東の湿地へ入って二日目、カイルはノアの案内料が安すぎたことを認めた。
「右、泥沼」
ノアが言う。
見た目には草の生えた普通の地面だった。カイルが長剣の鞘でつつくと、音もなく沈み、柄まで吸い込まれそうになる。
「左は?」
「灰鰐の昼寝場所」
「正面」
「毒蛭」
「どこを通るんだ」
「後ろ」
「戻るのか?」
「三歩戻って、あの倒木を渡る。赤いの、ほんとに案内なしで来るつもりだった?」
カイルは黙って銀貨を一枚増やした。
水没聖堂は、湿地の最奥に沈んでいた。
かつては白い石造りだったのだろう。今は屋根の半分だけが水上に出て、鐘楼には蔦と水草が絡みついている。入り口は濁った水の下だった。
「泳ぐしかないわね」
セレナが水面を杖で叩く。冷気が円く広がったが、凍ったのは表面だけだった。
「聖杯は地下祭壇にある。水をすべて凍らせたら、聖堂も壊れる」
「俺が潜る」とカイル。
「僕のほうが速い」とノア。
「中に灰鰐がいるかもしれない」
「だから速いほうがいいんだって」
二人が言い合う横で、リュシアは水へ手を入れた。春とは思えない冷たさだった。指先がすぐにしびれる。
「私も行きます」
「却下」
三人の声が重なった。
「まだ理由も言っていません」
「君が言いそうな理由は全部却下だ」とカイル。
「地下祭壇は聖痕を持つ者にしか開けられないのよ」とセレナが地図を示した。「だから行く必要はある。でも、私が水避けの術をかける。勝手に傷を引き受けない。必ず私たちの後ろを歩く。いい?」
リュシアはうなずいた。
「返事は?」
「はい」
「よろしい」
水へ入る前、ノアだけが岸に残った。
「どうしました?」
「荷物の見張りが要るだろ」
「必要ないわ。結界を張ったもの」とセレナ。
「じゃあ帰り道の見張り」
「中の道を知っているのは、あなたでしょう」とカイル。
逃げ道が一つずつ塞がれる。ノアは水面を見つめ、尾を両脚の間へ巻いた。
「……昔、檻ごと川に落とされたことがある」
三人は黙った。
「死ななかったよ。檻が浅瀬に引っかかったから。でも水の中で鍵が開かなくて、息がなくなって、上で人間が笑ってて」
話し終える前に、いつもの笑顔を作る。
「だから水は、ちょっとだけ嫌い。ほんのちょっと」
「戻っていてもいい」とカイルが言った。「聖堂へは俺たち三人で入る」
「案内料をもらった。途中で仕事を投げたら、値下げされる」
「しない」
「僕がするんだよ。自分の値段を」
ノアは膝まで水へ入り、すぐ飛び出した。
「冷たい!」
「勢いで入るからです」
リュシアは水際へ立ったまま、手を差し出さなかった。代わりに隣へしゃがむ。
「怖いまま行きましょう」
「励まし方、下手だね」
「怖くなくなるまで待つと、日が暮れそうなので」
「ひどい」
「私も怖いです」
「聖女なのに?」
「昨日からですから」
ノアは水とリュシアを見比べた。
「途中で僕が暴れたら?」
「蹴られないよう離れます」
「助けてよ」
「では、何をすれば助かりますか」
問い返され、ノアは考えた。
「前を泳いで。足が見えれば、出口が分かる」
「分かりました」
先に足を水へ入れる。
カイルが不満そうにしたが、止めなかった。
ノアはリュシアの半歩後ろから、水へ入った。
セレナは杖で四人の額へ順に触れた。薄い空気の膜が顔を包む。息を吸えることを確かめ、一行は水中へ降りた。
沈んだ礼拝堂には、魚の群れが泳いでいた。色ガラスを失った窓から緑の光が差し込み、長椅子の間を水草が揺れる。音のない世界で、ノアの尾だけがひどく不機嫌そうに膨らんでいた。
猫は水が嫌いらしい。
笑いそうになったリュシアの横で、カイルが剣を抜いた。
その直前、崩れた回廊でリュシアの裾が鉄格子へ引っかかった。
水の流れに身体を引かれ、足が動かない。空気の膜が柱へ触れて揺らぐ。リュシアが裾を破ろうとしたとき、前を泳いでいたノアが戻ってきた。
短剣で布を切る。
