一年ぶりに聖ルーメン修道院を訪れたカイルは、門の前で足を止めた。
庭には白いシーツが干され、子どもたちが籠を運んでいる。何も変わっていない。今にもリュシアが回廊から顔を出し、「遅いですよ」と笑いそうだった。
腰の終火の剣が、急に重くなる。
「入らないの?」
背後にセレナがいた。
黒髪は一年で少し伸び、目の下には薄い隈がある。王立学院の外套ではなく、旅のころと同じ灰色の外套を着ていた。
「入る資格があると思うか」
「資格の話を始めたら、私もないわ」
「俺が殺した」
「知ってる。目の前にいたから」
セレナは門を押した。
「だから来たのよ」
礼拝堂にはエルドが待っていた。
祭壇の前の長卓に、蜂蜜入りの薬草茶が四つ並んでいる。五つ目の席は空だった。
「ノアは?」とカイル。
「来ています」
エルドが後方を見る。
柱の陰から、砂色の耳が現れた。
ノアは痩せていた。髪は伸び、耳の片方に新しい裂傷がある。視線を合わせず、一番遠い椅子へ座った。
「久しぶり」とセレナ。
「手紙を読みに来ただけ。仲直りしに来たんじゃない」
「分かってる」
「探したとか、言わないで」
「言わない」
セレナは唇を噛み、隣の椅子へ座った。
マルタ院長が奥から出てきた。
カイルを見ると、平手で頬を打った。
乾いた音が礼拝堂へ響く。
「これは、あの子を殺した分だ」
「はい」
もう一度、反対の頬を打つ。
「これは、一年も一人で抱えた分だ」
カイルは顔を上げた。
「泣くことまで我慢するな。あの子と同じ馬鹿になる」
院長はそれだけ言い、五つ目の椅子へ座った。
「始めなさい、エルド」
「その前に、飲みなさい」と院長。
誰も手をつけていない薬草茶を示した。
「リュシアが好きだった味だ」
ノアが一口飲む。
「苦い」
「蜂蜜を入れてある」
「それでも苦い」
「あの子は蜂蜜を三杯入れた」
「それ、薬草茶じゃなくて蜂蜜湯じゃない?」
ノアがかすかに笑い、すぐ口元を押さえた。
「笑っていい」と院長。「ここでは、あの子を裏切り者として振る舞わなくていい」
その言葉で、四人の肩から少しだけ力が抜けた。
カイルも茶を飲んだ。幼いころ、一口で吐き出した味だった。リュシアは笑いながら自分の蜂蜜を半分くれた。
同じ味なのに、今は飲み込むしかない。
「エルド。一つも隠すな」
「はい」
「俺たちを守るための嘘もいらない」
「分かりました」
エルドは手を卓の上へ置いた。震えを隠さないためだった。
エルドは一年間の沈黙を、一つずつ解いた。
秘密の記録庫。
聖女が灰の王を自分の魂へ移し、仲間に憎まれて殺されなければならないこと。
真実を知った憎しみでは、儀式が成立しないこと。
リュシアが死にたくないと泣いたこと。
それでも王都二十七万のために、皆を欺くと決めたこと。
「待って」
セレナが止めた。
「記録庫から帰った朝、あなたたちは一緒だった」
「はい」
「あなたは、知っていたの」
「はい」
「私が聞いたときも?」
「知っていました」
セレナの手に氷が生まれた。
次の瞬間、エルドは椅子ごと壁へ叩きつけられていた。
「なぜ言わなかった!」
「約束したからです」
「約束? あの子が死ぬ約束を守って、何になるの!」
氷の刃が喉元へ向く。
エルドは逃げなかった。
「何にもなりません」
「なら!」
「私が間違えました」
あまりにまっすぐ認められ、セレナの刃が止まる。
「あのとき話せば、儀式は失敗した。王都は滅んだかもしれない。代わりの方法も見つからなかった。それでも私は、自分で選ぶべきでした。約束を理由に、リュシア一人へ選択を押しつけた」
「そうよ」
「はい」
「私だって、同じ」
氷が砕けた。
「おかしいと分かってた。記録庫が原因だと分かってた。なのに、本人が話すまで待つなんて、優しいふりをした」
セレナは両手で顔を覆う。
「問いただして、私には救えないことを知るのが怖かっただけなのに」
「違います」
エルドの言葉を、セレナは首を振って拒んだ。
「慰めないで」
カイルは立ったまま、終火の剣の柄を握っている。
