愛読者、ルーデウスに憑依する 〜無職転生の夢を見る〜 作:N au
その居酒屋は、換気扇が油を吸いきれていない店だった。
テーブルの端はべたつくし、通路は狭いし、注文はなかなか通らない。それでも安くて、会社から近い。金曜の俺たちには、それで十分だった。
「なあ、今回のリリース、お前よくやったよ」
「課長、それさっきも聞きました」
「いいんだよ。いいことは二回言うんだ。ほら、次いくぞ次」
空いたジョッキが二つ、伝票の上で汗をかいている。壁のメニューの短冊が、扇風機の風でかたかたと鳴っていた。
店員を呼んで、次の一杯を頼んだ。
そこから先の記憶が、俺にはない。
*
まぶたの裏が、明るい。
目を開けると、世界は白く濁っていた。光の中に大きな影がいくつか揺れていて、誰かの声がする。水の中で聞くみたいに、輪郭のぼやけた声だ。
身体の点検をした。指は、動く。腕は、持ち上がらない。首は、据わらない。なら喉は――
「あぅ」
……なんだ、今の音は。
もう一度試した。「あー」。駄目だ。母音しか出ない。舌が、唇が、言葉の形を知らない。
把握が追いつくより先に、胸の奥から熱いものがせり上がった。怖い、と自覚した時にはもう、俺は泣いていた。喉が勝手に震え、涙が勝手に溢れる。二十三年かけて組み上げてきた「大人」が、何ひとつ仕事をしてくれない。
その時、視界いっぱいに影が差した。
布の擦れる音がして、ふわりと身体が浮き、温かいものに包まれる。耳のすぐそばで、とく、とく、と一定の律動が聞こえた。心臓の音だと気づいた途端、あれほど暴れていた俺の喉が、すとんと静かになった。
理屈じゃなかった。身体が先に安心してしまったのだ。
大人の矜持もへったくれもない。俺はその胸の中で、恥も外聞もなく眠った。
*
白濁した視界のまま、どれだけ過ごしただろう。ある朝、目覚めると、世界のピントが合っていた。
天井の木目が見える。梁の節が見える。首を巡らせると、寝床の柵の向こうから、女の人がこちらを覗き込んで微笑んだ。
その顔を見た瞬間、俺の思考は止まった。
金色の髪。若くて、綺麗で、どこか抜けていそうな柔らかい笑み。知っている。この顔を、俺は知っている。挿絵で、コミカライズで、アニメで、それこそ数え切れないほど見てきた顔だ。
『……ゼニスだ。ゼニス・グレイラットだ』
まさか、と思う間もなく、部屋の入口から声がした。朝の稽古あがりらしく、首に布を掛けて汗を拭いながら入ってくる、茶色い髪の偉丈夫。その顔も知っている。知らないわけがない。若き日の、三流派を修めた天才剣士。
「お、起きたかルディ! 今日も元気だなあ、お前は」
ゼニスと、パウロ。『無職転生』の、グレイラット夫妻。
そして「ルディ」と呼ばれる、この寝床の赤ん坊は――ルーデウス。
俺の頭は、音を立てて処理落ちした。言いたいことと聞きたいことが喉の手前で大渋滞を起こし、出てきたのは「あぶ」の一言だった。父は「おう、いい返事だ」と満足げに笑った。よくない。全然、いい返事ではない。
*
その夜、寝床の中で、俺は状況整理の会議を開いた。出席者は俺一人。議題は「なぜ俺は愛読書の中にいるのか」。
第一の事実。俺には、死んだ記憶がない。轢かれた覚えも、倒れた覚えもない。最後の記憶は居酒屋のテーブルで、注文した一杯は、まだ届いてすらいなかった。
第二の事実。酔い潰れて寝た人間は、夢を見る。昔からの相場である。
第三の事実。俺は『無職転生』を、夢に出てもおかしくないほど読み込んでいる。登場人物の顔が一目で分かる程度には、間違いなく。
三つを並べれば、結論はひとりでに立ち上がる。
これは夢だ。
居酒屋の座敷あたりで潰れている二十三歳が見ている、出来のいい長い夢。証明終わり。反論は却下する。この法廷の裁判官は俺だ。
結論が出ると、身体から力が抜けた。
夢なら、何も怖くない。納期もなければ、月曜も来ない。醒めるまでのあいだ、遠慮なく楽しませてもらおう。
*
これは夢だ。そう決めてからの日々は、答え合わせの連続だった。
ハイハイを覚えて行動範囲が広がるたび、丸をつけていく。木の柱、木の床、夜ごと壁に影を躍らせるロウソクとカンテラ。どの壁にもスイッチはない。這って探し回った俺が言うのだから間違いない。白いエプロンで足音もなく働く、リーリャさん。そして窓の外には、地平線まで続く麦畑。風が渡ると、金色の穂が波になって畑の端から端まで走っていく。
