の剣の柄を握っている。

 

「リュネは?」

 

 声がひどく静かだった。

 

「百十二人は生きています」とエルド。「剣を得る条件は命ではなく、帰る場所を灰にすることでした。リュシアは町長と住民を避難坑から逃がし、皆さんには殺したと思わせた」

 

 礼拝堂の扉が開いた。

 

 町長ダレスが入ってくる。その後ろに、何人もの人々がいた。

 

 パン屋の女主人と、木馬を抱えた少年。

 

 門を守っていた兵士。

 

 泣きながら坑道へ入った老人。

 

 生きている。

 

「うそ……」

 

 ノアが椅子を倒して立ち上がった。

 

 少年の木馬は、同じ形をしていた。リュシアが焼け跡に残したものをノアが拾い、王城の遺品庫へ渡した。少年の腕にあるのは、父親が作ったもう一頭だという。

 

「聖女さまは、ぼくらを助けてくれたよ」

 

 少年が言った。

 

 ノアは後ずさり、壁へぶつかった。

 

「僕、あの子に聞いた」

 

 息がうまくできないようだった。

 

「泣いてたかって。助けてって言ったかって。リュシアは覚えてないって」

 

 彼女は知っていた。

 

 助けていた。

 

 それでも自分の目を見て、仲間ではなかったと言った。

 

「僕は、裏切り者って呼んだ」

 

 ノアの膝が崩れた。

 

「信じないって言ったのに。最後まで信じるって、僕が言ったのに」

 

 セレナが手を伸ばす。

 

 ノアは振り払わなかった。子どものように彼女の外套をつかみ、声を上げて泣いた。

 

 カイルだけは泣かなかった。

 

「最後の言葉は」

 

 エルドを見る。

 

「あいつは、剣を刺した俺に、約束を守ってくれてありがとうと言った」

 

「それは嘲笑ではありません」

 

「分かってる!」

 

 剣を抜いた。

 

 赤い刃を自分の喉へ向ける。

 

「カイル!」

 

 セレナの魔法より早く、マルタ院長が杖で手首を打った。剣が床へ落ちる。

 

「逃げるな」

 

「俺が殺した!」

 

「あの子が命を懸けて生かした者を、お前が殺すのか!」

 

「どうやって生きろっていうんだ!」

 

 初めて、カイルの声が崩れた。

 

「守ると言った。何度でも言った。なのに俺は、あいつが作った隙へ剣を――」

 

「そうしなければ、あの子が守りたかった人々が死んだ」

 

「そんなこと、分かってる!」

 

 分かっているからこそ、許せない。

 

 世界を選んだ自分も。

 

 選ばせたリュシアも。

 

 選択を強いた世界も。

 

 カイルは床へ膝をついた。

 

「帰ろうって、約束したんだ」

 

 終火の剣を抱きしめる。

 

「俺は、あいつを守る約束を果たしたんじゃない。帰る約束を破ったんだ」

 

 涙はまだ出なかった。

 

 マルタ院長は、窓の外の庭を見た。

 

「あの子が六歳のころ、羽を折った鳥を拾ってきた」

 

 突然の話に、四人が顔を上げる。

 

「まだ聖痕をうまく使えず、鳥の傷を自分へ移して一晩熱を出した。翌朝、治った鳥は窓から飛んでいった。礼も言わずにな」

 

 ノアが涙を拭う。

 

「鳥は礼を言わないよ」

 

「あの子も分かっていた。それでも泣いた。助けた鳥がいなくなったからではない。自分の役目が終わったら、ここに置いてもらえないと思ったらしい」

 

 院長は苦く笑った。

 

「何度、違うと言っても信じなかった。役に立つから愛されるのだと、心の底で決めていた」

 

「俺も同じだった」とカイル。「守れるから、そばにいていいと思ってた」

 

「だから似た者同士で、互いを守ることばかり考えたのだろう」

 

「止めてほしかったですか」とセレナ。

 

「毎日思っている。修道院から出さなければよかった。王命を燃やし、地下室へ隠せばよかったとな」

 

「院長でも、そう思うんですね」とエルド。

 

「年寄りは後悔が得意だ」

 

 院長は四人を見る。

 

「だが後悔を、死んだ者を愛する唯一の方法にするな。あの子の十五年は、最後の一日だけではない」

 

 笑った日も、わがままを言えなかった日も、蜂蜜を盗んだ日もあった。

 

 それを知るために手紙を読むのだと、院長は言った。

 

 エルドが長卓へ、古い包みを置いた。

 

「リュシアから預かった手紙です」

 

 四通あった。

 

 それぞれの名が、丁寧な字で書かれている。

 

