灰冠の聖女は英雄たちに憎まれたい   作:日向夏 

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第九話 役に立つ剣

 カイルは、怒ると剣帯を直す。

 

 腹を立てたときも、迷ったときも、何かを言う前に金具へ触れる。十歳のころは木剣の紐だった。二年離れていても、癖は変わっていなかった。

 

 だからリュシアには、彼がどれほど怒っているか分かった。

 

「もう一度聞く」

 

 街道の宿、その裏庭だった。

 

 夜明け前で、空はまだ薄暗い。カイルは片足を引きずりながら、井戸の前に立つリュシアを追ってきた。

 

「どうして一人で出発しようとした?」

 

 リュシアの傍らには、荷を載せた馬がいる。ほかの四人が眠っているあいだに宿を抜け、先へ進むつもりだった。

 

 見つかることも、計画の一部だった。

 

「皆さんが遅いからです」

 

「俺の足なら、もう動ける」

 

「昨夜も傷が開いたでしょう」

 

「見てたのか」

 

「血の匂いがしました」

 

「だったら、なおさら勝手に行くな。君に何かあったら――」

 

「私に何かあったら、何です?」

 

 カイルの手が剣帯へ動く。

 

「守ると、また言うんですか」

 

「何度でも言う」

 

「迷惑です」

 

 用意した言葉なのに、口から出ると鋭さが違った。

 

 カイルはしばらく動かなかった。

 

「この前から、どうした」

 

「何も」

 

「嘘だ」

 

「私の何を知っているんですか」

 

「知ってる。少なくとも、理由もなく仲間を遠ざける人じゃない」

 

「幼なじみだから?」

 

「それだけじゃない。旅のあいだ、ずっと見てきた」

 

 だから困るのだ。

 

 見ないでほしい。信じないでほしい。自分の中にある本当の気持ちを、彼だけは見つけてしまいそうだった。

 

「あなたが見ていたのは、都合のいい聖女です」

 

「違う」

 

「怪我を治して、笑って、あなたの誓いをありがたがる女の子」

 

「違う!」

 

 声が裏庭の壁へ跳ね返った。

 

 宿の窓に明かりがつく。カイルは声を抑え、近づいてきた。

 

「リュシア。記録庫で何を見た」

 

 心臓が止まりそうになった。

 

「何もないと言ったでしょう」

 

「セレナから聞いた。君が嘘をつくときの癖」

 

 両手を外套の下へ隠す。

 

「焼けた記録庫で、何があった?」

 

「何も」

 

「じゃあ手を見せて言え」

 

 できなかった。

 

 カイルは一歩、また一歩と近づく。

 

「俺に話せ。何を見たって、何をしなきゃならないって、俺は君の味方だ」

 

「……だから、話せないんです」

 

 思わず本音がこぼれた。

 

 カイルの目が見開かれる。

 

「今、何て」

 

 失敗した。

 

 信じようとする彼に、これ以上考える時間を与えてはいけない。

 

 リュシアは顔を上げた。

 

「あなたに守ってもらおうと思ったことなんて、一度もない」

 

 カイルの表情が消えた。

 

「十歳のときから、ずっと。怪我ばかりして、そのたびに私が傷を引き受けた。騎士になっても同じです。守ると言いながら、守られてばかり」

 

 嘘ではない。

 

 彼が傷つき、リュシアが移したことは本当だ。

 

「それでもあなたを連れてきたのは、役に立つ剣だからです」

 

「やめろ」

 

「灰の王を倒すには、剣が要る。幼なじみなら、命を懸けてくれると思った」

 

「やめてくれ」

 

「あなた自身に価値があると思ったことは、一度も――」

 

 最後まで言えなかった。

 

 カイルの手がリュシアの肩をつかんだ。

 

 殴られると思った。

 

 そうなれば、少し楽だったかもしれない。

 

 彼は殴らなかった。肩をつかんだまま、泣きそうな顔でリュシアを見た。

 

「そんな言葉で、俺が信じると思うか」

 

「……何を」

 

「君が、そんなことを思ってるって」

 

 声は震えていた。それでも目をそらさない。

 

「役に立つからそばに置いた? 君は役に立たない俺を、十歳のころから何度も待ってくれた。剣を握れなかった日も、試験に落ちた日も」

 

 最初の騎士登用試験に落ちた日、カイルは修道院裏の納屋へ隠れた。

 

 十五歳の彼は、木剣すら握りたくないと言った。村の皆が期待していた。リュシアを守ると大声で約束した。それなのに、試験官の前で足がすくみ、一勝もできなかった。

 

『俺には向いてない』

 

 干し草へ顔を埋める彼に、十三歳のリュシアは隣へ座った。

 