「リュネは?」
声がひどく静かだった。
「百十二人は生きています」とエルド。「剣を得る条件は命ではなく、帰る場所を灰にすることでした。リュシアは町長と住民を避難坑から逃がし、皆さんには殺したと思わせた」
礼拝堂の扉が開いた。
町長ダレスが入ってくる。その後ろに、何人もの人々がいた。
パン屋の女主人と、木馬を抱えた少年。
門を守っていた兵士。
泣きながら坑道へ入った老人。
生きている。
「うそ……」
ノアが椅子を倒して立ち上がった。
少年の木馬は、同じ形をしていた。リュシアが焼け跡に残したものをノアが拾い、王城の遺品庫へ渡した。少年の腕にあるのは、父親が作ったもう一頭だという。
「聖女さまは、ぼくらを助けてくれたよ」
少年が言った。
ノアは後ずさり、壁へぶつかった。
「僕、あの子に聞いた」
息がうまくできないようだった。
「泣いてたかって。助けてって言ったかって。リュシアは覚えてないって」
彼女は知っていた。
助けていた。
それでも自分の目を見て、仲間ではなかったと言った。
「僕は、裏切り者って呼んだ」
ノアの膝が崩れた。
「信じないって言ったのに。最後まで信じるって、僕が言ったのに」
セレナが手を伸ばす。
ノアは振り払わなかった。子どものように彼女の外套をつかみ、声を上げて泣いた。
カイルだけは泣かなかった。
「最後の言葉は」
エルドを見る。
「あいつは、剣を刺した俺に、約束を守ってくれてありがとうと言った」
「それは嘲笑ではありません」
「分かってる!」
剣を抜いた。
赤い刃を自分の喉へ向ける。
「カイル!」
セレナの魔法より早く、マルタ院長が杖で手首を打った。剣が床へ落ちる。
「逃げるな」
「俺が殺した!」
「あの子が命を懸けて生かした者を、お前が殺すのか!」
「どうやって生きろっていうんだ!」
初めて、カイルの声が崩れた。
「守ると言った。何度でも言った。なのに俺は、あいつが作った隙へ剣を――」
「そうしなければ、あの子が守りたかった人々が死んだ」
「そんなこと、分かってる!」
分かっているからこそ、許せない。
世界を選んだ自分も。
選ばせたリュシアも。
選択を強いた世界も。
カイルは床へ膝をついた。
「帰ろうって、約束したんだ」
終火の剣を抱きしめる。
「俺は、あいつを守る約束を果たしたんじゃない。帰る約束を破ったんだ」
涙はまだ出なかった。
マルタ院長は、窓の外の庭を見た。
「あの子が六歳のころ、羽を折った鳥を拾ってきた」
突然の話に、四人が顔を上げる。
「まだ聖痕をうまく使えず、鳥の傷を自分へ移して一晩熱を出した。翌朝、治った鳥は窓から飛んでいった。礼も言わずにな」
ノアが涙を拭う。
「鳥は礼を言わないよ」
「あの子も分かっていた。それでも泣いた。助けた鳥がいなくなったからではない。自分の役目が終わったら、ここに置いてもらえないと思ったらしい」
院長は苦く笑った。
「何度、違うと言っても信じなかった。役に立つから愛されるのだと、心の底で決めていた」
「俺も同じだった」とカイル。「守れるから、そばにいていいと思ってた」
「だから似た者同士で、互いを守ることばかり考えたのだろう」
「止めてほしかったですか」とセレナ。
「毎日思っている。修道院から出さなければよかった。王命を燃やし、地下室へ隠せばよかったとな」
「院長でも、そう思うんですね」とエルド。
「年寄りは後悔が得意だ」
院長は四人を見る。
「だが後悔を、死んだ者を愛する唯一の方法にするな。あの子の十五年は、最後の一日だけではない」
笑った日も、わがままを言えなかった日も、蜂蜜を盗んだ日もあった。
それを知るために手紙を読むのだと、院長は言った。
エルドが長卓へ、古い包みを置いた。
「リュシアから預かった手紙です」
四通あった。
それぞれの名が、丁寧な字で書かれている。
カイルの封筒には、白百合の香りがわずかに残っていた。
震える手で開く。
『カイルへ。
