清隆とより親密な関係になったあの日から数日。
クラスメイト達の前では、あの日を迎える前と何も変わらない、普通に仲の良い隣の席同士。
けれど一歩寮に帰れば、配信者とプロデューサー。
――そして、どちらかが求めれば、貪るように身体を重ねる。
そんな、甘く爛れた生活を、私達は人知れず続けていた。
誰にもバレていけないという秘密の平穏に、どこか甘く浸っていた私は――今朝のホームルームで、一気にこの学園の厳しい現実に引き戻されることになる。
ガラリと音を立てて教室に入ってきた茶柱の口から、容赦なく『中間テスト』のルールが告げられたからだ。
「今回のテストで、一科目でも赤点を取った者は、その時点で――即退学処分とする」
クラスの誰もが、そのあまりにシビアな現実にどこかピリピリとした緊張感を漂わせている。
万が一にでも退学になれば、あの息の詰まる母親のアパートへ強制送還。それだけは絶対に御免だ。
私自身、そこそこ勉強はできる方だから、普通に受ける分にはテスト自体そこまで心配しているわけじゃない。
手元には配信で稼いだポイントの余裕だってある。けれど、何が起こるか分からないのがこの学校だ。ルールを甘く見て油断した結果、足元をすくわれるのだけは絶対に避けたかった。
――けれど、そんな張り詰めた空気の授業中。
ふと隣の席に視線を向けた私は、思わず小さく息を漏らした。
(あ、清隆……うたた寝してる)
器用に肘をつきながら、うとうとと舟を漕いでいる。
いつもポーカーフェイスで何をしでかすか分からない男が、こうして無防備に髪を揺らして眠気に身を委ねている姿は、どこか年齢相応の男子高校生らしく見えて少しだけ愛おしい。
(起こそうか、どうしよう)
現在、私達のクラスポイントはゼロ。今さら彼が居眠りをしたところで、これ以上減るポイントなんてありはしない。
だが、ポイントを少しでも増やそうと躍起になっている今のクラスの雰囲気からして、流石に堂々と居眠りを続けさせるのはよした方がいいだろう。茶柱の目はもちろん、クラスメイトから白い目を向けられかねない。何より、私のプロデューサーがこんなところで無駄な目を付けられるのは不愉快だ。
私は机の下からそっと手を伸ばし、彼の制服の袖をツンツンと軽く引っ張る。
「……ん」
小さな刺激に、清隆の長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。
目を覚ました彼は、まだ微かに眠気の残る目を瞬かせながら、ふと右隣――堀北の席へと視線を向けた。その瞬間、清隆が何かから身を護るように、ピクリと微かに身体を強張らせた。
私の席からは、清隆の身体に隠れて堀北の姿が上手く見えない。
けれど、清隆はなぜか自分の右腕をかばうように引き、珍しく驚いたように目を見開いている。
一体何が起きたのだろう。私が不思議そうに首を傾げていると、冷ややかな声が聞こえてきた。
「……チッ。勘が良いわね、綾小路くん」
「いや、俺じゃなくて……」
堀北は小さく舌打ちをすると、何事もなかったかのように、右手に握っていた『コンパス』をペンケースへと片付けた。
そのチャックが閉まる直前、ギラリと鈍く光った鋭利な針先が見えて、私はようやく、清隆が彼女にコンパスの針で刺されそうになっていたのだと察して小さく息を呑む。居眠りの罰にしては容赦がなさすぎる。
清隆は危機一髪だった自分の腕をさすりながら、私の方を向いて、声に出さずに(助かった)とだけ唇を動かした。
私はそれに危なかったね、という意味を込めて、ノートの影で悪戯っぽく微笑んで前を向いた。クラスの誰も知らない、授業中の二人だけの秘密のアイコンタクト。それだけで、胸の奥がチリついたように熱くなる。
やがて午前中の授業が終わり、昼休みのチャイムが鳴り響いた。各々食事のために席を立とうとし始めた時、平田がクラス全体に向けて声をかけた。
「みんな、ちょっといいかな? 近いうちに行われる中間テストに向けて、僕達で勉強会を開こうと思うんだ。赤点を取ったら即退学だし、不安な人は誰でも歓迎するよ」
そう言って、彼は小テストで赤点だった生徒達の目を一人ひとり見つめ、優しく語りかけた。
クラスを一つにまとめようとする、彼らしい利他的な提案。
けれど案の定、前方の席から大きな舌打ちの音が響いた。入学初日から彼を敵視している須藤が、あからさまに不快そうな顔で、池や山内を連れて教室を出て行こうとする。
その態度を見て、平田を慕う女子グループがすぐに不満の声を上げた。
「ちょっと須藤!流石にその態度は失礼じゃない?」
「そうだよ!せっかく平田くんがみんなの事を思って言ってくれてるのに!」
いつもなら、クラスの仲を取り持とうと慌てて女子を宥めたり、須藤を引き留めようとする平田だが、今日の彼は少し違った。
自分を庇って憤慨する女子達に、平田は困ったような、けれどどこか諭すような落ち着いた微笑みを浮かべたのだ。
「みんな、僕のために怒ってくれてありがとう。でも、急にそんなこと言われたら困るのも当然だし、彼らを非難する言い方はやめてほしいな」
「え……あ、うん。洋介くんがそう言うなら……」
頭に血が上っていた女子達は、彼のその大人のような静かな態度に毒気を抜かれ、素直に引き下がっていく。平田は無理に須藤達を追いかけることもしなかった。
ただ、ドアの前に佇む彼らの背中に向けて、静かに声をかける。
「無理に付き合わせるような真似をしてごめんね。でも、もし少しでも不安になったら、僕はいつでも歓迎するから声をかけてね」
「……ケッ」
須藤達も、予想外に追及されず、自分達を悪者に仕立て上げられなかったせいか、どこか拍子抜けしたような顔でそのまま教室を後にした。
(ん? この展開、どこか覚えのあるような……。 なんだったっけ?)
