カイルは、怒ると剣帯を直す。
腹を立てたときも、迷ったときも、何かを言う前に金具へ触れる。十歳のころは木剣の紐だった。二年離れていても、癖は変わっていなかった。
だからリュシアには、彼がどれほど怒っているか分かった。
「もう一度聞く」
街道の宿、その裏庭だった。
夜明け前で、空はまだ薄暗い。カイルは片足を引きずりながら、井戸の前に立つリュシアを追ってきた。
「どうして一人で出発しようとした?」
リュシアの傍らには、荷を載せた馬がいる。ほかの四人が眠っているあいだに宿を抜け、先へ進むつもりだった。
見つかることも、計画の一部だった。
「皆さんが遅いからです」
「俺の足なら、もう動ける」
「昨夜も傷が開いたでしょう」
「見てたのか」
「血の匂いがしました」
「だったら、なおさら勝手に行くな。君に何かあったら――」
「私に何かあったら、何です?」
カイルの手が剣帯へ動く。
「守ると、また言うんですか」
「何度でも言う」
「迷惑です」
用意した言葉なのに、口から出ると鋭さが違った。
カイルはしばらく動かなかった。
「この前から、どうした」
「何も」
「嘘だ」
「私の何を知っているんですか」
「知ってる。少なくとも、理由もなく仲間を遠ざける人じゃない」
「幼なじみだから?」
「それだけじゃない。旅のあいだ、ずっと見てきた」
だから困るのだ。
見ないでほしい。信じないでほしい。自分の中にある本当の気持ちを、彼だけは見つけてしまいそうだった。
「あなたが見ていたのは、都合のいい聖女です」
「違う」
「怪我を治して、笑って、あなたの誓いをありがたがる女の子」
「違う!」
声が裏庭の壁へ跳ね返った。
宿の窓に明かりがつく。カイルは声を抑え、近づいてきた。
「リュシア。記録庫で何を見た」
心臓が止まりそうになった。
「何もないと言ったでしょう」
「セレナから聞いた。君が嘘をつくときの癖」
両手を外套の下へ隠す。
「焼けた記録庫で、何があった?」
「何も」
「じゃあ手を見せて言え」
できなかった。
カイルは一歩、また一歩と近づく。
「俺に話せ。何を見たって、何をしなきゃならないって、俺は君の味方だ」
「……だから、話せないんです」
思わず本音がこぼれた。
カイルの目が見開かれる。
「今、何て」
失敗した。
信じようとする彼に、これ以上考える時間を与えてはいけない。
リュシアは顔を上げた。
「あなたに守ってもらおうと思ったことなんて、一度もない」
カイルの表情が消えた。
「十歳のときから、ずっと。怪我ばかりして、そのたびに私が傷を引き受けた。騎士になっても同じです。守ると言いながら、守られてばかり」
嘘ではない。
彼が傷つき、リュシアが移したことは本当だ。
「それでもあなたを連れてきたのは、役に立つ剣だからです」
「やめろ」
「灰の王を倒すには、剣が要る。幼なじみなら、命を懸けてくれると思った」
「やめてくれ」
「あなた自身に価値があると思ったことは、一度も――」
最後まで言えなかった。
カイルの手がリュシアの肩をつかんだ。
殴られると思った。
そうなれば、少し楽だったかもしれない。
彼は殴らなかった。肩をつかんだまま、泣きそうな顔でリュシアを見た。
「そんな言葉で、俺が信じると思うか」
「……何を」
「君が、そんなことを思ってるって」
声は震えていた。それでも目をそらさない。
「役に立つからそばに置いた? 君は役に立たない俺を、十歳のころから何度も待ってくれた。剣を握れなかった日も、試験に落ちた日も」
最初の騎士登用試験に落ちた日、カイルは修道院裏の納屋へ隠れた。
十五歳の彼は、木剣すら握りたくないと言った。村の皆が期待していた。リュシアを守ると大声で約束した。それなのに、試験官の前で足がすくみ、一勝もできなかった。
『俺には向いてない』
干し草へ顔を埋める彼に、十三歳のリュシアは隣へ座った。
『では、別のことをしますか』
『笑わないのか』
