幸福な夜ほど、朝は来るのが早い。
祭りの音が消えたころ、リュシアは一人で宿を抜け出した。
明日の朝、皆で行く。そう言ったのに、眠れなかった。記録庫の扉に刻まれた言葉が、目を閉じるたび浮かんだ。
『聖女のみ、己が棺を知れ』
カイルの傷は深い。セレナは治療で魔力を使い、ノアは見張り続きで疲れている。朝まで休ませたい。それに、自分の棺というものを、皆と並んで見る勇気がなかった。
右手の親指で、左手の指の節をなぞる。
嘘をついたとき、幼いころから出る癖だった。
夜明け前のベルクレアは静かだった。百八の鐘も眠っている。大鐘楼の地下へ降りると、前夜の戦いで砕けた氷と灰が残っていた。
記録庫は祭壇の裏にある。
石の扉へ聖痕を当てると、低い音を立てて開いた。
中は小さな部屋だった。壁一面の棚には、革張りの本と粘土板が並んでいる。千年を越えた紙が残っているのは、時間を止める術がかけられているかららしい。
中央の台に、一冊だけ開かれた本があった。
『灰王終葬儀典』
最初の数頁は知っている内容だった。
四つの聖遺物を集めよ。
暁の杯で器を清め、星縫いの針で魂を肉へ縫い留め、真名の鈴で魔神を呼び、終火の剣で絶つ。
器となれるのは、他者の傷と呪いを移す聖痕を持つ聖女のみ。
頁をめくる。
そこには、人の形をした図が描かれていた。胸を剣で貫かれ、頭上に黒い冠を戴く女。その周囲に、剣、杖、獣の爪、祈りの杖を持つ四人が立っている。
『器は灰王をその魂へ移し、英雄の手により死を迎える』
文字が読めなかったわけではない。
意味が頭へ入らなかった。
リュシアは同じ一文を三度読んだ。
「死を……」
誰のことだろうと思った。
器。
身代わりの聖痕を持つ聖女。
現在、教会が把握している聖痕の持ち主は、あなた一人よ。
指先が冷たくなった。
本の余白には、別の筆跡で文字が残されていた。
『私はアリア。最初の器とされた者。後に読む妹へ、教会の言葉だけを信じぬよう、ここへ私の言葉を置く』
千年前の聖女自身が書いたものだった。
リュシアは震える指で行を追った。
『彼らは私へ、誉れある死だと言う。神に選ばれた者だけが担える役目だと。私は誉れなど欲しくない。春に植えた林檎の実を見たい。弟の子を抱きたい。明日の朝も目を覚ましたい』
続く数行は、涙でにじんだように読めなくなっている。
『英雄たちには知らせない。彼らは私を愛しているから、私とともに死ぬ道を選ぶだろう。私は一人で死ぬことより、彼らが死ぬことを恐れる』
最後に、小さな文字があった。
『聖女という名が、私たちの恐れを奪うことを許してはならない』
リュシアは頁から手を離した。
昔話の初代聖女は、笑顔で神へ身を捧げたと教わった。恐れず、迷わず、人々のために灰の王を封じたと。
嘘だった。
千年前にも、死にたくない一人の少女がいた。
その声を教会は本の奥へ閉じ込め、表では美しい犠牲に作り替えた。
「あなたは、帰れましたか」
頁へ問いかける。
答えはない。
アリアの名さえ、今の歴史書には残っていなかった。
次の頁を急いでめくる。別の方法があるはずだった。死なずに済む補助の術。千年前の方法が不完全だったという注記。何か。
続く頁にあったのは、さらに残酷な説明だった。
『灰王は人の情を道とする。器を惜しむ心、愛する心、赦す心が強いほど、魂は縫い目をほどき、帰還する』
『ゆえに英雄は、器を罪人と信じねばならぬ』
『真実を知りて刃を振るう偽りの憎悪は、供物とならず』
『器は英雄を欺き、裏切り、心より憎まれたのちに討たれよ』
静かな部屋で、自分の息だけがひどく大きく聞こえた。
カイルの笑顔が浮かぶ。
帰ろう、と言った。小指を絡め、皆で店を探そうと約束した。
セレナが髪へ白い花を挿してくれた。ノアは木彫りの猫をくれた。エルドは五つ灯亭で皿を洗うと言った。
その全員に、罪人だと信じさせなければならない。
心から憎まれなければならない。
