灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第四話 星を縫う街

 廃都ネブラには、屋根がなかった。

 

 二百年前の地震で地下水路が崩れ、街の半分が地の底へ沈んだという。残った建物も壁ばかりで、青空の下に寝台や暖炉の跡がむき出しになっている。

 

「町じゅう、巨大な人形の家みたいですね」

 

 リュシアが言うと、ノアは鼻をひくつかせた。

 

「そんなかわいい匂いじゃないよ。人間が六人。少し先で待ってる」

 

「灰祷会か?」

 

 カイルが剣へ手を置く。

 

「違う。油と酒と……鎖の匂い」

 

 最後の言葉だけ、ノアの声が低くなった。

 

 案内図によれば、第二の聖遺物「星縫いの針」は旧天文塔にある。街の中央を通るのが最短だが、一行は裏路地へ回った。

 

 ノアが先行し、崩れた窓から中をのぞく。戻ってきたとき、耳は頭へ伏せられていた。

 

「奴隷狩りだ。獣人の子が三人、荷車に入れられてる」

 

「助ける」とカイルは即答した。

 

 ノアが目を丸くする。

 

「聖遺物を急ぐんじゃないの」

 

「急いでいる。だが見捨てない」

 

「罠かもしれないわ」とセレナ。

 

「でも子どもは本物でしょう?」とリュシア。

 

「だから助けるのよ。罠ごと壊す」

 

 セレナは杖を握り直した。

 

 作戦は単純だった。ノアが見張りを引きつけ、カイルが荷車を守る二人を倒す。セレナが退路を塞ぎ、リュシアが子どもを逃がす。

 

「危ないと思ったら叫べ」とカイル。

 

「はい」

 

「怪我を移す前にも」

 

「努力します」

 

「まだそれか」

 

 ノアは笑い、壁の向こうへ小石を投げた。

 

 乾いた音に見張りが振り向く。次の瞬間、砂色の影が屋根のない家を駆け抜けた。

 

「おい、猫が逃げたぞ!」

 

「猫じゃない!」

 

 ノアは律儀に訂正しながら、三人を引きつけた。

 

 残る男たちをカイルが瞬く間に制圧する。セレナの氷が足元を固め、リュシアは荷車の錠へ暁の杯の水を注いだ。濁った鉄が清められ、音を立てて割れる。

 

 中には、狐耳の姉弟と、片方の角を折られた山羊族の少女がいた。

 

「もう大丈夫です」

 

 手を差し出すと、三人は奥へ身を寄せた。

 

「人間のところには行かない」

 

 一番年上らしい少女が震える声で言った。

 

「私たちは――」

 

「リュシア、下がって」

 

 戻ってきたノアが、彼女と子どもたちの間に入る。

 

 彼はしゃがみ、目の高さを合わせた。

 

「こいつらは変な人間だけど、人間には違いない。怖いよな」

 

 リュシアは胸を突かれたようだった。自分が善意なら、相手は安心すると思っていた。けれど怖さには、相手の事情がある。

 

「無理に触らない」とノアは続けた。「東門まで一緒に歩く。嫌なら十歩離れていい。水と飯はここに置く。選ぶのはお前たちだ」

 

 三人はしばらく迷い、やがて荷車から降りた。

 

 狐耳の弟は、降りるときに足をくじいた。

 

 リュシアがしゃがむと、少年は姉の背へ隠れた。無理に近づかず、薬箱を地面へ置く。

 

「包帯と薬です。使い方を説明してもいいですか」

 

 姉は答えず、ノアを見る。

 

「その薬、痛い?」

 

「少し染みます」

 

「正直すぎ」とノアは笑い、少年へ自分の足を見せた。「僕も前に使った。染みるけど、歩けるのが早くなる。嫌なら包帯だけでもいい」

 

 少年は迷った末、ノアへ足を出した。

 

 手当てをしたのはノアだった。リュシアは触れず、薬の量と巻き方だけを教えた。彼の指は器用で、包帯をきつくしすぎない。

 

「上手ですね」

 

「自分で巻くこと多かったから。治してくれる人、いなかったし」

 

 リュシアは身代わりの聖痕を持つ手を見た。触れればすぐに治せる。けれど今、それは少年が望む助けではない。

 

 力を使わないことが、人を助ける場合もある。

 

 旅商隊までの道中、三人の子どもは十歩ほど後ろを歩いた。次第に距離は八歩、五歩と縮まり、東門へ着くころにはノアの尾を目で追っていた。

 

「触る?」

 

 ノアが振り向いて尾を差し出す。

 

 狐耳の弟が毛先へ触れた。

 

