愛読者、ルーデウスに憑依する 〜無職転生の夢を見る〜 作:N au
穴の開いた壁から、外の風が吹き込んでいた。
水浸しの床。散らばる木片。畑の緑がのぞく大穴の縁で、水滴がぽたぽたと拍子を刻む。呆然と座り込む俺の耳に、二つの足音が扉の前で重なった。
弾かれるように、扉が開く。
最初に飛び込んできたのは、父だった。腰の剣に手を掛けたまま、視線が部屋を薙ぎ、穴を見て、それから俺で止まる。二歩で距離を詰められ、気づけば俺は片腕に抱え上げられていた。
「ルディ! 怪我はないか! 何がいた、何に襲われた!」
違う、襲われてない、犯人は俺です――そう言おうとした言葉は、押し付けられた父の胸の音に飲まれた。心臓が、すごい速さで鳴っていた。首筋には稽古の汗が残っていて、それでも腕は、震えるほど強く俺を抱いていた。
この場面を、俺は読んだことがある。
息子の無事を確かめる父。知っている。読んだ。何度も読んだ。だが読んだ紙の上に、この心臓の速さは載っていなかった。
遅れて駆け込んできた母が、口元を押さえて立ち尽くした。壁の穴と、水浸しの床と、父に抱えられた俺。それから――床の上で濡れている、開きっぱなしの分厚い本。
母は、それを拾い上げた。
*
「ルディ」
母の声は、静かだった。膝を突き、俺と目の高さを合わせて、水を吸った教本のページをそっと開いてみせる。
「これ、声に出して、読んだの?」
誤魔化す道は、いくらでもあった気がする。だが母の目はまっすぐで、俺の口は勝手に動いた。
「……うん。ごめんなさい。かべ、こわしちゃった」
叱られる。壁に穴を開けたのだから、当然だ。俺は肩をすぼめた。
次の瞬間、視界が回った。
母が俺を抱き上げて、その場でくるりと回ったのだ。弾けるような笑い声が、穴の開いた部屋に響いた。
「やっぱり!この子は天才なのよ、私、ずっとそう思っていたんだから!」
誰にも教わっていないのに字を読んだ。本を眺めては難しい独り言を言う。ずっとそう思っていたのよ、この子は特別だって――母は頬を上気させて、俺を抱いたまま父に向き直った。
「あなた、この子には先生をつけましょう。ちゃんとした、魔術の先生を」
来た。この流れを、俺は待っていた。
「字の読める子」の評判は、この日のために放置してきた布石だ。狙い通り、寸分違わず、筋書きは進んでいる。線路の先に、あの人が来る。
なのに――計算通りに喜ぶ母の顔を見ていたら、胸の奥が、ちくりとした。
俺は母を喜ばせたのだろうか。それとも、喜ばせて「みせた」のだろうか。
考えるのをやめた。母の腕の中は、考え事には向かないほど温かかった。
*
風向きが変わったのは、父の一言からだった。
「おい、ちょっと待てゼニス。……約束を忘れたのか。男が生まれたら、剣士に育てる。そういう話だったはずだぞ」
母の足が、止まった。
「あら。でも、ルディには魔術の才能があるのよ?」
「才能なら剣にだってあるかもしれんだろうが。まだ三つだぞ、決めつけるな」
「壁に穴を開ける三歳児が、他にいると思ってるの?」
「だからそれを言うなら、剣を握らせてみてからでも遅くないって話をだな――」
始まってしまった。
この夫婦喧嘩を、俺は読んだことがある。台詞の応酬も、落としどころも、そらで言える。だから最初は、上等な舞台の最前列にいる気分だった。
だが、口論は熱を上げていく。
父は本気だった。生まれる前に交わした約束を、冗談ではなく積み上げてきた男の声だった。母も本気だった。息子の才能を眠らせてなるものかと、一歩も引かない母親の声だった。
二人とも、俺の十年後の話をしている。二十年後の話をしている。この、床を水浸しにした三歳児の人生を、本気で取り合っている。
『やめてくれ。俺なんかのことで、喧嘩しないでくれ』
読んだはずの場面が、読んだ通りに受け止められない。観客席にいたはずなのに、座席がいつの間にか舞台の上にある。俺は父と母を交互に見上げることしか、できなかった。
その時だった。
「……差し出がましいようですが」
静かな声が、白熱した居間の空気を、すっと二つに割った。
リーリャさんだった。いつの間にか部屋の入口に立ち、一礼して、続けた。
「午前中は魔術を、午後からは剣を学ばれてはいかがでしょう。ルーデウス様は、まだお小さいのですから。どちらも、これからです」
沈黙が落ちた。
父と母は顔を見合わせ、それから、ばつが悪そうに同時に咳払いをした。
「……まあ、両方やりゃあいいのか」
「……そうね。それなら、どちらの才能も伸ばせるわ」
あっさり手打ちである。俺は内心で快哉を叫んだ。ナイス采配、リーリャさん。原作通りの、完璧な名裁定だった。