フィットア領の、ブエナ村。物語が始まる場所。どこを見ても、読んで知っている光景ばかりだった。採点は毎日、満点である。
その結論に最初のひびが入りかけた日のことも、正直に書いておく。
一歳を過ぎた、ある昼下がりだ。俺は窓辺の椅子に挑んでいた。座面に手を掛け、足を掛け、腹を乗せ、芋虫のように這い上がる。何日も掛けて習得した、俺の登攀技術の粋である。椅子の上に立てば、庭が見えるのだ。
その日、庭では父が剣を振っていた。
玩具ではない。日の光を受けて刃が白くきらめく、本物の剣だ。振り抜くたび、ぶん、と唸りが窓越しに届く。上体はぶれず、足は根が生えたように動かない。挿絵の百倍、実物は迫力があった。
見とれた。それがいけなかった。
幼児の平衡感覚は、よそ見をしながら立てるほど上等にできていない。掴んだはずの背もたれが指から抜け、天井が回り、後頭部に固い衝撃が来た。
痛かった。
夢のくせに、目の奥が白むほど痛かった。
悲鳴が聞こえた。俺のではない。駆けてくる足音、抱き起こされる感触。血の気の引いた母の顔が、額のつく距離まで迫る。母は震える唇のまま、俺の後頭部にそっと手のひらを添えて――歌うような調子の文句を、唱えた。
何百回も文字で読んだ、あの治癒の詠唱を。生で。
手のひらが淡く光り、頭の芯で鳴っていた痛みの鐘が、嘘のように止んでいく。
『すげえ……本物だ、本物のヒーリングだ……』
感動が、九割。
残りの一割の隅っこで、小さな声がした。……夢というのは、こんなに痛いものだったか?
――出来のいい夢だからだ。痛みまで丁寧に作り込んである。俺の夢は、仕事が細かい。
そういうことにして、俺は母の胸に頬を埋めた。柔らかい髪から、日なたの匂いがした。
*
一歳を過ぎた頃の我が家は、こんな具合だ。
父は、原作の文字で知るよりずっと騒がしい人だった。夜明けと共に庭で剣を振り、日が落ちれば杯を傾ける。その合間、台所に立つ母の後ろ姿を眺める目つきだけは、剣を振る時より真剣だった。
「いいかルディ。強い男ってのはな――」
「あら、あなた。ルディに何を教えているの?」
「……剣の、心構えの話だ」
「そう。じゃあ続きは、私も一緒に聞こうかしら」
母がにっこり笑って隣に座り、父の講義はそこで打ち切りになる。何度見ても、この勝負の結果は動かない。お手伝いのリーリャさんは、その間も足音ひとつ立てずに部屋を横切っていく。俺のよだれかけは、濡れたと思う頃にはもう新品に替わっている。手品じみた仕事ぶりだった。
そして夜には、読み聞かせの時間がある。
夕食のあと、上機嫌の父が俺を膝に抱え、居間の棚から本を取ってくる。棚は大人の腰ほどの高さで、並んでいる本は全部で五冊。それがこの家の蔵書のすべてだ。父が選ぶのは決まって、三人の剣士が迷宮に挑む冒険活劇だった。
「そんでここだ、ルディ。三人目の剣士が、遅れて駆けつける。な? しびれるだろ」
筋を隅々まで知っている俺と、台詞まで暗記している父との、世界一贅沢な読書会である。楽しかった。本当に、楽しかったのだ。
ただ――時々、膝の上で、すっと体温が引く瞬間がある。
この膝は、本当は、俺の席ではない。
原作でこの身体に宿るはずだった魂は、三十四年分の後悔を背負ったあの人だ。この温かい家も、この読み聞かせの夜も、あの人がやり直すために用意された筋書きなのだ。それを今、ふらりと迷い込んだだけの俺が、最前列の特等席で味わっている。
招待状を持たずに入り込んだのは、俺のほうではないのか。
――よせ。夢の配役に文句をつける観客がいるものか。俺の夢なのだから、主演は俺でいい。理屈は通っている。
通っている、はずなのだ。
胸の底で何かが軋んだ気がしたが、俺は父の低い声に耳を戻した。
*
読み聞かせの夜を重ねるうち、俺の視線は、棚のある一冊に向かうようになった。
父が一度も手に取らない本。五冊の中でいちばん分厚く、背表紙の水色は日に灼けて白っぽく褪せている。
あれが何の本か、俺は知っている。
魔術の教科書。原作のすべてが、あの一冊から始まった。
気づけば、鼓動が速い。指の先がじんわりと熱い。まだまともに歩けもしない身体が、棚までの距離を勝手に目測している。
だって、そうだろう。ここが俺の夢で、俺が読み込んだ『無職転生』の夢なら。
『魔法、使えるんじゃねえのか? 俺にも』
ページをめくる自分を思い浮かべただけで、口の端が上がっていく。
ああ、これは夢だ。
だから、頼む。
もう少しだけ――醒めてくれるな。