酒寄朝日には、一生忘れることの出来ない瞬間があった。
2007年の、05月11日。塵一つない部屋、清潔感のある病室。白いその空間で、酒寄朝日は出逢った。
まず最初に、とっても小さいなと思った。
───小さい。兎に角、小さい。6歳児だった朝日と比べても、圧倒的だった。ちょっと触っただけで壊れちゃいそうだなと、朝日は思った。
そんな小さいものは、白く、柔らかな毛布に大事に包まれていた。
「朝日、抱っこしてみよし」
そんな一言で、母から父へ。父から長男へと、小さい包みが渡された。
ガラス玉よりも繊細に、何よりも緊張が勝りながら。若干震える手をぎゅっと力を入れることで隠して、朝日はそれを受け取った。
───まず感じたのは、その軽さだった。軽すぎて、タオルだけ持っているような気がして、朝日は何度も包みの中を覗き込んだ。中に居たそれは、親指をしゃぶりながら瞼を下ろしており、静かな寝息を立てている。
朝日が次に感じたのは、その温かさだ。柔らかくて、ふわふわで。温かくて、触れたら壊れそうなか弱い存在。けれど確かな生命感をその中に感じ、それだけど、確かに無敵であるかのような感じがした。
手の中にいる存在が、僅かに身じろぐ。モゾモゾとゆっくり動いた後に、おしゃぶり代わりの親指を外して。ゆっくりと、ゆっくりとその目を開けた。
───それは、とても綺麗な瞳をしていた。
一切の汚れのない、光が確かに点った碧い眼。蘭々と輝いて、ちょっと眩しいような気がした。つり目気味だろうか、目尻がツンとやや上を向いている。
目を開けてから、じっ……と見つめられていた。初めて見る兄の姿を、隅々まで観察している。
……朝日はどういう反応をすればいいのか、分からなかった。笑ってもなく、泣いてもないその表情に対して、どうすればいいのか知らなかった。変に緊張してきた朝日は、とりあえず不器用な笑顔を浮かべることにした。
───無理に作った笑顔の端が、ピクピクと痙攣してしまう。どう考えても自然ではない作り笑いになってしまっている自信がある。
そんな無様な表情を見せていると、腕の中の赤ちゃんは柔らかそうなほっぺを持ち上げた。
───それは、朝日にとってかけがえのないものになった。決して忘れることの出来ないものであり。守りたい、大切なものであり。ゆずれない何かであり、この為ならなんだってできそうな気がした。
「……たい!」
頬を精一杯持ち上げて、笑った。何でもないはずなのに、妹は笑った。兎に角楽しくてたまらないというのが、伝わってきた。
まるで、星が溢れたかのように錯覚していた。
まるで、雷に打たれたような衝撃が全身を巡った後。朝日は自然と笑顔を浮かべることができた。先程の引き攣った変顔とは違う、幸福な感情から出る表情を。
「……お兄ちゃんが守ってやるからな、彩葉」
2007年05月11日。
朝日にかけがえのない
─────────
心拍数が跳ね上がっているのを、酒寄朝日は実感していた。本当に身体を動かしている訳でもないのに。実際に棍棒を降っている訳では無いのに。全力で脳を働かせ、感じ、"こう動け"と信号を送るその行動の起こりだけで、全身の筋肉が強ばり、伸縮する。心臓が早く脈打つ。身体中の酸素が足りなくなり、浅く息を続けながら、酒寄朝日は目前に広がる戦場で舞う。
砕き、抉り、潰す。金棒型武器による暴力で、目の前の異形達を消し飛ばしていく。
赤と白の灯篭の頭部を持つ敵。───月人と呼ばれるそれに、遠心力を加えた棍棒を振りかぶって叩きつける。