一瞬、妙な既視感が胸をよぎったけれど、深く考える前に思考を止めた。まあいい、他人の人間関係なんて私には関係のないことだ。
私は考えるのをやめて、机の横にかけた鞄から、お弁当を取り出していると――清隆の席の方から冷ややかな声が聞こえてきた。
「綾小路くん。お昼、暇?」
その言葉に思わず顔を上げると、堀北が席についたまま、清隆を食堂に誘っていた。
けれど、話しかけられた清隆は、相変わらずの鉄面皮のまま、めんどくさそうに短く息を吐くだけだった。
「断る。今日は弁当を持って来ているからな」
そう言って、清隆は堀北に見せつけるように、鞄から水色の風呂敷に包まれたお弁当箱を取り出し、机の上に置いた。
そのお弁当は今朝、寮のエレベーターで待ち合わせした時に私が彼に手渡したものだった。
毎日のように私の手料理で胃袋を掴まれているこの男は、学校でもそれを隠そうとせず、むしろ誇示するように堀北の前に晒す。
手作りのお弁当を前にして、堀北は驚いたように端正な眉をぴくりと動かした。
「……あなた、自炊を始めたの?」
「まぁ、そんなところだ。だから、食堂に行く必要はない」
涼しい顔で平然と嘘を吐く清隆。
まさか、そのお弁当を作っているのがすぐ隣に座る私だなんて、彼女は夢にも思っていないだろう。
堀北は鋭い視線でお弁当箱をじっと凝視していたが、やがてフンと鼻を鳴らすと、冷ややかに言葉を続けた。
「そう。なら、明日はお弁当を作らずに登校しなさい。せっかくだから、食堂の山菜定食でもご馳走してあげるわ」
「……待て。そもそも食堂の山菜定食は無料のはずだが。奢るも何もないんじゃないか?」
清隆の冷静な指摘に、堀北は動じる風もなく、フッと薄く口元を綻ばせた。
「あら、綾小路くん。案外鋭いのね」
どこか試すような冷たい瞳を彼に向けると、堀北はさも当然のように言葉を重ねる。
「――今のは冗談よ。ちゃんと、あなたの好きな物を奢ってあげるわ。前もって通告したのだから、断る理由は無いはずよ」
「……話ならここでも聞けると思うが」
「却下よ。私は食堂に用があるの」
それだけを一方的に告げると、堀北は席を立ち、冷淡な足取りで教室を去っていった。
こちらの返事など最初から聞く気のない、どこまでも自分中心な態度。私はその背中を冷ややかに見送った後、鞄から取り出したお弁当を手に、清隆を振り返って笑いかける。
「やっぱり目をつけられたね。一体、何を要求されるのやら」
外面用の、当たり障りのない笑み。
けれど、私の胸の奥には、ほんの少しだけ苛立ちが湧き上がっていた。
(――清隆にあんな高圧的な態度をとるのは、なんだか無性にムカつく)
……まあ、当の本人が一ミリも気にしてなさそうだから、私がとやかく言うことでもないか。
「ほら、中庭に行こう」
ただでさえ、勉強会の話で時間は押しているのだ。
私は清隆を促すと、二人で中庭へと急いだ。
◇
「行くわよ、綾小路くん」
翌日の昼休み。昨日の宣言通り、堀北は有無を言わさず清隆を食堂へと連行していった。
私は自分の机に頬杖をついたまま、その背中を冷めた目で見送る。
(清隆、頑張ってね)
二人の姿が教室のドアの向こうに消えたのを確認して、私は自分の鞄からお弁当を取り出す。
一人で食事を済ませた後は、何をするでもなく窓の外の景色を眺めていた。
イヤホンから流れる音楽に耳を傾けながら、ぼんやりと時間を潰す。
――すると、ガラリと教室の扉が開いて、清隆が戻ってきた。どこかいつもより疲れたオーラをまとっている。
私は耳から片方のイヤホンを外すと、自席に戻ってきた彼に、声を掛ける
「おかえり。思ったより早かったじゃん」
「……ああ」
「堀北さんと何話してたの?……あ、別に言いたくなければいいけど」
「いや、隠すほどの内容ではない」
清隆はいつも通りの淡々とした口調で、食堂での出来事を話し始めた。
どうやら、堀北にスペシャル定食を奢られて一口食べた瞬間、それを理由に勉強会への協力を強引に迫られたらしい。食べてしまった以上、もう逃げられないというわけだ。
「ふーん……でも、清隆ならその気になればいくらでもかわせたでしょ? わざと引っかかるなんて、案外お人好しだね。一応、須藤達とは仲が良いみたいだし……退学にさせたくないっていう気持ちがあったりする?」
本気で拒絶しようと思えば、この男ならいくらでも逃げ道を作れたはずなのだ。それをしなかったのは、普段から一緒にいる須藤達への彼なりの情があるからではないか。
クスッと意地悪に笑いながらそう告げる私に、清隆は相変わらず感情の読めない表情のまま、低く平坦な声で言葉を返した。
「他人事みたいに言うな。堀北のやつ、自分の開く勉強会に須藤達を参加させるように、俺になんとかしろって言ってきてな。あいつらが来るならどんな方法でも構わない、とまで言われたよ」
「あぁ……だから清隆に頼んだんだね。自分じゃ絶対にあいつらを集められないから」
「ああ。ただ、俺一人であいつらを集めるのは流石に無理がある。だから、櫛田に協力を頼めないか相談してみるつもりだ」
「なるほどね。櫛田さんならあの三馬鹿もホイホイついてきそうだもん。うん、それが一番確実だし良いと思うよ」
「それで、あいつらが集まった後の話なんだが……結城、よかったらお前も勉強会に参加しないか? お前がいてくれれば、勉強を教える方は少しはスムーズに進むと思うんだが」
「え、絶対ヤダ。須藤ならともかく、池と山内がいるなら私は行かないから。いくら清隆のお願いでも、それだけは聞けない」
私がそう言ってきっぱりと首を横に振った、その時だった。
「――結城さん、綾小路くん。ちょっといいかな?」
優しく爽やかな声と共に、クラスのまとめ役である平田が私達の席へと近づいてきた。
「昨日話した勉強会のことなんだけど、結城さんは今回の小テスト、成績が上位だっただろう? もしよかったら、教師役を手伝ってくれないかと思ってね。……あ、もちろん綾小路くんも、良ければ一緒にどうかな?」
「悪いが、俺はパスさせてくれ。実は堀北に頼まれて、須藤達の勉強会を手伝うことになってるんだ」
「そうなんだ。堀北さんも須藤くん達のために動いてくれているんだね……!分かった、教えてくれてありがとう。……じゃあ結城さんも、その勉強会に参加するのかい?」
平田の言葉に、私は手元を見つめたまま少しだけ思考を巡らせる。
(どうしようか……。この学校、何もしないで目立たないのも今後の立ち回りで動きづらくなりそうだし、何もやらないのは良くないよね。かといって、あっちの勉強会にだけは絶対に行きたくないし……)
一瞬の沈黙の後、私は顔を上げて平田に向かって小さく微笑んだ。
「ううん、私は平田くんの方の勉強会を手伝うよ。私で良ければ、だけど」
「本当かい? 良かった、結城さんが来てくれたらすごく心強いよ! じゃあ、放課後よろしくね」
平田は嬉しそうに顔をほころばせると、他の生徒への声掛けのために爽やかに去っていった。
再び二人きりになった席で、清隆がじっとこちらを見つめてくる。もちろん、その顔はいつもの無表情だ。
「平田の誘いには乗るんだな」
「まぁ、そっちの勉強会に行くよりはマシだしさ。この学校、何もしないで目立たないのも今後の立ち回りで動きづらくなりそうだし、平田に恩を売っておくのも悪くないでしょ?」
