灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第三話 水底の聖杯

 東の湿地へ入って二日目、カイルはノアの案内料が安すぎたことを認めた。

 

「右、泥沼」

 

 ノアが言う。

 

 見た目には草の生えた普通の地面だった。カイルが長剣の鞘でつつくと、音もなく沈み、柄まで吸い込まれそうになる。

 

「左は?」

 

「灰鰐の昼寝場所」

 

「正面」

 

「毒蛭」

 

「どこを通るんだ」

 

「後ろ」

 

「戻るのか?」

 

「三歩戻って、あの倒木を渡る。赤いの、ほんとに案内なしで来るつもりだった?」

 

 カイルは黙って銀貨を一枚増やした。

 

 水没聖堂は、湿地の最奥に沈んでいた。

 

 かつては白い石造りだったのだろう。今は屋根の半分だけが水上に出て、鐘楼には蔦と水草が絡みついている。入り口は濁った水の下だった。

 

「泳ぐしかないわね」

 

 セレナが水面を杖で叩く。冷気が円く広がったが、凍ったのは表面だけだった。

 

「聖杯は地下祭壇にある。水をすべて凍らせたら、聖堂も壊れる」

 

「俺が潜る」とカイル。

 

「僕のほうが速い」とノア。

 

「中に灰鰐がいるかもしれない」

 

「だから速いほうがいいんだって」

 

 二人が言い合う横で、リュシアは水へ手を入れた。春とは思えない冷たさだった。指先がすぐにしびれる。

 

「私も行きます」

 

「却下」

 

 三人の声が重なった。

 

「まだ理由も言っていません」

 

「君が言いそうな理由は全部却下だ」とカイル。

 

「地下祭壇は聖痕を持つ者にしか開けられないのよ」とセレナが地図を示した。「だから行く必要はある。でも、私が水避けの術をかける。勝手に傷を引き受けない。必ず私たちの後ろを歩く。いい?」

 

 リュシアはうなずいた。

 

「返事は?」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 水へ入る前、ノアだけが岸に残った。

 

「どうしました?」

 

「荷物の見張りが要るだろ」

 

「必要ないわ。結界を張ったもの」とセレナ。

 

「じゃあ帰り道の見張り」

 

「中の道を知っているのは、あなたでしょう」とカイル。

 

 逃げ道が一つずつ塞がれる。ノアは水面を見つめ、尾を両脚の間へ巻いた。

 

「……昔、檻ごと川に落とされたことがある」

 

 三人は黙った。

 

「死ななかったよ。檻が浅瀬に引っかかったから。でも水の中で鍵が開かなくて、息がなくなって、上で人間が笑ってて」

 

 話し終える前に、いつもの笑顔を作る。

 

「だから水は、ちょっとだけ嫌い。ほんのちょっと」

 

「戻っていてもいい」とカイルが言った。「聖堂へは俺たち三人で入る」

 

「案内料をもらった。途中で仕事を投げたら、値下げされる」

 

「しない」

 

「僕がするんだよ。自分の値段を」

 

 ノアは膝まで水へ入り、すぐ飛び出した。

 

「冷たい!」

 

「勢いで入るからです」

 

 リュシアは水際へ立ったまま、手を差し出さなかった。代わりに隣へしゃがむ。

 

「怖いまま行きましょう」

 

「励まし方、下手だね」

 

「怖くなくなるまで待つと、日が暮れそうなので」

 

「ひどい」

 

「私も怖いです」

 

「聖女なのに?」

 

「昨日からですから」

 

 ノアは水とリュシアを見比べた。

 

「途中で僕が暴れたら?」

 

「蹴られないよう離れます」

 

「助けてよ」

 

「では、何をすれば助かりますか」

 

 問い返され、ノアは考えた。

 

「前を泳いで。足が見えれば、出口が分かる」

 

「分かりました」

 

 先に足を水へ入れる。

 

 カイルが不満そうにしたが、止めなかった。

 

 ノアはリュシアの半歩後ろから、水へ入った。

 

 セレナは杖で四人の額へ順に触れた。薄い空気の膜が顔を包む。息を吸えることを確かめ、一行は水中へ降りた。

 

 沈んだ礼拝堂には、魚の群れが泳いでいた。色ガラスを失った窓から緑の光が差し込み、長椅子の間を水草が揺れる。音のない世界で、ノアの尾だけがひどく不機嫌そうに膨らんでいた。

 

 猫は水が嫌いらしい。

 

 笑いそうになったリュシアの横で、カイルが剣を抜いた。

 

 その直前、崩れた回廊でリュシアの裾が鉄格子へ引っかかった。

 

 水の流れに身体を引かれ、足が動かない。空気の膜が柱へ触れて揺らぐ。リュシアが裾を破ろうとしたとき、前を泳いでいたノアが戻ってきた。

 

