灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第二話 五人目の席

 出発して最初の夜、リュシアは熱を出した。

 

 灰狼の呪いは、夜になると傷口から黒い糸のように広がった。街道沿いの宿で、セレナが三重の結界を張り、カイルが井戸と部屋を何度も往復した。冷たい布を額へ載せられるたび、リュシアは目を覚ました。

 

「すみません」

 

「謝る元気があるなら眠りなさい」

 

 セレナの声は冷たいが、濡れた布を絞る手は優しかった。

 

 カイルは寝台の横で、ずっと黙っていた。怒っているらしい。リュシアが目を開けるたびに水を飲ませ、毛布を直しておきながら、一言も口をきかなかった。

 

「カイル」

 

「寝ろ」

 

「怒っていますか」

 

「寝ろ」

 

「怒っていますね」

 

「君は熱があっても人を怒らせるのがうまいな」

 

 返事があったことに安心し、リュシアは少し笑った。

 

「カイルが無事で、よかったです」

 

 彼は何か言おうとして、やめた。代わりに椅子を引き寄せ、寝台へ突っ伏す。握られた拳の節が白くなっていた。

 

「俺は、よくない」

 

「でも」

 

「君が苦しんでるのに、よかったと思えるわけないだろ」

 

 リュシアには、その言葉の正しい受け取り方が分からなかった。自分が苦しむことで誰かが助かれば、差し引きでは喜ぶべきだと思っていた。

 

 けれどカイルは、差し引きをしない。

 

 そのことが少しだけ、うれしかった。

 

 翌朝には呪いが消え、昼前には旅を再開した。

 

「本当はもう一日休むべきよ」

 

 馬上でセレナが言った。

 

「急ぐんでしょう?」

 

「急ぐけれど、病人を道端へ捨てるほどじゃない」

 

「捨てられたら追いかけます」

 

「そういう怖いことを笑顔で言わないで」

 

 セレナは呆れ、少し馬を寄せた。リュシアの髪をひと房つまむ。

 

「それにしても、ひどい結び方ね」

 

「朝はカイルが結ってくれたので」

 

「なるほど。縄なのね」

 

「聞こえてるぞ」

 

 前を歩くカイルが振り返る。リュシアの髪は、彼なりに整えたつもりらしいが、右は緩く左はきつい。三度ほどやり直した末の形なので、ほどくと言えば傷つきそうだった。

 

「水没聖堂へ着いたら私が結い直す。聖遺物を探す前に、まず人間らしい頭にしましょう」

 

「お願いします」

 

「今のは俺への侮辱か?」

 

「客観的な評価よ」

 

 二人の言い合いを聞きながら、リュシアは荷の底にある蜂蜜の壺を思った。今夜は薬草茶に入れて、二人にも分けよう。そんな小さな予定が立つだけで、旅は少し怖くなくなった。

 

 昼過ぎ、一行はローデルの関所へ着いた。

 

 北部街道と東の湖沼地帯をつなぐ町で、旅人と荷馬車が列を作っている。関所の兵士は一人ずつ通行証を確認し、獣人には別の列へ並ぶよう怒鳴っていた。

 

 その列の先で、砂色の耳が揺れた。

 

「だから、盗んでないって」

 

 十六歳ほどの少年が、二人の兵士に腕をつかまれている。砂色の髪から山猫の耳がのぞき、同じ色の尾が苛立たしげに地面を叩いていた。

 

「だったら荷物を見せろ」

 

「見せたよ。三回も。あんたの目は一回ごとに生え替わるのか?」

 

「口の減らない獣だ」

 

 兵士が少年の腹を蹴った。

 

 リュシアは馬を降りていた。

 

「待ってください」

 

 カイルの制止より先に、人垣を抜ける。

 

「なんだ、娘」

 

「何を盗んだのですか」

 

「宿場長の銀時計だ。こいつが食堂を出たあとになくなった」

 

「荷物にはなかったのでしょう?」

 