私の言葉を聞いた清隆は、なるほど、と納得したように小さく頷いた。
「お前らしい合理的な判断だ。あいつらがいる空間にお前を引っ張り込んでストレスを溜めさせるのも気が引けるしな。……分かった、平田の方を頼む。俺は俺で、あっちの面倒を適当に見てくるよ」
「はーい。じゃあ、お互い頑張ろうね」
そう言って、私達は小さく笑い声を交わした。
周りから見れば、ただの気心の知れたお隣同士が、昼休みの終わりに他愛のない雑談を交わしているようにしか見えないだろう。
◇
それぞれの勉強会を終えた、放課後の夕方。
私はスーパーに立ち寄って夕飯の買い出しを済ませ、そのまま直接清隆の部屋へと向かった。
今夜は清隆の部屋で夕飯を作ることになっている。メニューは、清隆がリクエストしたオムライスだ。
スーパーの袋を手に持ち、寮へと戻り、エレベーターで下の階にある男子フロアへと向かう。目的の階で降りると、静かな廊下を進んで清隆の部屋の前へと向かった。
ドアの前に立ち、インターホンを押そうとした――まさにその時だった。
チーン、と少し離れたエレベーターが静かに開き、そこから見慣れた人影が力なく現れた。
「あ、おかえり清隆。ちょうど今来たところ」
「……ルヰか」
廊下の向こうから歩いてきた清隆は、いつも通りの無表情。……ではあるものの、昼休み以上にその身からドロドロとした疲労のオーラを醸し出していた。
一目で「あっちの勉強会」がどんな惨状だったのかが察せられて、私は思わず笑いそうになるのを堪える。
「ずいぶんとお疲れだね。ほら、立ち話もなんだからとりあえず中に入ろ。早くご飯作っちゃうから」
「ああ、助かる」
清隆は深いため息を一つ吐くと、ポケットから鍵を取り出して自分の部屋のドアを開けた。
開かれたドアから、私は清隆の後に続いて彼の部屋へと一歩足を踏み入れた。
スーパーの袋から材料を取り出し、私は手際よくキッチンの前に立つ。
制服のブレザーを脱ぎ、手洗いを済ませてから、まずはチキンライスの具材となる玉ねぎを刻み始めた。
トントントン、と小気味よい包丁の音が狭いキッチンに響く。私はリビングの椅子に腰掛けた清隆へと、背中で視線を向けた。
「で? どうだったの、堀北さん達の勉強会は」
「……悲惨、の一言に尽きるな。池と山内は早々に集中を切らして櫛田に話しかけてばかりだし、須藤は将来の夢を堀北に馬鹿馬鹿しいと一蹴されて、ブチギレて帰った」
包丁の規則正しい音の向こうから、清隆の心底疲れたような声が返ってくる。
「へえ……。自分の物差しだけで人の夢を馬鹿にするとか、さすがに須藤に同情しちゃう。堀北さんも相変わらずというか、相性が悪すぎるね」
「その場を宥めようとした櫛田の努力も虚しく、その場で即解散だ。当の堀北は、自分が正しいと一切反省してないしな。そんなわけで、すぐに終わったよ」
清隆は淡々と語るが、その内容からはあの教室での凄惨な空気が手に取るように伝わってくる。
ただ、私は手を動かしながら、少しだけ胸の内に引っかかりを覚えた。
(すぐに解散、ね……)
池と山内が手を止め、須藤が飛び出してすぐに解散になった。
それにしては清隆が寮に戻ってくるのが少し遅いような気がする。解散してから、彼は一体どこで何をしていたのだろう。
(……まあ、今は深く突っ込む場面でもないか)
「散々だったね、清隆。本当にお疲れ様」
「ああ。……ルヰ、お前の方はどうだったんだ?」
今度は清隆がこちらに視線を向け、問いかけてくる。
私はフライパンに火をつけ、鶏肉と玉ねぎを炒め始めた。
「私の方はちょっと特殊だったよ。集まった女子の大半が平田くん目当てだったからさ。平田くん以外が教えようとすると、すぐに機嫌が悪くなるんだよね」
ジュウ、と肉の焼ける心地よい音が狭い室内に響き、香ばしい匂いが広がり始める。私はフライパンを揺らしながら、呆れたように肩をすくめた。
「面倒だったから、平田くん目当ての女子は全部彼に任せて、それ以外の生徒を私と他の教師役の数人で教える形にしたの」
「それだと、平田の負担が大きそうだが」
「うん、見てて本当に大変そうだった」
(まあ、教わるついでに余計な話をしようとする相手を、平田がちゃんと注意していたのは意外だったけど)
いつもなら誰にでも優しい彼が、今回ばかりは馴れ合いを許さず勉強に徹させたからこそ、周りの生徒達もだれることなく最後まで集中を保てたのだろう。
フライパンのチキンライスを手際よく仕上げながら、私は言葉を続ける。
「でも、そのおかげでこっちは何事もなく、無事にトラブルもなしで終わったよ」
それを聞いた清隆は、納得したように小さく頷いた。
チキンライスをお皿に綺麗に盛り付け、手早くフライパンを洗って次の工程へと移った。
ボウルに卵を割り入れ、菜箸でシャカシャカと軽快に混ぜ合わせる。
熱したフライパンにバターを溶かし、一気に卵液を流し込んだ。じゅわっと心地よい音を立てて膨らむ卵を、絶妙な半熟のうちに素早くチキンライスの上へと滑らせる。
綺麗な黄色の卵が、真っ赤なチキンライスをふんわりと包み込んだ。
湯気が立ち上る熱々のお皿を両手に持ち、私はリビングのテーブルで待つ清隆の前へと運んだ。
「出来たよ〜♡」
誰も見ていない二人きりの空間だからこそ、いつもより可愛らしく、声音を弾ませて目の前に差し出してみせる。
「……ほう」
目の前に置かれた綺麗なオムライスを見つめ、清隆が小さく声を漏らした。いつも通りのポーカーフェイスではあるものの、その瞳には明確に興味を惹かれているような色が浮かんでいる。
「なかなかのクオリティだな。美味そうだ」
「ふふ、まだ未完成だよ。ケチャップは後からかける派だからね」
私はキッチンからケチャップを持ってくると、清隆のオムライスの前でキャップを開けた。ケチャップを構えたまま、座っている清隆の顔を覗き込む。
「ねえ、オムライスにケチャップで何か書く?」
「……書く? ケチャップでか?」
清隆は首を少し傾げ、文字通り不思議そうな顔をした。どうやらオムライスにケチャップで文字や絵を描くという発想自体が、彼の頭にはなかったらしい。
「そうだよ。文字とか可愛いイラストとかを描いてデコレーションするの。ほら、オムライスと言ったら定番の楽しみ方でしょ?」
「なるほど……そういうのは知らなかったな。ただケチャップをかけて食べるものだと思っていたから新鮮だ」
私の説明を聞いた清隆は、感心したように手元を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「俺にはそういうセンスがないからな。……ルヰ、お任せで頼めるか」
「うん、いいよ!じゃあ、ちょっと待ってね」
二人きりの空間だからこそ、清隆が私の名前を呼ぶ声が心地よく耳に届く。
私はふふっと笑いながらボトルの先を向け、綺麗な黄色の卵の上にケチャップを絞り出した。私の思う清隆のイメージを思い浮かべながら、手際よく線を引いていく。
「……できた。はい、清隆のオムライス!」
「これは……狐、か?」
「正解!私から見た清隆のイメージだよ。どこか掴みどころがなくて、賢くて、ちょっと底知れない感じが狐っぽいなと思って。可愛く描けたでしょ?」
