転生した。
たぶん。
少なくとも、マンホールの底へ落ちて頭を打った人間が、そのまま生きている状態ではなかった。
死因は歩きスマホだった。
友人から届いた「今どこ?」というメッセージに返信しようとして、工事中のマンホールへ落ちた。顔を上げたときには、薄汚れたコンクリートの壁が勢いよくせり上がっていた。
「え」
間の抜けた声だけが残った。
肩が壁にぶつかり、手からスマートフォンが離れる。白い画面が暗闇の中で回転し、そのまま俺より先に底へ消えた。
直後、頭に強い衝撃が走った。
そこで、すべてが途切れた。
◇
最初に感じたのは、熱だった。
「熱っ……!」
反射的に顔を庇う。火傷するほど熱ではないが、明確な不快感。だが、炎も煙もない。木々の隙間から差し込んだ細い光が、剥き出しの腕をじりじりと炙っていた。
慌てて影の中へ身を引き、息を呑む。
視界に入った自分の腕が、不健康なほど白く、細く、小さかった。手のひらも指も、明らかに成人男性のものではない。
「……なんだ、これ」
声が高い。喉に触れようとして、指先が赤と白のフリルに引っかかる。
その感触に、嫌な予感が背筋を走った。
「ひっ」
本来なら存在しないはずの何かが、背中で俺の動揺に反応してビクリと動いた。
恐る恐る手を回す。指先が触れたのは、骨のように硬い軸と、その間に張られた冷たい膜。
どう見ても、蝙蝠の羽だった。
「待て待て待て」
頭に触れる巨大な帽子。大きなリボン。点と点が繋がり、一つのキャラクターの姿が脳裏に浮かび上がる。
周囲を見渡した。
見慣れたアスファルトの道路も、コンビニも、工事中だったマンホールも、どこにもない。
ただ、鬱蒼とした見知らぬ森が広がっている。
俺は足元の濁った水たまりを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、淡い水色の髪、紅い瞳、赤いリボンのついた帽子。
そして背中から生えた蝙蝠の羽。
「レミリア・スカーレット……」
水面の少女が、俺と同じように頬に触れ、同じように大きく目を見開いている。
どうしてこうなった。
転移、転生、憑依。
細かいことはわからない。
だが、腕に残る熱も、羽に触れた指先の感触も、湿った森の匂いも、夢や幻とは思えなかった。
ドクン、と心臓が跳ねた。
恐怖ではない。興奮だった。
「いや、待て。これ……当たりじゃないか?」
思わず頬が緩んだ。
東方Projectの吸血鬼。しかもレミリア・スカーレットである。
少なくとも弱者ではない。むしろ、明確に強者側の存在だ。
わけのわからない一般人や、何の力もない村人に転生するより、遥かにいい。
知らない世界だろうと、この身体が設定どおりなら、そう簡単には死なない。
幻想郷でも上澄みの怪物だ。
「やれる」
口に出すと、急に現実味が増した。
さっきまでマンホールに落ちて死んだだけの俺が、今は幻想郷でも名の知れた吸血鬼になっている。
事故死からの異世界転生。しかも強キャラだ。
これ以上ないほど、都合のいい展開だった。
俺は立ち上がった。
ふわりと広がったスカートの裾が泥に触れ、慌てて持ち上げる。少女の身体はまだ扱いづらいが、そんなことは些細な問題だ。
羽だって、そのうち動かせる。
能力だって試せばいい。
まずは周囲を確認して、それから空へ上がる。人里を探すにしても、上空から見渡したほうが早い。
完璧だ。
考えれば考えるほど、未来が開けていく。
俺は胸を張った。
「……勝ったな!」
森の中へ、幼い少女の声が響く。
「大勝利ッ!!!」
そう確信した瞬間だった。
――違うわ。
声がした。
耳から聞こえたのではない。
森の奥からでも、頭上からでもない。
もっと近い。
喉の裏。
胸の底。
血管の内側を、細い爪でなぞるような場所から、その声は響いた。
少女の声だった。
甘く、澄んでいて、ひどく退屈そうで。
それでいて、聞いた瞬間に理解できてしまうほど、当然のように上から見下ろす声だった。
――あなた、いったい何に勝ったつもりなの?
