灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第六話 鐘の下の約束

 山岳都市ベルクレアでは、一日に百八回、鐘が鳴る。

 

 朝を告げる鐘。市場を開く鐘。坑道の交代を告げる鐘。結婚、葬送、火事、迷子。街に暮らす者は音だけで用件を聞き分けるという。

 

「今のは?」

 

 リュシアが聞くと、ノアは自信満々に答えた。

 

「昼飯」

 

「違うわ。北門の閉門よ」とセレナ。

 

「僕には昼飯に聞こえた」

 

「あなたは腹の音しか聞いてないでしょう」

 

 新月まで、あと一日。

 

 五人は閉まりかけた北門をくぐり、坂だらけの街へ入った。石造りの家々が山肌へ重なり、頭上には無数の橋と鐘楼がある。明日は春告祭らしく、通りには色布が渡され、露店の準備が進んでいた。

 

「灰祷会が街ごと焼くという話は?」とカイル。

 

「計画を知る者を探します」とエルド。「ただし、まず地下神殿へ。真名の鈴が奪われれば、彼らは灰の王の封印を直接呼び覚ませる」

 

 地下神殿の入り口は、大鐘楼の下にあった。

 

 市の司祭は王命の書状を見ても首を振った。

 

「春告祭の前夜に大鐘楼へ入れるわけにはいきません。千年続く決まりです」

 

「街が千年と一日目を迎えたいなら、入れたほうがいい」とノア。

 

「獣人は黙っていろ」

 

 カイルの眉が動く。ノアは慣れた顔で肩をすくめたが、リュシアは司祭の前へ一歩出た。

 

「では、私一人をお入れください」

 

「駄目だ」とカイル。

 

「一人なら獣人も元灰祷会も関係ありません。何かあれば私だけの責任です」

 

「もっと駄目だ」

 

 セレナが額を押さえた。

 

「二人とも、話を悪化させないで」

 

 結局、エルドが司祭だけに灰祷会の襲撃方法を説明した。顔色を失った司祭は、五人を神殿へ通した。

 

 石段は鐘楼の真下を螺旋状に下っていた。深くなるほど、上で鳴る鐘の音が身体の内側へ響く。

 

「この街の鐘は、真名の鈴の欠片を混ぜて鋳造されています」とエルド。「嘘や幻を弱める」

 

「だから灰祷会には邪魔なのね」とセレナ。

 

「ええ。今夜、すべての鐘を同時に砕くつもりです」

 

 最下層の円堂には、すでに灰色の法衣が待っていた。

 

 十人、二十人。中央に立つ老神官がエルドを見て笑う。

 

「戻ったか、祈り子よ」

 

「その呼び名は捨てました」

 

「灰はすべてを受け入れる。裏切りさえも」

 

 老神官が手を上げ、壁の紋様が黒く染まった。鐘の音が消える。

 

 戦いは、音のないまま始まった。

 

 カイルの剣と法衣の刃がぶつかっても、火花だけが散る。セレナの詠唱は聞こえず、魔法が不安定に揺らぐ。ノアが合図を叫んでも声が届かない。

 

 真名の鈴は円堂の天井、高い梁から下がっていた。

 

 リュシアは指さす。ノアがうなずき、壁の彫刻を蹴って駆け上がった。

 

 老神官が気づき、黒い矢を放つ。

 

 カイルが進路へ割り込む。一本は剣で払い、二本目が腿を貫いた。彼は膝をつき、それでもリュシアを見て首を横に振る。

 

 移すな。

 

 リュシアの足が動きかける。

 

 けれど止まった。

 

 代わりに暁の杯を掲げ、聖水を傷へ飛ばす。血は止まり、呪いだけが洗い流された。痛みはカイルに残る。

 

 彼は歯を食いしばり、立ち上がった。

 

 その目が、ほんの少し笑った。

 

 ノアが梁へ届き、鈴の紐を切る。

 

 落ちてきた小さな鈴を、リュシアが両手で受け止めた。

 

 ちりん、と音がした。

 

 たった一音で、円堂を覆っていた沈黙が砕けた。

 

「――凍れ!」

 

 戻ったセレナの声とともに、床から氷柱が伸びる。灰祷会の術者たちを一斉に拘束した。

 

 エルドは老神官と向き合っていた。

 

「お前が祈りを捨てても、お前の罪は消えぬ」

 

「知っています」

 

「ならば戻れ。灰の王だけがお前を赦す」

 

「赦されないまま生きると決めました」

 

 エルドの杖が黒い太陽の印を砕いた。

 

 天井まで響く鐘の音が、残った術を吹き飛ばす。

 

 戦いが終わると、カイルはその場へ座り込んだ。

 

 リュシアが駆け寄る。

 

「傷を見せてください」

 

「移さないなら」

 

「聖水で洗います。縫うのはセレナに」

 