卵の真ん中に描かれた、ちょこんとした可愛い狐の顔を見て、清隆は珍しく少しだけ目元を緩めた。
「底知れない、か。まあ、可愛く描いてくれたのは素直に嬉しいな」
清隆はそう言って手を伸ばすと、私の手からケチャップをそっと受け取った。
「なら、俺もお前のオムライスに描いていいか? 俺から見た、ルヰのイメージはこうかな」
「え、清隆も描いてくれるの? 楽しみ……!」
清隆は私の皿を引き寄せると、迷いのない手つきでケチャップを絞り始めた。前にアイコンのイラストを描いてくれた時も思ったけれど、やっぱり手先が器用だなと思う。ブレのない指先が、滑らかに卵の上で赤い流線を描いていく。
「……よし、これで完成だ」
清隆がボトルを置いた先、私のオムライスに描かれていたのは――。
「あ、猫だ! すごい上手だね」
「お前は気まぐれで自由だし、こうして俺の部屋にいる時もどこか猫っぽいところがあるからな」
「ふふ、猫かぁ。清隆にそう思われてるなら、悪くないかな」
お互いのオムライスに描かれた、ケチャップの狐と猫の絵。
それを見比べながら、私達は自然と笑みをこぼし、改めてスプーンを手にした。
「じゃあ、今度こそ冷めないうちに。いただきます」
「ああ、いただきます」
一口すくって口に運ぶと、卵のふわふわ感とチキンライスの旨味が広がって、お互いに大満足の夕飯タイムが始まった。
スプーンを動かし、絶妙な半熟卵とチキンライスの調和を堪能しながら、私はふと思いついたことを口にした。
「ねえ清隆、ちょっと相談なんだけど、動画投稿はテスト期間中はしばらくお休みした方がいいかな?」
「動画投稿を、か?」
「うん。でも配信は続けるつもり」
清隆はオムライスを綺麗に一口すくい、それを口に運んで咀嚼してから、いつもの冷静な声で言葉を返してきた。
「そうだな。動画の作成は企画や編集を含めて、どうしてもまとまった時間を消費する。この学校は赤点を取れば即退学という厳しいルールだし、お前が他の生徒の面倒を見る時間を作るという意味でも、投稿を一時的に止めるのは妥当な判断だと思う」
「やっぱりそうだよね。編集ってどうしても時間持っていかれちゃうし」
「ああ。だが、配信に関してはあらかじめ時間を区切って行うのであれば、そこまで大きな負担にはならないだろう。張り詰めた勉強期間の中で、良い気分転換になるんじゃないか?」
「そっか。清隆にそう言ってもらえるとすっきりした」
私はスプーンを持ったままふふっと笑い、対面に座る清隆を見つめた。
「じゃあ、動画はテストが終わるまでお休みにして、配信でみんなと少しお喋りするくらいに留めておくよ。……あ、もちろん清隆と過ごす時間もちゃんと確保するから安心してね?」
「……俺のことは気にしなくていい」
清隆はそっけなく視線を皿へと戻したが、相変わらずポーカーフェイスな彼にしては、ほんの少しだけ生真面目に応答したように見えて、私は心の中で小さく笑った。
目の前で、私の作ったオムライスを黙々と口に運ぶ清隆の姿を見つめる。
一歩間違えれば即退学というシビアなルールが付きまとう、この一風変わった学校。けれど、ここで過ごす毎日は、私のこれまでの人生の中で間違いなく一番幸せな時間だった。
お互いの事情に余計な詮索はせず、深い信頼の上で、こうして二人だけの特別な空間と時間を共有できている。
自分の居場所がここにあると実感できる平穏な日々は、私にとって、まさに天国のようだった。
スプーンを動かしながら、オムライスの味と一緒に、胸の奥に込み上げてくる確かな幸福感をそっと噛み締める。
(私……この学校に来てよかった)
◇
私の配信活動は、言葉通り凄まじい勢いで成長を続けていた。
学校専用の動画アプリでのチャンネル登録者数は、早くも200人を突破。さらに、超有名な動画サイト『夢チューブ』でのフォロワー数はすでに1万人を超えている。
高度育成高等学校という特殊な閉鎖空間において、デビューからわずか半月という短期間で、これほどの結果を、文字通り異例のスピードで築き上げたのは、まさに快挙と言ってよかった。
けれど、有名になるにつれて、当然そのぶん影も濃くなる。
知名度が上がるにつれて、私の元にもいわゆる "有名税"――アンチという名の有象無象が湧き始めていた。
「……うっざ。ほんと、どいつもこいつもくだらない」
昼休みの女子トイレ。鍵を閉めた個室の狭い空間で、私はスマホの画面を睨みつけながら、低く冷ややかな声を漏らした。
普段、動画やアカウントの管理はプロデューサーである清隆がやってくれている。彼が裏で有能に立ち回り、不快なコメントは見つけ次第すぐに削除やブロックをしてくれているはずだった。
それなのに、アプリの通知欄を開けば、清隆の削除対応が追いつかないほどの勢いで、今この瞬間もリアルタイムで大量のアンチコメントが次々と湧き上がっている。
文体を変え、アカウントを変え、必死になって私を叩こうとしているが、発信元(ID)が同じ身内の数人であることくらい、一発で透けて見えた。
『調子乗んな』
『大して面白くもないくせに』
画面が更新されるたびに増えていく、嫉妬に塗れたその言葉を、私は感情の動かない指先で淡々とスクロールしていく。
「画面越しでしかイキれないカスどもが。私に直接文句を言う度胸すらない陰キャのくせに、自己主張だけは一丁前なわけ?」
口元に酷薄な笑みを浮かべ、清隆の手を煩わせるまでもないと、私も自分の指先でアンチコメントを機械的に一括削除し、アカウントごとブロックリストへ叩き込んでいく。
こんな底辺の遠吠えに付き合ってやる時間なんて、私には1秒だってないのだ。
(あーあ、ただでさえここ数日、清隆と一緒に昼休みを過ごせなくてストレスが溜まってるのに。余計、気分悪くなった……)
小さくため息を吐き、スマホを制服のポケットにしまう。
ここ数日、Dクラスの勉強会は変化を迎えていた。
あの初日に大喧嘩したはずの堀北が、何やら改心した様子で須藤達に頭を下げて謝罪したらしい。
おかげで彼女達の勉強会も無事に再開。そのせいで、清隆は昼食を済ませるとすぐに図書室へと連行され、時間ギリギリまで堀北達の勉強に付き合わされている。
私自身も平田の方の勉強会を手伝っているとはいえ、清隆を他人に独占され、お昼を一緒に過ごせない現状は、控えめに言ってかなり不愉快だった。
そこに加えて、この底辺どもの粘着コメントだ。今の私の不機嫌メーターは完全に振り切れている。
(そろそろ戻んないと怪しまれるかな。一応、トイレに行くって言って勉強会から抜けてきたわけだし……)
そう思って、ドアの鍵に手をかけた――まさにその時だった。
ガチャリ、とトイレの入り口のドアが開いて、数人の賑やかな話し声が響いてきた。
彼女達は個室に入ることなく、洗面台の前で足を止め、鏡を見ながらお喋りを始めたようだ。
耳を澄ませてみても、まったく聞き覚えのない声――他クラスの生徒達だ。
「てかさー、中間テストの範囲変更、マジだるくない?」
「それな。全教科、範囲が変わるとかありえないよねー」
ひとしきり愚痴を言い合うと、彼女達はリップを塗り終えたのか、そのまま賑やかに去っていった。
バタン、とドアが閉まり、再び静寂が戻った個室の中で――私は完全にフリーズしていた。
(……は? テスト範囲、変更? しかも、全教科……?)
