その男は、四人分の朝食を勝手に食べていた。
ネブラを出て半日、街道沿いの礼拝所で休もうとすると、灰色の長髪を後ろで結んだ男が祭壇に腰かけていた。傍らには、リュシアたちが宿で包んでもらったパンと燻製肉の袋がある。
「僕の肉!」
ノアの悲鳴に、男は最後の一切れを口へ運んだ。
「祈りの場ではお静かに」
「盗人が説教するな!」
「祭壇への供物かと思いました」
「道具袋に供える奴がいるか!」
ノアが飛びかかる。男は座ったまま身をかわし、その手首を取った。袖からのぞいた腕に、黒い太陽の刺青がある。
セレナの杖が光った。
「離れなさい。灰祷会ね」
男はノアを解放し、両手を上げた。
「元、です」
「刺青は元になってない」
「皮を剥ぐのは痛そうなので」
カイルがリュシアの前へ立ち、剣を抜いた。
「名を名乗れ」
「エルド。姓はとうに捨てました」
金褐色の目が、カイルの肩越しにリュシアをとらえる。
「身代わりの聖痕。やはり、今代の器はあなたでしたか」
「器?」
聞き返した瞬間、礼拝所の扉が閉まった。
黒い霧が床から噴き上がる。セレナが結界を張ったが、霧は壁ではなく影から入り込んだ。足首に絡み、身体の力を奪う。
「下がれ、リュシア!」
カイルがエルドへ斬りかかる。男は祭壇に立てかけていた杖で受けた。木に見えた表面が剥がれ、内側から黒い金属が現れる。
「聖遺物を渡してください」
「断る!」
「でしょうね。ですから、最初から相談はしていません」
エルドが杖を回す。床の影から灰色の腕が伸び、カイルの剣腕をつかんだ。ノアが背後へ回り、短剣で杖を払う。セレナの火が祭壇を横切った。
狭い礼拝所で、四人の連携はうまく働かなかった。エルドは攻撃を読んでいるように、半歩先へ逃げる。
それでも不思議なことに、致命傷を狙ってこない。
リュシアは床に落ちた星縫いの針を拾った。エルドの視線が動く。
「それをこちらへ」
「灰の王を復活させるためですか」
「いいえ」
迷いのない答えだった。
「復活を遅らせるためです」
黒い霧が一瞬弱まる。カイルが影の腕を断ち、剣先をエルドの喉へ突きつけた。
「説明しろ」
「剣を置いていただければ」
「その必要はない」
「では、このままで。灰祷会は第三の聖遺物がベルクレアにあると知っています。あなた方が集めた遺物を奪い、灰の揺籃へ運ぶつもりです」
「なぜ遺物が復活に必要なの」とセレナ。
「封印にも、解放にも、同じ鍵を使うからです」
エルドは喉元の刃を気にする様子もなく、リュシアを見ていた。
「あなた方は教会に、遺物を四つ集めれば魔神を倒せると教わった。間違いではありません。ただし、すべてでもない」
「何を知っているんですか」
「断片を。そして断片は、知らないことより人を誤らせる」
リュシアの胸に、小さな棘が刺さった。
カイルが剣を押しつける。
「言葉遊びはやめろ」
「では端的に。ベルクレアへ向かうなら、三日後の新月までに地下神殿へ入ってください。それを過ぎれば灰祷会が街ごと焼く」
「信用できると思う?」
セレナの問いに、エルドは首をかしげた。
「思いません。私も自分をあまり信用していない」
「変な人ですね」とリュシア。
「あなたに言われると、少し傷つきます」
ノアが鼻をひくつかせた。
「こいつ、嘘はついてない。全部言ってもいないけど」
「獣人の鼻は便利ですね」
「さっき肉を盗んだ匂いも覚えてるからな」
結局、エルドは縄をかけられたまま同行することになった。
ベルクレアへの近道を知っていること、灰祷会の術を破れること。その二つが理由だった。逃げようとすればセレナが焼き、ノアが追い、カイルが斬る。
「私は何をすれば?」とリュシア。
「何もしなくていい」とカイル。
「一番平和な役目ですね」
「君はそれでいい」
縄の端はノアが持った。