『では、別のことをしますか』

 

『笑わないのか』

 

『落ちた人を笑う趣味はありません』

 

『がっかりしただろ。守るって言ったのに』

 

『騎士でないと、守れませんか』

 

 答えられないカイルへ、リュシアは焼き菓子を半分渡した。院長が客人用に取っておいたものを、二人で盗んだ。

 

『今日は一緒に怒られます。明日は、次に何をするか考えましょう』

 

 カイルは翌年、もう一度試験を受けた。

 

 王都へ出る日、リュシアが縫った手袋を渡した。内側に彼の名前を入れたのは、なくさないためだと言い訳した。

 

 手紙は毎月送った。

 

 返事は一通もなかった。

 

 それでも、忙しいのだろうと思った。彼が自分を忘れたとは、一度も考えなかった。

 

 今、その記憶すべてを、役に立つ剣という一言で汚そうとしている。

 

「子どものころの話です」

 

「二年前、王都へ行く俺に手袋を縫ってくれた。手紙も毎月くれた。俺が一度も返さなくても」

 

「義務でした」

 

「手袋の内側に俺の名前を刺繍するのが?」

 

 リュシアは答えられなかった。

 

「君は嘘が下手だ」

 

 カイルの手から力が抜ける。

 

「何があったかは分からない。でも、俺を遠ざけなきゃならないと思ってるなら、俺は遠ざからない」

 

 彼は笑おうとした。うまく笑えなかった。

 

「君が俺を嫌いでも、俺が君を守る理由はなくならない」

 

 胸の奥に、熱いものが込み上げた。

 

 言ってはいけない。

 

 ありがとうも、ごめんなさいも。

 

「勝手にしてください」

 

 リュシアは肩の手を払い、馬へ乗った。

 

 裏庭を出てから、涙が風へ飛ばされた。

 

 カイルは追ってこなかった。

 

 半刻ほど先の街道で、セレナたちが追いついた。カイルも一緒だった。彼は何も話していないらしく、ノアが「朝飯を置いていくなんてひどい」と文句を言い、エルドが黙ってリュシアの馬を見た。

 

 昼までに、古い吊り橋へ差しかかった。

 

 谷は深く、底を流れる川が細い銀糸に見える。板はところどころ抜け、一本しかない手すりも灰で滑りやすくなっていた。

 

「一人ずつ渡る」とカイルが言った。

 

「私が先に行くよ」とノア。「向こうで綱を確かめる」

 

 ノア、セレナ、エルドの順に渡った。リュシアが四人目に足を載せると、カイルも続こうとする。

 

「一人ずつでは?」

 

「君は数に入れない」

 

「子ども扱いですか」

 

「監視対象として扱ってる」

 

 冷たい言い方だったが、傷ついた足をかばいながら距離を保って歩いてくる。その姿に、先ほどの言葉がまだ彼の中で生きていると分かった。

 

 橋の半ばで、板が割れた。

 

 リュシアの片足が空へ落ちる。腹を綱へ打ちつけ、息が止まった。手すりをつかもうとして、灰に滑る。

 

「リュシア!」

 

 腕をつかんだのはカイルだった。

 

 負傷した腿で踏み込み、全身の力で引き上げる。二人そろって橋板へ倒れ込んだ。

 

 向こう岸からノアが綱を張り、セレナが風で橋の揺れを止めた。

 

「怪我は」

 

 カイルは息を切らしながら、リュシアの手足を確かめる。

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

「ええ」

 

 彼の手のひらには、綱で裂けた傷ができていた。

 

 リュシアは触れそうになり、腕を引く。

 

「助けなくてもよかったのに」

 

 カイルの顔がこわばった。

 

「落ちれば死んでた」

 

「聖女を守れなかったと責められるのが嫌だったんですか」

 

「違う」

 

「なら、誓いに酔っているだけです。守る自分が好きなんでしょう」

 

 カイルは傷ついた手を握った。

 

「それでも、次も助ける」

 

 小さな声だった。

 

「君が何を言っても」

 

 先に立ち上がり、リュシアへ背を向ける。

 

 その背中に、ありがとうと叫びたかった。

 

 代わりにリュシアは何も言わず、自分の足で橋を渡った。

 

 向こう岸へ着いたカイルの腿から、また血がにじんでいた。セレナが治療しているあいだ、リュシアは一度も振り返らなかった。

 

 鞍袋の口から、灰色の封筒がのぞいている。

 

 昨夜、リュシア自身が入れたものだった。

 

 昼の休憩で、カイルがそれを見つけた。

 

「これは?」

 

「触らないで」

 

 わざと遅く制止する。

 

 灰祷会の印章で封じた手紙。中には古代語で、リュネまでの経路と一行の負傷状況、三つの遺物を所持していることが記されている。

 

