あの絶望のホームルームから翌日
流石に危機感を覚えたのか、Dクラスの生徒達は一部を除いて、見違えるほど真面目に授業を受けるようになっていた。
だが、一度失ったポイントが戻ってくるわけでもない。教室のあちこちでは「頼む、少しポイント貸してくれよ!」「ねぇ、私達友達だよね?次貰えたら返すからさ」といった、見苦しい貸し借りのやり取りが日常茶飯事になっていた。
「ねえ、結城さん。ちょっとポイント貸してくんない? 2000ポイントでいいの、今金欠でさ」
クラスの女子カースト最上位にいる軽井沢恵にそう声をかけられたが、私は手元の本から目を離さないまま、一瞥して完全に無視した。
「ちょっと、無視するとかなくない? 本当に困ってるの!」
なおも食い下がろうと、いつもの高圧的なトーンで捲し立てる軽井沢。私はようやく本から視線を上げると、底冷えするような笑みを薄く浮かべた。
「その割には、さっきからいろんな子に声かけてポイントをむしり取ってるみたいだけど」
「なっ……!」
「そうやって無理してないと、立っていられないの?」
「……っ!?」
淡々と、ただ見えた事実を告げるように低く呟くと、軽井沢はまるで冷水を浴びせられたかのように息を呑んだ。
一瞬で顔から血の気が引き、怯えと驚愕の混ざった目で私を見つめる。これ以上関わったら自分の本性を暴かれる――そう直感したのだろう。彼女はすぐに関わるのをやめようと、逃げ出すように足早にその場を去っていった。
去っていく軽井沢の背中を冷ややかに見送ると、隣の席から、じっとこちらを観察していた清隆が声をかけてきた。
「今、軽井沢に何を言ったんだ?」
「別に。ただ、感じたことを正直に言っただけ」
「あまり揉め事は起こすなよ」
「大丈夫。これで、あの子は私に関わるのを避けるから」
そっけなくそう答えて、私は再び本に視線を戻す。
視線はページの文字を追っているものの、私の頭の中は、まったく別の"片付けるべき案件"のことで占められていた。
登録者数150人の目標は、昨日配信の収益が振り込まれた時点で、お互いに達成したと分かっている。つまり、清隆との約束はいつでも果たせる状態なのだ。
今月には中間テストがあるけれど、狙って50点を取れる彼の事だ。勉強なんてしなくても余裕だろうし、私もテスト期間に入る前に、あの"約束"を終わらせたかった。
(今更、恥ずかしがることでもないし、さっさと済ませよ)
そう結論を出した私は、本をパタンと閉じ、清隆に振り向いた。
「清隆。ジャンケン」
「……いきなりだな。突然どうした?」
読書を邪魔された清隆が、感情の読めない瞳をこちらに向けてくる。私は有無を言わせないトーンで右手を突き出した。
「いいから、出す。__ジャンケン、ポン」
勢いよく出した私の『チョキ』に対して、清隆が出したのは『グー』
「……負けた」
「俺の勝ちだ。で、これは何のジャンケンだ?」
清隆は表情を変えずに拳を引きながら、不思議そうに首を傾げた。
「昨日、無事に目標達成したでしょ? だから約束通り__」
私は周囲に声が漏れないよう、ごく自然な動作で彼の椅子の背もたれに手をかけ、その耳元へと顔を寄せた。
ほんのりと触れそうな距離で、熱を含んだ吐息と共に、低く囁く。
「エッチ、してあげる」
「……」
一瞬、清隆の動きが止まったように見えた。彼は視線だけをこちらに向けると、どこか探るような低音で問いかけてくる。
「俺が言うのも何だが、本当にいいのか?」
「清隆のおかげでこんなに早く結果を出せたんだから、約束は守るよ。無理に引き延ばす理由もないし、さっさと済ませたほうがお互い都合がいいでしょ」
ただ予定をこなすだけ、という風に淡々と言い切る。
そんな私を、清隆は瞳の奥を覗き込むようにして静かに見つめた。
「……随分と落ち着いているな。結城は、経験があるのか?」
「……ない。あるわけない」
私がそう告げた、その瞬間。
私達の緊迫した空気をぶち壊すように、デリカシーのない大声が遮るように割り込んできた。
「おい、綾小路ー! そろそろ次の教室に移動しようぜ!」
そう言ってやってきたのは、山内と池の二人で、私はその姿が視界に入った瞬間、思わず舌打ちをしたくなった。
こいつらには、入学してから今日まで、碌な印象がない。
遅刻や授業中のお喋りといった減点行為を何度も繰り返し、普段から女子の胸の大きさの話などで盛り上がっているような、底辺な奴らだ。
山内は清隆の肩に馴れ馴れしく手を回すと、不躾な視線を私に向けてきた。
「あれ、結城と話してたのか?」
そう言って、私の身体を上から下まで遠慮なく見回してくる。その下品な目つきだけでも十分に不快だったが、山内はニヤニヤとした薄汚い笑みを浮かべたまま、さらに言葉を続けた。
「お前、普段地味なわりに意外と可愛い顔してんじゃん。もうちょっと胸があればなー。そしたら俺が狙ってやったのに、マジで惜しいわ」
