灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第七話 聖女の棺

 幸福な夜ほど、朝は来るのが早い。

 

 祭りの音が消えたころ、リュシアは一人で宿を抜け出した。

 

 明日の朝、皆で行く。そう言ったのに、眠れなかった。記録庫の扉に刻まれた言葉が、目を閉じるたび浮かんだ。

 

『聖女のみ、己が棺を知れ』

 

 カイルの傷は深い。セレナは治療で魔力を使い、ノアは見張り続きで疲れている。朝まで休ませたい。それに、自分の棺というものを、皆と並んで見る勇気がなかった。

 

 右手の親指で、左手の指の節をなぞる。

 

 嘘をついたとき、幼いころから出る癖だった。

 

 夜明け前のベルクレアは静かだった。百八の鐘も眠っている。大鐘楼の地下へ降りると、前夜の戦いで砕けた氷と灰が残っていた。

 

 記録庫は祭壇の裏にある。

 

 石の扉へ聖痕を当てると、低い音を立てて開いた。

 

 中は小さな部屋だった。壁一面の棚には、革張りの本と粘土板が並んでいる。千年を越えた紙が残っているのは、時間を止める術がかけられているかららしい。

 

 中央の台に、一冊だけ開かれた本があった。

 

『灰王終葬儀典』

 

 最初の数頁は知っている内容だった。

 

 四つの聖遺物を集めよ。

 

 暁の杯で器を清め、星縫いの針で魂を肉へ縫い留め、真名の鈴で魔神を呼び、終火の剣で絶つ。

 

 器となれるのは、他者の傷と呪いを移す聖痕を持つ聖女のみ。

 

 頁をめくる。

 

 そこには、人の形をした図が描かれていた。胸を剣で貫かれ、頭上に黒い冠を戴く女。その周囲に、剣、杖、獣の爪、祈りの杖を持つ四人が立っている。

 

『器は灰王をその魂へ移し、英雄の手により死を迎える』

 

 文字が読めなかったわけではない。

 

 意味が頭へ入らなかった。

 

 リュシアは同じ一文を三度読んだ。

 

「死を……」

 

 誰のことだろうと思った。

 

 器。

 

 身代わりの聖痕を持つ聖女。

 

 現在、教会が把握している聖痕の持ち主は、あなた一人よ。

 

 指先が冷たくなった。

 

 本の余白には、別の筆跡で文字が残されていた。

 

『私はアリア。最初の器とされた者。後に読む妹へ、教会の言葉だけを信じぬよう、ここへ私の言葉を置く』

 

 千年前の聖女自身が書いたものだった。

 

 リュシアは震える指で行を追った。

 

『彼らは私へ、誉れある死だと言う。神に選ばれた者だけが担える役目だと。私は誉れなど欲しくない。春に植えた林檎の実を見たい。弟の子を抱きたい。明日の朝も目を覚ましたい』

 

 続く数行は、涙でにじんだように読めなくなっている。

 

『英雄たちには知らせない。彼らは私を愛しているから、私とともに死ぬ道を選ぶだろう。私は一人で死ぬことより、彼らが死ぬことを恐れる』

 

 最後に、小さな文字があった。

 

『聖女という名が、私たちの恐れを奪うことを許してはならない』

 

 リュシアは頁から手を離した。

 

 昔話の初代聖女は、笑顔で神へ身を捧げたと教わった。恐れず、迷わず、人々のために灰の王を封じたと。

 

 嘘だった。

 

 千年前にも、死にたくない一人の少女がいた。

 

 その声を教会は本の奥へ閉じ込め、表では美しい犠牲に作り替えた。

 

「あなたは、帰れましたか」

 

 頁へ問いかける。

 

 答えはない。

 

 アリアの名さえ、今の歴史書には残っていなかった。

 

 次の頁を急いでめくる。別の方法があるはずだった。死なずに済む補助の術。千年前の方法が不完全だったという注記。何か。

 

 続く頁にあったのは、さらに残酷な説明だった。

 

『灰王は人の情を道とする。器を惜しむ心、愛する心、赦す心が強いほど、魂は縫い目をほどき、帰還する』

 

『ゆえに英雄は、器を罪人と信じねばならぬ』

 

『真実を知りて刃を振るう偽りの憎悪は、供物とならず』

 

『器は英雄を欺き、裏切り、心より憎まれたのちに討たれよ』

 

 静かな部屋で、自分の息だけがひどく大きく聞こえた。

 

 カイルの笑顔が浮かぶ。

 

 帰ろう、と言った。小指を絡め、皆で店を探そうと約束した。

 