「約束できる?」

 

 リュシアはカイルの手を握った。腿から流れる血を見ると、聖痕が疼く。それでも手を離さない。

 

「はい。これは、カイルが選んだ傷ですから」

 

「痛いけどな」

 

「痛い顔をしてください。治療する側が困ります」

 

 セレナの口真似をすると、カイルは笑った。

 

 第三の聖遺物、真名の鈴。

 

 縁には『愛する者の名を呼べ。その魂は闇より帰る』と刻まれていた。

 

 エルドはその銘を見て、なぜか顔を曇らせた。

 

「どうしました?」

 

「古い言葉は、親切なふりをして多くを隠す。ただ、それだけです」

 

 問い直す前に、地上で百八の鐘が鳴った。

 

 春告祭の始まりだった。

 

 灰祷会の者は市兵に引き渡され、五人は英雄のように祭りへ迎えられた。

 

 通りの色布に明かりが灯り、音楽と焼き菓子の匂いが坂道を満たす。ノアは串焼きを両手に持ち、セレナは「甘いものに興味はない」と言いながら砂糖菓子の店から動かなかった。

 

 広場の中央では「願いの鐘」という遊びをしていた。

 

 目隠しをして三歩進み、小さな木槌で吊るされた鐘を鳴らせば願いが叶う。外せば見物人へ菓子をおごる決まりだ。

 

「やろう!」

 

 ノアが真っ先に名乗り出た。

 

「耳がいいから反則でしょう」とリュシア。

 

「目隠しするんだから公平」

 

「耳は隠してないわ」とセレナ。

 

 係の娘が途中で鐘を動かしても、ノアは一度で鳴らした。

 

「願いは?」

 

「五つ灯亭が大繁盛する!」

 

「まだ建ってもいないのに」とカイル。

 

「だから願うんだよ」

 

 次のエルドは、三歩のはずが十歩進んで屋台へぶつかった。

 

「見えていないのですから、止めてください」

 

「普通は三歩で止まるの!」

 

 彼は全員へ菓子をおごることになった。

 

 セレナは参加しないと言い張ったが、ノアに木槌を握らされる。鐘は一度で鳴った。

 

「何を願ったんですか」

 

「言ったら叶わない」

 

「そういう決まりでした?」

 

「今決めた」

 

 セレナは答えなかった。本当は、今度こそ家族を失いませんように、と願っていた。

 

 カイルも鐘を鳴らした。

 

「皆が無事に帰れますように」

 

「言ってるじゃない」とセレナ。

 

「誰かと違って、決まりを後から作らない」

 

 最後にリュシアが目隠しをした。

 

 右へ行けばいいはずなのに、自信がない。

 

「前へ二歩」とカイル。

 

「教えたら反則です」

 

「転びそうだから」

 

「左に半歩」とセレナ。

 

「もう少し右」とノア。

 

「皆さん、違うことを言っています」

 

「私は鐘の真下にいます」とエルド。「こちらへ」

 

「それが一番反則でしょう」

 

 笑いながら木槌を振る。澄んだ音が鳴った。

 

「願いは?」とノア。

 

 リュシアは目隠しを外し、四人の顔を見た。

 

「今と同じ日が、これからもありますように」

 

 一瞬、皆が黙った。

 

「願いが小さくない?」

 

「とても大きいと思います」

 

 このときは、それが叶わない願いだとは思っていなかった。

 

「欲しいんですか?」とリュシア。

 

「資料として見ているだけ」

 

「何の資料?」とノア。

 

「獣人の舌を凍らせる魔法の」

 

 リュシアは赤い砂糖菓子を二つ買い、一つをセレナへ渡した。

 

「資料です」

 

「……仕方ないわね」

 

 セレナは受け取り、すぐ半分をリュシアの口へ押し込んだ。

 

「甘い」

 

「砂糖だから当然よ」

 

 その顔は少し笑っていた。

 

 広場では春の衣装を着た娘たちが髪を編んでいた。セレナはリュシアを屋台の椅子へ座らせ、青い紐を解いた。

 

「今日は特別に、まともにしてあげる」

 

 細い三つ編みを頭の上へ回し、小さな白い花を挿していく。

 

「お姫さまみたい」と屋台の老婆が言った。

 

「聖女さまです」とノア。

 

「リュシアです」

 

 いつものように訂正すると、皆が笑った。

 

 カイルは笑わなかった。少し離れた場所で、こちらを見たまま固まっている。

 

「どうしました?」

 

「いや。似合ってる」

 

 それだけ言うのに、剣を抜くより勇気が要ったような顔をしていた。

 

「ありがとうございます」

 

 リュシアの頬も熱くなった。

 

「若いですね」とエルド。

 

「年寄りみたいに言うな」とカイル。

 

「実際、あなた方よりは」

 

