出発して最初の夜、リュシアは熱を出した。
灰狼の呪いは、夜になると傷口から黒い糸のように広がった。街道沿いの宿で、セレナが三重の結界を張り、カイルが井戸と部屋を何度も往復した。冷たい布を額へ載せられるたび、リュシアは目を覚ました。
「すみません」
「謝る元気があるなら眠りなさい」
セレナの声は冷たいが、濡れた布を絞る手は優しかった。
カイルは寝台の横で、ずっと黙っていた。怒っているらしい。リュシアが目を開けるたびに水を飲ませ、毛布を直しておきながら、一言も口をきかなかった。
「カイル」
「寝ろ」
「怒っていますか」
「寝ろ」
「怒っていますね」
「君は熱があっても人を怒らせるのがうまいな」
返事があったことに安心し、リュシアは少し笑った。
「カイルが無事で、よかったです」
彼は何か言おうとして、やめた。代わりに椅子を引き寄せ、寝台へ突っ伏す。握られた拳の節が白くなっていた。
「俺は、よくない」
「でも」
「君が苦しんでるのに、よかったと思えるわけないだろ」
リュシアには、その言葉の正しい受け取り方が分からなかった。自分が苦しむことで誰かが助かれば、差し引きでは喜ぶべきだと思っていた。
けれどカイルは、差し引きをしない。
そのことが少しだけ、うれしかった。
翌朝には呪いが消え、昼前には旅を再開した。
「本当はもう一日休むべきよ」
馬上でセレナが言った。
「急ぐんでしょう?」
「急ぐけれど、病人を道端へ捨てるほどじゃない」
「捨てられたら追いかけます」
「そういう怖いことを笑顔で言わないで」
セレナは呆れ、少し馬を寄せた。リュシアの髪をひと房つまむ。
「それにしても、ひどい結び方ね」
「朝はカイルが結ってくれたので」
「なるほど。縄なのね」
「聞こえてるぞ」
前を歩くカイルが振り返る。リュシアの髪は、彼なりに整えたつもりらしいが、右は緩く左はきつい。三度ほどやり直した末の形なので、ほどくと言えば傷つきそうだった。
「水没聖堂へ着いたら私が結い直す。聖遺物を探す前に、まず人間らしい頭にしましょう」
「お願いします」
「今のは俺への侮辱か?」
「客観的な評価よ」
二人の言い合いを聞きながら、リュシアは荷の底にある蜂蜜の壺を思った。今夜は薬草茶に入れて、二人にも分けよう。そんな小さな予定が立つだけで、旅は少し怖くなくなった。
昼過ぎ、一行はローデルの関所へ着いた。
北部街道と東の湖沼地帯をつなぐ町で、旅人と荷馬車が列を作っている。関所の兵士は一人ずつ通行証を確認し、獣人には別の列へ並ぶよう怒鳴っていた。
その列の先で、砂色の耳が揺れた。
「だから、盗んでないって」
十六歳ほどの少年が、二人の兵士に腕をつかまれている。砂色の髪から山猫の耳がのぞき、同じ色の尾が苛立たしげに地面を叩いていた。
「だったら荷物を見せろ」
「見せたよ。三回も。あんたの目は一回ごとに生え替わるのか?」
「口の減らない獣だ」
兵士が少年の腹を蹴った。
リュシアは馬を降りていた。
「待ってください」
カイルの制止より先に、人垣を抜ける。
「なんだ、娘」
「何を盗んだのですか」
「宿場長の銀時計だ。こいつが食堂を出たあとになくなった」
「荷物にはなかったのでしょう?」
「獣人は鼻も耳も利く。どこかへ隠したに決まってる」
「それは証拠になりません」
「獣人に証拠も何もあるか」
あまりにも迷いなく言われて、一瞬、意味を理解するのが遅れた。
リュシアは少年を見た。口の端が切れ、手首には古い縄の痕がある。彼は助けを求める顔をしていなかった。どうせ同じだと、先に諦めた目をしていた。
「この方が盗んだと決まっていないなら、放してください」
「聖女さま」
後ろからカイルが来て、王国の徽章を示した。
「彼女の言葉は、教会と王命に等しい。正式な証拠がないなら拘束は認められない」
聖女、と聞いて人垣がざわめく。兵士たちは顔を見合わせ、渋々手を離した。
少年は手首をさすりながら、リュシアを見上げた。
「あんた、聖女なの」
「昨日から、そういうことになりました」
「昨日」
「まだ慣れていなくて」
少年は目を丸くし、それから声を上げて笑った。
笑い終える前に、セレナが人垣の後ろへ杖を向けた。
「ところで、銀時計ならあの男の袖にあるわ」