『第四の剣を得たのち、約定どおり灰の力を我に』

 

 署名はない。

 

 だが、紙にはリュシアが普段使う白百合の香油を染み込ませてあった。

 

「違う」とエルドが言った。

 

 封筒を一目見ただけで、彼には偽物と分かったらしい。

 

 リュシアは彼をにらんだ。

 

 約束を守って。

 

 エルドの口が閉じる。

 

「どこで手に入れた」とカイル。

 

「答える必要はありません」

 

「君が書いたのか」

 

「だとしたら?」

 

 カイルは手紙を握りしめた。

 

「灰祷会と取引してるのか」

 

「彼らは敵ではありません。使い方次第では」

 

「七つの村を焼いた奴らだぞ」

 

「世界を救うためなら、きれいな手段だけ選べません」

 

 これも真実だった。

 

 世界を救うため、仲間を壊そうとしている。

 

 カイルは手紙を破ろうとして、やめた。証拠として鞄へしまう。

 

「この件は、リュネで教会の使者に確認する。それまでは勝手な行動をするな」

 

 護衛する幼なじみではなく、疑いをかける騎士の声だった。

 

「命令ですか」

 

「頼んでも聞かないなら、命令だ」

 

 リュシアは笑った。

 

「やっと、役に立つ剣らしくなりましたね」

 

 カイルの顔が歪んだ。

 

 ノアが二人の間へ立った。

 

「待って。この手紙、リュシアが書いたって決まってない」

 

「鞄にあった」とカイル。

 

「誰かが入れたかもしれない。僕だって関所で濡れ衣を着せられた」

 

 自分の過去を根拠に、ノアはリュシアを信じようとしている。

 

「匂いは?」とセレナ。

 

「白百合はリュシアの匂い。でも、紙と蝋は知らない奴の匂いもする」

 

 偽造に使った灰祷会の印章は、捕らえた信徒からエルドが回収したものだった。知らない匂いが残って当然だ。

 

「エルド」とセレナ。「あなたなら印が本物か分かるでしょう」

 

 全員の視線が集まる。

 

 エルドは封筒を受け取った。親指で蝋の黒い太陽をなぞる。

 

「印章そのものは、灰祷会のものです」

 

「手紙は?」

 

「古代語に不自然な箇所があります」

 

 リュシアの心臓が鳴る。

 

「偽物ってこと?」とノア。

 

 エルドは答える前に、リュシアを見た。

 

 彼女は左手を強く握った。

 

「外部の者が書いた可能性も、内部の者が偽装した可能性もあります。断定できません」

 

 巧妙な沈黙だった。

 

 ノアはまだ食い下がる。

 

「じゃあ証拠にならない」

 

「本人が否定しない」とカイル。

 

「否定できない理由があるかもしれない!」

 

「ノア」

 

 リュシアが呼ぶ。

 

 彼の耳が期待するように立った。

 

「余計なことをしないでください」

 

「でも」

 

「あなたにかばわれるほど、困っていません」

 

 耳がゆっくり伏せる。

 

 カイルは破らなかった手紙を鞄へしまった。それはリュシアにとって、終火の剣より先に彼へ渡した刃だった。

 

 今度は剣帯へ触れなかった。

 

 その夜、彼はリュシアのそばで見張らなかった。

 

 焚き火の反対側に座り、一度もこちらを見なかった。

 

 カイルは荷物から、古い革手袋を取り出した。

 

 王都へ出る日にリュシアが縫ったものだ。何度も修理され、指先の色が変わっている。内側には不器用な刺繍で『KYLE』とある。最後の一文字だけ、場所が足りず小さい。

 

「まだ持ってたんだ」とノア。

 

「丈夫だから」

 

「リュシアが作ったから、でしょ」

 

 カイルは答えず、ほつれた糸を指でなぞった。

 

「役に立つ剣なら、贈り物なんか大切にしないよ」

 

「俺が大切にしても、あいつがどう思うかは別だ」

 

 手袋をしまう。

 

「でも捨てないんだ」

 

「うるさい。見張りを代われ」

 

 ノアが焚き火のそばへ座ると、カイルは横になった。眠れないまま、外套を頭までかぶる。

 

 反対側でリュシアも起きていた。

 

 手袋を見たことを伝えられず、毛布の中で小指を握った。

 

 リュシアは毛布へ入り、背を向けた。

 

 成功したのだと思う。

 

 それなのに眠れず、朝まで何度も左手の小指を握った。

 

 祭りの夜、彼と約束を結んだ指だった。

 

 帰ろう。

 

 あの言葉を思い出すたび、胸の中で何かが音を立てて折れた。

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