「おい、やめろって!」
池が肘で山内を突きながら、下卑た声をあげて笑う。
その下品な笑い声を聞いた瞬間、私の中でスッと体温が下がっていくような感覚があった。
(――ああ、やっぱり男なんて大嫌い)
私は表情を完全に消し去り、底冷えするような視線で山内を射抜いた。
「キモすぎ」
「は?」
山内が予想外の拒絶に呆気に取られた顔をする。私はその顔をさらに見下すように、冷酷に言い放った。
「一生話しかけないで」
それだけを言い捨て、私はその場を退散した。一秒だって、あの不潔な空気の中にいたくなかった。
◇
「なんだよあいつ、感じ悪。ちょっと弄っただけだろ」
立ち去っていく結城の背中を睨みつける山内に、俺は当たり障りのない言葉を返す。
「流石にあれは結城が怒るのも無理ないと思うぞ。本人の前で言うことじゃ無い」
「…ちぇ、まぁいいや。早く行こうぜ」
山内はつまらなそうに頭を掻くと、すぐに池を促して歩き出した。俺も二人の後ろに続いて歩き出そうとしたその時、ポケットの中でスマホが短く震えた。スマホを開くと、メッセージが届いており、送り主はやはり結城だった。
『アイツなんなの!? 最悪なんだけど!』
『清隆、よくあんな奴と仲良く出来るね。正気疑うんだけど』
矢継ぎ早に送られてきたメッセージの最後には、激しく怒り狂っているキャラクターのスタンプが添付されている。画面越しからでも、彼女が相当お怒りなのが伝わってきた。
前を歩く山内達の背中を見ながら、手元で静かに返信を打ち込む。
『悪い、俺からも注意しておいた。』
そのメッセージと共に、自分も申し訳なさそうな顔をしたイラストのスタンプを一つ添えて送信した。
それから、数秒。
ポンっと、新しいメッセージが表示される
『さっきの続き。ジャンケンは私が負けたから金曜日の22時過ぎに私の部屋に来て』
なるほど。先程の唐突に仕掛けられたあのジャンケンは、例の,約束"をどちらの部屋で果たすかという、場所を決めるためのものだったわけか。
結城のあの何でもないような態度から察するに、彼女にとっては自室だろうが俺の部屋だろうが、どちらでも構わなかったのだろう。
それは、俺にとっても同意見だった。場所にこだわりなどない。
『了解』
二文字だけを淡々と打ち込んで送信し、俺はスマホの画面を切り、前を歩く山内達の賑やかな声を聞き流しながら、ただ静かに歩を進めた。
◇
金曜日の、夜21時半過ぎ__
22時の約束の時間に向けて、私は一通りの準備を済ませていた。
シャワーも浴びたし、一応湯船にもお湯を張っておいた。あとは彼が来るのを待つだけ。
ゆるい半袖と短パンというラフな格好に着替えると、私はベッドの上に寝転がって天井を見上げた。
天井の模様を虚ろに眺めながら、自嘲気味に口元を歪める。
思い出すのは、毎日いろんな男を家に連れ込んでいた母親の姿だ。幼い頃から、深夜になると聞こえてくる、あの嫌悪感しかない醜悪な声。
教師も、クラスの男子達も、みんなが私に卑猥な視線を向けてきたり、肉体関係を持ち出そうとしてきた。男なんて、結局は自分の欲を満たすことしか考えていない汚い生き物だと、心の底からそう軽蔑して、うんざりしてきたはずだった。
それなのに今夜、私は自分から男を部屋に呼び、その身体を差し出そうとしている。
経済的自由という目的のためとはいえ、あれだけ嫌悪していた母親と同じように、自分の身体を交渉材料にしている。その事実に、やりきれない自己嫌悪と、自分に対する呆れが押し寄せていた。
(結局、私もあの母親と同類ってわけね……)
冷めきった溜息が口元から漏れた、その時。
私の思考を強制終了させるように、ピンポーン、とインターホンの音が部屋に響いた。
ゆっくりと身体を起こし、玄関へと向かうとガチャリと鍵を開け、ドアを開いた。
「待ってたよ」
いつもの調子で出迎えたものの、やって来た清隆の姿に私はわずかに視線を止めた。いつも着ている学校の制服ではなく、赤いインナーに白い長袖シャツを羽織ったラフな私服姿だったからだ。
(清隆の私服、初めて見た……)
一瞬だけそんなことを考えていた私に、清隆が静かに声をかけてきた。
「待たせたな」
「ううん。……さ、早く入って」
彼を部屋に招き入れ、鍵を閉める。
私はベッドの端に腰掛けると、清隆に向き直った。
「今更、勿体つける必要もないし。さっさと始めよう」
ただ予定をこなすだけ、という風に淡々と言い切り、私は服を脱ごうとした。けれど、清隆はいつも通りの無表情のまま、静かに口を開いた。
「待て。一つ言っておくことがある」
「なに?」
「性行為に関する知識は頭に入っているが、実践の経験はない。手順や流れは、お前に任せてもいいか?」
「……は?」
(嘘でしょ……? 男子高校生って、普通はAVとかそういうのでやり方も学んでるんじゃないの?)
