廃都ネブラには、屋根がなかった。
二百年前の地震で地下水路が崩れ、街の半分が地の底へ沈んだという。残った建物も壁ばかりで、青空の下に寝台や暖炉の跡がむき出しになっている。
「町じゅう、巨大な人形の家みたいですね」
リュシアが言うと、ノアは鼻をひくつかせた。
「そんなかわいい匂いじゃないよ。人間が六人。少し先で待ってる」
「灰祷会か?」
カイルが剣へ手を置く。
「違う。油と酒と……鎖の匂い」
最後の言葉だけ、ノアの声が低くなった。
案内図によれば、第二の聖遺物「星縫いの針」は旧天文塔にある。街の中央を通るのが最短だが、一行は裏路地へ回った。
ノアが先行し、崩れた窓から中をのぞく。戻ってきたとき、耳は頭へ伏せられていた。
「奴隷狩りだ。獣人の子が三人、荷車に入れられてる」
「助ける」とカイルは即答した。
ノアが目を丸くする。
「聖遺物を急ぐんじゃないの」
「急いでいる。だが見捨てない」
「罠かもしれないわ」とセレナ。
「でも子どもは本物でしょう?」とリュシア。
「だから助けるのよ。罠ごと壊す」
セレナは杖を握り直した。
作戦は単純だった。ノアが見張りを引きつけ、カイルが荷車を守る二人を倒す。セレナが退路を塞ぎ、リュシアが子どもを逃がす。
「危ないと思ったら叫べ」とカイル。
「はい」
「怪我を移す前にも」
「努力します」
「まだそれか」
ノアは笑い、壁の向こうへ小石を投げた。
乾いた音に見張りが振り向く。次の瞬間、砂色の影が屋根のない家を駆け抜けた。
「おい、猫が逃げたぞ!」
「猫じゃない!」
ノアは律儀に訂正しながら、三人を引きつけた。
残る男たちをカイルが瞬く間に制圧する。セレナの氷が足元を固め、リュシアは荷車の錠へ暁の杯の水を注いだ。濁った鉄が清められ、音を立てて割れる。
中には、狐耳の姉弟と、片方の角を折られた山羊族の少女がいた。
「もう大丈夫です」
手を差し出すと、三人は奥へ身を寄せた。
「人間のところには行かない」
一番年上らしい少女が震える声で言った。
「私たちは――」
「リュシア、下がって」
戻ってきたノアが、彼女と子どもたちの間に入る。
彼はしゃがみ、目の高さを合わせた。
「こいつらは変な人間だけど、人間には違いない。怖いよな」
リュシアは胸を突かれたようだった。自分が善意なら、相手は安心すると思っていた。けれど怖さには、相手の事情がある。
「無理に触らない」とノアは続けた。「東門まで一緒に歩く。嫌なら十歩離れていい。水と飯はここに置く。選ぶのはお前たちだ」
三人はしばらく迷い、やがて荷車から降りた。
狐耳の弟は、降りるときに足をくじいた。
リュシアがしゃがむと、少年は姉の背へ隠れた。無理に近づかず、薬箱を地面へ置く。
「包帯と薬です。使い方を説明してもいいですか」
姉は答えず、ノアを見る。
「その薬、痛い?」
「少し染みます」
「正直すぎ」とノアは笑い、少年へ自分の足を見せた。「僕も前に使った。染みるけど、歩けるのが早くなる。嫌なら包帯だけでもいい」
少年は迷った末、ノアへ足を出した。
手当てをしたのはノアだった。リュシアは触れず、薬の量と巻き方だけを教えた。彼の指は器用で、包帯をきつくしすぎない。
「上手ですね」
「自分で巻くこと多かったから。治してくれる人、いなかったし」
リュシアは身代わりの聖痕を持つ手を見た。触れればすぐに治せる。けれど今、それは少年が望む助けではない。
力を使わないことが、人を助ける場合もある。
旅商隊までの道中、三人の子どもは十歩ほど後ろを歩いた。次第に距離は八歩、五歩と縮まり、東門へ着くころにはノアの尾を目で追っていた。
「触る?」
ノアが振り向いて尾を差し出す。
狐耳の弟が毛先へ触れた。
「ふわふわ」
「だろ。手入れしてるからね」
