山岳都市ベルクレアでは、一日に百八回、鐘が鳴る。
朝を告げる鐘。市場を開く鐘。坑道の交代を告げる鐘。結婚、葬送、火事、迷子。街に暮らす者は音だけで用件を聞き分けるという。
「今のは?」
リュシアが聞くと、ノアは自信満々に答えた。
「昼飯」
「違うわ。北門の閉門よ」とセレナ。
「僕には昼飯に聞こえた」
「あなたは腹の音しか聞いてないでしょう」
新月まで、あと一日。
五人は閉まりかけた北門をくぐり、坂だらけの街へ入った。石造りの家々が山肌へ重なり、頭上には無数の橋と鐘楼がある。明日は春告祭らしく、通りには色布が渡され、露店の準備が進んでいた。
「灰祷会が街ごと焼くという話は?」とカイル。
「計画を知る者を探します」とエルド。「ただし、まず地下神殿へ。真名の鈴が奪われれば、彼らは灰の王の封印を直接呼び覚ませる」
地下神殿の入り口は、大鐘楼の下にあった。
市の司祭は王命の書状を見ても首を振った。
「春告祭の前夜に大鐘楼へ入れるわけにはいきません。千年続く決まりです」
「街が千年と一日目を迎えたいなら、入れたほうがいい」とノア。
「獣人は黙っていろ」
カイルの眉が動く。ノアは慣れた顔で肩をすくめたが、リュシアは司祭の前へ一歩出た。
「では、私一人をお入れください」
「駄目だ」とカイル。
「一人なら獣人も元灰祷会も関係ありません。何かあれば私だけの責任です」
「もっと駄目だ」
セレナが額を押さえた。
「二人とも、話を悪化させないで」
結局、エルドが司祭だけに灰祷会の襲撃方法を説明した。顔色を失った司祭は、五人を神殿へ通した。
石段は鐘楼の真下を螺旋状に下っていた。深くなるほど、上で鳴る鐘の音が身体の内側へ響く。
「この街の鐘は、真名の鈴の欠片を混ぜて鋳造されています」とエルド。「嘘や幻を弱める」
「だから灰祷会には邪魔なのね」とセレナ。
「ええ。今夜、すべての鐘を同時に砕くつもりです」
最下層の円堂には、すでに灰色の法衣が待っていた。
十人、二十人。中央に立つ老神官がエルドを見て笑う。
「戻ったか、祈り子よ」
「その呼び名は捨てました」
「灰はすべてを受け入れる。裏切りさえも」
老神官が手を上げ、壁の紋様が黒く染まった。鐘の音が消える。
戦いは、音のないまま始まった。
カイルの剣と法衣の刃がぶつかっても、火花だけが散る。セレナの詠唱は聞こえず、魔法が不安定に揺らぐ。ノアが合図を叫んでも声が届かない。
真名の鈴は円堂の天井、高い梁から下がっていた。
リュシアは指さす。ノアがうなずき、壁の彫刻を蹴って駆け上がった。
老神官が気づき、黒い矢を放つ。
カイルが進路へ割り込む。一本は剣で払い、二本目が腿を貫いた。彼は膝をつき、それでもリュシアを見て首を横に振る。
移すな。
リュシアの足が動きかける。
けれど止まった。
代わりに暁の杯を掲げ、聖水を傷へ飛ばす。血は止まり、呪いだけが洗い流された。痛みはカイルに残る。
彼は歯を食いしばり、立ち上がった。
その目が、ほんの少し笑った。
ノアが梁へ届き、鈴の紐を切る。
落ちてきた小さな鈴を、リュシアが両手で受け止めた。
ちりん、と音がした。
たった一音で、円堂を覆っていた沈黙が砕けた。
「――凍れ!」
戻ったセレナの声とともに、床から氷柱が伸びる。灰祷会の術者たちを一斉に拘束した。
エルドは老神官と向き合っていた。
「お前が祈りを捨てても、お前の罪は消えぬ」
「知っています」
「ならば戻れ。灰の王だけがお前を赦す」
「赦されないまま生きると決めました」
エルドの杖が黒い太陽の印を砕いた。
天井まで響く鐘の音が、残った術を吹き飛ばす。
戦いが終わると、カイルはその場へ座り込んだ。
リュシアが駆け寄る。
「傷を見せてください」
「移さないなら」
「聖水で洗います。縫うのはセレナに」
「約束できる?」
リュシアはカイルの手を握った。腿から流れる血を見ると、聖痕が疼く。それでも手を離さない。