あまりにも堂々と告げられた予想外の告白に、私は思わず呆気にとられた。
彼の底知れなさをまだ全て把握している訳じゃないけれど、あの時だって、『エッチしてあげる』という提案に、一瞬で食いついて来たから、てっきり持ち前の好奇心で手順くらいは予習しているものとばかり思っていたのに。
私は一度深いため息を吐いてから、清隆を見上げる。
「普通、こう言うのは男がリードするべきなんだからね。私もそこまで詳しくはないけど……いいよ。教えてあげる」
そう言って、私は清隆の腕を引いてベッドへと座らせた。
そして、至近距離で視線を合わせながら、彼の上に跨る。
「っ……」
密着した瞬間、彼のがっしりとした身体から伝わってくる熱に、思わず背筋が跳ねそうになるのを必死にこらえる。下から私を見上げてくる清隆の感情の読めない瞳が、じっと私を捉えていた。
「じゃあ、キスから……」
鼓動の速さを悟られないよう小さく呟き、私は顔を近づけて彼の唇にそっと自分の唇を重ねた。
触れるだけの、静かなキス。
それから彼の大きな手を掴み、そのまま自分の胸へと誘導し、服越しに彼の手のひらを自分の膨らみへと押し当てる。
「胸、好きなように揉んでいいから……そう、優しくね」
教えるように言いながら、私は今度はチュッ、チュッと、彼の唇を啄むような軽いキスを何度も繰り返した。
至近距離で合わさる吐息が、だんだんと熱を帯びていく。
最初は私の言葉に従して大人しく触れていたはずの清隆だったけれど、彼の手のひらに徐々に力がこもり始める。
服の上からでも容赦なく、私の質量を確かめるように、手のひら全体で包み込まれ始めた。
「ん……っ」
予想以上の力強さと、手のひらから直に伝わる熱に脳が痺れそうになる。
逃げ場をなくすように、今度はどちらからともなく再び唇が合わさった。
お互いの舌を深く滑り込ませ、ねっとりと絡ませ合うような、濃厚な口づけ。
清隆に好きなように胸を揉まれながら、私達は貪るように深く激しいキスを交わし続けた。
お互いに衣服を脱ぎ捨て、肌と肌が直接触れ合った瞬間、全身に電流が走ったような熱さに背中が跳ねる。
「っ……あ……」
彼の熱い手が、私の柔らかな肌を愛撫するようにゆっくりと滑り降りていく。
触れられるたびに、身体の奥から熱い衝動が突き上げてきて、呼吸が苦しくなる。
理性がじわじわと溶けていく感覚に、私は彼の首にしがみつくことしかできなくなった。
「……本当に、いいんだな」
耳元で囁かれた彼の低い声に、私はただ、熱い吐息を漏らしながらコクりと頷くことしかできなかった。
ただ予定をこなすだけのつもりだったのに、一度触れてしまえば、もう引き返せない。
初めて触れ合うお互いの境界線が、甘く、激しく溶け合っていく。
逃れられない熱い波に翻弄されながら、私達は夜の深淵へと、ただ静かに堕ちていった。
「……すまない。……つい、歯止めが効かなくなった」
荒い呼吸のなか、清隆が苦々しげに、けれど冷静さを取り戻した声で呟いた。
私はシーツに沈んだまま、小さく息を吐き出す。
「平気、ピル飲んでるから……。でも、他の女の子だったらビンタくらってたよ」
「悪い……」
短く、本当に申し訳なさそうに溢された清隆の声を聞きながら、私はぼんやりと天井を見つめていた。
(……あの母親が男をとっかえひっかえしてたの、今だって全然理解できないし、軽蔑してる。だけど……悔しいけど、こりゃあクセになるわ……)
自分の血に流れる、快楽に溺れそうになる性質を自覚して、小さな自己嫌悪と諦めが混ざった吐息が出る。
「疲れた。このまま寝よ……」
限界を迎えた私が目を閉じると、頭をポンポンと優しく撫でられた。その心地よさに身を任せ、私は彼の胸に顔を埋めて深い眠りについた。
◇
「……動けない」
薄暗い光が差し込む朝方、目が覚めた私は身体の節々の痛みに小さく唸った。
重い瞼をこじ開けて壁の時計に目をやると、針はまだ朝の5時を回ったところだった。
隣に寝転がったままの清隆を見ると、彼はすでに目を覚ましており、静かにこちらを見つめていた。一体いつから起きていたのか、その瞳は完璧に覚醒している。いつもと変わらない隙のない様子に、少しだけ人間離れしたものを感じてしまう。
「早いね……」
まだ回らない頭でそう呟くと、静寂の中にいつもの淡々とした声が返ってきた。
「お前こそ。疲れ切っていたから、もっと長く眠ると思ったが」