ツクヨミ内だから抵抗感は無い。棍棒は勢いを僅かに落としただけで、月人を貫いて地面へと吸い込まれた。
目前をひろがるのは、花びら。無数の桜の花弁が、流れ出す血の代わりとして空を舞う。キャラクターが、その体力。HPを全損した演出だった。
───そんなことを、酒寄朝日……。もとい、"帝アキラ"は既に何百回も繰り返している。
仮想空間"ツクヨミ"に突如として現れたフリーダム。超新星ライバーのかぐや。今日は、その卒業ライブだった。
超新星かぐや。その正体は、ゲーミング電柱から生まれた、地球外からの来訪者。お月様の、お姫様。つまりは、宇宙人。
改めて言われてみると、納得できるものだった。
ツクヨミ内と遜色が無い、煌めく黄金色の髪と、整いすぎた容姿。ちょっとした事でも、まるで"人生で初めて経験した"時のような反応。偶に漏れる、人間の視点を人間以外が覗き込んだ時のような発言。
合致する部分があまりにもあった。思わず、「わかるっ!」と頷いて唸ってしまったくらいだった。
そんな月のプリンセスかぐやは、満月の日に帰ってしまうという。
SNSで発表された、卒業ライブの日。満月の日と重なる、2030年9月12日に、月に登ってしまい、別れることになるという。
「何ができるか分からないけど、お願いします」
ライブの数週間前に集められた帝達に、彩葉はそう頭を下げた。覚悟の決まった表情に、紡いだ言葉の節々から覗く彩葉の本音。そして、このエンディングを覆したいという決意。
初めて彩葉を抱っこした時と同じくらいの電撃が、帝アキラを貫いた。赤ちゃんの時とはまた違う、彩葉の姿。もう失うばかりじゃいられないと、心に決めたその表情はなんとも言い難いもので。儚くて、誇らしくて、クレバーでいて、最高にかっこいい。大切なものを守りたいという想いが、十分に伝わってきている。
「任せとけって。ここなら俺達が1番つえーし。力づくで叩き潰して、月に帰らせてやるさ」
その発言を現実にするべく、帝アキラは奔走する。
剣を棍棒から抜き、居合の要領で灯篭型の月人を両断し、神話に出てきそうな霊獣型の月人を銃弾で一掃する。
群れている月人達の中に、他とは一線を駕す月人が居る。金剛力士像の様なその姿。見せる表情が変わらないその顔面からは何の感情も感じられないが、帝達の人周り以上大きい体躯から並々ならない威圧感を感じる。あの脅威は、早急に排除しなければならない。
遠く離れた高台から、援護をしてくれている乃依。少し離れた所で、タンクとして前を張ってる雷に目線をやる。Black onyXとして、プロチームとして。帝アキラ達には積み上げてきた物がある。視線のひとつで、次の作戦を決めるのは、簡単な事だ。
目前に広がる小型の月人を銃弾をばら撒く事で牽制、前線が数秒停滞する。
……直後、遥か後方から飛来する何かがあった。
空気を切り裂く高い風切り音。一緒の内に、目の前に鈍い音を立てて鳴る衝撃音。散らばる花弁。乃依の放った矢だった。
無数に振る弓矢の雨。氷を纏ったそれは、灯篭型月人の群れを貫いていき、広がる月人がみるみるうちに消滅していく。視界に見える限り、端から順に花びらが舞っていく。
中を漂う花弁を咲割くように帝アキラは飛び出した。体を低く落とし、月人へと迫る。銃砲に剣を仕舞い、棍棒に戻しながら最高速度で駆け抜ける。
こちらの接近に気づいた金剛型月人が、手元の芭蕉扇を振りかぶった。左脚を1歩踏み出し、突っ込んでくる帝アキラに合わせるように振り下ろす──事は無かった。
金剛型の足元が光彩を放った。魔法陣のようなそれは黄金色に輝き、光が溢れてくる。雷の放ったトラップだ。