「はい。これは、カイルが選んだ傷ですから」
「痛いけどな」
「痛い顔をしてください。治療する側が困ります」
セレナの口真似をすると、カイルは笑った。
第三の聖遺物、真名の鈴。
縁には『愛する者の名を呼べ。その魂は闇より帰る』と刻まれていた。
エルドはその銘を見て、なぜか顔を曇らせた。
「どうしました?」
「古い言葉は、親切なふりをして多くを隠す。ただ、それだけです」
問い直す前に、地上で百八の鐘が鳴った。
春告祭の始まりだった。
灰祷会の者は市兵に引き渡され、五人は英雄のように祭りへ迎えられた。
通りの色布に明かりが灯り、音楽と焼き菓子の匂いが坂道を満たす。ノアは串焼きを両手に持ち、セレナは「甘いものに興味はない」と言いながら砂糖菓子の店から動かなかった。
広場の中央では「願いの鐘」という遊びをしていた。
目隠しをして三歩進み、小さな木槌で吊るされた鐘を鳴らせば願いが叶う。外せば見物人へ菓子をおごる決まりだ。
「やろう!」
ノアが真っ先に名乗り出た。
「耳がいいから反則でしょう」とリュシア。
「目隠しするんだから公平」
「耳は隠してないわ」とセレナ。
係の娘が途中で鐘を動かしても、ノアは一度で鳴らした。
「願いは?」
「五つ灯亭が大繁盛する!」
「まだ建ってもいないのに」とカイル。
「だから願うんだよ」
次のエルドは、三歩のはずが十歩進んで屋台へぶつかった。
「見えていないのですから、止めてください」
「普通は三歩で止まるの!」
彼は全員へ菓子をおごることになった。
セレナは参加しないと言い張ったが、ノアに木槌を握らされる。鐘は一度で鳴った。
「何を願ったんですか」
「言ったら叶わない」
「そういう決まりでした?」
「今決めた」
セレナは答えなかった。本当は、今度こそ家族を失いませんように、と願っていた。
カイルも鐘を鳴らした。
「皆が無事に帰れますように」
「言ってるじゃない」とセレナ。
「誰かと違って、決まりを後から作らない」
最後にリュシアが目隠しをした。
右へ行けばいいはずなのに、自信がない。
「前へ二歩」とカイル。
「教えたら反則です」
「転びそうだから」
「左に半歩」とセレナ。
「もう少し右」とノア。
「皆さん、違うことを言っています」
「私は鐘の真下にいます」とエルド。「こちらへ」
「それが一番反則でしょう」
笑いながら木槌を振る。澄んだ音が鳴った。
「願いは?」とノア。
リュシアは目隠しを外し、四人の顔を見た。
「今と同じ日が、これからもありますように」
一瞬、皆が黙った。
「願いが小さくない?」
「とても大きいと思います」
このときは、それが叶わない願いだとは思っていなかった。
「欲しいんですか?」とリュシア。
「資料として見ているだけ」
「何の資料?」とノア。
「獣人の舌を凍らせる魔法の」
リュシアは赤い砂糖菓子を二つ買い、一つをセレナへ渡した。
「資料です」
「……仕方ないわね」
セレナは受け取り、すぐ半分をリュシアの口へ押し込んだ。
「甘い」
「砂糖だから当然よ」
その顔は少し笑っていた。
広場では春の衣装を着た娘たちが髪を編んでいた。セレナはリュシアを屋台の椅子へ座らせ、青い紐を解いた。
「今日は特別に、まともにしてあげる」
細い三つ編みを頭の上へ回し、小さな白い花を挿していく。
「お姫さまみたい」と屋台の老婆が言った。
「聖女さまです」とノア。
「リュシアです」
いつものように訂正すると、皆が笑った。
カイルは笑わなかった。少し離れた場所で、こちらを見たまま固まっている。
「どうしました?」
「いや。似合ってる」
それだけ言うのに、剣を抜くより勇気が要ったような顔をしていた。
「ありがとうございます」
リュシアの頬も熱くなった。
「若いですね」とエルド。
「年寄りみたいに言うな」とカイル。
「実際、あなた方よりは」
「何歳なの?」とノア。
「忘れました」
「便利だな、それ」