指された商人風の男が逃げ出す。カイルが足を払って地面へ転がした。袖口から、鎖のついた銀時計が飛び出す。
関所は別の意味で騒がしくなった。
少年は銀時計と兵士を交互に見て、鼻で笑った。
「人間は鼻が利かなくて大変だね」
「お前、名は?」とカイルが聞く。
「ノア。姓はない。ついでに金も家もない」
「胸を張ることではないわね」
「あるものなら胸張って言えるけどさ」
ノアはそう言ってから、急に真剣な顔で空気を嗅いだ。
「あんたたち、東へ行くの?」
「水没聖堂へ」とリュシアが答える。
「正気? 今の湿地は灰鰐の巣だよ。普通の街道は沈んでる」
「詳しいのか」
「三月、あそこで魚を捕って生きてた」
カイルとセレナが顔を見合わせた。王都からつけられた地図には、旧街道しか記されていない。地元の案内人を探す予定だったが、関所の者は灰の降り始めた湿地へ行きたがらなかった。
ノアはにっと笑った。
「銀貨五枚と三食。あと、あの赤いのは俺に命令しない」
「赤いの?」
「あんた。外套が目立つ」
「俺は護衛責任者だ」
「じゃあ案内料は銀貨七枚」
「増えたぞ」
「面倒料」
リュシアは思わず笑った。カイルは不服そうに剣帯を直し、セレナは面白そうに片眉を上げている。
「食事は、私たちと同じ席でいいですか」
リュシアが聞くと、ノアの耳がぴたりと止まった。
「……別に、床でも食えるけど」
「椅子のほうが食べやすいですよ」
「獣人を店に入れない宿もある」
「では、入れる宿を探しましょう」
それだけのことのように答えると、ノアはしばらく黙った。
「銀貨、四枚でいい」
「五枚払う」とカイルが言った。「仕事の値を勝手に下げるな」
ノアの尾が一度、大きく揺れた。
契約を決めたあと、ノアは関所脇の水場へ向かった。
「どこへ行くんですか」とリュシア。
「匂いを消す。兵士につかまれたから」
冗談めかしていたが、両手首を何度もこすっている。兵士の指の感触がまだ残っているのだろう。
リュシアは追いかけず、近くの古着屋へ入った。ノアの上着は肩が裂け、泥と古い血で汚れていた。店主へ銀貨を払い、砂色の短い外套を選ぶ。
戻ると、ノアは水桶へ両腕を浸していた。
「これを」
外套を差し出した途端、琥珀の目が細くなる。
「いらない」
「寒くなります」
「施しなら、いらない」
先ほどまでの人懐っこさが消えていた。
「着たら何をすればいい? 荷物持ち? 見張り? それとも、耳を触らせる?」
リュシアは返事を急がなかった。
善意なのだから受け取って、と言うのは簡単だった。けれどノアにとって、ただでもらえるものほど怖いのかもしれない。
「では、仕事をお願いします」
「何」
自分の鞄から薬草の包みを三つ出す。
「旅のあいだ、これを持ってください。私は荷物を持ちすぎるとカイルに怒られます。でも薬草は置いていけません」
「それだけ?」
「濡らさないでください。種類が混ざると、眠り薬が腹痛の薬になります」
「どうなるの」
「お腹が痛いまま、よく眠れます」
ノアは吹き出した。
「嫌な薬だなあ」
「大事な荷物です。外套は仕事の前払いということで」
しばらく考え、ノアは外套を受け取った。すぐには着ず、縫い目や裏地を何度も確かめる。首元に紐はあるが、金具も輪もない。誰かをつなぐための服ではない。
「耳、触りたい?」
「いいえ」
あまりに即答したため、今度はノアが傷ついた顔をした。
「少しくらい興味持ってよ」
「触られるのが嫌なのでは?」
「嫌だけど。嫌じゃない相手も、そのうちいるかもしれないし」
「では、そのうちに」
リュシアが笑うと、ノアは新しい外套を羽織った。色は耳とよく似合った。
「薬草、絶対に濡らさないから」
「お願いします」
そのやり取りを離れた場所で見ていたカイルは、何も言わずリュシアの鞄を一つ持ち上げた。
「軽くなりましたよ」
「まだ多い」
「これは私の着替えです」
「それも俺が持つ」
「それでは、私の仕事がなくなります」
「君は自分を荷馬車だと思ってるのか?」
セレナが横から鞄を奪った。
「二人とも遅い。痴話喧嘩は宿でやって」
「痴話喧嘩ではありません!」
リュシアとカイルの声が重なった。
ノアは二人を見比べ、何かを納得したようにうなずいた。
「面白い一行に当たったな」
その夜、四人は関所町の食堂に入った。