さっきまでアンチに向けていたイライラが一瞬で消し飛び、脳内が急速に冷えていく。
他クラスの生徒が当然のように愚痴をこぼしているということは、普通に考えれば、数日前のホームルームかどこかで担任の先生から通達があったはずだ。
なのにここ数日、茶柱は私達にそんなこと一言も言っていなかった。
つまり、知らされていないのは私達Dクラスだけ。学校側か、あるいは茶柱が意図的に情報を伏せたんだ。
それが事実なら、私達が必死にやっている勉強のここ数日間の努力が全て無駄になっているということになる。
「……ふざけんな」
低く、地を這うような声が口から漏れた。
何考えてんだ、あの女。
私の貴重な時間と、ここ数日のストレスを全部台無しにしやがって。
図書室にいる清隆は、すぐにはスマホを見られないだろうけど、とりあえず事の詳細をメッセージに打ち込んで送信しておく。
それから個室の鍵を開けて外に出ると、私は平田達が待つ教室へと早足で戻った。
教室に戻ると、出ていった時と変わらず、平田は数人の生徒に囲まれて勉強を教えていた。私は足早に彼へと歩み寄り、周囲に聞こえないように声をかける。
「平田くん、ちょっといい?」
「結城さん……?」
私の少し強張った表情を察したのか、平田が微かに眉をひそめる。私は彼に一歩近づき、周囲に会話が漏れないよう、その耳元に顔を寄せた。
「……さっき、他のクラスの子が話してるのを聞いちゃったんだけど。中間テストの範囲が変更されたみたい」
それを聞いた平田は一瞬だけ動きを止め、小さく息を呑んだ。
劇的に表情を変えることはなかったけれど、真面目な彼の瞳が、事態の深刻さを物語るようにすっと細められる。
今ここで詳しく詮索すれば、せっかく集中して勉強している周りの生徒達が驚いて手を止めてしまう。クラス全体に無用な混乱と不安が広がるだろうと、彼は瞬時に判断したようだった。
彼は持ち前の冷静さとクラスメイトへの気配りを発揮し、いつもの穏やかで優しい声を崩さないまま周りの生徒達へ声をかけた。
「みんなは気にせず、続けてて。ちょっと結城さんと話があるから」
突然の会話の遮断に少し顔を上げた生徒達を安心させるように、平田はにこりと微笑んでみせる。彼のその言葉のおかげで、生徒達が不審に思って手を止めることはなかった。
それから私の方へ振り返ると、先ほどとは一転して真剣な表情で頷いた。
「今から茶柱先生のところへ確認に行こう。結城さん、一緒についてきてくれるかい?」
「うん、分かった」
私は小さく頷き、平田の後を追って、そのまま2人で直接職員室へと向かった。
職員室の重い扉を開けると、平田は真っ直ぐに茶柱のデスクへと歩み寄った。私はその少し後ろに立ち、ポケットの中で録音アプリを起動させる。
「茶柱先生。急ぎ確認したいことがあります」
「随分と物々しい様子だな。他の先生達が驚いてるぞ」
「お騒がせしたことはお詫びします。……先生、先週伺った中間テストの範囲ですが、あれに間違いはありませんか? 先ほど、他クラスの生徒からテスト範囲が全教科変更になっているという話を耳にしたのですが」
茶柱は眉ひとつ動かすことなく、平田の話に耳を傾ける。そして黙って聞いていた彼女の、ペンを動かす手が止まった。
「……そうか、中間テストの範囲は先週の金曜日に変わったんだったな。悪いな、お前達に伝えるのを失念していたようだ」
「……っ」
平田は一瞬だけ目を見開いた。
けれど、そこから感情的に声を荒らげるようなことはしなかった。彼はすっと深く息を吸い込むと、すぐにいつもの理性的で穏やかな表情を取り戻す。その瞳には、どこか深い「呆れ」と「諦め」が混ざっていた。この人にこれ以上何を言っても無駄だ、と察したのだろう。
茶柱はノートにサラサラと五科目分のテスト範囲を書き出し、ページを切り取って平田へと手渡した。
「まぁ、焦る事はない。まだ十日もある、これから勉強すれば楽勝だろう?」
悪びれることもなく、あからさまに惚けた態度でそう言い放つ茶柱。
その白々しい様子を冷ややかに見つめながら、私は確信していた。
(忘れてた、ねえ。よくそんな嘘が平気でつける)
学校側の不手際でもなんでもない。この女が、自分の意志でわざとDクラスにだけ情報を流さなかったんだ。私達が無駄な勉強に時間を費やして、勝手に自滅していく様を特等席で楽しんでいたに違いない。
「……分かりました。お時間を取らせてすみません、失礼します」
平田はそれ以上茶柱を追及することなく、丁寧に一礼して綺麗に踵を返した。
一度もこちらに目を向けようとしない茶柱の背中を見つめながら、私は平田の後に続き、職員室を出た
職員室の扉が閉まり、静まり返った廊下に出たところで、平田が小さく息を吐いて私を振り返った。
「結城さん、本当にありがとう。君が他クラスの子の会話に気づいてくれなかったら、僕達はもっと取り返しのつかない時間を無駄にするところだったよ」
「ううん、偶然だよ。でも、早い段階で気づけてよかったね」
私の言葉に、平田は手元の紙を見つめながら、どこか腑に落ちない様子で眉をひそめた。
「うん。テストまではまだ十日あるから、今から死に物狂いでやれば、まだみんなを間に合わせられるかもしれない。……ただ、今すぐクラスのみんなにこの話を伝えると、動揺して混乱してしまうと思うんだ。だから、この範囲変更のことは今日の放課後にみんなに話そうと思う。それなら、新しい範囲に合わせた対策も落ち着いて説明できるからね」
「わかった。平田くんがそう言うなら、私も放課後までは黙っておくね」
「ありがとう。……それじゃあ、僕はみんなの分のコピーを取ってから教室に戻るよ。結城さんは先に戻っていてくれるかい?」
「うん、分かった」
平田と別れて、1人で教室へと向かう。
その道すがら、私はポケットからスマホを取り出した。
画面をタップし、図書室にいるはずの清隆とのトーク画面を開く。
ついさっき、送信したメッセージのすぐ下に続けるようにして、今しがた職員室で録音したばかりの、茶柱との音声データを送信した。
(さて、これを見て清隆がどう判断するかだな。この問題に対処するのも、あるいはただ傍観するのも彼の自由。私はその答えがどちらであれ、否定するつもりはない)
期待も依存もしない。ただ、事実だけを彼に投げる。
(……でも、何だかんだでお人好しなところがある彼のことだから、きっと――)
スマホをポケットにしまい、特に表情を変えることもなく、私はそのまま教室のドアへと手をかけた。