「ふわふわ」

 

「だろ。手入れしてるからね」

 

「昨日、泥だらけだったけど」とカイル。

 

「赤いのは子どもの夢を壊すな」

 

 姉のほうも、初めて少し笑った。

 

 東門には、獣人の旅商隊が野営していた。事情を聞いた族長は子どもたちを預かり、カイルたちへ何度も頭を下げた。

 

 子どもたちは最後までリュシアの手を取らなかった。それでも別れ際、狐耳の少年が小さく手を振ってくれた。

 

「助けるって、難しいですね」

 

 街へ戻る道で、リュシアが言う。

 

「そう?」とノア。

 

「手を伸ばせばいいと思っていました。でも、その手が怖いこともあるんですね」

 

「そりゃあるよ。僕も最初、あんたが何を企んでるのか考えたし」

 

「企んでいません」

 

「うん。今は知ってる」

 

 ノアは前を向いたまま言った。

 

「だから、たぶん、あの子たちもいつか知るよ」

 

 旧天文塔は街の西端に傾いて立っていた。

 

 内部の螺旋階段は途中で切れ、上階へ行くには崩れた梁を渡らなければならない。最上階の天井も失われ、昼の空が丸く見えた。

 

 床一面には星図が刻まれていた。中央に、一本の長い銀針が突き立っている。

 

 銀針までの間には、四つの星座があった。

 

 剣を持つ騎士。杯を掲げる乙女。杖を伸ばす魔術師。獣の耳を持つ狩人。

 

「私たちみたいですね」とリュシア。

 

「偶然にしては親切すぎる」とカイル。

 

 四つの星座へ同時に立つと、床から光の糸が伸びた。リュシアとカイル、カイルとセレナ、セレナとノア、ノアとリュシア。互いの手首を結ぶように輪になる。

 

 一人が中心へ近づこうとすると、反対側の二人が引かれる。全員が同じ速さで歩かなければ、糸が締まった。

 

「右足から」とカイル。

 

「僕の右とそっちの右は同じ?」

 

「同じに決まってるだろ」

 

「向かい合ってるから違う気がする」

 

「ノア、考えないで私に合わせて」とセレナ。

 

「ひどくない?」

 

 最初の一歩で四人はもつれ、全員が床へ倒れた。

 

 二度目は、リュシアが声を出して数えた。

 

「いち、に、いち、に」

 

 カイルは歩幅を小さくし、ノアは尾で均衡を取り、セレナがずれた糸を魔法で支えた。四人の歩幅がそろったとき、星図が夜空のように輝く。

 

 誰か一人が針を得る試練ではない。

 

 四人で中心へ届くための仕掛けだった。

 

 近づいた途端、星図が光った。

 

 四人の足元が消える。

 

 リュシアは暗闇へ落ちた。

 

 気づくと、修道院の庭に立っていた。洗濯物が風に揺れ、子どもたちの笑い声が聞こえる。

 

「戻ってきたのか」

 

 マルタ院長が回廊にいる。

 

 リュシアは駆け寄ろうとして、足を止めた。

 

 庭の向こうに、カイルたちが倒れていた。灰に埋もれ、動かない。自分だけが無傷だった。

 

『お前が傷を引き受けなかったからだ』

 

 院長の口から、知らない声がした。

 

『役に立たないお前を、誰が愛する』

 

 胸が凍った。

 

「違う」

 

『ならば選べ。お前が傷つくか、彼らが死ぬか』

 

 倒れたカイルが目を開けた。

 

「助けてくれ、リュシア」

 

 手を伸ばしてくる。その腹には、幼い日に見た灰狼の傷があった。

 

 リュシアも手を伸ばしかけた。

 

 けれど彼は言ったのだ。

 

 俺たちが自分で耐えられる傷まで、全部奪わないでくれ。

 

 これはカイルではない。自分の恐れが作ったものだ。

 

「あなたは、そんな頼み方をしません」

 

 リュシアは伸ばした手を下ろした。

 

「私が何もできない日でも、帰る場所はあります」

 

 声が震えた。本当に信じ切れてはいない。それでも言葉にすると、庭の景色へ亀裂が走った。

 

 暗闇が砕ける。

 

 天文塔へ戻ると、床に四本の光の糸が伸びていた。リュシア、カイル、セレナ、ノア。それぞれ別の幻を見ているらしい。皆、苦しそうに目を閉じている。

 

 中央の銀針が、糸を一本ずつ切ろうとしていた。

 

 リュシアは針を抜いた。

 

 光の糸が結ばれ、三人が同時に目を開ける。

 

「今のは……」

 