「誰だ!」
俺は反射的に叫ぼうとした。
だが、声になったものはひどく細かった。
自分のものではない喉。自分のものではない唇。自分のものではない舌が、俺の意思よりも半拍遅れて震えた。
――それは私の台詞ね。
くすり、と笑う気配がした。笑われた。
そう理解した瞬間、胸の奥がざわついた。
怒鳴ったつもりだった。
だが、森に響いたのは細く甲高い少女の声だった。
冗談じゃない。
「脳内に直接……!?」
こんな状況で、真っ先に浮かんだのがそんなネットミームだった。
たぶん、俺はかなり混乱していた。
――あなた、バカでしょ
声が、俺の言葉を途中で摘み取った。
その瞬間、身体が動かなくなった。
指先が土を掴んだまま固まる。
呼吸だけが浅く続く。瞬きすら、俺の意思ではできなくなった。
視界の中で、森がゆっくりと傾いた。
いや、俺が顔を上げたのだ。
俺が望んだわけではない。けれど身体は、まるで糸で吊られた人形のように、すっと姿勢を正した。
――面白いことを言うのね。
――これは私の身体よ。すべてが私のもの。
「やめろ」
声が震えた。これから何が起きるか……理解してしまった。
息を深く吸おうとしたのに、胸は動かなかった。
――やめる?
――どうして?
内側の声が近づいてくる。
脳の奥を、赤い霧が満たしていくようだった。
考えようとするたび、そこに柔らかな指が差し込まれる。
しばらく会っていない母の顔が浮かんだ。
次に、昨夜の配信画面。午前二時を示していたスマートフォン。
机に置きっぱなしの、明日の仕事のメモ。
向こうが勝手に引きずり出している。
俺は震えた……
それは俺のものだ。
そう叫ぼうとした。
けれど、赤い霧は止まらなかった。
――ふうん。
声は、少しだけ感心したようだった。
――知らない国。知らない時代。知らない道具。
――ずいぶん騒がしくて、ずいぶん窮屈で、ずいぶん退屈な世界にいたのね、あなた。
「やめろ……ッ!」
吐き気がした。身体を丸めようとしたが、指一本動かなかった。
けれど、その声はただ静かに笑った。
――嫌よ。
あまりにも軽い拒絶だった。
子供が菓子を譲らないような、貴族が当然の権利を告げるような、どちらともつかない響き。
――勝手に人の寝台へ潜り込んできて、主人の座まで欲しがるなんて。
――礼儀を知らない客人ね。
次の瞬間、俺は落ちた。
土の上に倒れたわけではない。
意識だけが、身体の奥へ引きずり込まれた。光の届かない水底へ沈んでいった。
「い、いやだ」
声にならない声で言った。
「俺は、まだ――」
――まだ、何かしらね?
その言葉だけが、妙にはっきりと聞こえた。
まだ終わりたくない。
俺は必死に、自分の記憶を抱え込もうとした。
暇つぶしに読むはずだった漫画。
『HUNTER×HUNTER』の既刊を並べた、その先だけが空いている書棚。
いつか、その空白が埋まるのを楽しみにしていた。
自分が自分であるための、くだらなくて、どうしようもなく大事なものたち。
取られてたまるか。
それを両腕で抱き締めるように、意識の奥で丸くなる。
これは俺のものだ。お前のものじゃない。
――あら。
少女の声が、すぐ傍で笑った。
――抵抗しているつもり?
