愛読者、ルーデウスに憑依する 〜無職転生の夢を見る〜 作:N au
その日の我が家は、朝から落ち着かなかった。
母は玄関先を三度も掃き直し、父は「別に緊張なんかしてねえよ」と言いながら同じ椅子に座ったり立ったりを繰り返した。リーリャさんだけが平常運転で、お茶の支度を静かに整えていた。俺はといえば、連夜の脳内会議で練り上げた第一声を、胸の中で百回目の復唱をしていた。
昼前、扉が三回、叩かれた。控えめで、律儀な間隔のノックだった。
母が扉を開ける。逆光の中に、小さな人影が立っていた。旅塵で裾の汚れた茶色いローブ。肩の鞄。背丈に不釣り合いな長い杖。そしてフードを下ろすと、水色の髪が、三つ編みごとこぼれ出た。
「魔術ギルドの紹介で参りました。家庭教師の募集は、こちらで間違いありませんか」
両親が、そろって固まった。無理もない。来るのは引退した爺さんだと踏んでいたのだ。目の前にいるのは、どこからどう見ても少女である。
俺も、固まっていた。理由はまったく別だった。
画面の中の人が、うちの玄関に立っている。
挿絵で見た。アニメで見た。頭の中でなら千回会った。その人が、いま、旅の埃をまとって、実物の声で喋っている。
『しゃべった……動いてる……生きてる……』
感動で頭が沸騰した結果、百回復唱した完璧な第一声は跡形もなく蒸発し、俺の口は勝手に動いた。
「……ちっちゃい」
「あなたにだけは、言われたくありません」
間髪入れずに返ってきた。ローブの少女ロキシー・ミグルディアは、むっとした顔で俺を見下ろし、それから両親に向き直って、丁寧に一礼した。
最悪の第一声である。回避しようとあれだけ準備して、結局一言一句踏み抜くのだから、俺の口は俺の敵かもしれなかった。
*
初授業は、翌日の庭で始まった。
抜けるような晴天。授業場所が屋外なのは、我が家の「魔術は外で」ルールと、先生の意向が一致した結果である。壁に穴を開けた前科者としては、頷くしかない。
ロキシー先生は、杖を手に、庭の端の切り株を的に定めた。
「まずは手本をお見せします。水系統の初級、ウォーターボール。よく見ていてくださいね」
詠唱。淀みのない発音で文言が紡がれ、杖の先に水の弾が生まれ――放たれた。
水弾は切り株を粉砕し、勢い余ってその後ろの木に直撃した。
めきり、と嫌な音を立てて、若木が傾いだ。
母が大事に育てている、庭の木だった。
「…………」
「…………」
先生は無言で駆け寄り、無言で治癒魔術を唱え、木は健気に起き上がった。治るのか、木。俺は感心したが、縁側から見ていた母の笑顔は治っていなかった。
「では、次はルディが。私がやった通りに、ゆっくりで構いませんよ」
先生に促され、俺は的に向き直った。緊張していた。推しが見ている。良いところを見せたい。感情が先に走った結果――手加減の工程が、頭から飛んだ。
俺の水弾は切り株の残骸を吹き飛ばし、起き上がったばかりの木に、再び直撃した。
「「…………」」
木は、再び傾いだ。縁側から、母の足音が近づいてきた。笑顔のままだった。怖かった。叱られたのは、教師のロキシー先生である。監督責任というやつだった。的の位置が悪かったと、平謝りする先生の三つ編みが、しゅんと垂れて見えた。
胸が、勝手に痛んだ。
推しが、俺のせいで落ち込んでいる。理屈より先に、口が動いていた。
「せんせい。きは、なおりました。ぼくは、あてかたを、まちがえました。だから、つぎは、まとのばしょと、あてかたを、ふたつなおせば、もっとよくなります」
先生が、目を丸くして俺を見た。
「……三歳の言うことですか、それが」
言ってから気づいたが、俺の慰めは要するに障害報告書の書式だった。原因が二つ判明したなら改善点も二つ、次回は良くなる。それだけの理屈だ。だが先生は、ふ、と息を漏らして、垂れていた三つ編みを背中に払った。
「……そうですね。次から的は、木のない方向に置きましょう」
教師の顔が、戻ってきた。
*
俺の無詠唱が発覚したのは、その直後だった。
「もう一度」と言われて、俺は例によって詠唱を端折り、無言で水弾を出した。テストに出ない範囲は勉強しない主義の、当然の帰結である。
先生の時間が、止まった。
「…………いま、詠唱は」
「おぼえてないので、はぶきました」
「……省いた?」
先生は俺の顔と、俺の掌とを三往復ほど見比べて、それから額を押さえた。長い沈黙のあと、指の隙間から出てきた声は、しかし、震えるほど楽しそうだった。
「詠唱を覚えていないのに発動する子は、初めて見ました。……鍛えがいが、あります。徹底的にやりますよ、ルディ」