「何歳なの?」とノア。

 

「忘れました」

 

「便利だな、それ」

 

 五人は広場の長卓へ座った。

 

 ノアが勝手に料理を注文し、セレナが金額を減らし、カイルが全部払った。エルドは温かいスープを一口飲み、今度は「心の話です」と言い訳する必要もなく目を細めた。

 

「五つ灯亭でも、これを出しましょう」とリュシア。

 

「この豆のスープ?」

 

「はい。カイル以外が作って」

 

「そこまで言うか」

 

「看板は僕。接客も僕」とノア。

 

「つまみ食いするから厨房は禁止」とセレナ。

 

「セレナは会計ですね」

 

「悪くないわ」

 

「エルドは?」

 

 問われた彼は、困ったように目を瞬いた。

 

「私も入っているのですか」

 

「五つ灯亭ですから」

 

 リュシアが当然のように言うと、エルドはスープの器へ視線を落とした。

 

「では、皿洗いを。罪人には似合いの仕事です」

 

「皿を割らなければ何でもいいよ」とノア。

 

「努力します」

 

「リュシアみたいな返事」とカイル。

 

「店はどこへ建てる?」とノア。

 

「修道院の近く」とカイル。

 

「海辺がいい。魚がうまい」

 

「湿気で髪が広がるから却下」とセレナ。

 

「あなたの髪を基準に国土を選ばないでください」とエルド。

 

「では、エルドは?」

 

「人の来ない山奥」

 

「商売にならないよ」

 

「皿を割っても客に見つかりにくい」

 

「割る前提なんですか」

 

 リュシアは卓へ指で簡単な地図を描いた。

 

「修道院から半日、街道から見える丘。裏に薬草畑が作れて、近くに川がある場所はどうでしょう」

 

「騎士団の巡回路にも近い」とカイル。「旅人が多い」

 

「夜は星が見える?」とノア。

 

「きっと」

 

「なら決まり」

 

 まだ存在しない土地へ、五人は勝手に部屋を足した。

 

 厨房は広く。食堂には丸卓を置く。二階は宿にし、屋根裏はノアの部屋。セレナの部屋だけ防音にする。エルドが夜中に祈っても苦情が出ないよう、地下に小さな礼拝所も作る。

 

「リュシアの部屋は?」とカイル。

 

「薬草畑が見えるところ」

 

「俺の部屋はその隣」

 

 カイルは何気なく言い、全員が静かになった。

 

「護衛のためだ!」

 

「誰も何も言ってないよ」とノア。

 

「顔が言ってる」

 

 リュシアは赤くなった頬を隠すように、豆のスープを飲んだ。

 

 温かかった。

 

 笑い声が、鐘の音に混じった。

 

 夜更け、宿へ戻る途中でカイルとリュシアは二人きりになった。セレナたちは先に坂を上り、カイルは腿の傷を理由にゆっくり歩いていた。

 

「痛みますか」

 

「少し。でも、自分の傷だからな」

 

「移したほうが早いのに」

 

「我慢してくれてありがとう」

 

 お礼を言われるとは思わず、リュシアは足元を見た。

 

 祭りの灯が石畳へ映っている。頭上では、星より多くの小さな明かりが橋を渡っていた。

 

「灰の王を倒したら」とカイルが言った。「一緒に故郷へ帰ろう」

 

「修道院へ?」

 

「まずは。院長に無事な顔を見せて、それから……君が望むなら、五つ灯亭の場所を探そう」

 

「本気だったんですか」

 

「君は違うのか?」

 

 違わない。

 

 最初は楽しい冗談だった。けれど今は、扉の色や窓辺に置く花まで想像できる。朝、誰が最初に起きるか。夜、最後の客を見送ったあと、皆でどの卓を囲むか。

 

「私も、本気です」

 

「じゃあ約束だ」

 

 カイルが小指を差し出した。十歳の夏と同じ仕草だった。

 

「子どもみたいですね」

 

「忘れないだろ」

 

 リュシアは自分の小指を絡めた。

 

「帰りましょう。みんなで」

 

 百八つ目の鐘が鳴る。

 

 その音の下で交わした約束を、リュシアは生涯で最も幸福な記憶として抱くことになる。

 

 宿へ戻ると、エルドが待っていた。

 

「地下神殿で、閉ざされた記録庫を見つけました」

 

 その手には、古びた鍵があった。

 

「聖女の聖痕に反応する扉です。おそらく、教会が失った封印記録がある」

 

 祭りの音はまだ遠くで続いている。

 

 リュシアはカイルとつないだばかりの小指を、そっと握り込んだ。

 

「明日の朝、皆で見に行きましょう」

 

「いえ」

 

 エルドの顔は、鐘楼の影に半分隠れていた。

 

「扉に刻まれていました。『聖女のみ、己が棺を知れ』と」

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