「獣人は鼻も耳も利く。どこかへ隠したに決まってる」

 

「それは証拠になりません」

 

「獣人に証拠も何もあるか」

 

 あまりにも迷いなく言われて、一瞬、意味を理解するのが遅れた。

 

 リュシアは少年を見た。口の端が切れ、手首には古い縄の痕がある。彼は助けを求める顔をしていなかった。どうせ同じだと、先に諦めた目をしていた。

 

「この方が盗んだと決まっていないなら、放してください」

 

「聖女さま」

 

 後ろからカイルが来て、王国の徽章を示した。

 

「彼女の言葉は、教会と王命に等しい。正式な証拠がないなら拘束は認められない」

 

 聖女、と聞いて人垣がざわめく。兵士たちは顔を見合わせ、渋々手を離した。

 

 少年は手首をさすりながら、リュシアを見上げた。

 

「あんた、聖女なの」

 

「昨日から、そういうことになりました」

 

「昨日」

 

「まだ慣れていなくて」

 

 少年は目を丸くし、それから声を上げて笑った。

 

 笑い終える前に、セレナが人垣の後ろへ杖を向けた。

 

「ところで、銀時計ならあの男の袖にあるわ」

 

 指された商人風の男が逃げ出す。カイルが足を払って地面へ転がした。袖口から、鎖のついた銀時計が飛び出す。

 

 関所は別の意味で騒がしくなった。

 

 少年は銀時計と兵士を交互に見て、鼻で笑った。

 

「人間は鼻が利かなくて大変だね」

 

「お前、名は?」とカイルが聞く。

 

「ノア。姓はない。ついでに金も家もない」

 

「胸を張ることではないわね」

 

「あるものなら胸張って言えるけどさ」

 

 ノアはそう言ってから、急に真剣な顔で空気を嗅いだ。

 

「あんたたち、東へ行くの?」

 

「水没聖堂へ」とリュシアが答える。

 

「正気? 今の湿地は灰鰐の巣だよ。普通の街道は沈んでる」

 

「詳しいのか」

 

「三月、あそこで魚を捕って生きてた」

 

 カイルとセレナが顔を見合わせた。王都からつけられた地図には、旧街道しか記されていない。地元の案内人を探す予定だったが、関所の者は灰の降り始めた湿地へ行きたがらなかった。

 

 ノアはにっと笑った。

 

「銀貨五枚と三食。あと、あの赤いのは俺に命令しない」

 

「赤いの?」

 

「あんた。外套が目立つ」

 

「俺は護衛責任者だ」

 

「じゃあ案内料は銀貨七枚」

 

「増えたぞ」

 

「面倒料」

 

 リュシアは思わず笑った。カイルは不服そうに剣帯を直し、セレナは面白そうに片眉を上げている。

 

「食事は、私たちと同じ席でいいですか」

 

 リュシアが聞くと、ノアの耳がぴたりと止まった。

 

「……別に、床でも食えるけど」

 

「椅子のほうが食べやすいですよ」

 

「獣人を店に入れない宿もある」

 

「では、入れる宿を探しましょう」

 

 それだけのことのように答えると、ノアはしばらく黙った。

 

「銀貨、四枚でいい」

 

「五枚払う」とカイルが言った。「仕事の値を勝手に下げるな」

 

 ノアの尾が一度、大きく揺れた。

 

 契約を決めたあと、ノアは関所脇の水場へ向かった。

 

「どこへ行くんですか」とリュシア。

 

「匂いを消す。兵士につかまれたから」

 

 冗談めかしていたが、両手首を何度もこすっている。兵士の指の感触がまだ残っているのだろう。

 

 リュシアは追いかけず、近くの古着屋へ入った。ノアの上着は肩が裂け、泥と古い血で汚れていた。店主へ銀貨を払い、砂色の短い外套を選ぶ。

 

 戻ると、ノアは水桶へ両腕を浸していた。

 