 セレナが髪へ白い花を挿してくれた。ノアは木彫りの猫をくれた。エルドは五つ灯亭で皿を洗うと言った。

 

 その全員に、罪人だと信じさせなければならない。

 

 心から憎まれなければならない。

 

「無理です」

 

 声が出た。

 

 返事はない。

 

「できません」

 

 本を閉じようとした。けれど、最後の記録が目に入った。

 

『器が役目を拒みしとき、灰王は最も人の集う地に顕現する』

 

 白都ラグレインの図。王都を示す印の周囲に、古代の数字が並んでいた。

 

 推定死者、二十七万。

 

 数字なら、顔がないと思っていた。

 

 けれどリュシアの頭には、修道院の子どもたちが浮かんだ。関所の食堂で働いていた娘。ベルクレアで砂糖菓子を売った老婆。助けた獣人の三人。まだ会ったこともない二十七万の中へ、知っている顔が勝手に混ざる。

 

 逃げれば、その人たちが死ぬ。

 

 自分一人なら。

 

 そう考えた瞬間、マルタ院長の声がした。

 

『お前はどうして、自分の痛みなら数に入れなくてよいと思う』

 

「一人です」

 

 誰に言い訳するでもなく、リュシアはつぶやいた。

 

「二十七万と、一人です」

 

 簡単な引き算のはずだった。

 

 なのに、選べなかった。

 

 死にたくない。

 

 その言葉が胸の底から出てきた。

 

 怖い。

 

 剣で刺されたら痛いだろう。息ができなくなるのだろうか。灰になるとは、どんな感じだろう。死んだあとには何があるのか。何もないのか。

 

 修道院へ帰りたい。

 

 マルタ院長の薬草茶が飲みたい。洗濯物を一月分やらされたい。セレナに髪を結ってもらい、ノアの看板を見て笑いたい。カイルと店の場所を探したい。

 

 昨日まで、そんな未来を持っていなかった。

 

 皆がくれたのだ。

 

 生きたいと思える未来をくれた人たちに、その未来を自分の手で嘘にしなければならない。

 

「嫌……」

 

 膝から力が抜けた。

 

 本を抱えたまま床へ座り込み、声を殺して泣いた。誰にも聞かれないよう口元を押さえた。そうしているうちに、自分がもう、彼らを欺き始めていることに気づいた。

 

 どれほど泣いたのか分からない。

 

 泣きやんだあと、リュシアは棚の本をすべて調べた。

 

 器を眠らせたまま灰の王だけを焼く方法。失敗、術者十二名死亡。

 

 器の魂を別の身体へ移す方法。失敗、灰の王も同時に移動。

 

 英雄たちへ真実を知らせ、記憶だけを消す方法。消したはずの愛情が魂に残り、封印は三年で崩壊。

 

 器を殺さず永久に眠らせる方法。百四十七年後、夢を通して灰の王が復活。

 

 千年のあいだ、同じ疑問を持った者はいた。別の道を探した者もいた。そのすべてが、短い失敗の二文字で終わっている。

 

 ある記録には、儀式を拒んだ聖女の名があった。

 

『器エナは逃亡。三日後、都にて灰王顕現。死者十九万。器を捕縛し、残る英雄一名により処断』

 

 逃げても、結局は殺された。

 

 しかも、より多くの死を見たあとに。

 

 リュシアは本を閉じた。

 

「ずるいです」

 

 誰に向けた言葉か分からなかった。

 

「選びなさいと言いながら、一つしか残していない」

 

 神も、教会も、千年前の人々も答えない。

 

 棚の隅には、儀式を行った聖女たちの名簿があった。七人。生年は記されているのに、没年はない。全員の末尾に『帰天』とだけ書かれていた。

 

 死という文字さえ、きれいな言葉へ隠されている。

 

 リュシアは余白へ、自分の名を書いた。

 

『リュシア・アルヴェイン。十五歳。死にたくない』

 

 せめてここにだけは、正しい言葉を残したかった。

 

 けれど仲間が読めば、愛情が残る。

 

 しばらく見つめたあと、その頁も破り、胸元へしまった。

 

 鐘が一つ鳴った。

 

 朝を告げる最初の鐘だった。

 

 リュシアは顔を上げた。

 

 本の最後に、封印儀式の誓詞がある。

 

『我が名を灰に、我が愛を刃に、我が命を明日の礎に』

 

 すぐには読めなかった。

 

 何度も息を吸い、泣き腫らした目を閉じる。

 

「我が名を灰に」

 

 声が震えた。

 

「我が愛を刃に」

 

 カイルの手の温度を思い出した。

 

「我が命を、明日の礎に」

 