「昨日、泥だらけだったけど」とカイル。
「赤いのは子どもの夢を壊すな」
姉のほうも、初めて少し笑った。
東門には、獣人の旅商隊が野営していた。事情を聞いた族長は子どもたちを預かり、カイルたちへ何度も頭を下げた。
子どもたちは最後までリュシアの手を取らなかった。それでも別れ際、狐耳の少年が小さく手を振ってくれた。
「助けるって、難しいですね」
街へ戻る道で、リュシアが言う。
「そう?」とノア。
「手を伸ばせばいいと思っていました。でも、その手が怖いこともあるんですね」
「そりゃあるよ。僕も最初、あんたが何を企んでるのか考えたし」
「企んでいません」
「うん。今は知ってる」
ノアは前を向いたまま言った。
「だから、たぶん、あの子たちもいつか知るよ」
旧天文塔は街の西端に傾いて立っていた。
内部の螺旋階段は途中で切れ、上階へ行くには崩れた梁を渡らなければならない。最上階の天井も失われ、昼の空が丸く見えた。
床一面には星図が刻まれていた。中央に、一本の長い銀針が突き立っている。
銀針までの間には、四つの星座があった。
剣を持つ騎士。杯を掲げる乙女。杖を伸ばす魔術師。獣の耳を持つ狩人。
「私たちみたいですね」とリュシア。
「偶然にしては親切すぎる」とカイル。
四つの星座へ同時に立つと、床から光の糸が伸びた。リュシアとカイル、カイルとセレナ、セレナとノア、ノアとリュシア。互いの手首を結ぶように輪になる。
一人が中心へ近づこうとすると、反対側の二人が引かれる。全員が同じ速さで歩かなければ、糸が締まった。
「右足から」とカイル。
「僕の右とそっちの右は同じ?」
「同じに決まってるだろ」
「向かい合ってるから違う気がする」
「ノア、考えないで私に合わせて」とセレナ。
「ひどくない?」
最初の一歩で四人はもつれ、全員が床へ倒れた。
二度目は、リュシアが声を出して数えた。
「いち、に、いち、に」
カイルは歩幅を小さくし、ノアは尾で均衡を取り、セレナがずれた糸を魔法で支えた。四人の歩幅がそろったとき、星図が夜空のように輝く。
誰か一人が針を得る試練ではない。
四人で中心へ届くための仕掛けだった。
近づいた途端、星図が光った。
四人の足元が消える。
リュシアは暗闇へ落ちた。
気づくと、修道院の庭に立っていた。洗濯物が風に揺れ、子どもたちの笑い声が聞こえる。
「戻ってきたのか」
マルタ院長が回廊にいる。
リュシアは駆け寄ろうとして、足を止めた。
庭の向こうに、カイルたちが倒れていた。灰に埋もれ、動かない。自分だけが無傷だった。
『お前が傷を引き受けなかったからだ』
院長の口から、知らない声がした。
『役に立たないお前を、誰が愛する』
胸が凍った。
「違う」
『ならば選べ。お前が傷つくか、彼らが死ぬか』
倒れたカイルが目を開けた。
「助けてくれ、リュシア」
手を伸ばしてくる。その腹には、幼い日に見た灰狼の傷があった。
リュシアも手を伸ばしかけた。
けれど彼は言ったのだ。
俺たちが自分で耐えられる傷まで、全部奪わないでくれ。
これはカイルではない。自分の恐れが作ったものだ。
「あなたは、そんな頼み方をしません」
リュシアは伸ばした手を下ろした。
「私が何もできない日でも、帰る場所はあります」
声が震えた。本当に信じ切れてはいない。それでも言葉にすると、庭の景色へ亀裂が走った。
暗闇が砕ける。
天文塔へ戻ると、床に四本の光の糸が伸びていた。リュシア、カイル、セレナ、ノア。それぞれ別の幻を見ているらしい。皆、苦しそうに目を閉じている。
中央の銀針が、糸を一本ずつ切ろうとしていた。
リュシアは針を抜いた。
光の糸が結ばれ、三人が同時に目を開ける。
「今のは……」
カイルが息を切らし、セレナは青ざめていた。ノアだけは何も言わず、自分の両手を見ている。