「普段から眠りは浅いしね。……でも、今日は珍しく睡眠薬がなくても、すんなり寝れた」
ぽつりと言った私の言葉に、清隆はわずかに目を見開いたようだった。けれど、すぐにいつもの無表情に戻り、静かに身体を起こす。
「そうか。……風呂はどうする? 昨夜の湯が残っていたから、一応追い焚きはしておいたが」
「行く……。身体べとべとで気持ち悪いし。……お風呂連れてって」
そう言って両手を伸ばせば、清隆は嫌な顔ひとつせず、私を軽々と横抱きにして浴室へと運んでくれた。
脱衣所を抜けて浴室に入ると、清隆が事前に沸かしてくれたおかげで、湯船からはすでに温かい湯気が立ち上っていた。彼は私を優しくお湯の中へと沈め、自分も隣へと身体を沈める。
気持ちよさに脱力して、浴槽の縁に頭を預けようとした私に、清隆の手が伸びた。
「髪が湯に浸かるぞ」
そう言って、彼は私の長い髪を優しくまとめ、お湯につかないように器用に留めてくれた。そんな細やかな気遣いに、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「清隆、なんか凄く優しい。……そんなに童貞卒業できて嬉しかった?」
からかうように見上げると、清隆は少しだけ視線を泳がせ、淡々と言った。
「……出ようか」
「わぁ! 冗談、冗談だから!」
湯船から立ち上がろうとする清隆に私は慌てて腕を掴んで引き止めた。
「そういうお前こそ、いつもと別人だぞ。学校でのキャラと全然違うじゃないか」
「別に……」
私は膝を抱え、温かいお湯の中に顔を半分ほど沈めた。
「元々、これが素だし。……親が離婚してから誰も信用できなかったから。冷めた態度とってただけ」
小さく呟いた言葉は、狭い浴室の湯気の中に、静かに溶けていった。
清隆はしばらく何も言わず、ただ温かいお湯に浸かったまま、じっと私を見つめていた。その沈黙が少しだけ気まずくて、私はお湯をパシャパシャと手で弄んで視線をそらす。やがて、清隆が静かに口を開いた。
「なら、俺の前ではそのままでいればいい。信用するかどうかは、お前が決めればいいことだ」
いつもと変わらない、淡々とした平坦なトーン。だけど、私の全てをそのまま肯定してくれるようなその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
私は少しだけ顔を赤くしながら、お湯の中でそっと移動し、清隆のすぐ隣へと身を寄せた。彼の肌に自分の肩をぴったりと密着させる。清隆は拒むこともせず、ただ静かに私を隣に受け入れてくれた。
「……そろそろ出るか。のぼせる」
「うん……」
湯船から上がり、濡れた身体を拭いて新しい部屋着に着替える。
髪を乾かそうとドライヤーを手に取ると、背後に立った清隆が自然な手つきでそれを奪い取った。
心地いい温風が頭皮に当たり、彼の大きな指先が優しく私の髪を梳き始める。驚くほど丁寧な手つきに、私は大人しく目を閉じてその心地よさに身を委ねた。
私の髪がすっかり乾き終えると、今度は私が清隆の手からドライヤーを奪い取る。
「はい、次は清隆の番。貸して」
「お前がやるのか?」
「いいじゃん、お返し。ほら、ちゃんと座って」
ベッドの縁に腰掛けさせた清隆の頭に、温風を当てる。
普段は他人に触らせないであろう彼の髪は、触れてみると案外サラサラとしていて気持ちよかった。ドライヤーの熱に混ざって、男の子特有の、そして昨夜何度も嗅いだ彼の匂いが鼻腔をくすぐり、胸がトクンと小さく跳ねる。
清隆の髪を乾かし終え、私はドライヤーのコードをパチッとまとめた。
壁に掛けられた時計に目をやると、時刻はまだ早朝の6時過ぎ。遮光カーテンの隙間から、静かな朝の光が細く差し込んでいる。
「ねえ、清隆。今日、この後は何か予定ある?」
狭い室内のベッドの縁に、彼と並んで腰掛けたまま、私はなるべく自然を装って尋ねた。
「特に決めていないが」
「なら……夜の配信まで、仕事の話も兼ねて一緒にいるのは……どう、かな? 迷惑じゃなければだけど……」
少し遠慮がちに、彼の様子を伺うようにして尋ねる。
私の微かな緊張を前にしても、清隆はピクリとも表情を動かさなかった。いつも通りの、感情の読めない無表情のまま私を見つめ返してくる。
そして、一拍の静寂を置いてから、「そうだな。構わない」と、ただ淡々と静かに頷いた。
そのいつもと変わらない温度の返事に、私は少しだけほっとして胸を撫で下ろす。