中間テストを翌日に控えた、放課後のホームルーム。
茶柱が教室を出ていき、いよいよ明日に迫った本番を前に、教室内には緊張感が漂っていた。
「みんな、明日の中間テストに備えて少し力になれるものがあるの。今からプリントを配るね」
そういって櫛田が笑顔で掲げたのは、3年の先輩から貰ったという全教科の過去問だった。
「一昨年の中間テストなんだけど、毎年これとほぼ同じ問題が出るんだって。だからこれを勉強しておいてね」
それが配られた瞬間、それまでどんよりとしていた教室内は一気にお祭り騒ぎのような歓声に包まれた。
「マジかよ!」「これで助かる!」と大喜びする池や須藤達の姿を視界の端に収めながら、私はふと、隣に視線を向けた。
そこには、周囲の喧騒など気にも留めない様子の清隆の姿がある。
(これが清隆の言っていた『なんとかする』の答え、か)
どうやって過去問を手に入れたのかも、なぜ櫛田を介して配らせたのかも分からない。けれど、やっぱりあの時思った通り、何だかんだで動いてくれたんだな、と思う。
(……本当に、お人好しだね)
心の中でそっと呟く。
過去問を手に大はしゃぎするクラスメイト達の中で、ただ一人淡々と佇む清隆を、私は静かに見つめ続けた。
◇
中間テスト当日。
これまでに配られた科目は、何の問題もなくスムーズに解き進めることができた。
英語のテストを直前に控えた、わずか十分足らずの休み時間。
「俺120点取っちゃうかもなー!」と余裕の笑みを浮かべてはしゃぐ池や山内の傍らで、須藤だけが周囲の空気から完全に孤立していた。
机にかじりつき、額にびっしりと汗を浮かべながら英語の過去問を睨みつけている。
異様な様子に気づいた櫛田や堀北が声をかけたことで、最悪の事実が発覚した。
他の教科は万全なものの、一番の難問である英語の暗記中に不覚にも寝落ちしてしまい、今初めて過去問に目を通しているのだという。
「須藤くん、点数の振り分けが高い問題と、答えの極力短いものを覚えましょう」
堀北がすぐさま現実的な指示を飛ばし、必死の暗記を促す。けれど、基礎ができていない英語をたった数分で詰め込むなど、どう考えても無理があった。
その様子を自分の席から静かに眺めていた私は、ふらりと彼らの席へと近づき、淡々と切り出した。
「ちょっと話が聞こえてきたんだけど。テストが不安なら、無理して今から暗記するよりも、テストの平均点を下げればいいんじゃないかな?」
私の突拍子もない提案に、堀北が険しい視線を向けてくる。
「……どういうことかしら?」
「あの時、茶柱先生は赤点ラインを35点あたりだと言っていたけど、あれは前回の小テストの平均点を元にしただけの数でしょ。でも、今回は過去問がクラス中に出回っている。そうなれば全体の平均点は前回よりも確実に跳ね上がるはず。例え35点以上取れたとしても、赤点になって落とされる可能性があるんだよ」
その指摘に、堀北と櫛田がハッとしたように目を見開いた。
「だから成績に余裕がある人に、英語のテストの点数をわざと下げてもらうの。今回の1番の問題は退学者が出ることなんだから、要はそれさえ回避できればいいわけでしょ?」
「点数を下げるって……1人や2人がやったところで、平均点は大して変わらないわよ」
「だから、1人じゃダメ。5、6人に、そうだな……50点くらい取ってもらえば、平均点はかなり下がるんじゃない? その代わり、ちゃんと君が頭を下げてお願いしなよ」
私の言葉に、櫛田が不安そうに眉を寄せる。
「でも、そんな無茶なこと、みんな協力してくれるかな……」
「平田くんに頼めば?」
私がその名前を出した瞬間、須藤は露骨に嫌そうな顔をして声を詰まらせた。
「……平田、かよ」
「彼なら、みんなの為に勉強会をわざわざ開くほどのお人好しだし、快く引き受けてくれるんじゃない? クラスでの信頼も厚いしね」
「けどよ、あいつにそんな……」
刻一刻とテスト開始のチャイムが迫る中、なおも煮え切らない態度を見せる須藤を、私は冷ややかに見つめる。
「何をそんなに嫌がるのか分からないけど。自分の下らないプライドを優先して、赤点や退学のリスクが高い方を選ぶって言うならそれでいいんじゃない? 好きにしたら。……私が言いたかったのはそれだけ」
そう言い残すと、私は彼らに背を向けて自分の席へと戻った。
それから程なくして、私の手厳しい一言が効いたのか、堀北と櫛田を引き連れて、少し気まずそうに平田の元へと向かっていく須藤の姿が、視界の端に見えた。
やがてテスト開始のチャイムが鳴り、クラスの面々がそれぞれの席へと戻り始める。その輪に混ざって席に戻ってきた清隆が、椅子を引くが早いか、周囲に聞こえないほどの小声でボソッと呟いてきた。
「意外だな」
その場で私の言葉を聞いていた彼からすれば、他人の危機にわざわざ口を挟んだのが珍しかったのだろう。
「……別に。彼らに一つ、私への借りを作らせておいてもいいかなって思っただけだよ」
すました顔でそう返して、私は机の上の教材を片付け、前を向いた。
――というのは、ただの表向きの理由。
本当は、清隆がせっかく裏で動いて手に入れた過去問のせいで、平均点が跳ね上がり、結果的に須藤が切り捨てられるなんていう、そんな滑稽な結末にしたくなかっただけ。
(彼の苦労を、こんなところで無駄にさせてたまるものか)
そんな私の内心など露知らず、清隆はいつもの無表情のまま、「そうか」と小さく呟くだけにとどめた。
中間テストが終わった、その日の放課後。
買い出しを済ませた私達は、揃って私の部屋へと帰宅した。
鍵を開けて室内に入り、パタンとドアを閉める。鍵をかける音が静かに響くと、学校での緊張感が一気に抜けていくような心地がした。
「ふぅ……。何はともあれ、無事にテストが終わったね」
鞄を床に置き、制服のリボンを少し緩めながら、私は小さく息を吐いた。
「そうだな。平田や堀北、それに櫛田や王も、お前の作戦通りに点数を調整して解答したらしいからな。不自然にならない程度に、俺も少し手は抜いておいたが、あとは結果がどう出るか……」
いつもと変わらない、抑揚のない声。けれど、クラスの主要メンツや英語が得意な王美雨(通称みーちゃん)まで巻き込んで、完璧に作戦の土台を整えた私の段取りの良さに、清隆もどこか感心しているようだった。
「まあね。私の読みが完璧なら、これで平均点はきれいに下がるはずだよ」
ふふ、と少し得意げに笑ってみせる。