主人はノアを見ると露骨に顔をしかめたが、セレナが金貨を机へ置き、カイルが騎士団の徽章を横へ並べると、何も言わなくなった。
「四人だ」
カイルが言うと、ノアはなぜか五人掛けの丸卓を選んだ。
「こっちのほうが広い」
「混んでるんだから詰めなさいよ」
「一つは荷物置き。それに旅の仲間って、途中で増えるものだろ」
「どんな理屈だ」
「空いた席は幸運を呼ぶんだよ。山猫族の言い伝え」
「本当に?」とリュシア。
「今作った」
セレナが呆れ、カイルがため息をつく。リュシアはまた笑った。
卓には豆の煮込み、黒パン、鶏の香草焼きが並んだ。ノアは最初こそ警戒していたが、リュシアが鶏の皿を回すと目の色が変わった。
「全部食べないでよ」とセレナ。
「食べてない。皿が俺のほうに寄ってくるだけ」
「手で引き寄せてるじゃないか」
「赤いのは細かいなあ」
「カイルです」
リュシアが紹介すると、ノアは口いっぱいに肉を入れたままうなずいた。
「じゃあ、カイル。そっちの怖い姉ちゃんは?」
「セレナ。次に姉ちゃんと呼んだら舌を凍らせる」
「やっぱり怖い」
「それで」
ノアがリュシアを見る。
「あんたは聖女さま?」
「リュシアです」
「でも聖女だろ」
「名前で呼んでください。私もノアと呼びますから」
彼はまた、あの妙な沈黙をした。
「……変なの」
「よく言われます」
「私たちは言ってないぞ」とカイル。
「顔に書いてあります」
食事が終わるころ、五つ目の椅子には全員の荷物が積み上がっていた。
ノアは満腹になった腹をさすり、椅子の背へふんぞり返る。
「世界を救ったあと、どうすんの?」
唐突な質問だった。
「修道院へ帰ります」とリュシア。
「俺も送っていく」とカイル。
「私は王立学院に報告」とセレナ。
「つまんないな。せっかく仲間になったのに、解散?」
「あなたは案内人でしょう。まだ仲間になったとは言ってない」とセレナが指摘する。
「細かいこと言うと老けるよ」
「燃やすわよ」
ノアは耳を伏せてから、すぐに笑った。
「じゃあさ、みんなで店をやろう。飯も出して、旅人の頼みも引き受ける。俺が客を呼ぶ。リュシアが怪我を治す。カイルは用心棒。セレナは暖炉」
「どうして私だけ家具なの?」
「火が得意だから」
「あなたを薪にすれば効率がよさそうね」
リュシアは想像した。
修道院の近くに、小さな店がある。扉の上で看板が揺れ、カイルが焦がした鍋をセレナが叱り、ノアが客の皿から肉を取る。
あまりにもおかしくて、あまりにも楽しそうだった。
「名前は、五つ灯亭にしましょう」
「四人なのに?」とカイル。
リュシアは荷物に埋もれた空席を指した。
「一つは幸運のためです」
ノアの耳がうれしそうに立った。
食堂を出ると、宿の部屋は二つしか空いていなかった。
カイルとノアが一室、リュシアとセレナが一室。ノアは鍵を受け取るなり、廊下の壁や窓の位置を確かめた。部屋へ入っても寝台には近づかず、扉のそばの床へ外套を敷く。
「寝台を使え」とカイル。
「床のほうが好き」
「嘘だな」
「なんで」
「寝台を見てから、ずっと尾がそっちを向いてる」
ノアは自分の尾をつかんだ。
「こいつは信用ならない」
「俺は見張りで起きている。使え」
「命令しない契約」
「これは提案だ」
「騎士の提案って断ると牢屋?」
「断ってもいい。だが俺が寝台を使わないのは変わらない」
しばらくにらみ合い、ノアが折れた。
「じゃあ半分。あんたも寝る」
「狭いだろ」
「僕は獣だから小さく丸まれるよ」
自分で言ったあと、ノアの表情が固くなる。
カイルは気づかないふりをして、剣を壁へ立てた。
「寝相が悪くて蹴るかもしれない。落ちたら悪いな」
「落ちるのはそっちだよ」
翌朝、落ちていたのはカイルだった。
ノアは寝台の中央で手足と尾を広げ、ひどく満足そうに眠っていた。リュシアとセレナが扉からのぞくと、カイルは床に座ったまま指を口元へ立てる。
「起こすな。よく眠ってる」
その頬には、ノアに蹴られたらしい赤い跡があった。
リュシアは声を抑えて笑った。
旅に出て初めて、傷がない朝だった。
この夜、誰も知らなかった。
でたらめだった五人目の席に、本当にもう一人の仲間が座ることを。
そして五人そろって笑える食卓が、ひどく短いものになることを。