「よし、決まり!じゃあ、朝ご飯食べよっか。ホットケーキでいい?」
「ああ。手伝おう」
狭い調理スペースに二人で並び、ボウルに材料を入れて混ぜ合わせていく。フライパンに生地を流し込み、表面にプツプツと小さな泡が浮き上がってきたところで、私は清隆にフライ返しを手渡した。
「はい、ひっくり返してみて。綺麗に焼くの、意外と難しいんだからね」
少しだけ意地悪く笑って見守っていると、清隆は迷いのない手つきでフライ返しを差し込み、綺麗にホットケーキを裏返した。フライパンの真ん中に現れたのは、まるで絵本に出てくるような、ムラひとつない完璧なきつね色だ。
「……初めてにしては上手すぎない?」
「火加減とタイミングさえ間違えなければ、誰がやってもこうなるはずだ」
淡々と言う彼に「可愛げないなぁ」と苦笑しつつ、焼き上がったホットケーキにバターとたっぷりのメープルシロップをかける。
部屋に戻り、限られたスペースでお皿を並べて一口大に切って口に運ぶと、優しい甘さが広がった。
「美味しいね」
「そうだな。悪くない」
と、言いつつも幸せそうなオーラを放ちながら黙々と食べ続ける清隆を盗み見て私は自分の胸が、小さな安らぎで満たされていくのを感じていた。
昨夜のあの激しい時間から、こんなに静かな朝を迎えるなんて、昨日の私には想像もつかなかった。
◇
朝食を済ませ、ケヤキモールへ向かうための身支度を整える。
いつもは下ろしている黒髪を高めのツインテールに結い、服は大きな白襟と黒リボンがついた深紅のビスチェ風トップスに、黒のフレアスカート。足元は黒のハイソックスに、赤い靴紐が映えるショートブーツを合わせる。
どこか危うくてトゲのある、お人形さんのような地雷系ファッション――これが、私の基本の私服スタイルだった。
鏡の前で完璧にメイクを仕上げ、準備を終えてから部屋のドアを開ける。
ベッドの縁で待っていた清隆の視線が私を捉えた。けれど、彼はピクリとも表情を動かさない。引くでも見惚れるでもなく、いつも通りの光の入らない無表情のまま、ただ「準備はできたか」とでも言うように淡々と立ち上がる。
(まあ、この男が『可愛いね』なんて気の利いたこと言うわけないか……)
ちょっとした悔しさを胸に抱きつつ、私達はケヤキモールへと向かった。
土曜日の午前中ということもあって、モール内はそれなりの生徒達で賑わっている。
制服を脱ぎ捨てて、普段と全く違う雰囲気の私に、すれ違う生徒達から遠目でちらちらと視線が向けられる。
大きな騒ぎになるほどではないけれど、「あの綺麗な子、誰だろう……」と、すれ違いざまにそっと振り返る男子生徒もいた。
隣を歩く清隆に目をやると、彼は周囲の視線など一ミリも気にしていない様子で、ただ前を歩いている。目立つことを嫌う彼にとっても、このくらいの遠巻きな視線なら許容範囲のようだ。
「実況配信をやるにしても、ゲーム機を買い揃えるのはまだ予算的に厳しいんだよね」
私は周囲の視線を無視するように、隣の彼に相談した。
「そうだな。初期投資としてはハードウェアの購入は重い。まずは手軽に始められて、かつ動画としての見栄えが良いものから攻めるのが合理的だ」
「でしょ? だから、今日はアナログのゲームを見て回ろうと思って。ボードゲームとかカードゲームなら、手元をカメラで映すだけでも、面白い配信になりそうじゃない?」
「なるほど。ルールが分かりやすく、リアクションがダイレクトに伝わる。いい着眼点だ」
清隆に淡々と事実を評価され、私は少しだけ誇らしい気持ちになる。
ホビーショップに入ると、棚には様々なアナログゲームが並んでいた。
「これなんか、面白そう」と色々な商品を見て回り、気に入ったものを何個か購入した。二人であれこれ相談しながらゲームを選ぶ時間は、驚くほど新鮮で楽しかった。
ゲームを抱えて、再び私の部屋へと戻ってくると、購入したいくつかの箱を置き、夜の「チャンネル登録者150人達成お祝い&報告配信」に向けて打ち合わせを始めた。
「まずは今回の配信で150人達成の報告をして、今後はこういうアナログゲームの実況もやっていきますって告知しようと思う。……あ、そうだ。この間、頼んでおいたアイコンの件、あれどうなった?」
思い出したように尋ねると、清隆は自分の端末を取り出し、画面をこちらに向けてきた。
「ああ。『エンジェルちゃん』のデフォルメイラストにしようと思っている。これだ」