その日から、授業は本格化した。
手本を見せ、理屈を説き、反復させ、できたら理由ごと褒める。パウロ父さんの「ビュッと来たらガッといけ」とは対極の、理路整然とした授業だった。この人の授業の評判なら、百も承知だったはずだ。
承知の上で、思う。画面の中の人の授業は、画面で読むより、百倍いい。
俺の日々は、こうして形になった。午前は先生の魔術。午後は父さんの走り込みと体づくり。夕方は、器を涸らす魔力訓練。夜は倒れるように眠る。充実、という単語を、俺は人生で初めて身体で理解した。
先生の授業は、理屈の授業だった。
「いいですか、ルディ。魔術は、対象を小さく、細かく、正確に操ろうとするほど、多くの魔力を使います。大きく大雑把に、が一番消費の少ないやり方なんですよ」
「ちいさいほうが、たかい……?」
「ええ。それから、水と土のように系統の違う魔術を同時に使うと、消費は三倍では済みません。当面は禁止です」
資源には限りがあり、精密な処理ほど高くつく。前世で散々付き合った理屈である。俺は深く、深く頷いた。この世界の魔術は、思っていたよりずっと、エンジニアリングだった。
先生は村でも、あっという間に有名になった。
休みの日には、頼まれて村の困り事を魔術で解決して回るのだ。対価は、きっちり受け取る。仕事の後の村人たちの見送りは、ちょっとした英雄のそれだった。「うちの先生はすごいんだよ」と村中に自慢して回りたい衝動を、俺は毎回、三歳児の分別でぎりぎり抑えた。
夕食の席にも、先生はすっかり馴染んだ。
意外と言えば、酒だった。父が注いだ杯を、先生は澄ました顔のまま、いい速度で空けていく。「いける口だな!」と父が沸き、「たしなむ程度です」と先生が三杯目を空け、母が黙って水差しを卓の真ん中に置いた。澄ました横顔の裏に、この俗っぽさがある。ページの上でも好きだったところだ。実物の先生は、ページの上より少しだけ、隙が多い。
ひとつだけ、決着のつかない問題が残った。呼び方である。
「ロキシーでいいですよ。先生というのも、まだ少しむず痒いです」
「では、ししょう」
「師匠はもっとやめてください」
「ししょう」
「聞いてますか」
譲れなかった。だってあなたは、俺の師匠になる人だ。この家を出たあとも、ずっと。そう知っていて、口には出せないから、俺はただ、繰り返した。ししょう。半月に及ぶ攻防の末、口に出す時は「せんせい」で妥協が成立した。心の中の呼び方までは、先生にも取り締まれない。
*
その夜のことは、書くかどうか、正直迷った。
夜中に、目が覚めた。夕方の魔力訓練で涸らしすぎて、喉が渇いたのだ。寝ぼけ眼で寝床を抜け出し、水瓶のある台所へ、廊下を歩いた。
月明かりだけの廊下の先、両親の寝室の扉の前に、小さな影がうずくまっていた。
三つ編みが、見えた。
影は扉の隙間に、じっと張り付いていた。部屋の中の気配には、気づきたくなかった。
俺は、悟った。全てを悟った。
知っていたのだ、この時期の夜に「それ」があることを。だからこそ、夜は絶対に寝ていようと固く決めていた。
『なんで俺は、水なんか飲みに来たんだ』
喉の渇きを恨んだ夜は、人生で初めてだった。
俺は音を立てずに三歩下がり、回れ右をして、寝床に戻った。喉の渇きは、朝まで我慢した。見なかった。俺は何も見なかった。この記憶は、圧縮して、暗号化して、心の奥底のフォルダに封印する。開示請求には、生涯応じない。
翌朝の食卓で、先生と目が合った。
先生は素早く目を逸らした。俺も素早く目を逸らした。互いに逸らした先で、リーリャさんが給仕をしながら、俺たち二人を順番に見た。何も言われなかった。何も言われないのが、いちばん怖いのは、今日も変わらなかった。
*
それでも、夜は来る。
寝る前のひととき、俺は自分の机代わりの木箱の上を片付けていた。教本の隣に、見慣れない紙が一枚、置かれていた。
明日の課題、と頭に書かれていた。丁寧な、几帳面な字で、詠唱の文言と練習の手順が並んでいる。文の途中に「ルディはここでいつも急ぎすぎます」と、小さな注意書きまで添えられていた。
画面の中の人だと、思っていた。
ページをめくれば会える人。目をつぶればたどれる物語の、登場人物。ずっと、そう思って読んできた。
けれど、この紙の上の字は、物語のどこにも載っていない。
この字は、世界でただ一枚、俺のためだけに書かれている。
『……宝物じゃん、こんなの』
俺はこの感情を、心の奥のいちばん大事なページに、そっと挟んで宝物の完成を待ち望んだ。