この手紙を読んでいるなら、私は最後まで上手に嘘をつけたのだと思います。うれしくありません。でも、うまくできていてほしいです。
あなたに守ってもらおうと思ったことがない、と言いました。あれは嘘です。
王都へ行ってから返事をくれなかった二年間も、あなたならきっと帰ってきてくれると思っていました。修道院の門で名前を呼ばれたとき、怖かった旅へ行けると思えたのは、あなたが一緒だったからです。
守られていたのは、ずっと私のほうでした。
あなたの剣が必要だったのではありません。カイルが必要でした。
最後に、ひどい言葉を言うと思います。あなたの誓いに意味がなかったと。どうか信じてください。その言葉だけは、世界で一番大きな嘘です。
あなたは約束を守ってくれました。私ではなく、私が守りたかった人たちを守ってくれました。
本当に、ありがとう。』
紙が揺れて読めなくなる。
カイルは、最後に聞いた声を思い出した。
約束、守ってくれてありがとう。
嘲笑ではなかった。
剣を突き立てた自分へ、彼女は感謝していた。
「そんなの」
喉から音が漏れた。
「そんなの、分かるわけないだろ」
手紙を胸へ押し当てる。
「言ってくれなきゃ、分かるわけないだろ!」
一年分の涙が、ようやくあふれた。
床へ額をつけ、子どものように泣いた。
セレナも自分の手紙を開いた。
『セレナへ。
妹の代わりにしていた、と言ったことを謝ります。あなたが私とミアさんの違いを話してくれたとき、本当はとてもうれしかったです。
私も、あなたを見ていました。冷たいことを言いながら一番先に毛布をかけること。甘いものに興味がないふりをすること。怒ると髪を結ぶ手が少しだけ強くなること。
青い髪紐を結ってもらう時間が好きでした。
一度だけ、お姉ちゃんと呼んでみたかったです。
でも呼べば、本当に離れたくなくなると思って、できませんでした。
待ってくれたことを責めないでください。私が、待つと言ってくれた優しさを利用しました。悪いのは私です。』
セレナは最後まで読めなかった。
「馬鹿」
青い髪紐を結うように、宙で指を動かす。
「一回くらい、呼びなさいよ」
ノアの手紙には、ところどころ涙の跡があった。
『ノアへ。
あなたを助けたのは、慈悲深い聖女に見せるためではありません。あの兵士たちの言うことが間違っていると思ったからです。
でも本当は、助けられたのは私でした。あなたが私を聖女さまではなく、変なリュシアとして笑ってくれたから、旅が楽しくなりました。
木彫りの猫は捨てていません。看板も火から拾いました。手が少し焼けましたが、世界一大切な看板です。
あなたと店を開く未来を、本当に楽しみにしていました。
獣人を入れない宿があったら、五つ灯亭に連れてきてください。私たちの店では、誰にも床で食べさせないでください。
あなたの名前はノアです。誰が何と言っても、それだけで一人分の席があります。』
ノアは手紙へ顔を伏せた。
「僕、あの看板、燃やされたと思って」
言葉の続きは泣き声になった。
エルドも自分の封を切る。
『エルドへ。
あなたへは、謝っても足りません。
あなたが一番苦しむと分かっていて、約束を求めました。自分で選ぶようにと言いながら、ほかの道を塞いだのは私です。
それでも、あなたが一緒にいてくれてよかった。
過去を消すことはできなくても、違う選択を重ねられると教えてくれたのは、あなたでした。五つ灯亭の皿洗い係は、今も空席です。
どうか一年後、皆さんへ話してください。そして私を、きれいな聖女にしないでください。怖くて、逃げたくて、皆さんを傷つけた、ひどい女の子だったと話してください。』
最後に、四通すべてへ同じ文があった。
『私を憎んだまま生きてください。そうすれば、きっと皆さんは前へ進めます。』
「無理に決まってる」とノア。
「最後まで、自分だけで決めるのね」とセレナ。
カイルは手紙を裏返した。
白紙に見えた裏面に、消えかけた小さな文字がある。
「まだ、何か書いてある」
四人が顔を寄せる。
薄い文字を、カイルが声に出して読んだ。
「本当は――」