直後、金剛型の足元が爆発した。ダメージは控え目に、衝撃を与えるという志向性に偏重している事、体重移動の隙を狙った一撃は、幾ら巨大な月人とはいえバランスを崩す。
───いいサポートだ。乃依、雷。
棍棒を下に構える。維持した速度を1歩の踏み込みで抑える、両足から腕へ、棍棒に運動エネルギーを伝える。
「……オラァ!」
下から振り抜き、剛力一閃。反転する様に与えた一撃は、金剛型月人のHPをゼロにした。
振り抜くと同時に、帝アキラはその場を離脱した。敵から目を離さず、後ろに大きく跳躍する。金剛型月人を倒し、安堵している暇もなく月人は孤立した帝アキラをとり囲もうとしていた。
一撃で撃破できる灯篭型ならまだしも、複数体の金剛型に囲まれるのはまずかった。後方で戦う彩葉と、その親友──芦花と真美が合わせて金剛型と相対している。少し苦戦気味のようだ。
芦花と真美の実力は未知数だが、彩葉が居て苦戦するのは一考すべきことである。調子が最高の時にはプロゲーマーに届きうるエイムをしている彩葉が居ても苦戦を強いられている事実。そんな相手である金剛型月人に複数戦をするのは非常に危険だった。
ならば、1体1をひたすら繰り返す。幸い、帝アキラとしては金剛型は大したことない。
自身が持つ圧倒的なエイム力で金剛型を数秒で撃破し……即離脱。棍棒での振り回しや、銃弾をばら撒き灯篭型を蹴散らしながら、常に移動する。
1箇所に留まらないよう動き続ける。だが偶に遮蔽を使い、月人を盾にしたりして動きを止める。静と動で相手に行動を予測させないようにする。
足を動かし続けながらも、帝アキラは思考する。常に考え続ける。不利にならない立ち回り、全体の動きとその予測。乃依と雷のサポートが最大限活かせる位置関係。月人攻撃方法とパターン、動作スピード。一撃で撃破できる弱点。
全て、全て、全て最善を尽くしている筈だった。今、この瞬間の帝アキラは、間違いなくツクヨミで1番最強の筈だった。
けど、けれど。一つだけ、圧倒的に足りないものがあった。
───絶望的な程の、物量差。
少し息をつく為高台へと登った時、帝アキラはその圧倒的な差を実感した。
視界の端から端までを覆う、大小揃った月人の群れ。真正面には巨大な菩薩の象のような月人が居る。菩薩型月人は、掌にある何かに一息吹きかける。すると掌から霞のようなものが飛び散り、それが月人となり、一目散にこちらへ侵攻してくる。幾ら残機設定があるとはいえ、無限湧きのような光景に、帝アキラは無意識に歯軋りをする。拳に、両足が力んでいく。射殺すように、その暗澹たる光景を睨む。
そんな休息は1分にも満たなかった。先程まで派手に暴れていた帝アキラ、まるで彼を要注意人物だと言うかのように月人が取り囲んでくる。
ひとまずここを蹴散らして、また移動しながら考えるしかない。そう思い、棍棒から拳銃を引き抜いた……その瞬間。視界の端、微かに映る、見覚えある姿があった。
……彩葉だ。金剛型よりもさらに大きな巨体。筋骨隆々な上半身、手に持つのは2本の赫い錫杖。下半身が龍の体を持つ、月人と、彩葉とが対峙している。
二度、三度と彩葉と月人が打ち合う。手数は同じだとしても、月人は彩葉の二回り以上大きい。最初こそ上手く受け流していた彩葉だったが、次第に力に押され、体制が崩れ、大きく後ろに吹き飛ばされる。体勢を崩し、地面に座り込む彩葉。そんな彼女に、迫り来る月人。絶対絶命なのは一目瞭然であった。
そんな様子を、呑気に見ていられる帝アキラではない。
───彩葉ッ!!