『落ちた人を笑う趣味はありません』
『がっかりしただろ。守るって言ったのに』
『騎士でないと、守れませんか』
答えられないカイルへ、リュシアは焼き菓子を半分渡した。院長が客人用に取っておいたものを、二人で盗んだ。
『今日は一緒に怒られます。明日は、次に何をするか考えましょう』
カイルは翌年、もう一度試験を受けた。
王都へ出る日、リュシアが縫った手袋を渡した。内側に彼の名前を入れたのは、なくさないためだと言い訳した。
手紙は毎月送った。
返事は一通もなかった。
それでも、忙しいのだろうと思った。彼が自分を忘れたとは、一度も考えなかった。
今、その記憶すべてを、役に立つ剣という一言で汚そうとしている。
「子どものころの話です」
「二年前、王都へ行く俺に手袋を縫ってくれた。手紙も毎月くれた。俺が一度も返さなくても」
「義務でした」
「手袋の内側に俺の名前を刺繍するのが?」
リュシアは答えられなかった。
「君は嘘が下手だ」
カイルの手から力が抜ける。
「何があったかは分からない。でも、俺を遠ざけなきゃならないと思ってるなら、俺は遠ざからない」
彼は笑おうとした。うまく笑えなかった。
「君が俺を嫌いでも、俺が君を守る理由はなくならない」
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
言ってはいけない。
ありがとうも、ごめんなさいも。
「勝手にしてください」
リュシアは肩の手を払い、馬へ乗った。
裏庭を出てから、涙が風へ飛ばされた。
カイルは追ってこなかった。
半刻ほど先の街道で、セレナたちが追いついた。カイルも一緒だった。彼は何も話していないらしく、ノアが「朝飯を置いていくなんてひどい」と文句を言い、エルドが黙ってリュシアの馬を見た。
昼までに、古い吊り橋へ差しかかった。
谷は深く、底を流れる川が細い銀糸に見える。板はところどころ抜け、一本しかない手すりも灰で滑りやすくなっていた。
「一人ずつ渡る」とカイルが言った。
「私が先に行くよ」とノア。「向こうで綱を確かめる」
ノア、セレナ、エルドの順に渡った。リュシアが四人目に足を載せると、カイルも続こうとする。
「一人ずつでは?」
「君は数に入れない」
「子ども扱いですか」
「監視対象として扱ってる」
冷たい言い方だったが、傷ついた足をかばいながら距離を保って歩いてくる。その姿に、先ほどの言葉がまだ彼の中で生きていると分かった。
橋の半ばで、板が割れた。
リュシアの片足が空へ落ちる。腹を綱へ打ちつけ、息が止まった。手すりをつかもうとして、灰に滑る。
「リュシア!」
腕をつかんだのはカイルだった。
負傷した腿で踏み込み、全身の力で引き上げる。二人そろって橋板へ倒れ込んだ。
向こう岸からノアが綱を張り、セレナが風で橋の揺れを止めた。
「怪我は」
カイルは息を切らしながら、リュシアの手足を確かめる。
「ありません」
「本当に?」
「ええ」
彼の手のひらには、綱で裂けた傷ができていた。
リュシアは触れそうになり、腕を引く。
「助けなくてもよかったのに」
カイルの顔がこわばった。
「落ちれば死んでた」
「聖女を守れなかったと責められるのが嫌だったんですか」
「違う」
「なら、誓いに酔っているだけです。守る自分が好きなんでしょう」
カイルは傷ついた手を握った。
「それでも、次も助ける」
小さな声だった。
「君が何を言っても」
先に立ち上がり、リュシアへ背を向ける。
その背中に、ありがとうと叫びたかった。
代わりにリュシアは何も言わず、自分の足で橋を渡った。
向こう岸へ着いたカイルの腿から、また血がにじんでいた。セレナが治療しているあいだ、リュシアは一度も振り返らなかった。
鞍袋の口から、灰色の封筒がのぞいている。
昨夜、リュシア自身が入れたものだった。
昼の休憩で、カイルがそれを見つけた。
「これは?」
「触らないで」
わざと遅く制止する。