「変な動きしたら引くから」
「犬の散歩のようですね」
「僕は猫」
「私の話です」
「あんた、犬なの?」
「人間だと思っていましたが、自信がなくなってきました」
エルドは真顔で答える。ノアは結局「変な奴」とつぶやいた。
道中、四人は交代で彼を問いただした。
カイルは灰祷会の拠点を聞き、セレナは術式を聞いた。ノアは盗んだ朝食の値段を銀貨に換算させた。
「肉二枚で銅貨八枚。パン四つで六枚。迷惑料が銀貨一枚」とノア。
「利子が高すぎませんか」
「敵対神官向けの特別金利」
リュシアは最後に聞いた。
「好きな食べ物は何ですか」
三人が振り返る。
「もっと聞くことがあるだろ」とカイル。
「もし仲間になったら、五つ灯亭の献立に必要です」
「覚えていません」とエルド。
「嫌いなものは?」
「それも。食事を好みで選んだことがない。食べられるときに、あるものを食べました」
ノアの顔から冗談が消えた。
「だからって僕の肉を食べていい理由にはならないけど」
「はい」
「でも店では、好きなの探せばいいよ」
「まだ仲間にするとは言ってないぞ」とカイル。
「もし、だよ」
少し先で、焼けた家々が見えた。
地図にはセトという村が記されている。生きている者はいない。
エルドの足が止まる。
「七つの村の一つです。儀式の印を描いたのは、私です」
地面へ黒い太陽の痕が残っている。エルドの腕の刺青と同じ形だった。
「何人死んだ」とカイル。
「八十三人。名簿では」
「名を覚えているか」
「いいえ」
「数だけか」
「はい」
カイルは拳を握った。殴らず、一刻だけ墓を作ると告げた。
四人は散らばった遺品を集めた。リュシアは焦げた木の椀を、ノアは子どもの靴を見つけた。エルドも縄を解かれ、誰より黙って深い穴を掘った。
八十三人の名は分からない。墓標には、セト村とだけ刻んだ。
「祈りますか」とリュシア。
「私の祈りで、再び汚したくない」
「では、村の名前だけでも呼びましょう」
五人で「セト」と口にした。
風が焼けた畑を通り抜ける。
「赦してくださいとは、言いません」とエルド。
「赦されなくても、生きるんでしょう?」とノア。
「ええ」
「じゃあ生きて、八十三より多く助ければ」
「数を差し引いても、罪は消えません」
「知ってる。僕は計算苦手だし」
ノアは先に歩き出した。縄の端はもう握っていなかった。
エルドは自分から縄を拾い、カイルへ差し出す。
「まだ必要です」
カイルは受け取ったが、手首には巻かなかった。
「腰に結べ。歩きにくいから」
信用ではない。けれど完全な敵でもなくなっていた。
エルドはそのやり取りを、ひどく遠いものを見る目で眺めていた。
夜、森の廃屋で休んだ。
エルドは柱へ縛られ、ノアが見張る。カイルとセレナは交代で眠り、リュシアは傷の手当てをした。戦いでエルドの額が切れていた。
「敵を治すのですか」
「今は道案内です」
「便利な分類ですね」
濡らした布で血を拭う。浅い傷なので、移す必要はない。
「灰の王を、信じていたのですか」
黒い太陽の刺青を見ながら聞いた。
「ええ。灰になれば、身分も種族も苦しみもなくなる。平等な救済だと教わりました」
「死ぬことが救いだと?」
「生きることに救いのない者へは、魅力的に聞こえます」
エルドの声には、皮肉も冗談もなかった。
「私は多くの者を儀式へ送りました。彼らが泣いていても、魂は喜んでいるのだと信じた。ある日、七つの村が灰になった。そこにいた赤子まで救われたと、私は祈った」
リュシアの手が止まる。
「それで、信仰を捨てたのですか」
「いいえ。そのときは、もっと祈りました」
エルドは笑った。自分を嘲る笑いだった。
「信仰を捨てたのは、そのずっとあとです。命令に従えば正しさを選ばずに済むと、ようやく気づいた」
「では今は、自分で選んでいる?」