全速力で彩葉の元へ飛び出す。致命傷のみ避けて、月人の合間を縫うように駆け込む。
ちょうど、大型瑞獣月人の取った攻撃が大振りなのも幸を奏した。赫い錫杖二振りによる、大きく飛び上がっての振り下ろし。何とか間に合わせた帝アキラは、全て受け止め切るつもりで月人の下へと潜り込み、刀を構え防御の体制を取る。
直後、地面が抉れる程の衝撃が帝アキラを襲った。
触覚はツクヨミには無いのに。実際に鈍く、重撃が身体中を駆け抜けた気がした。
受け止めた瞬間に、衝撃波が周囲に広がる。膝を着くこともなく守ったにも関わらず、体力が半分以上削れていった。
伝播してしまった衝撃波に、彩葉が巻き込まれる。受け止めきれず、吹き飛ばされ、地面を転がり離れていく。
「彩葉ッ! ……クソッ!」
体重を乗せた上からの抑え込みに、帝アキラは動けずにいた。少しでもズラしてしまえば、潰されそうな重圧感のみが伝わってくる。
「お兄ちゃん!」
彩葉から、警告のような一声。その直後、左方から月の光のような輝きが溢れてくる。
視線のみで確認すると、それは金剛型月人からの遠距離高威力の一手だった。極大のビームの様なものを放つべく、胸元で手を構えエネルギーを溜めている。確実に、帝アキラを始末できる形であった。……あくまで、通常の"KASSEN"においては。
「……雷、乃依。使うぞ」
その一言の意味は、帝アキラから放たれるエネルギーによって判明した。
赤く、禍々しい揺らぎを帝アキラは纏う。普通のツクヨミで見ることができてはいけない様子だった。迸る赤いオーラと、顔に浮かぶ幾何学模様の印。明らかに様子が変わった。
纏う雰囲気に戸惑い、彩葉は固唾を飲んで見守る。
「──ッ!!」
刹那の内に、帝アキラは月人を斬り飛ばしていた。赤く、禍々しくも、綺麗な軌跡をその刀で描いていた。
片手で刀を振り抜き、瑞獣型の月人を消し飛ばし直ぐさま刀を反転。両手で握り直し、金剛型月人へ1歩、一呼吸で辿り着く。まるで縮地の様に一瞬で現れた帝アキラは、月人を袈裟斬り。一刀のもとに切り伏せた。
これは、予めBlack onyX内で決めていた事だった。
今日、この日、かぐやの卒業ライブの日。月へと帰ってしまう日に、このチートシステムを使う事。この力を持って、彩葉達を守ること。
もし、素の力で抑え切れれば良し。というか、これでもプロチームとしての自負があるのだ、普通に最大限暴れて、どうにかなって欲しかった。
だが、現実はそうもいかず。個々は勝てたとしても、圧倒的物量の差で追い込まれている。
3つあったはずの残機は、帝アキラ、乃依、雷、彩葉は2つ。真美と芦花に至ってはもう1つしかない。このような状況に陥ってしまった時。逆転の一手になる様に、3人で決めていた事だった。
──本当、頼りになる。
有無を言わずに、
乃依の弓矢が天空を覆い尽くす。月人に突き刺さった瞬間、大きな氷塊となって、更に多くの月人を巻き込み落としていく。
雷の術が大地を塗り潰す。見渡す限りの地が隆起して、月人達に大穴を開けていく。
帝アキラが、一筋の流星となって月人の間を駆け抜ける。圧倒的な力と速度でもって、目に映る全てを切り伏せて行く。
圧倒的だった。けれど、刹那的な逆転劇だった。
確かに、3人の見せた限界を超えた力は強力だった。一息の間に数十の月人を斬り、貫き、凍らせている。
けれど、相手は宇宙人である。湯水のように現れてくる大軍にとって、数十なんて単位は些細なものである。
チートを使ったとしても、まだまだ足りなかった。
数の力で圧倒する月人に対し、段々と不利になっていくだけだった。
結局のところ、チートの力を使うにもコンマ数秒のラグはどう来ても発生してしまう。
視認した情報を脳で理解し、次の行動の指令が身体に伝わり。コントローラーを入力きて、それがツクヨミに反映されるまでの時間。その時間迄は、いくらチートがあったとしても覆すことはできない。