提示された画面を覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。
そこに映し出されていたのは、シンプルながらも一目で惹きつけられる、圧倒的なクオリティでデフォルメされたエンジェルちゃんのイラストだった。
「……え、清隆がこれ描いたの!?」
「試しに描いてみたら、思ってたより上手く描けたんだ」
「プロ並みに上手なんだけど」
いつもの無表情のまま、こともなげに言う彼に私は呆然とするしかなかった。冗談を言っているようには到底見えない。本気で「たまたま上手く描けた」とでも思っていそうなそのフラットな態度が、逆に底知れなくて少しだけ怖い。
勉強もできて、絵までプロ並みだなんて、この男の底の知れなさは本当におかしい。
(けど……)
「……ありがと。凄く、嬉しい」
私は画面の中の特別なアイコンを見つめ、彼に素直な感謝を伝えた。清隆は相変わらず何も言わなかったけれど、その沈黙すら、今はどこか心地よく感じられた。
◇
そして夜。私の部屋のデスクには、配信用に調整されたカメラとマイク、そしてカメラに映らない位置でパソコンを操作する清隆が静かに佇んでいた。
いよいよ、チャンネル登録者150人達成記念配信のスタートだ。
「みんな、お待たせー! エンジェルちゃんだよ!」
画面の向こうで「待ってた!」「きたー!」と勢いよくコメントが流れる中、私は今日の一番のトピックを弾んだ声で告げる。
「もう、既に知ってる子が多いと思うけど、なんとチャンネル登録者数が150人を達成しましたー!」
私のセリフと完璧に同期して、画面上でパァン! と小気味いい音とともにクラッカーのエフェクトが鮮やかに弾けた。
ここしかないという最高のタイミングを見計らって、清隆が裏でパソコンを操作したのだ。相変わらず仕事が正確すぎる。
「わあ、みんな本当にありがとう!」
画面の向こうで「おめでとう」の弾幕が広がる中、私は満面の笑みをカメラに向け、昼間に用意した新しいチャンネルアイコンを画面に映し出した。
「それでね、今日はお祝いで、相方のピからチャンネルのアイコンを描いてもらったよ! デフォルメ化したエンジェルちゃんのイラスト、めっちゃ良くできてるでしょ!? ……あ、勿論、本物のエンジェルちゃんの方が何倍も可愛いけどね? w」
おどけるように笑ってみせると、コメント欄が「ピ、神絵師」「アイコン可愛い」と一気に盛り上がる。学校専用のアプリでの配信ということもあって、視聴者の反応はいつも以上にダイレクトだ。
そんな中、画面の隅にひとつのコメントが流れた。
『ポイント返してくれ〜』
5月に入り、最初の無駄遣いの代償を払わされて極貧生活に陥った生徒のリアルな悲鳴。校内アプリだからこそ飛び交うお馴染みのワードだ。
けれど、この配信で私は自分の学年を一切明かしていない。自分が1年生だと見ている生徒達にバレないよう、私はあえて余裕のあるトーンで、上級生を装うように楽しげに言葉を返した。
「お、このコメントは新入生かな? 5月のこの時期にポイントが足りなくなるのは、だいたい最初の洗礼を受けた1年生って相場が決まってるもんね。お小遣いは計画的に使わないとダメだよ?」
クスクスと意地悪に笑って自分の学年をカモフラージュし、流れるように動揺を受け流した。そのまま、今日の一番の本題へと切り替える。
「そして、ここから大事なお知らせだよ。……エンジェルチャンネル、なんと『夢チューブ』にもアカウントを作りました! これからは、学校の外の世界でも配信しちゃいまーす!」
学校専用アプリの枠を飛び出し、外部のプラットフォームへも繋がる場所への進出。その大発表に、コメント欄のスピードがさらに加速する。
「あ、でもね。勿論、私達の学校の事は他言無用だよ? そこはみんな、私との絶対の秘密ね」
人差し指を唇に当てて、カメラの向こうの生徒達に悪戯っぽく釘を刺す。
「これからも頑張っていくから応援してね!――それじゃあ、大事なお話が終わったところで、ここからは雑談配信始めるよ〜!相談、質問ある子はどんどんコメントしてね!」
◇
「――それじゃあみんな、今日はエンジェルちゃんに付き合ってくれてありがとう! バイバ〜イ!」
カメラに向かって思いきり可愛く手を振り、配信終了のボタンをクリックする。
画面が完全にオフになったのを確認した瞬間、私は大きく息を吐き出してベッドの上へと倒れ込んだ。
「ふぅーーー……! お疲れ様!」
