愛読者、ルーデウスに憑依する 〜無職転生の夢を見る〜   作:N au

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第2話

 

歩けるようになって、俺が真っ先にやったのは、居間の棚の攻略だった。

大人の腰ほどの高さの棚。よちよち歩きでも、背伸びをすれば下の段に指が掛かる。狙いは言うまでもなく、あの分厚い水色の一冊――のはずだったが、引き出した瞬間、俺はその重みごと尻餅をついた。幼児の腕に、辞書ほどもある本は凶器である。両腕で抱え、壁にもたれ、ようやく膝の上に開く。

 

勝利の余韻は、三秒で終わった。

読めないのだ。

開いたページには、模様にしか見えない文字がびっしりと並んでいた。考えてみれば当然だった。耳で覚えつつある言葉と、目で読む文字は、まったく別の技能である。

愕然とする俺の横から、白い手が伸びて、本をひょいと取り上げた。

 

「あらあら。ルディ、それはまだ早いわよ」

 

母は笑って教本を棚に戻し、代わりに剣士の冒険活劇を持たせてくれた。

その日から、夜の読み聞かせは、俺にとって攻略資料の時間に変わった。

父の指が文字列をなぞる。耳で知っている単語と突き合わせ、頭の中の対応表を埋めていく。棚の五冊は、筋ならとっくに顔なじみだ。答えを知っている文章ほど、解読の教材に向くものはない。

 

「――で、だ。ここで三人目の剣士が来る」

 

「とうさま、きのうも、そこよんだ」

 

「いいんだよ。いい場面は何度読んでもいいんだ」

 

覚えたての単語は、つい口からこぼれる。俺は昔から独り言が多いのだ。

 

「……へんきょう、って、なあに」

 

「あら、ルディ。辺境っていうのはね――」

 

独り言を拾ったゼニスが、洗い物の手を止めて教えてくれる。そういうことが積み重なって、両親の中の俺は「教えてもいないのに字を読む子」になっていった。

 

なっていくのを、俺は知っていて放置した。

 

この評判が、後で効いてくることを知っているからだ。

 

 *

 

文字を覚えてしまえば、教本を開くこと自体は、隠すまでもなくなった。字の読める子が図鑑を眺めている――そういう絵で通る。母も、破かれる心配がなくなった頃には、笑って見ているだけになった。

ただし、練習だけは別だ。家族の目のない時間にしか、やらない。

原作の彼は、この世界での魔術の立ち位置が分からなくて隠した。魔女狩りみたいな文化があったら困る、という慎重さだ。

俺の理由は違う。立ち位置なら知っている。この世界で魔術は立派な実学で、隠す必要なんて欠片もない。

それでも隠すのは――この先の筋書きを、俺が知っているからだ。

こっそり練習して、力を伸ばして、ある日ド派手にバレる。バレた先で、家庭教師を雇う話が持ち上がる。そして。

 

『この線路の先に、あの人が来る』

 

水色の髪の、俺の最推しが。

だから線路は曲げない。夢なら遠慮はいらないと言っておきながら、筋書きだけは後生大事に守る。我ながら理屈が捻れている自覚はある。あるが、推しに会えるルートを潰す馬鹿がどこにいる。いない。証明終わり。

 

 *

 

初めての詠唱は、昼下がりの自室で試した。

結果がどうなるかは、読んで知っている。一発目は成功する。成功して、飛ばずに、その場に落ちる。知識の上では、そこまで込みの既定路線だった。

 

教本を床に開き、右手を突き出して、覚えたての詠唱をたどたどしく読み上げる。

腹の底で、温い水が傾いた。

熱が腕を通り、掌の先で空気が締まって、こぶし大の水弾がぽんと生まれた。

 

一秒。ばしゃり。落ちた。

 

知っていた。ここまで全部、筋書き通りだ。

なのに、袖が濡れている。

指先から手首へ、水滴がひとすじ伝う。冷たくて、重い。この温度のことは、どのページにも書いていなかった。

 

『――俺の出した水に、温度がある』

 

思い出したのは、椅子から転げ落ちた日のことだ。夢のくせに、目の奥が白むほど痛かった、あの午後。あれと、これは同じ側の話だ。この夢は時々、妙に手触りを持ちすぎる。

 

――考えるな。痛みも水も、俺の夢の仕事が細かいというだけの話だ。誇っていい。筋は通っている。

 

通っている、はずだ。

 

濡れた袖を握り込んで、俺は次の課題に移った。

 

無詠唱である。

 

原作のあの人は、これを偶然見つけた。俺は存在もやり方も知っている。感覚の再現。詠唱が自動でやってくれる工程を、自分の手でなぞるだけ。知識にすれば、たった二行で書ける。

 

身体は、二週間かかった。

知っているのと、できるのとは、別の話だった。腹の底の水を、詠唱の時と同じ道筋で、同じ速さで流す。言葉にすればそれだけのことに、幼児の身体はまるで応えてくれない。何十回も水をこぼし、何十回も床を拭き、気づけば俺は雑巾がけの達人になっていた。

 

十五日目の夕方、詠唱なしの水弾がぽんと生まれた時は、声を殺して床を三周転がった。

 

 *

 