たった数秒、されど数秒。小数点以下の差で、Black onyXは押され始める。
60フレームの間に、懐に潜り込まれた灯篭型から小さな一撃を貰う。一瞬気取られた時に、金剛型から遠距離の射撃を放たれる。
30フレームで、大型瑞獣の接近を許す。15フレームの隙に、遠近同時に仕掛けられ撤退を余儀なくされる。
6フレーム、人間が反応できないとされる、限界速度。幾らチートを使っていたとしても、攻撃する前に倒し切ってしまえば問題ないと。そう言わんばかりに一気に圧をかけてくる。
反応しきれなくなった乃依と、雷の残機が尽きる。花弁となって、空に舞っていく。ここまで戦ってくれた、限界以上を出してくれた二人が呆気なく消えていく。
残された帝アキラに、月人達が群がるように迫る。チートの力と、プロゲーマーとしての技術を全力で発揮しても、それでも届かない。
ちょうど周囲の月人を一掃仕切った直後。見計らったようにツクヨミのアンチ・チートシステムが起動した。赤いウィンドウがけたましい音と共に現れ、チートが強制解除される。
脳で処理できる限界が近かったのだろうか。自覚した頭痛に顔を歪ませながら、帝アキラはかぐやのステージの方を見た。
──目に入ったのは、十二単衣を着たかぐやと、相対する菩薩型の月人。そして月人に囲まれ、武器を落として絶望する彩葉だった。
菩薩型が、かぐやに近づく。全てを悟ったように、何も抵抗しないかぐやに彩葉が手を伸ばす。
「まって、待ってよ。まだ、やりたいこと沢山あるのに。まだ、一緒に……!」
手を出し、1歩踏み出すも、遠い。物理的な距離以上に、かぐやと彩葉の道なりは遠い。
かぐやが全てを悟った表情を見せる。敗着を受け入れる笑顔を見せる。人はみんな自由なのに、1番我慢しているのがかぐやだなんて。彩葉は耐えることができなかった。
崩れ落ちていく彩葉の身体。膝から力が抜けていく彩葉。ライブ前の彩葉からは、想像できない程に弱々しく、絶望的で、小さくて。
こんな展開は許せなくて、こんな状況になってしまった自分が情けなくて。彩葉を助けることができない自分が不甲斐なくて。もっと、もっと力があったら。こんなエンディングを覆すことができる力があったなら。
……このツクヨミに生きる管理AIライバー、月見ヤチヨのように自由自在に動けたら───!
──身体が熱い。
先程までたかなっていた心拍が、現実の心臓の鼓動が、段々と感じられなくなっていった。手に持つコントローラーの感覚、手に汗握る感覚が次第に無くなっていく。
エアコンで冷やされていた部屋の温度も、ヘッドホンから流れる音の感覚も全て消えていった。
代わりに、ツクヨミの中に溶け込んでいくような感じがした。自分の手が、足が、頭が、全身がツクヨミに順応していく気がした。
触覚、嗅覚、視覚、ツクヨミには存在しないそれらが、実際に感じられ るような気がした。
通る風が、顔にあたる感覚。鼻を突く戦闘の後の、埃っぽい空気の匂い。観客達の歓声による音圧。服が風に靡く感覚がする。風にはためく衣服の音が妙にリアルに感じる。その全てが、五感が。ツクヨミにおける帝アキラを形成していく。
手に持つ刀に重さを感じる。このツクヨミが始まってずっと握ってきたこの武器は、驚く程に手に馴染む。
刀の柄を握り直す。カチャリ、と小さく答えるように音が鳴る。脚に力を入れる。柄の装飾を掌で感じる。地面を踏みしめる感覚を感じる。
ゾーン、というものなのだろうか。このツクヨミに生きている、ひとつの生命のように、帝アキラは成っていた。
何故かは分からないが、今ならなんだってできる気がした。やれると思えば、全てが実現する気がした。
無数にいる月人達を一刀で消し飛ばす事も、彩葉の元へ辿り着く事も。……彩葉達を、助ける事も。
脚に力を入れ、1度の跳躍で彩葉の元へと跳んだ。
コントローラーを介して行われる行動ではない。脚に溜めを作り、バネのように飛び立つその動作。チートを使っている以上の、限界をとうに越えた跳躍で持って、彩葉達へと向かう。