「これを」

 

 外套を差し出した途端、琥珀の目が細くなる。

 

「いらない」

 

「寒くなります」

 

「施しなら、いらない」

 

 先ほどまでの人懐っこさが消えていた。

 

「着たら何をすればいい? 荷物持ち? 見張り? それとも、耳を触らせる?」

 

 リュシアは返事を急がなかった。

 

 善意なのだから受け取って、と言うのは簡単だった。けれどノアにとって、ただでもらえるものほど怖いのかもしれない。

 

「では、仕事をお願いします」

 

「何」

 

 自分の鞄から薬草の包みを三つ出す。

 

「旅のあいだ、これを持ってください。私は荷物を持ちすぎるとカイルに怒られます。でも薬草は置いていけません」

 

「それだけ?」

 

「濡らさないでください。種類が混ざると、眠り薬が腹痛の薬になります」

 

「どうなるの」

 

「お腹が痛いまま、よく眠れます」

 

 ノアは吹き出した。

 

「嫌な薬だなあ」

 

「大事な荷物です。外套は仕事の前払いということで」

 

 しばらく考え、ノアは外套を受け取った。すぐには着ず、縫い目や裏地を何度も確かめる。首元に紐はあるが、金具も輪もない。誰かをつなぐための服ではない。

 

「耳、触りたい?」

 

「いいえ」

 

 あまりに即答したため、今度はノアが傷ついた顔をした。

 

「少しくらい興味持ってよ」

 

「触られるのが嫌なのでは?」

 

「嫌だけど。嫌じゃない相手も、そのうちいるかもしれないし」

 

「では、そのうちに」

 

 リュシアが笑うと、ノアは新しい外套を羽織った。色は耳とよく似合った。

 

「薬草、絶対に濡らさないから」

 

「お願いします」

 

 そのやり取りを離れた場所で見ていたカイルは、何も言わずリュシアの鞄を一つ持ち上げた。

 

「軽くなりましたよ」

 

「まだ多い」

 

「これは私の着替えです」

 

「それも俺が持つ」

 

「それでは、私の仕事がなくなります」

 

「君は自分を荷馬車だと思ってるのか?」

 

 セレナが横から鞄を奪った。

 

「二人とも遅い。痴話喧嘩は宿でやって」

 

「痴話喧嘩ではありません!」

 

 リュシアとカイルの声が重なった。

 

 ノアは二人を見比べ、何かを納得したようにうなずいた。

 

「面白い一行に当たったな」

 

 その夜、四人は関所町の食堂に入った。

 

 主人はノアを見ると露骨に顔をしかめたが、セレナが金貨を机へ置き、カイルが騎士団の徽章を横へ並べると、何も言わなくなった。

 

「四人だ」

 

 カイルが言うと、ノアはなぜか五人掛けの丸卓を選んだ。

 

「こっちのほうが広い」

 

「混んでるんだから詰めなさいよ」

 

「一つは荷物置き。それに旅の仲間って、途中で増えるものだろ」

 

「どんな理屈だ」

 

「空いた席は幸運を呼ぶんだよ。山猫族の言い伝え」

 

「本当に?」とリュシア。

 

「今作った」

 

 セレナが呆れ、カイルがため息をつく。リュシアはまた笑った。

 

 卓には豆の煮込み、黒パン、鶏の香草焼きが並んだ。ノアは最初こそ警戒していたが、リュシアが鶏の皿を回すと目の色が変わった。

 

「全部食べないでよ」とセレナ。

 

「食べてない。皿が俺のほうに寄ってくるだけ」

 

「手で引き寄せてるじゃないか」

 

「赤いのは細かいなあ」

 

「カイルです」

 

 リュシアが紹介すると、ノアは口いっぱいに肉を入れたままうなずいた。

 

「じゃあ、カイル。そっちの怖い姉ちゃんは?」

 

「セレナ。次に姉ちゃんと呼んだら舌を凍らせる」

 