五人は広場の長卓へ座った。
ノアが勝手に料理を注文し、セレナが金額を減らし、カイルが全部払った。エルドは温かいスープを一口飲み、今度は「心の話です」と言い訳する必要もなく目を細めた。
「五つ灯亭でも、これを出しましょう」とリュシア。
「この豆のスープ?」
「はい。カイル以外が作って」
「そこまで言うか」
「看板は僕。接客も僕」とノア。
「つまみ食いするから厨房は禁止」とセレナ。
「セレナは会計ですね」
「悪くないわ」
「エルドは?」
問われた彼は、困ったように目を瞬いた。
「私も入っているのですか」
「五つ灯亭ですから」
リュシアが当然のように言うと、エルドはスープの器へ視線を落とした。
「では、皿洗いを。罪人には似合いの仕事です」
「皿を割らなければ何でもいいよ」とノア。
「努力します」
「リュシアみたいな返事」とカイル。
「店はどこへ建てる?」とノア。
「修道院の近く」とカイル。
「海辺がいい。魚がうまい」
「湿気で髪が広がるから却下」とセレナ。
「あなたの髪を基準に国土を選ばないでください」とエルド。
「では、エルドは?」
「人の来ない山奥」
「商売にならないよ」
「皿を割っても客に見つかりにくい」
「割る前提なんですか」
リュシアは卓へ指で簡単な地図を描いた。
「修道院から半日、街道から見える丘。裏に薬草畑が作れて、近くに川がある場所はどうでしょう」
「騎士団の巡回路にも近い」とカイル。「旅人が多い」
「夜は星が見える?」とノア。
「きっと」
「なら決まり」
まだ存在しない土地へ、五人は勝手に部屋を足した。
厨房は広く。食堂には丸卓を置く。二階は宿にし、屋根裏はノアの部屋。セレナの部屋だけ防音にする。エルドが夜中に祈っても苦情が出ないよう、地下に小さな礼拝所も作る。
「リュシアの部屋は?」とカイル。
「薬草畑が見えるところ」
「俺の部屋はその隣」
カイルは何気なく言い、全員が静かになった。
「護衛のためだ!」
「誰も何も言ってないよ」とノア。
「顔が言ってる」
リュシアは赤くなった頬を隠すように、豆のスープを飲んだ。
温かかった。
笑い声が、鐘の音に混じった。
夜更け、宿へ戻る途中でカイルとリュシアは二人きりになった。セレナたちは先に坂を上り、カイルは腿の傷を理由にゆっくり歩いていた。
「痛みますか」
「少し。でも、自分の傷だからな」
「移したほうが早いのに」
「我慢してくれてありがとう」
お礼を言われるとは思わず、リュシアは足元を見た。
祭りの灯が石畳へ映っている。頭上では、星より多くの小さな明かりが橋を渡っていた。
「灰の王を倒したら」とカイルが言った。「一緒に故郷へ帰ろう」
「修道院へ?」
「まずは。院長に無事な顔を見せて、それから……君が望むなら、五つ灯亭の場所を探そう」
「本気だったんですか」
「君は違うのか?」
違わない。
最初は楽しい冗談だった。けれど今は、扉の色や窓辺に置く花まで想像できる。朝、誰が最初に起きるか。夜、最後の客を見送ったあと、皆でどの卓を囲むか。
「私も、本気です」
「じゃあ約束だ」
カイルが小指を差し出した。十歳の夏と同じ仕草だった。
「子どもみたいですね」
「忘れないだろ」
リュシアは自分の小指を絡めた。
「帰りましょう。みんなで」
百八つ目の鐘が鳴る。
その音の下で交わした約束を、リュシアは生涯で最も幸福な記憶として抱くことになる。
宿へ戻ると、エルドが待っていた。
「地下神殿で、閉ざされた記録庫を見つけました」
その手には、古びた鍵があった。
「聖女の聖痕に反応する扉です。おそらく、教会が失った封印記録がある」
祭りの音はまだ遠くで続いている。
リュシアはカイルとつないだばかりの小指を、そっと握り込んだ。
「明日の朝、皆で見に行きましょう」
「いえ」
エルドの顔は、鐘楼の影に半分隠れていた。
「扉に刻まれていました。『聖女のみ、己が棺を知れ』と」