その着地は、とても軽やかだった。
まるでテレポートでもしてきたかのような、その場所に急に現れたように。トン、と軽やかな音と共に彩葉の前へと降り立った。
「え。おにい……ちゃん……?」
突然の出来事に、呼ぶことしか出来ない彩葉。双剣を落とし、手も出せず、月人にも囲まれ、弱々しく状況を見る事しか出来なかった。
そんな状況が、帝アキラは我慢出来なかった。
「……おい」
──うちの
その間約4フレーム。人間の反応限界を超えた一撃。彩葉には、刀を振り抜いた姿と、刀から煌めく軌跡しか分からなかった。
数拍立って、彩葉を囲んでいた月人の身体がズレる。2、3秒経ってから、斬られたことに気付いたように、その身体を花びらと共に消滅させた。
「……彩葉」
刀を1度軽く払い、棍棒の中へと収納した帝アキラを、呼ばれて改めて彩葉は見た。
その瞳は、金色に輝いていた。
特段他に、どこか変わった訳ではない。ツクヨミのアバターも同じだし、武器も同じ。彩葉を呼んだ声もいつもの
けど、金色に煌めくその双眸は明らかに異質だった。
チートとは違う、別のもの。違法ではないけれど、異様なもの。ツクヨミに居るのに、どこか現実的で。どこか、ありのままのようで。
何となく、ヤチヨのようだった。
電子の歌姫、ミステリアスAI、ツクヨミの管理者。そして、トップライバー、月見ヤチヨ。彼女は、まるでこの世界で
振る舞う。
笑ったり、泣いたり、歌ったり。ツクヨミという電子の世界らしく、コミカルでハイテンションな部分も多いが、ふとした時に見せる表情。さり気ない仕草とか、このツクヨミで本当に"生きている"という感じがする。
今、目の前での
地面を踏みしてる動作、武器を握り直す動き。風に吹かれて少しだけ目を細める仕草。
少しの様子が、表情が。このツクヨミにおいて、本当に"生きている"ようだった。
「……彩葉」
もう一度、名前を呼ばれる。作られたキャラクターなんかではなく。酒寄彩葉の兄として、目前に立っている。
一切濁らないその瞳に、彩葉は貫かれる。
何かを待っているようで、合図を待っているようで。ひとつ口に出した途端、この状況を変えてくれそうで。……私の事を、助けてくれそうで。
階段の上、遥か彼方に思える頂上で、かぐやが菩薩型の月人となにか話している。
屈託無い笑顔、まるで友人を迎えるような笑顔。嬉しそうだけど、全てを悟った、受け入れてしまったような表情。
私はそれが嫌で、かぐやとまだまだ一緒に居たくて。かぐやと一緒に生きていきたいって。
そんな、そんな顔、私……。
涙を零していた。隣にいるかぐやの温度が、遠くに居る気がした。なにか話しているかぐやが遠くなって、手が届かなくなって……。
目の前の
私と母がぶつかってしまった時に。さりげなく、だけど毎回必ず助けてくれたお兄ちゃん。その姿が、被る。
たった一言、彩葉から言葉が溢れ出す……。
「……助けて……!」
──応ッ!
ジェット機の様に、帝アキラは飛び出した。
KASSENのジャンプ台とか、空中移動の比にならない。100段はありそうな階段を、脚の踏み込み一つで飛び越える。
その勢いのまま、帝アキラは地を蹴った。数メートルは離れていた菩薩型へ肉薄する。
菩薩型の月人がこちらに気づいた。
他の月人よりも、動作が緩やかだった。他の瑞獣型、金剛型の月人と比べると、移動がしにくい様な姿。衣を纏ったその荷重がある格好で、急襲してきた帝アキラを攻撃する術は無いようだ。
──金剛一閃。
腕を前に突き出し、なにやら防壁のようなものを展開する。半透明で、少し青みがかった硝子のようなもの。帝アキラは、棍棒を横薙ぎに全力で叩きつけた。
金剛のように硬い手応えが、帝アキラを襲った。甲高い音を響かせながら、菩薩型の障壁と棍棒とが、振り抜き途中で衝突、周囲に風圧が拡がる。