「無理です」
声が出た。
返事はない。
「できません」
本を閉じようとした。けれど、最後の記録が目に入った。
『器が役目を拒みしとき、灰王は最も人の集う地に顕現する』
白都ラグレインの図。王都を示す印の周囲に、古代の数字が並んでいた。
推定死者、二十七万。
数字なら、顔がないと思っていた。
けれどリュシアの頭には、修道院の子どもたちが浮かんだ。関所の食堂で働いていた娘。ベルクレアで砂糖菓子を売った老婆。助けた獣人の三人。まだ会ったこともない二十七万の中へ、知っている顔が勝手に混ざる。
逃げれば、その人たちが死ぬ。
自分一人なら。
そう考えた瞬間、マルタ院長の声がした。
『お前はどうして、自分の痛みなら数に入れなくてよいと思う』
「一人です」
誰に言い訳するでもなく、リュシアはつぶやいた。
「二十七万と、一人です」
簡単な引き算のはずだった。
なのに、選べなかった。
死にたくない。
その言葉が胸の底から出てきた。
怖い。
剣で刺されたら痛いだろう。息ができなくなるのだろうか。灰になるとは、どんな感じだろう。死んだあとには何があるのか。何もないのか。
修道院へ帰りたい。
マルタ院長の薬草茶が飲みたい。洗濯物を一月分やらされたい。セレナに髪を結ってもらい、ノアの看板を見て笑いたい。カイルと店の場所を探したい。
昨日まで、そんな未来を持っていなかった。
皆がくれたのだ。
生きたいと思える未来をくれた人たちに、その未来を自分の手で嘘にしなければならない。
「嫌……」
膝から力が抜けた。
本を抱えたまま床へ座り込み、声を殺して泣いた。誰にも聞かれないよう口元を押さえた。そうしているうちに、自分がもう、彼らを欺き始めていることに気づいた。
どれほど泣いたのか分からない。
泣きやんだあと、リュシアは棚の本をすべて調べた。
器を眠らせたまま灰の王だけを焼く方法。失敗、術者十二名死亡。
器の魂を別の身体へ移す方法。失敗、灰の王も同時に移動。
英雄たちへ真実を知らせ、記憶だけを消す方法。消したはずの愛情が魂に残り、封印は三年で崩壊。
器を殺さず永久に眠らせる方法。百四十七年後、夢を通して灰の王が復活。
千年のあいだ、同じ疑問を持った者はいた。別の道を探した者もいた。そのすべてが、短い失敗の二文字で終わっている。
ある記録には、儀式を拒んだ聖女の名があった。
『器エナは逃亡。三日後、都にて灰王顕現。死者十九万。器を捕縛し、残る英雄一名により処断』
逃げても、結局は殺された。
しかも、より多くの死を見たあとに。
リュシアは本を閉じた。
「ずるいです」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「選びなさいと言いながら、一つしか残していない」
神も、教会も、千年前の人々も答えない。
棚の隅には、儀式を行った聖女たちの名簿があった。七人。生年は記されているのに、没年はない。全員の末尾に『帰天』とだけ書かれていた。
死という文字さえ、きれいな言葉へ隠されている。
リュシアは余白へ、自分の名を書いた。
『リュシア・アルヴェイン。十五歳。死にたくない』
せめてここにだけは、正しい言葉を残したかった。
けれど仲間が読めば、愛情が残る。
しばらく見つめたあと、その頁も破り、胸元へしまった。
鐘が一つ鳴った。
朝を告げる最初の鐘だった。
リュシアは顔を上げた。
本の最後に、封印儀式の誓詞がある。
『我が名を灰に、我が愛を刃に、我が命を明日の礎に』
すぐには読めなかった。
何度も息を吸い、泣き腫らした目を閉じる。
「我が名を灰に」
声が震えた。
「我が愛を刃に」
カイルの手の温度を思い出した。
「我が命を、明日の礎に」
最後まで言えたとき、何かが決まってしまった。
リュシアは本から必要な頁を破り取った。部屋の燭台へ火をつけ、残る記録を一冊ずつ燃やす。