「そのつもりです。うまくはありませんが」
リュシアは新しい布を巻き、結び目を作った。
「私も、うまくありません」
「あなたは選ぶ前に、自分を勘定から外す癖がある」
指が止まった。
「会って半日なのに、分かるのですか」
「同じ癖を持つ人間は、見分けやすい」
怖い人だと思った。杖の術より、その目のほうがずっと怖い。
そのとき、外で枝が折れた。
ノアの耳が立つ。
「十人以上。囲まれてる!」
窓を黒い火が突き破った。
灰祷会の襲撃だった。
灰色の法衣を着た者たちが、廃屋の周囲で祈りを唱える。黒い火が壁を這い、一行を内側へ閉じ込めた。
「背教者エルドを渡せ!」
外から声が響く。
カイルが剣を抜き、セレナが結界を張る。しかし黒い火は、魔力を食って大きくなった。
「縄を解いてください」とエルド。
「逃げない保証は」とカイル。
「ありません」
「正直すぎるだろ」
「ただ、私を渡せば彼らはあなた方も殺します。星縫いの針を持っているので」
屋根が崩れ、燃える梁が落ちる。
ノアの足が倒れた棚へ挟まれた。
黒い火が床を伝って迫る。カイルが棚を持ち上げようとするが、焼けた梁が肩へ落ちる。セレナは結界を維持するだけで精一杯だった。
エルドが縛られたまま身を投げ出し、ノアを炎からかばった。
「あんた、燃えてる!」
「少し静かに。集中できません」
リュシアが外套へ水をかけ、ノアの足を引き抜いた。
「どうして助けた」
「肉の代金がまだなので」
「そんな理由?」
「今考えました」
ノアは呆れ、短剣でエルドの足元に絡んだ棚板を切り離した。
「借り、返したから。縄は自分で何とかして」
リュシアは縄を切った。
「リュシア!」
「今は、自分で選ぶ人を信じます」
エルドは一瞬、目を見開いた。
「後悔しますよ」
「そのときは怒ります」
「あなたは怒るのが下手そうだ」
彼は黒い杖を床へ突き立てた。
古い祈りが、灰祷会の唱和へ割り込む。同じ言葉なのに、順序だけが逆だった。壁を這っていた黒い火が向きを変え、外側へ噴き出す。
包囲に穴が開いた。
「走れ!」
カイルが先頭に立ち、ノアがリュシアの手を引いた。セレナの氷壁が追っ手を阻む。
最後に出たエルドの背へ、黒い槍が飛んだ。
リュシアは腕を伸ばした。
触れるより先に、エルドが振り向いて槍を杖で払う。それでも穂先が脇腹を裂いた。
「移してはいけません」
「でも」
「これは私が選んだ傷です」
彼は血を流しながら、自分の足で走った。
追っ手をまいたのは、夜明け近くになってからだった。
セレナがエルドの傷を治療し、カイルは難しい顔で彼の杖を返した。
「ベルクレアまでだ」
「何がです?」
「同行を認める。その先は、そこで決める」
「賢明とは言いがたい判断です」
「俺もそう思う」
ノアが荷袋をあさり、残った黒パンを五つに分けた。
「肉泥棒の分は小さくていいよね」
「異論はありません」
焚き火を囲むには、四人分の毛布しかなかった。リュシアが自分の端をエルドへ渡し、カイルが不満そうにもう一枚重ねる。
五人目の席には、灰を祈っていた男が座った。
誰も歓迎の言葉は口にしなかった。
それでもノアは、五つに割ったパンを一つも残さなかった。
朝の光の中で、エルドは小さく言った。
「温かい食事を囲むのは、久しぶりです」
「パンだけですけど」とリュシア。
「なら、温かいパンということにしましょう」
「冷たいよ」とノア。
「心の話です」
「急に神官みたいなこと言うな」
笑いが起きた。
エルドだけは笑わず、目を伏せた。
その輪へ自分が加わる資格を、まだ信じていないようだった。
リュシアは思った。
ベルクレアへ着いたら、今度こそ五人で温かい料理を食べよう。
できれば、カイル以外が作ったものを。
その希望だけは、セレナとノアも同じだった。