顔に張り付いていた完璧な営業スマイルを解き、素の自分に戻る。心地よい疲労感に包まれながら、私は頭についた「エンジェルちゃん」のツインテールのウィッグを外そうと、手を髪へと伸ばした。
ふと気付けば、機材を片付けているはずの清隆の視線が、じっと私に注がれている。
「……どうしたの、清隆。さっきからじっと見て」
寝そべったまま身じろぎして尋ねると、彼は片付けの手を止め、静かな足取りでベッドの傍らへと歩み寄ってきた。
「いや。『エンジェルちゃん』としてのお前の姿を、こうして間近で見るのは新鮮だと思ってな」
「それは、仕事なんだから全力で可愛く作ってるに決まってるでしょ。……もう配信も終わったし、これ暑いから外すね」
私が再びウィッグに手をかけようとした、その瞬間。
差し出された清隆の手が、私の手首をそっと、けれど拒む隙を与えない強さで掴んで止めた。
「……清隆?」
見上げると、彼は至近距離で私を見下ろしたまま、淡々とした声でこう告げた。
「外さなくていい。一回だけ、その姿のままで抱きたい」
「……はぁ!? 何言ってるの!?」
跳ね起きようとするけれど、手首を掴まれたまま組み伏せられるようにして、ベッドに押し戻される。いくらなんでも予想外すぎる彼の要求に、心臓が痛いほど跳ね上がった。
「この服、破れちゃったらどうするのよ!? これ自前だし、造るのにどれだけ苦労したと思ってるの! それに……もし配信中にポロリでもしたら即、垢BANだよ!?」
必死にまっとうな理由を並べて抗議する私を、清隆はピクリとも表情を動かさずに見つめている。
「配信は完全に切れているから、映る心配はない。……服が破れたなら俺が直す」
「……裁縫まで出来るの?本当になんでも出来ちゃうんだね」
「かもな。……これで何も問題はないな」
そう言って、清隆は有無を言わせぬ力強さで私の太ももを掴み、抵抗する隙を遮るようにベッドへと組み伏せてきた。
スカートが大きく乱れ、逃げ場のないゼロ距離で彼に見下ろされる。いつもは冷徹な彼の瞳が、今は信じられないほど深い熱を帯びていて、見つめられるだけで頭の芯がじわりと痺れた。
(ちょ、本当に……この姿のまま、する気なんだ……っ)
此処で私が、あの時の約束は一度限りのものだと。そう言って抵抗すれば、彼のことだ。「そうか」と言って、すんなり手を引いてくれるだろう。けど、その拒絶の一言がどうしても喉の奥で詰まって出てこない。
思い出すのは、昨夜に刻み込まれたばかりの強烈な快楽。あの、何もかもがどうでも良くなってしまうほどの激しい熱。それを思い出しただけで身体の奥が甘く疼き、本能が「逃げたくない」と叫んでいる。
だから……
「……じゃあ、これからは私の事、ルヰって呼んでくれる?」
見上げる私の視線を受け止め、清隆はただ静かに、その瞳の奥の熱を深めていく。応えを急かすような沈黙のなかで、私は耐えきれずに言葉をこぼし続けた。
「別にずっとじゃなくていい。二人きりの時だけでも、ルヰって呼んで欲しいっ」
せめて、この熱に溺れている時だけでも、いつも彼が口にする私の苗字ではなく、名前を呼んでほしくて。
清隆は私の濡れた瞳をじっと見つめた後、その形の良い唇をわずかに和らげた。
「わかった、ルヰ」
「清隆……ん…っ!?」
拒む隙なんて最初から与える気がないように、深く、唇を塞がれる。
少しだけ強引で、だけど私の吐息をすべて奪い去っていくような熱い口づけ。突然のキスに頭の芯まで真っ白に染まり、私はもう、彼を拒む術をすべて失ってしまった。
わずかに唇が離れ、かすかに銀の糸が引く。
息を弾ませる私を見つめたまま、清隆の大きな手が私の腰を容赦なく引き寄せ、その身体をしっかりと抱きすくめた。
「あ……っ!?」
彼のひんやりとした体温に、ビクッと身体が跳ねる。
逃げようとしたけれど、すぐに彼の指先が私の顎を捉え、無理やり正面から視線を繋ぎ止められた。
「目を逸らすな」
低く、逆らうことを許さない命令。
彼は私の反応をすべて観察するように見つめながら、衣装の隙間から、熱を帯びた手を私の背中へと滑り込ませる。熱い手のひらで肌をなぞり、そのまま私を壊しそうなほど強く抱きしめた。
「ひゃあ……っ! あ、だめ……っ」
押し寄せる、逃げ場のない熱気。背筋を激しい電流が駆け抜け、頭の中のネジが完全に吹き飛びそうになる。
(なんで……っ、なんでこんなに気持ちいいの……!?)