次の壁は、「飛ばす」だった。

水弾は生まれる。生まれて、落ちる。飛んでいかない。

原作のあの人は、ここで二ヶ月悩んだ。詠唱というのは、生成、大きさ、射出の速さ、発動という順の工程でできていて、大きさと速さは術者が魔力を注ぎ足して決める――その仕組みに、独力でたどり着いた。

 

俺は答えを最初から知っている。攻略本の答えを見ながら解く受験生だ。楽勝のはずだった。

楽勝では、なかった。

工程を知っていることと、注ぎ足す魔力の量と拍を身体が覚えていることは、また別の話だったのだ。大きさの調整で注ぎすぎて、頭より大きな水弾を床に落とすこと三回。速さの調整で気が急いて、大きさの工程を丸ごと飛ばすこと十数回。床を拭く俺の雑巾さばきだけが、着実に円熟していった。

それでも、答えを知っている強みはある。迷わない。疑わない。工程は正しいと確信したまま、身体の側だけを直せばいい。原作の二ヶ月を、俺は半月で追い抜いた。

 

水弾が初めてまっすぐ飛んだ日、俺は嬉しさのあまり、少しばかり調子に乗った。

どこまで速く飛ばせるのか、試したくなったのだ。部屋の中では無理だ。なら窓がある。窓の外には、遮るもののない空がある。

小さめの水弾が、窓枠の向こうへ、ひゅんと消えた。

畑の遥か向こうで、何かが小さく水柱を上げた。

……見なかったことにしよう。

窓をそっと閉めて振り返ると、開けた覚えのない部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていた気がした。気のせいだと思いたい。

 

 *

 

魔力切れの気絶を初体験したのは、その翌週だ。

調子に乗って連発した。視界の端が白く霞み、床が消えて、次に目を覚ました時、俺は寝床にいて、母の困り顔に覗き込まれていた。

 

「もう、ルディったら。眠くなったら、ちゃんとおトイレに行ってから寝なさいって言ってるでしょう」

 

……ん?

 

下半身に、じんわりと嫌な感触の記憶。

 

『この夢、俺の尊厳にだけ当たりが強くないか?』

 

気絶とおねしょは、セットで来る。それも読んで知っていた。知っていたからといって、恥ずかしさが軽くなるわけではなかった。二十三歳、社会人三年目、寝小便。誰にも言えない。言う相手もいないが。

 

ともあれ、収穫はあった。

魔力の器は、涸らせば広がる。教本の「魔力は生まれつきほぼ固定」という記述が実際と違うことも、原作で知っている。それでも俺は、毎日きちんと検証した。使う。涸れる。眠る。翌日、器が少し深くなっている。知識を鵜呑みにするのと、確かめてから使うのとは違う――仕事で身についた、数少ないまともな習慣だ。

検証のついでに、頭の中に記録表も作った。今日の水弾は何発、昨日より何発多い。増え方の傾きを眺めては、一人でにやにやする。数字が右肩上がりのグラフというのは、それだけで人を幸せにする。前世の職場のグラフは、大体右肩下がりの障害件数だったから、なおさらだ。

 

ちなみに、詠唱のほうはさっぱり覚えていない。

最初の一回で読み上げて以来、一度も口にしていないのだ。どうせこの先も無詠唱でやっていくと知っているのに、長ったらしい文言を丸暗記する気になれない。テストに出ない範囲は勉強しない主義である。……この横着が後で軽い恥をかく種になる予感も、しないではないが、まあ、その時はその時だ。

 

日課の代償は、食卓に出た。

 

「ルディ、最近すごく食べるわねえ。それに、お昼寝も長いし」

 

「育ち盛りってやつだろ。いいぞルディ、もっと食え。俺の子ならでかくなる」

 

母が首を傾げ、父が俺の皿に自分の肉を分けてくる。育ち盛りなのは概ね事実なので、俺は「うん」とだけ返して、ありがたく頬張った。嘘はついていない。魔力の育ち盛りだとは言っていないだけだ。

日課は静かに続いた。静かに続けている、つもりだった。

ただ――最近、リーリャさんの視線が痛い。

廊下ですれ違う時。食事の皿を置く時。あの人の目が、俺の袖のあたりで、コンマ数秒だけ止まる。険しい、というのとも少し違う。帳簿の数字が合わない時の、経理の目だ。

 

原作でも、彼女は薄々気づいていた。だから慌てはしない。慌てはしないが、あの目は心臓に悪い。

 

 

そして、その日が来た。

昼下がりの自室。窓から落ちる光の四角。床に開いた教本の、中級のページ。

魔力は増えた。初級は目をつぶってもできる。なら次へ、というのは学習の自然な流れで、それに――知っていた。この試射がどうなるか。

だから大きさは絞った。速度はゼロにした。詠唱は例によって覚えていないので、開いたページを目でなぞりながら、一句ずつ読み上げていく。原作より、ずっと慎重に構えたつもりだった。

 

筋書きは、知っていた。はずだった。

最後の一句を、読み終えた瞬間。

視界が白く弾けた。

 

轟音と、溢れる水と、木材の砕ける音がひとつに重なる。気づいた時には部屋の壁に、外の畑が見えるほどの大穴が開いていた。

穴の縁から、水滴がぽたり、ぽたりと床に落ちる。

 

……知ってたのと、違う。いや、知ってた通りなのか。知ってた通りなら――なんで俺は、防げなかったんだ。

 

廊下を駆けてくる足音が、二つ。

 

――あ。

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