自由になったリュシアを押し上げ、自分は鉄格子へ背を打った。空気の泡が大きく漏れる。
今度はリュシアがノアの腕を取った。
彼の身体が強張る。
檻の中でつかまれた記憶が戻ったのかもしれない。
リュシアはすぐに手を離し、自分の足を指さした。前を泳ぐという約束。
ノアは荒い息を整え、うなずく。
水中では礼も励ましも言えない。ただ互いの姿を見失わないように泳いだ。
奥の暗がりに、二つの黄色い目が浮かぶ。
灰鰐だった。
全身を石のような鱗が覆い、背から黒い火が立っている。水中なのに火は消えない。むしろ濁りを吸い、みるみる大きくなった。
セレナが氷槍を放つ。水の抵抗に勢いを失い、鱗を浅く削るだけだった。灰鰐が尾を振る。長椅子が砕け、カイルとノアが左右へ飛んだ。
リュシアは祭壇への扉を見つけた。白い石の中央に、手の形のくぼみがある。
前を歩く。そう約束した。
けれど三人は灰鰐に阻まれている。
リュシアは一人で扉へ泳いだ。
くぼみに左手を重ねる。聖痕が光り、石扉がゆっくり左右へ開いた。
その振動で灰鰐がこちらを向く。
黄色い目と視線が合った。
逃げるより早く、大きな顎が迫った。カイルが間へ割り込み、剣を横にして牙を受ける。刃が軋み、彼の肩から赤いものが水へ広がった。
リュシアは考える前に、傷へ触れた。
右の肩が裂ける。
痛みで空気の膜が揺らぎ、水を飲みかけた。カイルが彼女の腕をつかむ。その顔は、怒鳴れない水中でも分かるほど怒っていた。
灰鰐が再び尾を振り上げる。
ノアがその背へ取りついた。鱗の隙間へ短剣を差し込み、黒い火の根を断つ。暴れた灰鰐の口へ、セレナが杖を突き入れた。
冷気が爆発した。
内側から凍りついた巨体が、床へ沈む。
四人は祭壇の間へ逃げ込み、石扉を閉じた。
部屋には水がなかった。境を越えた途端、服に含んだ水まで床へ落ちる。空気の膜が弾け、ノアが盛大に咳き込んだ。
「水、嫌い……」
「知っています」
「言ったっけ」
「顔に書いてありました」
リュシアは笑おうとしたが、肩の痛みに顔をしかめた。
カイルがすぐに外套を脱ぎ、傷口へ押し当てる。
「約束しただろ」
「カイルが怪我をしたので」
「俺の怪我だ!」
「だからです」
「君の身体は、傷を捨てるごみ箱じゃない!」
石室に声が響いた。
リュシアは目を見開いた。カイル自身も言葉の強さに気づいたらしく、唇を噛んだ。
「……悪い。そういう意味じゃ」
「分かっています」
「分かってない。君はいつも、分かった顔だけする」
彼は血のにじむ布を押さえたまま、うつむいた。
「俺が怪我をすると、君が痛む。なら俺は、怪我をすることも許されないのか。守ろうとするたび、君が代わりに傷つくのを見てろっていうのか」
そんなふうに考えたことはなかった。
リュシアにとって、傷を引き受けることは答えだった。誰かを助けられる、最も確かな答え。
けれどその答えが、カイルを傷つけている。
「ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃない」
「では、どうすれば」
「相談してくれ。俺たちが自分で耐えられる傷まで、全部奪わないでくれ」
カイルは顔を上げた。
「君が痛いのを、俺にも痛がらせてくれ」
胸の奥に、知らない痛みが生まれた。聖痕では移せない、熱くて柔らかな痛みだった。
「……努力します」
「そこは約束してくれ」
「簡単には、できないかもしれません」
正直に言うと、カイルは困ったように笑った。
「じゃあ、それでいい。まずは言ってくれただけで」
セレナが二人の間へ割って入り、カイルの手から布を取った。
「感動的なところ悪いけれど、治療するわよ。ノア、鞄から青い瓶。カイルは明かり」
「僕にもできることある?」
「その濡れた尾で薬を倒さないこと」
「難しいな」
「外へ捨てるわよ」
傷を縫われる間、リュシアは涙をこらえた。痛い顔をしなさいと言われたから、今度は笑わなかった。カイルは手を貸してくれた。握り返すと、何も言わず少し強く握った。