 短剣で布を切る。

 

 自由になったリュシアを押し上げ、自分は鉄格子へ背を打った。空気の泡が大きく漏れる。

 

 今度はリュシアがノアの腕を取った。

 

 彼の身体が強張る。

 

 檻の中でつかまれた記憶が戻ったのかもしれない。

 

 リュシアはすぐに手を離し、自分の足を指さした。前を泳ぐという約束。

 

 ノアは荒い息を整え、うなずく。

 

 水中では礼も励ましも言えない。ただ互いの姿を見失わないように泳いだ。

 

 奥の暗がりに、二つの黄色い目が浮かぶ。

 

 灰鰐だった。

 

 全身を石のような鱗が覆い、背から黒い火が立っている。水中なのに火は消えない。むしろ濁りを吸い、みるみる大きくなった。

 

 セレナが氷槍を放つ。水の抵抗に勢いを失い、鱗を浅く削るだけだった。灰鰐が尾を振る。長椅子が砕け、カイルとノアが左右へ飛んだ。

 

 リュシアは祭壇への扉を見つけた。白い石の中央に、手の形のくぼみがある。

 

 前を歩く。そう約束した。

 

 けれど三人は灰鰐に阻まれている。

 

 リュシアは一人で扉へ泳いだ。

 

 くぼみに左手を重ねる。聖痕が光り、石扉がゆっくり左右へ開いた。

 

 その振動で灰鰐がこちらを向く。

 

 黄色い目と視線が合った。

 

 逃げるより早く、大きな顎が迫った。カイルが間へ割り込み、剣を横にして牙を受ける。刃が軋み、彼の肩から赤いものが水へ広がった。

 

 リュシアは考える前に、傷へ触れた。

 

 右の肩が裂ける。

 

 痛みで空気の膜が揺らぎ、水を飲みかけた。カイルが彼女の腕をつかむ。その顔は、怒鳴れない水中でも分かるほど怒っていた。

 

 灰鰐が再び尾を振り上げる。

 

 ノアがその背へ取りついた。鱗の隙間へ短剣を差し込み、黒い火の根を断つ。暴れた灰鰐の口へ、セレナが杖を突き入れた。

 

 冷気が爆発した。

 

 内側から凍りついた巨体が、床へ沈む。

 

 四人は祭壇の間へ逃げ込み、石扉を閉じた。

 

 部屋には水がなかった。境を越えた途端、服に含んだ水まで床へ落ちる。空気の膜が弾け、ノアが盛大に咳き込んだ。

 

「水、嫌い……」

 

「知っています」

 

「言ったっけ」

 

「顔に書いてありました」

 

 リュシアは笑おうとしたが、肩の痛みに顔をしかめた。

 

 カイルがすぐに外套を脱ぎ、傷口へ押し当てる。

 

「約束しただろ」

 

「カイルが怪我をしたので」

 

「俺の怪我だ!」

 

「だからです」

 

「君の身体は、傷を捨てるごみ箱じゃない!」

 

 石室に声が響いた。

 

 リュシアは目を見開いた。カイル自身も言葉の強さに気づいたらしく、唇を噛んだ。

 

「……悪い。そういう意味じゃ」

 

「分かっています」

 

「分かってない。君はいつも、分かった顔だけする」

 

 彼は血のにじむ布を押さえたまま、うつむいた。

 

「俺が怪我をすると、君が痛む。なら俺は、怪我をすることも許されないのか。守ろうとするたび、君が代わりに傷つくのを見てろっていうのか」

 

 そんなふうに考えたことはなかった。

 

 リュシアにとって、傷を引き受けることは答えだった。誰かを助けられる、最も確かな答え。

 

 けれどその答えが、カイルを傷つけている。

 

「ごめんなさい」

 

「謝ってほしいんじゃない」

 

「では、どうすれば」

 

「相談してくれ。俺たちが自分で耐えられる傷まで、全部奪わないでくれ」

 

 カイルは顔を上げた。

 

「君が痛いのを、俺にも痛がらせてくれ」

 

 胸の奥に、知らない痛みが生まれた。聖痕では移せない、熱くて柔らかな痛みだった。

 

「……努力します」

 

「そこは約束してくれ」

 

「簡単には、できないかもしれません」

 

 正直に言うと、カイルは困ったように笑った。

 

「じゃあ、それでいい。まずは言ってくれただけで」

 

 セレナが二人の間へ割って入り、カイルの手から布を取った。

 

「感動的なところ悪いけれど、治療するわよ。ノア、鞄から青い瓶。カイルは明かり」

 

「僕にもできることある?」

 

「その濡れた尾で薬を倒さないこと」

 

「難しいな」

 

「外へ捨てるわよ」

 

 傷を縫われる間、リュシアは涙をこらえた。痛い顔をしなさいと言われたから、今度は笑わなかった。カイルは手を貸してくれた。握り返すと、何も言わず少し強く握った。

 