次の瞬間、赤い闇が指先のように伸びてきた。
やめろ。
俺は必死に押し返そうとした。
けれど、押し返すための手がない。
踏ん張るための足がない。
自分の名前を唱えた。
けれど途中から、それが誰の名前なのかわからなくなった。
――あなたのものでは、ないのよ。
子供に諭すような声は優しかった。
まるで正論だと感じて、だからこそ逃げ場がなかった。
俺は最後の抵抗のつもりで、彼女の名を思い浮かべた。
レミリア・スカーレット。
彼女が何者なのか、俺は知っていた。
勝てない。
人間の自我など、彼女にとっては取るに足らなかった。俺がどれほど必死に自分を守ろうとしても、それは幼い吸血鬼が退屈しのぎに傾けるグラスの中で、氷が小さく鳴った程度のことだった。
――ええ。あなた、私の一部になりなさい。
赤い闇の中で、少女が微笑んだ気がした。
俺はなおも抵抗した。
意味がないとわかっていても。
勝てないと理解していても。
自分の輪郭がほどけていくのを感じながら、それでも必死に、最後の最後まで「俺」を握り締めた。
その手ごたえすら、すぐに消えた。
――いただきます。
その一言で、俺の輪郭がほどけた。
痛みはなかった。
まず、自分の声を思い出せなくなった。
かろうじて思い浮かべた母親の顔はぼやけていた。
自分がどこにいたか、わからなくなった。
代わりに、別のものが満ちてきた。
血の甘さ。長い退屈。紅い館。
銀髪の従者と、地下に閉じ込めた妹。
それらが、俺の記憶を押し流していく。
いや、押し流すだけではない。
混ざっていた。
雨上がりのアスファルトの匂いと、夜露に濡れた草の匂いが重なる。スマートフォンの白い光に、月明かりが滲む。安っぽいコンビニの蛍光灯は、いつの間にか紅魔館の燭台へ変わっていた。
名前は残らない。
声も残らない。
俺が俺として何かを選ぶことは、もう二度とない。
それでも。
雨の匂いだけが残った。
死ぬ瞬間の間抜けな恐怖だけが、彼女の奥に沈んでいく。
俺は最後に理解した。
俺は彼女に殺されたのではない。
彼女になったのだ。
そして、まぶたが一度、ゆっくりと閉じた。
次に開いたとき。
森は同じだった。
◇
湿った土。背の高い木々。知らない鳥の声。ただし、そこに座り込んでいた少女の瞳から、先ほどまでの混乱は消えていた。
紅い瞳が、静かに森を見渡す。
小さな手が、泥に汚れたスカートを払った。
「……まったく」
少女は呟いた。
先ほどまで乱れていた呼吸は、もう一定だった。
けれど、ほんのわずかに。
ほんのわずかだけ、彼女は顔をしかめた。
頭の奥に残った、見知らぬ記憶。
そして、自分ではない誰かの、あまりにも人間らしい恐怖。
レミリア・スカーレットは、小さく息を吐いた。
「転生、憑依、転移、異世界……、ね」
知らないはずの言葉が、妙に自然に舌に乗った。それが少しだけ不愉快で、少しだけ愉快だった。彼女は唇の端を上げる。
「私の中に人間がいた、なんて不思議な体験だったわね」
鬱蒼とした森。
そして、内側に混じった異邦の残響。
レミリアは空を見上げた。
木々の隙間から、薄い月が覗いている。
「さて、ここはどこかしら。紅魔館に帰らないと……」
そう言ってから、彼女は少しだけ眉をひそめた。
その言葉の奥に、自分のものではない家の記憶が混ざったからだ。
狭い部屋。安物の机。雨音。
誰にも看取られなかった、あっけない終わり。
レミリアは数秒だけ黙った。
やがて、つまらなさそうに鼻を鳴らす。
「……本当に、間の抜けた死に方。もう少し、死に方ってものがあったんじゃないかしら」
嘲笑うつもりだった。
けれど「間抜け」の言葉が、妙に弱くなった。
それが誰の感傷なのか、レミリアにはわからない。
レミリアは小さく舌打ちした。
「……面倒なものを残してくれたわね」