けれど、そんな学校でのやり取りや結果の行方は、もう今の私にはどうでもよかった。
せっかくテストという大きなイベントが終わり、誰も邪魔者のいない、私と清隆だけのプライベートな空間にいるのだから。
私は一歩、清隆との距離を詰める。
そして、彼の制服の袖口をきゅっと少し強めに、縋るように指先で掴んだ。
普段の学校で見せている、周囲を突き放すような冷徹な態度は、もうここにはない。
「ねぇ、テストも終わったし……今日は泊まっていって?」
少し上目遣いで彼を見上げながら、甘えた声でそうおねだりしてみる。
私の突然の豹変に対しても、清隆の表情はピクリとも動かない。いつもの無表情のまま、掴まれた袖口と私の顔を交互に見つめている。
けれど、彼が拒絶の言葉を口にしないことくらい、この一ヶ月半、誰よりも近くで彼を見つめてきた私にはよく分かっていた。
しばらくの沈黙のあと、清隆は小さく息を吐いて口を開いた。
「……分かった。じゃあ、今日はそうさせてもらう」
いつも通りの淡々とした声だったけれど、その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にじんわりと甘い嬉しさが広がっていった。
◇
中間テストが終了したあの日の夜、数日ぶりに互いの体温を深く確かめ合った、甘く濃密な時間。
それから数日が経ち、ついに結果が発表される日の朝を迎えた。
ホームルームのチャイムが鳴り、教室に足を踏み入れた瞬間、茶柱は驚いたように生徒達を見回した。
クラスの面々が中間テストの結果発表を固唾を呑んで待っていたため、室内には只ならぬ気配が蔓延している。
そんな重苦しい沈黙を破り、平田が真っ先に声を上げた。
「先生。本日採点結果が発表されると伺っていますが、それはいつですか?」
「お前はそこまで気負う必要もないだろう平田。あれくらいのテストは余裕のはずだ」
「……いつなんですか」
食い下がる平田の様子に、茶柱はふっと口元を緩める。
「喜べ、今から発表する」
例のごとく、この学校は詳細をまとめて告知する形式なのだろう。
茶柱の手によって、生徒の名前と点数の一覧が載せられた大きな白い紙が、黒板へと貼り出された。
「正直、感心している。お前達がこんな高得点を取れるとは思わなかったぞ。数学と国語、それに社会は同率の1位、つまり満点が10人以上もいた」
紙にずらりと並んだ『100』という数字に、教室のあちこちから喜びと歓喜の声が上がる。
けれど、私の視線は真っ直ぐにその紙の最下部――須藤の名前へと向けられていた。
そこに書かれていた須藤の英語の点数は――『39点』。
「っしゃ!!」
思わずといった様子で、須藤が勢いよく立ち上がり叫んだ。それにつられるように、池や山内達も同時に立ち上がって大はしゃぎし始める。紙に不合格者を示す赤線が引かれていないのを見て、直感的に合格したと思い込んだのだろう。
(……本当に、気が早いんだから)
私は心の中で小さく溜息をつく。
いくら自分の点数が35点を超えていようと、クラス全体の平均点が正確にわからない以上、本当に彼が赤点ラインを上回っているのかは断定できない。
不安気な様子で黒板の点数一覧を見つめる堀北や平田も、まだ表情を硬くしたままだ。
そんな教室の喧騒の中、教壇に立つ茶柱が、ククッと皮肉げな笑い声を漏らした。
「須藤、大はしゃぎしているところ悪いが、まだ安心するのは早いぞ。今回の中間テスト、どういう風の吹き回しか全体的にお前達の点数が異常に高くてな。特にその英語だが、もし上位陣が普通の実力を出していれば、全体の平均点は『80点』に達するところだった。……そうなれば赤点ラインは40点。お前の39点では、本来なら一発アウトで退学だったわけだ」
茶柱の口から飛び出した冷酷な事実に、はしゃいでいた池や山内がピキリと凍りつき、須藤の顔から一気に血の気が引いていく。
「だが」と、茶柱は貼り出された紙を冷ややかに指差した。
「不思議なことに、クラスの優秀層数名が、なぜか英語だけ50点前後という不可解な低得点を取っていてな。……その奇妙な減点のおかげで、英語の平均点は『73点』まで引き下げられ、最終的な赤点ラインは『36点』となった。須藤、お前はの点数は39点。文字通り、首の皮一枚繋がったな」
彼女のその言葉を聞いて、ようやく堀北や平田の肩からすっと力が抜けた。
そして、今度こそ教室中に本物の歓声が巻き起こる。須藤はガタガタと膝を震わせながら「た、助かった……」と机に突っ伏していた。
私達が意図的に点数を操作した成果が、完全に実を結んだ瞬間だった。
隣に座る清隆にそっと視線を送ると、彼もまた、いつもと変わらない無表情のままこちらを見ていた。
ほんの少しだけ自慢げにすました笑みを返すと、清隆は小さく息を漏らすようにして視線を前に戻す。
あの夜、私の部屋で見せてくれた甘い顔とは違う、いつもの冷徹で、けれど確かに通じ合っている彼の相棒としての視線が、たまらなく心地よかった。
テスト結果の余波で騒がしい教室を後にした放課後。
今日は清隆の部屋に泊まるため、彼と並んで寮へと向かっていた。
エレベーターを降り、いつものように清隆が自室のドアに手をかけた、その時――。
彼はピタリと動きを止め、わずかに眉をひそめた。
「……。」
「清隆……?」
どうしたの? と声をかけようとした私を、清隆は「しっ」と唇の前に人差し指を立てて制した。
いつになく鋭く警戒するような目で玄関を見つめる彼の様子に、異常事態が起きているのだと察し、私は咄嗟に口を閉じる。
清隆は音を立てずにゆっくりとドアを開け、隙間から中の様子を確認した。数秒の沈黙の後、彼はまた慎重に扉を閉じ、私を促すように少し距離をとる。
「……池や須藤達がいる」
「えっ、なんで清隆の部屋にいるの!?」
「それはわからない。……とりあえず、お前は一度自分の部屋に戻れ。あいつらが帰ったら連絡して呼ぶ」
「それはいいけど……どうやって入ったのか理由もちゃんと聞いておいてよね」
「わかってる」
せっかくの予定を邪魔されて、納得のいかない気持ちはあったけれど、ここで鉢合わせて無用な問題を起こしたくはない。私は大人しく自分の部屋へと引き上げ、彼からの連絡を待つことにした。
――それから数時間後。
ようやく池達が帰ったという連絡を受け、私は再び清隆の部屋を訪れた。
「……で、なんであいつらが部屋に入れたわけ?」