祭壇の中央には、銀の杯が浮いていた。
リュシアが近づくと、空だった杯に澄んだ水が湧く。表面に四人の顔が映った。古い文字が縁に刻まれている。
『傷を分かつ者に、暁は宿る』
セレナが読み上げた。
「分かつ、か」
カイルがつぶやく。
「引き受ける、ではないのね」とセレナ。
二人ともリュシアを見た。
「遺物まで私を叱るんですね」
「いい趣味してる」とノアが言った。
リュシアが杯へ触れると、水が光に変わり、聖痕へ吸い込まれた。銀杯は手のひらに収まるほど小さくなる。
第一の聖遺物、暁の杯。
帰りは、祭壇裏の階段から地上へ出られた。
「行きにもこっちを使いたかった」とノアが恨めしそうに振り返る。
「外からは開かなかったのよ」
「聖女なら開けられたんじゃない?」
「……たぶん」
「水に入る前に気づこうよ!」
湿地に彼の叫びが響いた。
階段を上り切ったあと、ノアは乾いた地面へ腹ばいになった。
「土、大好き。僕、今日から土と結婚する」
「泥も土ですよ」とリュシア。
「泥とは別れた」
「早いですね」
「価値観の違い」
カイルが濡れた外套を絞り、セレナは長い髪から水を払った。四人とも疲れ切っているのに、ノアの大げさな求婚で笑った。
「さっきは、ありがとう」とリュシア。
「何が」
「裾を切ってくれました」
「仕事だよ。薬草も濡らさなかった」
外套の内側から、防水布に包んだ薬草を出す。水へ潜る前、二重に包んで胸へ結んでいたらしい。
「大切な荷物だから」
「はい」
「それと」
ノアは声を小さくした。
「前を泳いでくれて、ありがと」
リュシアも、怖くなかったとは言わなかった。
「次も前を泳ぎます」
「次はない。二度と水の遺物は探さない」
「四つのうち一つなら、たぶんありません」
「たぶん?」
「地図には残りの場所しか書いていないので、水没していない保証は」
「今すぐ確認して!」
ノアはカイルの地図を奪いに走った。
その夜は、聖堂から離れた乾いた丘で野営した。
セレナは火のそばにリュシアを座らせると、荷物から細い青の髪紐を取り出した。
「後ろを向いて」
「治療は終わりましたよ」
「髪。泥と血でひどいことになってる」
櫛が金髪をゆっくり通る。引っかかるたび、セレナの指が器用にほどいていった。
「妹にも、こうしていたんですか」
何気なく聞くと、櫛が止まった。
「……ええ」
火の向こうでノアが薪を足し、カイルが鍋をかき回している。二人には聞こえない小さな声だった。
「ミアっていった。じっとしていられない子で、毎朝追いかけ回した」
「セレナに似ていますか」
「まったく。明るくて、素直で、かわいげがあった」
「最後の一つは、セレナにもあります」
櫛がまた止まった。
「熱で頭がおかしくなった?」
「褒めたのに」
セレナは髪を三つに分け、青い紐で結んだ。
「これはあげる。せめて騎士さまに縄にされないよう、自分で結べるようになりなさい」
「大切なものでは?」
「ただの紐よ」
けれど、その指は一度だけ結び目を撫でた。
夕食の鍋は、ひどい味がした。
「カイル、これは何ですか」
「豆と塩漬け肉の煮込み」
「どうして甘いの?」とノア。
「塩だと思った袋が砂糖だった」
「どうして酸っぱいの?」とセレナ。
「焦げたから酢を入れた」
「どうして焦げを酢で解決できると思ったの?」
リュシアは一口食べ、真剣に考えた。
「蜂蜜を入れたら、まとまるかもしれません」
「リュシアまで壊れた!」
ノアが頭を抱える。
結局、黒パンと干し肉だけの夕食になった。それでも火を囲んで食べると、不思議と楽しかった。
肩は痛む。明日になっても、たぶん痛い。
けれどカイルはその痛みを知っていて、セレナが手当てをし、ノアが自分の分の干し果物を一つくれた。
傷を分かつとは、こういうことなのかもしれない。
リュシアは青い髪紐へ触れた。
この旅が終わるまで、大切にしようと思った。