 カイルの封筒には、白百合の香りがわずかに残っていた。

 

 震える手で開く。

 

『カイルへ。

 

 この手紙を読んでいるなら、私は最後まで上手に嘘をつけたのだと思います。うれしくありません。でも、うまくできていてほしいです。

 

 あなたに守ってもらおうと思ったことがない、と言いました。あれは嘘です。

 

 王都へ行ってから返事をくれなかった二年間も、あなたならきっと帰ってきてくれると思っていました。修道院の門で名前を呼ばれたとき、怖かった旅へ行けると思えたのは、あなたが一緒だったからです。

 

 守られていたのは、ずっと私のほうでした。

 

 あなたの剣が必要だったのではありません。カイルが必要でした。

 

 最後に、ひどい言葉を言うと思います。あなたの誓いに意味がなかったと。どうか信じてください。その言葉だけは、世界で一番大きな嘘です。

 

 あなたは約束を守ってくれました。私ではなく、私が守りたかった人たちを守ってくれました。

 

 本当に、ありがとう。』

 

 紙が揺れて読めなくなる。

 

 カイルは、最後に聞いた声を思い出した。

 

 約束、守ってくれてありがとう。

 

 嘲笑ではなかった。

 

 剣を突き立てた自分へ、彼女は感謝していた。

 

「そんなの」

 

 喉から音が漏れた。

 

「そんなの、分かるわけないだろ」

 

 手紙を胸へ押し当てる。

 

「言ってくれなきゃ、分かるわけないだろ!」

 

 一年分の涙が、ようやくあふれた。

 

 床へ額をつけ、子どものように泣いた。

 

 セレナも自分の手紙を開いた。

 

『セレナへ。

 

 妹の代わりにしていた、と言ったことを謝ります。あなたが私とミアさんの違いを話してくれたとき、本当はとてもうれしかったです。

 

 私も、あなたを見ていました。冷たいことを言いながら一番先に毛布をかけること。甘いものに興味がないふりをすること。怒ると髪を結ぶ手が少しだけ強くなること。

 

 青い髪紐を結ってもらう時間が好きでした。

 

 一度だけ、お姉ちゃんと呼んでみたかったです。

 

 でも呼べば、本当に離れたくなくなると思って、できませんでした。

 

 待ってくれたことを責めないでください。私が、待つと言ってくれた優しさを利用しました。悪いのは私です。』

 

 セレナは最後まで読めなかった。

 

「馬鹿」

 

 青い髪紐を結うように、宙で指を動かす。

 

「一回くらい、呼びなさいよ」

 

 ノアの手紙には、ところどころ涙の跡があった。

 

『ノアへ。

 

 あなたを助けたのは、慈悲深い聖女に見せるためではありません。あの兵士たちの言うことが間違っていると思ったからです。

 

 でも本当は、助けられたのは私でした。あなたが私を聖女さまではなく、変なリュシアとして笑ってくれたから、旅が楽しくなりました。

 

 木彫りの猫は捨てていません。看板も火から拾いました。手が少し焼けましたが、世界一大切な看板です。

 

 あなたと店を開く未来を、本当に楽しみにしていました。

 

 獣人を入れない宿があったら、五つ灯亭に連れてきてください。私たちの店では、誰にも床で食べさせないでください。

 

 あなたの名前はノアです。誰が何と言っても、それだけで一人分の席があります。』

 

 ノアは手紙へ顔を伏せた。

 

「僕、あの看板、燃やされたと思って」

 

 言葉の続きは泣き声になった。

 

 エルドも自分の封を切る。

 

『エルドへ。

 

 あなたへは、謝っても足りません。

 

 あなたが一番苦しむと分かっていて、約束を求めました。自分で選ぶようにと言いながら、ほかの道を塞いだのは私です。

 

 それでも、あなたが一緒にいてくれてよかった。

 

 過去を消すことはできなくても、違う選択を重ねられると教えてくれたのは、あなたでした。五つ灯亭の皿洗い係は、今も空席です。

 

 どうか一年後、皆さんへ話してください。そして私を、きれいな聖女にしないでください。怖くて、逃げたくて、皆さんを傷つけた、ひどい女の子だったと話してください。』

 

 最後に、四通すべてへ同じ文があった。

 

『私を憎んだまま生きてください。そうすれば、きっと皆さんは前へ進めます。』

 

「無理に決まってる」とノア。

 

「最後まで、自分だけで決めるのね」とセレナ。

 

 カイルは手紙を裏返した。

 

 白紙に見えた裏面に、消えかけた小さな文字がある。

 

「まだ、何か書いてある」

 

 四人が顔を寄せる。

 

 薄い文字を、カイルが声に出して読んだ。

 

「本当は――」

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