開口一番に尋ねると、清隆は少し面倒そうに息を吐いた。
「須藤達の赤点回避の祝勝会をやるのに、あいつらの部屋は散らかっているし、女子の部屋を使うわけにもいかないからと、消去法でここが選ばれたらしい。堀北も無理やり付き合わされたみたいだな。……だが、問題はどうやって俺の部屋の鍵を手に入れたかだ。驚いたことに、堀北以外のあの4人全員が、それぞれ俺の合鍵を持っていたんだ。誰が複製して渡したのか問い詰めてみたが、全員がとぼけて最後まで口を割らなかった」
「はぁ!? 何それ……怖すぎるんだけど。ねぇ、なんで誰もそこを言わなかったんだろう」
私の純粋な疑問に、清隆は視線を少し落とした。
「俺もそこはさっぱりだ。だが……(あの3人も黙ってるってことは、誰かを庇ってるってことだ。俺の合鍵を持っていたあの4人の中で、あいつらが進んで庇う相手となれば……)」
突然会話が止まった清隆。
もしかしたら、彼には鍵を配った犯人がわかっているのかもしれない。
けれど、清隆はそれ以上深く追及するつもりはないようで、すぐに話を締めくくるように言葉を続けた。
「まあ、鍵はしっかり回収したし、これ以上あいつらが勝手に入ってくることはないはずだ」
彼の言葉に頷きつつも、私はさっき見つかりそうになった時の感覚が忘れられず、そっと胸を撫でおろす。
「……あのまま気づかずに入ってたら本当、危なかった。もし部屋の中で鉢合わせてたら、大惨事だったよ」
心底ゾッとした思いで私がそう溢すと、清隆はいつもの淡々とした調子で首を傾げた。
「テストの打ち上げに参加しに来た、と言えば言い訳は立つんじゃないか?」
「……はぁ?」
あまりにも男女の機微を分かっていないズレた返しに、私は思わずジト目を向けた。
この男、本気で言っているんだろうか。
「あんた達の勉強会にこれっぽっちも参加してない私が、打ち上げにだけひょっこり顔を出すなんておかしいでしょ。絶対に変に勘繰られるわよ」
「そうか? 別に俺達は――」
「それに、普通に考えてマズイでしょ!!」
平然と言い返そうとする清隆の態度に、胸の奥のモヤモヤが一気に跳ね上がる。
男の部屋に泊まりに来ているという、自分の中の『やましい自覚』を突っつかれたような恥ずかしさも手伝って、私はカッと顔を熱くしながら捲し立てた。
「彼女でもない女が、夜に男の部屋に一人で来るなんて……! やましい関係だってすぐに疑われて、クラス中に噂が広がるに決まってる!」
口を尖らせて正論の盾で必死に防衛線を張る私を、清隆はそれ以上言葉を挟まず、ただ静かに見つめてくる。
そのまっすぐで、どこか見透かすような瞳に見つめられているうちに、私の勢いは急速に萎んでいった。声を荒らげた気恥ずかしさと、心の奥に澱のように溜まっていた重い感情が、急激に胸を支配していく。
(……私達のこの関係って、結局のところ、セフレ……だよね)
もともとは、彼に私のプロデューサーになってほしくて、その条件として取り付けたことから始まった関係だ。
お互いの利害が一致したからこそ成立した、ただの取引。最初からそこに、甘い愛なんて存在するはずがなかったのだ。
学校ではただの隣の席のクラスメイト。けれど夜になれば、こうして誰にも言えない秘密を共有しながら、お互いの体温を深く確かめ合う。でも、それは恋人という形ではなく、あの時の『条件』をただこなしているだけに過ぎない。
清隆のどこまでもフラットで揺るぎない態度を見るほどに、「確かに愛はないよな」と突きつけられた気がして、急に酷く虚しくなって落ち込んでしまった。
俯いて視線を落す私を、清隆はしばらく静かに見つめていたが、やがて彼はいつもと変わらない淡々とした声で、静まり返った部屋に信じられない言葉を落とした。
「やましい関係……だったら、なってみるか?」
「へ……?」
突飛な言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。清隆の表情は相変わらずこれっぽっちも動いていなくて、その瞳の奥の感情はやっぱり読めない。
「付き合おう。それなら問題ないんだろ?」
「はぁ!? 何言ってんの? そんな、適当な……っ」
あまりにもいつも通り淡々と、まるで明日の天気を話すようなトーンで言われたことに、不満の思いがふつふつと湧き上がる。女子にとって一大イベントの告白なんだから、もっとこう、雰囲気とか、男子からちゃんと言うべき言葉とか、いろいろあるんじゃないの?
……だけど。
そんな理屈っぽい内心の反発なんて、一瞬で吹き飛ぶくらい。
心臓がうるさいほどに脈打って、嬉しさに視界がにじみそうになる。
本当、この男には一生敵いそうにない。
「うん……!」
静まり返った部屋の中で、私の素直な返事だけが、小さく優しく響いた。
清隆が、どうしてその言葉を口にしたのか。彼のどこまでも合理的で冷徹な思考回路を知っている私には、痛いほどよく分かっていた。
これはきっと、私が部屋に来やすくするための、ただの"理由づけ"だ。外堀を埋めて「やましい関係」という問題を一発でクリアするための、彼なりの最適な手段に過ぎない。そこに、世間一般の恋人達が持つような甘い愛なんて、きっと一滴も含まれていない。
……そんなこと、最初から分かっている。分かっているのに。
胸の奥から溢れ出して止まらない、泣き出したいほどの幸福感が、何よりも明確な答えを教えてくれている。
(私……とっくに、清隆のことが好きだったんだ)
たとえ彼にとってはただの合理的な手段だったとしても、その口から「付き合おう」なんて言葉が紡がれたことが、どうしようもなく嬉しくて、愛おしい。
自分でも気づかないうちに大きく育ててしまっていた恋心が、彼の一言で、一気に胸の中で開花したのが分かった。
視界がじわりと熱いもので滲んでいく。
そんな私を、清隆は茶化すこともなく、ただ静かに、けれどいつもよりずっと優しい眼差しで見つめていた。
彼はゆっくりと私との距離を詰めると、ベッドに腰掛けた私の頬にそっと手を伸ばした。大きくて温かい手のひらが肌に触れ、親指の腹で、零れそうになった涙を優しく拭ってくれる。
「これからは、後ろめたさを覚える必要はない。お前は堂々と、ここにいればいい」
耳元に届く彼の声が、いつもよりずっと優しく響いて、張り詰めていた心が温かいもので満たされていく。
彼にとっての始まりは"理由づけ"だとしても。今日から私達は、誰にも言えない秘密を抱えた『恋人同士』になったのだ。