 最後まで言えたとき、何かが決まってしまった。

 

 リュシアは本から必要な頁を破り取った。部屋の燭台へ火をつけ、残る記録を一冊ずつ燃やす。

 

 自分以外が真実を知れば、儀式は失敗する。

 

 火は青く燃え、千年前の言葉を灰へ変えた。

 

「何をしているのです」

 

 扉にエルドが立っていた。

 

 リュシアは振り返らなかった。

 

「あなたこそ、どうして」

 

「あなたが宿から消えたので。嘘が下手ですね」

 

「知っていたんですか」

 

 問いかけると、長い沈黙があった。

 

「すべてではありません」

 

 エルドが部屋へ入り、燃える本の前へ膝をつく。

 

「灰祷会の最奥では、聖女を『冠の器』と呼ぶ。四遺物がそろえば灰の王を人へ移せること、器が死ねば王も滅びることは知っていました」

 

「仲間が憎まなければならないことは?」

 

「……今、残った頁を見て知りました」

 

 リュシアの手には、燃やせなかった一枚があった。

 

 エルドは読んだ。そして、いつもの無表情を失った。

 

「これは封印ではない。処刑です」

 

「世界を救う方法です」

 

「同じ言葉ではありません」

 

「私が拒めば、二十七万人が死にます」

 

「だからあなたが死んでよい理由にはならない」

 

「では、代わりの方法を知っていますか」

 

 エルドは答えなかった。

 

 沈黙が答えだった。

 

「探しましょう」

 

「いつまで?」

 

「灰の王が復活するまで、まだ――」

 

「四つ目の封印は、もうひと月もちません」

 

 それも記録にあった。黒い火が王都で点った時点から、残された時間は四十日。旅立って、すでに十二日が過ぎている。

 

「カイルたちに話します」とエルド。

 

 リュシアは彼の袖をつかんだ。

 

「話さないでください」

 

「できません」

 

「話せば、私を憎めなくなる」

 

「話さなくても、彼らはあなたを憎まない」

 

「憎ませます」

 

 自分の声が、知らない人のもののように聞こえた。

 

 エルドはリュシアを見た。金褐色の目に、怒りと哀れみがあった。

 

「彼らがあなたを信じているからこそ、あなたにそれができます。預けられた弱さを、刃に変えるつもりですか」

 

 セレナの妹。

 

 ノアの檻。

 

 カイルの誓い。

 

 答えられなかった。

 

「あなたは、また命令に従えばいいと思っているのですか」

 

 エルドの顔が強張る。

 

 卑怯な言葉だった。彼が自分の過去を話してくれたから、最も傷つく場所が分かった。

 

 もう始めている。

 

 リュシアは震える手を握りしめた。

 

「今度は、自分で選んでください。私との約束を守るか、破るか」

 

「約束などしていません」

 

「では、してください。真実を誰にも話さないと」

 

「できない」

 

「エルド」

 

 初めて、呼び捨てにした。

 

「お願いします。私を助けてください」

 

 彼は長いあいだ、燃える記録を見ていた。

 

「それは、あなたを助けることにならない」

 

「私が助けたい人たちを、助けられます」

 

 火が最後の本を食べ尽くす。

 

 エルドは目を閉じた。

 

「……誓います。あなたが許すまで、私からは話さない」

 

「ありがとうございます」

 

 礼を言うと、彼は苦しそうに顔を背けた。

 

 宿へ戻るころには、街が目を覚ましていた。

 

 カイルが玄関前に立っている。怪我をした足で探し回ろうとして、セレナに止められていたらしい。

 

「どこへ行ってた?」

 

「朝の祈りです」

 

 リュシアは右手の親指で、左手の指をなぞった。

 

 セレナの紫の目が、その動きを見た。

 

「記録庫は?」

 

「何もありませんでした。火事で、全部燃えていて」

 

 隣にいるエルドは黙っていた。

 

 カイルは疑わなかった。心配そうにリュシアの赤い目元へ触れる。

 

「灰が入ったのか?」

 

「たぶん」

 

「今日は休もう」

 

「大丈夫です」

 

 いつもの言葉。

 

 カイルは眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。

 

 部屋へ戻る階段で、リュシアは一度だけ振り返った。

 

 四人がいる。

 

 カイル。セレナ。ノア。エルド。

 

 愛する人たちの名を、心の中で順に呼んだ。

 

 今日から、その名を傷つける言葉だけを選ぶ。

 

 世界を救うために。

 

 彼らが自分を、心から憎めるように。

 

 リュシアは笑った。

 

 泣いたあとの顔で、誰にも怪しまれないように。

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