 祭壇の中央には、銀の杯が浮いていた。

 

 リュシアが近づくと、空だった杯に澄んだ水が湧く。表面に四人の顔が映った。古い文字が縁に刻まれている。

 

『傷を分かつ者に、暁は宿る』

 

 セレナが読み上げた。

 

「分かつ、か」

 

 カイルがつぶやく。

 

「引き受ける、ではないのね」とセレナ。

 

 二人ともリュシアを見た。

 

「遺物まで私を叱るんですね」

 

「いい趣味してる」とノアが言った。

 

 リュシアが杯へ触れると、水が光に変わり、聖痕へ吸い込まれた。銀杯は手のひらに収まるほど小さくなる。

 

 第一の聖遺物、暁の杯。

 

 帰りは、祭壇裏の階段から地上へ出られた。

 

「行きにもこっちを使いたかった」とノアが恨めしそうに振り返る。

 

「外からは開かなかったのよ」

 

「聖女なら開けられたんじゃない?」

 

「……たぶん」

 

「水に入る前に気づこうよ!」

 

 湿地に彼の叫びが響いた。

 

 階段を上り切ったあと、ノアは乾いた地面へ腹ばいになった。

 

「土、大好き。僕、今日から土と結婚する」

 

「泥も土ですよ」とリュシア。

 

「泥とは別れた」

 

「早いですね」

 

「価値観の違い」

 

 カイルが濡れた外套を絞り、セレナは長い髪から水を払った。四人とも疲れ切っているのに、ノアの大げさな求婚で笑った。

 

「さっきは、ありがとう」とリュシア。

 

「何が」

 

「裾を切ってくれました」

 

「仕事だよ。薬草も濡らさなかった」

 

 外套の内側から、防水布に包んだ薬草を出す。水へ潜る前、二重に包んで胸へ結んでいたらしい。

 

「大切な荷物だから」

 

「はい」

 

「それと」

 

 ノアは声を小さくした。

 

「前を泳いでくれて、ありがと」

 

 リュシアも、怖くなかったとは言わなかった。

 

「次も前を泳ぎます」

 

「次はない。二度と水の遺物は探さない」

 

「四つのうち一つなら、たぶんありません」

 

「たぶん?」

 

「地図には残りの場所しか書いていないので、水没していない保証は」

 

「今すぐ確認して!」

 

 ノアはカイルの地図を奪いに走った。

 

 その夜は、聖堂から離れた乾いた丘で野営した。

 

 セレナは火のそばにリュシアを座らせると、荷物から細い青の髪紐を取り出した。

 

「後ろを向いて」

 

「治療は終わりましたよ」

 

「髪。泥と血でひどいことになってる」

 

 櫛が金髪をゆっくり通る。引っかかるたび、セレナの指が器用にほどいていった。

 

「妹にも、こうしていたんですか」

 

 何気なく聞くと、櫛が止まった。

 

「……ええ」

 

 火の向こうでノアが薪を足し、カイルが鍋をかき回している。二人には聞こえない小さな声だった。

 

「ミアっていった。じっとしていられない子で、毎朝追いかけ回した」

 

「セレナに似ていますか」

 

「まったく。明るくて、素直で、かわいげがあった」

 

「最後の一つは、セレナにもあります」

 

 櫛がまた止まった。

 

「熱で頭がおかしくなった?」

 

「褒めたのに」

 

 セレナは髪を三つに分け、青い紐で結んだ。

 

「これはあげる。せめて騎士さまに縄にされないよう、自分で結べるようになりなさい」

 

「大切なものでは?」

 

「ただの紐よ」

 

 けれど、その指は一度だけ結び目を撫でた。

 

 夕食の鍋は、ひどい味がした。

 

「カイル、これは何ですか」

 

「豆と塩漬け肉の煮込み」

 

「どうして甘いの?」とノア。

 

「塩だと思った袋が砂糖だった」

 

「どうして酸っぱいの?」とセレナ。

 

「焦げたから酢を入れた」

 

「どうして焦げを酢で解決できると思ったの?」

 

 リュシアは一口食べ、真剣に考えた。

 

「蜂蜜を入れたら、まとまるかもしれません」

 

「リュシアまで壊れた!」

 

 ノアが頭を抱える。

 

 結局、黒パンと干し肉だけの夕食になった。それでも火を囲んで食べると、不思議と楽しかった。

 

 肩は痛む。明日になっても、たぶん痛い。

 

 けれどカイルはその痛みを知っていて、セレナが手当てをし、ノアが自分の分の干し果物を一つくれた。

 

 傷を分かつとは、こういうことなのかもしれない。

 

 リュシアは青い髪紐へ触れた。

 

 この旅が終わるまで、大切にしようと思った。

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