当のリーリャさんは、一礼して下がる間際、壁の大穴と、俺の顔とを、順番に見た。
帳簿の数字が、ようやく合った時の目だった。
俺はそっと目を逸らした。
*
その日の午後は、一家総出の後始末になった。
父は納屋から板と金槌を持ち出して、鼻歌まじりに穴を塞ぎにかかった。とんかん、とんかん、と景気のいい音が響く。
「しっかし、派手にやったなあルディ!壁ごとぶち抜くたぁ、俺の子だ!」
「感心しないでください、あなた。……ルディ?魔術はこれから、お外でやること。お家の中は、禁止。いいわね?」
母の笑顔の圧に、俺は首がもげるほど頷いた。以後、我が家の魔術は屋外限定である。壁に開いた穴は俺の心にも開いていたので、異論は一切なかった。
床の水は、リーリャさんが黙々と拭いていた。俺も雑巾を握って参戦した。この数ヶ月、隠れ練習の水をこぼしては拭いてきた腕前は、我ながら年齢不相応だったと思う。隣で拭いていたリーリャさんの手が、一瞬だけ止まった。
「……お上手で、ございますね」
「……れんしゅう、したから」
何の、とは訊かれなかった。訊かれなくてよかった。二人分の雑巾の音だけが、しばらく部屋に響いた。
翌日から、我が家は忙しくなった。
母は手紙を書いた。宛先は、城塞都市ロアの魔術ギルドと冒険者ギルド。住み込みで魔術を教えられる者を求む、という趣旨の募集だ。教師が務まるのは上級以上の魔術師だという。
「どうせ来るのは、引退した爺さんあたりだろうよ」
父は焼いた肉を頬張りながらそう予想した。母も「経験豊かな方だといいわね」と頷いた。
違う。来るのは爺さんではない。
俺は膝の上で拳を握って、スープを見つめた。知っている。この募集に誰が応じるのか。茶色いローブで、鞄一つと杖を提げて、この麦畑の一本道を歩いてくるのが、誰なのか。
『推しが、来る。あと少しで、現実に』
その夜から、俺は眠れなくなった。
天井の木目を数えながら、初対面の第一声を考える。挨拶は完璧にしたい。しかし待て、俺の持ち服はほぼ産着の延長で、勝負服という概念がない。そもそも三歳児に勝負も何もない。分かっている。分かっているが、脳内会議は連夜、紛糾のまま散会した。
言いたいことなら、山ほどあった。
あなたの授業を受けられるのが、どれだけ幸運か知っている。あなたがこの家で、どれだけ大きな存在になるかも知っている。あなたがこの先、どこで何に泣くのかさえ――知っている。
そして、その全部が、言えない。
口にした瞬間、ただの不気味な三歳児である。俺の中の二十三年分は、この世界では全部、言えないことの側に積まれていく。夜の天井は、それを数えるには少し暗すぎた。
父は父で、浮かれていた。
「ルディ、魔術の先生が来る前に、父ちゃんと約束だ。剣も、本気でやれよ」
「うん。けんも、やりたい」
即答したら、父は一瞬固まって、それから顔中で笑った。でかい手のひらが、俺の頭をわしわしと撫でた。約束はこれで二重になった。生まれる前の夫婦の約束と、今日の、父と息子の約束と。
張り切った父は、さっそく俺に持たせる木剣を探した。探して、すぐに行き詰まった。三歳児の体格に合う木剣など、この世に存在しないのである。
「よし。なら、まずは身体づくりだ! 走れルディ! 庭三周!」
というわけで、剣の稽古は走り込みから始まった。走り出した俺の頭の中で、前世の部活の記憶が疼いた。膝を上げろ、腕を振れ、呼吸は二拍で――分かっている。全部分かっているのに、幼児の足は三歩でもつれて、俺は麦の匂いのする地面と仲良くなった。
知っているのと、できるのとは、別の話。魔術で学んだはずの教訓を、俺は土の味と一緒に噛みしめた。それでも起き上がるたび、父がやけに嬉しそうに笑うので、悪い気はしなかった。
リーリャさんは、あれから俺の袖を見なくなった。
帳簿が合ってしまえば、確かめる必要もないのだろう。代わりに時々、湯上がりの俺の髪を拭きながら、一言だけ添えるようになった。
「……ほどほどに、なさいませ」
誰よりも短くて、誰よりも効く忠告だった。
*
数週間後の、よく晴れた昼だった。
俺は窓辺にいた。もう椅子はいらない。自分の爪先で立てば、窓枠の下から外が見える。
麦畑を貫く一本道の向こうに、小さな人影があった。
歩みに合わせて、茶色いローブの裾が揺れている。肩には旅の鞄がひとつ。手には、背丈に不釣り合いな長さの杖。そして、フードの下から――水色が、こぼれていた。
心臓が、跳ねた。
指先が窓枠を掴む。呼吸を忘れた。意味は、今回ばかりは、遅れて来なかった。
『来た――本物だ』
この場面を、俺は読んだことがある。何十回も。何百回も。ページの上でなら、目をつぶってもたどれる。
けれど。
胸の、この高鳴りだけは――初めてだった。