だが……。拮抗は、一瞬だけだった。
障壁は、棍棒がある所を中心にして網状に線が入りながら罅割れた。
割れた瞬間に、帝アキラは棍棒を握り直す。脚を1歩踏み出し、床を足裏で握るように固定し、腰を回し、脱力し、インパクト。この時約4フレーム。人間の限界なんて、とうに超えていた。
菩薩型に棍棒が吸い込まれる。障壁を出すのに前に突き出していた両腕を巻き込み、歪に折り曲げながらその胴体へと叩き込む。
胴がくの字に曲がる。目を見開くこともなく、息を吐き出すこともなく、表情を苦悶に染めることも無い。痛みを感じることもなく、こちらを開くこともなく、呻吟することもなかった。
振り抜かれた勢いに殺しきれず、菩薩型の足が宙に浮く。
たった一人の人間による、限界を超えたその一撃は、神の如き存在を一手で吹き飛ばした。
「……チッ、やれなかったか。今ならなんだか、行ける気がしたんだけどな」
それだけ言って、帝アキラはかぐやに向き直った。
眼前で起きた、刹那の出来事。未だかぐやは唖然としたままだ。何かを話そうとするが、パクパクと口を動かすだけである。
「さて。かぐやちゃん」
帝アキラは、かぐやへと近づく。月人なんかどうとでもできるように、ゆっくりと、ゆっくりと歩み寄る。
かぐやは、ただ異質なその両目を吸い込まれるように見た。いつか見た姿と同じなのに、違っていた。
感じたことは無いけれど、そこに確かに緊張感があった。ジリジリする重圧感があった。話しにくくなるような凄みがあった。
それに、帝アキラは、自由だと思った。望まない事なんて、全部塗り替えちゃうような。いとも簡単に、全てをひっくり返しちゃうような。テンプレなんてへし折ってしまうような、そんな感覚。
手を伸ばしたら触れられる距離。そこまで近づいて、帝アキラは言う。
「俺は、彩葉を守りたい。彩葉が好きな日々を、景色を、一瞬を守りたい。彩葉の笑顔を守りたい。……かぐやちゃんと一緒に笑う、彩葉を守りたい」
息を飲む。何にも穢されず、純粋なその想いは、かぐやの胸をただひたすらに打つ。
「自分勝手なのは分かってる。誰かから見たら、望まれない結末かもしれない。それでも、俺は彩葉を、かぐやちゃんを守りたい。この想いは、間違いなんかじゃないって思うしな」
自由だった。終わっていくこととか、帰らなければいけないこととか。それもまた運命と、受け入れたかぐやにとって異なる輝きだった。
「それに、かぐやちゃんと彩葉。結婚するんだろ?
ふっと、雰囲気が変わる。重圧は消え、軽くなる。
けれど、確かに、帝アキラからは闘志は消えていない。菩薩型を含めた全ての月人へとすぐに飛びかかれるようだった。
思考が回る。帝アキラが発言した言葉を、次第に飲み込んでいく。
それはとても魅力的で。確かに、私が言ったことで。大好きな彩葉への想いで。いつまでも、一緒に居たいなと願ったことで。あの日、あの時、あの瞬間、全てが始まった時。彩葉を見て、見蕩れて、撃ち抜かれて、笑いあっていたくて……。
「……私、まだ彩葉と一緒に笑って、ご飯作って、配信して、ライブで歌って……。やりたいこと、沢山あって……!」
──私、彩葉とまだまだ一緒に居たい!
そんな言葉が、自然と漏れ出していた。
その言葉を聞いて、帝アキラは一瞬だけ笑みを浮かべた。二人の想いが、願いが。帝アキラの源力になる。棍棒を肩に担ぎ、ステージから群がる月人達と同じ地に降り立った。
とんでもない月人の量だった。6人で相手をしていた量を遥かに超えていた。本気でこちらを潰しに来ていた。唯一の危険分子と判断されたのか、圧倒的な物量をもって処理をしてきている。
けれど、不思議と。何とかなってしまう気がした。この絶望的な状況を脱して、彩葉とかぐやを助けることができる気がした。
迫る月人を睨む。棍棒を握る手に力が入る。身体中から力が溢れてくる。
「……退けよ、俺は二人の
最後の抵抗が始まる。
お兄ちゃん(お義兄ちゃん)でした。