自分以外が真実を知れば、儀式は失敗する。
火は青く燃え、千年前の言葉を灰へ変えた。
「何をしているのです」
扉にエルドが立っていた。
リュシアは振り返らなかった。
「あなたこそ、どうして」
「あなたが宿から消えたので。嘘が下手ですね」
「知っていたんですか」
問いかけると、長い沈黙があった。
「すべてではありません」
エルドが部屋へ入り、燃える本の前へ膝をつく。
「灰祷会の最奥では、聖女を『冠の器』と呼ぶ。四遺物がそろえば灰の王を人へ移せること、器が死ねば王も滅びることは知っていました」
「仲間が憎まなければならないことは?」
「……今、残った頁を見て知りました」
リュシアの手には、燃やせなかった一枚があった。
エルドは読んだ。そして、いつもの無表情を失った。
「これは封印ではない。処刑です」
「世界を救う方法です」
「同じ言葉ではありません」
「私が拒めば、二十七万人が死にます」
「だからあなたが死んでよい理由にはならない」
「では、代わりの方法を知っていますか」
エルドは答えなかった。
沈黙が答えだった。
「探しましょう」
「いつまで?」
「灰の王が復活するまで、まだ――」
「四つ目の封印は、もうひと月もちません」
それも記録にあった。黒い火が王都で点った時点から、残された時間は四十日。旅立って、すでに十二日が過ぎている。
「カイルたちに話します」とエルド。
リュシアは彼の袖をつかんだ。
「話さないでください」
「できません」
「話せば、私を憎めなくなる」
「話さなくても、彼らはあなたを憎まない」
「憎ませます」
自分の声が、知らない人のもののように聞こえた。
エルドはリュシアを見た。金褐色の目に、怒りと哀れみがあった。
「彼らがあなたを信じているからこそ、あなたにそれができます。預けられた弱さを、刃に変えるつもりですか」
セレナの妹。
ノアの檻。
カイルの誓い。
答えられなかった。
「あなたは、また命令に従えばいいと思っているのですか」
エルドの顔が強張る。
卑怯な言葉だった。彼が自分の過去を話してくれたから、最も傷つく場所が分かった。
もう始めている。
リュシアは震える手を握りしめた。
「今度は、自分で選んでください。私との約束を守るか、破るか」
「約束などしていません」
「では、してください。真実を誰にも話さないと」
「できない」
「エルド」
初めて、呼び捨てにした。
「お願いします。私を助けてください」
彼は長いあいだ、燃える記録を見ていた。
「それは、あなたを助けることにならない」
「私が助けたい人たちを、助けられます」
火が最後の本を食べ尽くす。
エルドは目を閉じた。
「……誓います。あなたが許すまで、私からは話さない」
「ありがとうございます」
礼を言うと、彼は苦しそうに顔を背けた。
宿へ戻るころには、街が目を覚ましていた。
カイルが玄関前に立っている。怪我をした足で探し回ろうとして、セレナに止められていたらしい。
「どこへ行ってた?」
「朝の祈りです」
リュシアは右手の親指で、左手の指をなぞった。
セレナの紫の目が、その動きを見た。
「記録庫は?」
「何もありませんでした。火事で、全部燃えていて」
隣にいるエルドは黙っていた。
カイルは疑わなかった。心配そうにリュシアの赤い目元へ触れる。
「灰が入ったのか?」
「たぶん」
「今日は休もう」
「大丈夫です」
いつもの言葉。
カイルは眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
部屋へ戻る階段で、リュシアは一度だけ振り返った。
四人がいる。
カイル。セレナ。ノア。エルド。
愛する人たちの名を、心の中で順に呼んだ。
今日から、その名を傷つける言葉だけを選ぶ。
世界を救うために。
彼らが自分を、心から憎めるように。
リュシアは笑った。
泣いたあとの顔で、誰にも怪しまれないように。