 カイルが息を切らし、セレナは青ざめていた。ノアだけは何も言わず、自分の両手を見ている。

 

 星縫いの針には、細かな字が刻まれていた。

 

『離れた魂を結び、偽りの孤独を縫い閉じる』

 

「嫌な遺物ね」とセレナ。「人の傷を勝手に覗くなんて」

 

「何を見たんですか」とリュシア。

 

「言わない」

 

「俺も」とカイル。

 

 三人の視線がノアへ集まった。

 

「僕だけ聞く気?」

 

「一番顔に出てる」とカイル。

 

 ノアは尻尾で床を掃き、そっぽを向いた。

 

「昔のこと。見世物小屋に売られそうになったときの」

 

 軽く言おうとして、失敗した声だった。

 

「捕まって、檻に入れられてさ。人間の子どもが棒で耳をつつくんだ。獣人は痛くないと思ってたらしい」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「逃げたあとも、助けるって言う人はいたよ。でも代わりに働けとか、耳を触らせろとか。だから、あんたも何か欲しいんだと思った」

 

 琥珀の目がリュシアを見る。

 

「まだ思っていますか」

 

「少し」

 

 正直な返事だった。

 

「何もいらない人なんて、ちょっと怖いから」

 

 リュシアは考えた。

 

「では、一つお願いします」

 

 ノアの耳が警戒するように伏せる。

 

「五つ灯亭の看板を作ってください。ノアは絵が上手そうです」

 

「見たことないだろ」

 

「字は書けますか」

 

「そこから疑う?」

 

「では、絵もきっと描けます」

 

 ノアはぽかんとし、やがて腹を抱えて笑った。

 

「いいよ。世界一でかい看板にしてやる」

 

「店が隠れるほどは困ります」

 

「注文が多いなあ」

 

 塔を下りる途中、ノアは崩れた家具から木片を拾った。夜の野営で短剣を使い、何かを削り始める。

 

 翌朝、リュシアの毛布の上に、不格好な木彫りの猫が置かれていた。

 

「看板の試作品」とノア。「山猫だけど」

 

「耳が片方、大きいですね」

 

「そこは味」

 

「尻尾が二本あります」

 

「幸運を多めに呼ぶ」

 

 リュシアは両手で木彫りを包んだ。

 

「大切にします」

 

「そんな真面目に言うなよ。ただの木だって」

 

 ノアは照れたように鼻をこすり、先へ走っていった。

 

 その日の昼、旅商隊が礼として食事へ招いてくれた。

 

 大鍋で香草と羊肉を煮込み、薄いパンを火で焼く。助けた子どもたちは少し離れた毛布に座ったが、もう逃げようとはしなかった。

 

 ノアは木片を削りながら、店の看板案をいくつも地面へ描いた。

 

「剣と杖を交差させて、その上に杯」

 

「武器屋に見えるわ」とセレナ。

 

「じゃあ鍋」

 

「食堂にしか見えない」とカイル。

 

「食堂もやるんだからいいだろ」

 

「何でも屋でもあります」とリュシア。

 

「なら全部描く」

 

 地面いっぱいに剣、杖、杯、鍋、猫、薬草、山、魚が広がり、何の店かますます分からなくなる。

 

 山羊族の少女が近づき、絵の隅へ小さな灯を描いた。

 

「夜でも、ここなら入っていいって分かる」

 

 ノアはその灯を見つめた。

 

「いいね。五つ描こう」

 

「四人なのに?」

 

「一つは幸運の席」

 

 少女は五つの灯を並べた。その形が、のちにノアの作る看板の原型になった。

 

 別れ際、狐耳の少年がリュシアの足元へ薬箱を置いた。自分から近づいたのは、それが初めてだった。

 

「ありがと」

 

 リュシアは手を伸ばさず、同じ高さへしゃがんで頭を下げた。

 

「どういたしまして」

 

 それだけで十分だった。

 

 リュシアは荷物の一番上へ木彫りをしまった。

 

 ただの木ではない。

 

 自分が誰かと未来を約束した、その証だった。

 

 聖遺物は二つ。

 

 旅はまだ半ばにも届いていなかった。

 

 それなのにリュシアは、終わったあとの暮らしを少しずつ、本当に待ち遠しく思い始めていた。

 

 眠る前、木彫りの猫を暁の杯と星縫いの針の間へ置いた。

 

 聖遺物は世界を救うためのもの。猫は、そのあとに生きるためのもの。

 

 リュシアにとっては、どちらも同じくらい大切だった。

 

「おやすみなさい」

 

 小さな猫へ告げる。

 

 隣の毛布から、起きていたノアが満足そうに尾を揺らした。

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