自分の身体なのに、彼の腕と唇によって全く制御が効かなくなっていく驚きと、それに勝る圧倒的な熱量に、頭の芯までとろとろに溶かされていく。
「あ……、ん、きもち、いい……っ」
そんな私の声をすべて塞ぐように、彼は再び私の唇を塞いだ。今度はただ唇を重ねるだけじゃない。隙間なく合わせられた唇を強引にこじ開けられ、深く、熱く、舌を滑り込ませる濃厚な口づけ。
口内を蹂虙する熱い舌、背中をなぞる手のひら、そして身体を包み込む切ないほどの熱。
上からも下からも同時に、容赦なく逃げ場を奪うように愛されて、私の理性の糸が限界を迎えてぷつりと切れた。
「んむ……ぅ、んんっ……!」
声にならない甘い悲鳴が彼の口の中で溶けていく。
波のように押し寄せる甘い快感に、頭の中が完全に真っ白に染め上げられていく。
抗うことなんて最初から不可能な、彼だけの圧倒的な支配のなかで、私はただ、果てしない熱の渦へと引きずり込まれるように、彼の背中に必死に縋り付くことしかできなかった。
◇
どれほどの時間が経ったのだろう。
カーテンの隙間から差し込む微かな月光だけが、乱れた部屋を静かに照らしていた。
ベッドの周囲には、さっきまで着ていた衣装や、無造作に脱ぎ捨てられた下着が散らばっている。そんな生々しい光景のなか、部屋には二人の重なる吐息だけが優しく響いていた。
私はシーツに身を包んだまま、まだ引ききらない身体の熱と、激しい息切れに胸を上下させていた。熱に浮かされた身体はすっかり弛緩し、指一本動かすのも億劫なほどの疲労感が心地よく押し寄せている。
ふと隣を見ると、清隆がいつもと違って少しだけ前髪を乱し、静かに呼吸を整えていた。どこか満足げに、彼なりに心地よい情事の余韻に浸っているような――そんな名残を、その切れ長の瞳の奥に微かににじませている。
そんな彼の姿を見ていたら、愛おしさが胸の奥から一気に溢れ出して、耐えきれなくなってしまった。
「……きよ、たか……っ」
私はシーツから腕を伸ばし、隣にいる彼の頭を、逃がさないように私の胸へとぎゅっと抱きしめた。
汗ばんだ肌がぴったりと密着し、私の胸の奥で早鐘を打っている心臓の鼓動が、彼にすべて伝わってしまうんじゃないかってくらいにドクドクと響いている。
「好き、好き……大好きぃ……っ」
彼の耳元で、熱い吐息と一緒に、壊れそうなほどの想いを何度も何度も囁く。
届かないかもしれない。それでも、この瞬間だけは彼を独り占めしていたくて、抱きしめる腕にさらにぎゅっと力を込めた。そうしてすべての感情を吐き出した瞬間、限界を迎えていた私の意識は、深い眠りの底へとすとんと落ちていった――。
◇
ルヰの腕の力が完全に抜け、規則正しい寝息に変わったのを見届けながら、俺はゆっくりと瞬きをした。
強く抱きしめられたまま眠りに落ちた彼女のせいで、自分の顔は今、ルヰの豊かな胸元に深く埋もれるような形になっている。
すぐにその腕をほどき、自由になることもできた。
だが、俺はあえて動かなかった。
肌の柔らかい感触。まだ甘く火照った、彼女の体温。
それをただ、静かに受け止めていた。
床に散らばる、衣装や下着。
そして、自分にすべてを委ねて眠る少女。
彼女の胸元に顔を埋めたまま、ポツリと、誰に聞かせるでもない声を漏らした。
「――知っている」
お前の好意も、その熱も、すべて。
意識を失ったルヰに、その声が届くことはない。
いつも通りの、冷徹な声音。
けれど、そこには確かに滲んでいた。
彼女のすべてを掌握し、自分の支配下に置き続けるという――静かな、しかし絶対的な意思。