「やっぱり怖い」

 

「それで」

 

 ノアがリュシアを見る。

 

「あんたは聖女さま?」

 

「リュシアです」

 

「でも聖女だろ」

 

「名前で呼んでください。私もノアと呼びますから」

 

 彼はまた、あの妙な沈黙をした。

 

「……変なの」

 

「よく言われます」

 

「私たちは言ってないぞ」とカイル。

 

「顔に書いてあります」

 

 食事が終わるころ、五つ目の椅子には全員の荷物が積み上がっていた。

 

 ノアは満腹になった腹をさすり、椅子の背へふんぞり返る。

 

「世界を救ったあと、どうすんの?」

 

 唐突な質問だった。

 

「修道院へ帰ります」とリュシア。

 

「俺も送っていく」とカイル。

 

「私は王立学院に報告」とセレナ。

 

「つまんないな。せっかく仲間になったのに、解散?」

 

「あなたは案内人でしょう。まだ仲間になったとは言ってない」とセレナが指摘する。

 

「細かいこと言うと老けるよ」

 

「燃やすわよ」

 

 ノアは耳を伏せてから、すぐに笑った。

 

「じゃあさ、みんなで店をやろう。飯も出して、旅人の頼みも引き受ける。俺が客を呼ぶ。リュシアが怪我を治す。カイルは用心棒。セレナは暖炉」

 

「どうして私だけ家具なの?」

 

「火が得意だから」

 

「あなたを薪にすれば効率がよさそうね」

 

 リュシアは想像した。

 

 修道院の近くに、小さな店がある。扉の上で看板が揺れ、カイルが焦がした鍋をセレナが叱り、ノアが客の皿から肉を取る。

 

 あまりにもおかしくて、あまりにも楽しそうだった。

 

「名前は、五つ灯亭にしましょう」

 

「四人なのに?」とカイル。

 

 リュシアは荷物に埋もれた空席を指した。

 

「一つは幸運のためです」

 

 ノアの耳がうれしそうに立った。

 

 食堂を出ると、宿の部屋は二つしか空いていなかった。

 

 カイルとノアが一室、リュシアとセレナが一室。ノアは鍵を受け取るなり、廊下の壁や窓の位置を確かめた。部屋へ入っても寝台には近づかず、扉のそばの床へ外套を敷く。

 

「寝台を使え」とカイル。

 

「床のほうが好き」

 

「嘘だな」

 

「なんで」

 

「寝台を見てから、ずっと尾がそっちを向いてる」

 

 ノアは自分の尾をつかんだ。

 

「こいつは信用ならない」

 

「俺は見張りで起きている。使え」

 

「命令しない契約」

 

「これは提案だ」

 

「騎士の提案って断ると牢屋?」

 

「断ってもいい。だが俺が寝台を使わないのは変わらない」

 

 しばらくにらみ合い、ノアが折れた。

 

「じゃあ半分。あんたも寝る」

 

「狭いだろ」

 

「僕は獣だから小さく丸まれるよ」

 

 自分で言ったあと、ノアの表情が固くなる。

 

 カイルは気づかないふりをして、剣を壁へ立てた。

 

「寝相が悪くて蹴るかもしれない。落ちたら悪いな」

 

「落ちるのはそっちだよ」

 

 翌朝、落ちていたのはカイルだった。

 

 ノアは寝台の中央で手足と尾を広げ、ひどく満足そうに眠っていた。リュシアとセレナが扉からのぞくと、カイルは床に座ったまま指を口元へ立てる。

 

「起こすな。よく眠ってる」

 

 その頬には、ノアに蹴られたらしい赤い跡があった。

 

 リュシアは声を抑えて笑った。

 

 旅に出て初めて、傷がない朝だった。

 

 この夜、誰も知らなかった。

 

 でたらめだった五人目の席に、本当にもう一人の仲間が座ることを。

 

 そして五人そろって笑える食卓が、ひどく短いものになることを。

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