灰祷会の印章で封じた手紙。中には古代語で、リュネまでの経路と一行の負傷状況、三つの遺物を所持していることが記されている。
『第四の剣を得たのち、約定どおり灰の力を我に』
署名はない。
だが、紙にはリュシアが普段使う白百合の香油を染み込ませてあった。
「違う」とエルドが言った。
封筒を一目見ただけで、彼には偽物と分かったらしい。
リュシアは彼をにらんだ。
約束を守って。
エルドの口が閉じる。
「どこで手に入れた」とカイル。
「答える必要はありません」
「君が書いたのか」
「だとしたら?」
カイルは手紙を握りしめた。
「灰祷会と取引してるのか」
「彼らは敵ではありません。使い方次第では」
「七つの村を焼いた奴らだぞ」
「世界を救うためなら、きれいな手段だけ選べません」
これも真実だった。
世界を救うため、仲間を壊そうとしている。
カイルは手紙を破ろうとして、やめた。証拠として鞄へしまう。
「この件は、リュネで教会の使者に確認する。それまでは勝手な行動をするな」
護衛する幼なじみではなく、疑いをかける騎士の声だった。
「命令ですか」
「頼んでも聞かないなら、命令だ」
リュシアは笑った。
「やっと、役に立つ剣らしくなりましたね」
カイルの顔が歪んだ。
ノアが二人の間へ立った。
「待って。この手紙、リュシアが書いたって決まってない」
「鞄にあった」とカイル。
「誰かが入れたかもしれない。僕だって関所で濡れ衣を着せられた」
自分の過去を根拠に、ノアはリュシアを信じようとしている。
「匂いは?」とセレナ。
「白百合はリュシアの匂い。でも、紙と蝋は知らない奴の匂いもする」
偽造に使った灰祷会の印章は、捕らえた信徒からエルドが回収したものだった。知らない匂いが残って当然だ。
「エルド」とセレナ。「あなたなら印が本物か分かるでしょう」
全員の視線が集まる。
エルドは封筒を受け取った。親指で蝋の黒い太陽をなぞる。
「印章そのものは、灰祷会のものです」
「手紙は?」
「古代語に不自然な箇所があります」
リュシアの心臓が鳴る。
「偽物ってこと?」とノア。
エルドは答える前に、リュシアを見た。
彼女は左手を強く握った。
「外部の者が書いた可能性も、内部の者が偽装した可能性もあります。断定できません」
巧妙な沈黙だった。
ノアはまだ食い下がる。
「じゃあ証拠にならない」
「本人が否定しない」とカイル。
「否定できない理由があるかもしれない!」
「ノア」
リュシアが呼ぶ。
彼の耳が期待するように立った。
「余計なことをしないでください」
「でも」
「あなたにかばわれるほど、困っていません」
耳がゆっくり伏せる。
カイルは破らなかった手紙を鞄へしまった。それはリュシアにとって、終火の剣より先に彼へ渡した刃だった。
今度は剣帯へ触れなかった。
その夜、彼はリュシアのそばで見張らなかった。
焚き火の反対側に座り、一度もこちらを見なかった。
カイルは荷物から、古い革手袋を取り出した。
王都へ出る日にリュシアが縫ったものだ。何度も修理され、指先の色が変わっている。内側には不器用な刺繍で『KYLE』とある。最後の一文字だけ、場所が足りず小さい。
「まだ持ってたんだ」とノア。
「丈夫だから」
「リュシアが作ったから、でしょ」
カイルは答えず、ほつれた糸を指でなぞった。
「役に立つ剣なら、贈り物なんか大切にしないよ」
「俺が大切にしても、あいつがどう思うかは別だ」
手袋をしまう。
「でも捨てないんだ」
「うるさい。見張りを代われ」
ノアが焚き火のそばへ座ると、カイルは横になった。眠れないまま、外套を頭までかぶる。
反対側でリュシアも起きていた。
手袋を見たことを伝えられず、毛布の中で小指を握った。
リュシアは毛布へ入り、背を向けた。
成功したのだと思う。
それなのに眠れず、朝まで何度も左手の小指を握った。
祭りの夜、彼と約束を結んだ指だった。
帰ろう。
あの言葉を思い出すたび、胸の中で何かが音を立てて折れた。