星縫いの針には、細かな字が刻まれていた。
『離れた魂を結び、偽りの孤独を縫い閉じる』
「嫌な遺物ね」とセレナ。「人の傷を勝手に覗くなんて」
「何を見たんですか」とリュシア。
「言わない」
「俺も」とカイル。
三人の視線がノアへ集まった。
「僕だけ聞く気?」
「一番顔に出てる」とカイル。
ノアは尻尾で床を掃き、そっぽを向いた。
「昔のこと。見世物小屋に売られそうになったときの」
軽く言おうとして、失敗した声だった。
「捕まって、檻に入れられてさ。人間の子どもが棒で耳をつつくんだ。獣人は痛くないと思ってたらしい」
誰も口を挟まなかった。
「逃げたあとも、助けるって言う人はいたよ。でも代わりに働けとか、耳を触らせろとか。だから、あんたも何か欲しいんだと思った」
琥珀の目がリュシアを見る。
「まだ思っていますか」
「少し」
正直な返事だった。
「何もいらない人なんて、ちょっと怖いから」
リュシアは考えた。
「では、一つお願いします」
ノアの耳が警戒するように伏せる。
「五つ灯亭の看板を作ってください。ノアは絵が上手そうです」
「見たことないだろ」
「字は書けますか」
「そこから疑う?」
「では、絵もきっと描けます」
ノアはぽかんとし、やがて腹を抱えて笑った。
「いいよ。世界一でかい看板にしてやる」
「店が隠れるほどは困ります」
「注文が多いなあ」
塔を下りる途中、ノアは崩れた家具から木片を拾った。夜の野営で短剣を使い、何かを削り始める。
翌朝、リュシアの毛布の上に、不格好な木彫りの猫が置かれていた。
「看板の試作品」とノア。「山猫だけど」
「耳が片方、大きいですね」
「そこは味」
「尻尾が二本あります」
「幸運を多めに呼ぶ」
リュシアは両手で木彫りを包んだ。
「大切にします」
「そんな真面目に言うなよ。ただの木だって」
ノアは照れたように鼻をこすり、先へ走っていった。
その日の昼、旅商隊が礼として食事へ招いてくれた。
大鍋で香草と羊肉を煮込み、薄いパンを火で焼く。助けた子どもたちは少し離れた毛布に座ったが、もう逃げようとはしなかった。
ノアは木片を削りながら、店の看板案をいくつも地面へ描いた。
「剣と杖を交差させて、その上に杯」
「武器屋に見えるわ」とセレナ。
「じゃあ鍋」
「食堂にしか見えない」とカイル。
「食堂もやるんだからいいだろ」
「何でも屋でもあります」とリュシア。
「なら全部描く」
地面いっぱいに剣、杖、杯、鍋、猫、薬草、山、魚が広がり、何の店かますます分からなくなる。
山羊族の少女が近づき、絵の隅へ小さな灯を描いた。
「夜でも、ここなら入っていいって分かる」
ノアはその灯を見つめた。
「いいね。五つ描こう」
「四人なのに?」
「一つは幸運の席」
少女は五つの灯を並べた。その形が、のちにノアの作る看板の原型になった。
別れ際、狐耳の少年がリュシアの足元へ薬箱を置いた。自分から近づいたのは、それが初めてだった。
「ありがと」
リュシアは手を伸ばさず、同じ高さへしゃがんで頭を下げた。
「どういたしまして」
それだけで十分だった。
リュシアは荷物の一番上へ木彫りをしまった。
ただの木ではない。
自分が誰かと未来を約束した、その証だった。
聖遺物は二つ。
旅はまだ半ばにも届いていなかった。
それなのにリュシアは、終わったあとの暮らしを少しずつ、本当に待ち遠しく思い始めていた。
眠る前、木彫りの猫を暁の杯と星縫いの針の間へ置いた。
聖遺物は世界を救うためのもの。猫は、そのあとに生きるためのもの。
リュシアにとっては、どちらも同じくらい大切だった。
「おやすみなさい」
小さな猫へ告げる。
隣の毛布から、起きていたノアが満足そうに尾を揺らした。