レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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9.くじら島①

 ゴンが最初に気づいたのは、静けさだった。

 夜明け前、釣竿を担いで森へ入る。

 

 ゴンは足を止め、柔らかな土へ目を向けた。

 獣の足跡が、海辺へ向かう途中で大きく曲がり、森の奥へ引き返している。少し離れたところにある別の足跡も同じだった。

 

「あっちに何かあるのかな」

 

 隣にいたキツネグマのコンが、木々の向こうを見たまま鼻を鳴らす。

 その方角から、海風が吹いた。

 

「……知らない匂いだ」

 

 動物たちが避けた方角へ進むと、森が途切れ、西の海岸へ出た。

 濡れた砂の上に、小さな靴跡がある。波打ち際から森へ向かって続いていた。

 

「流されてきた人かも……!」

 

 ゴンは靴跡を追い、もう一度森へ入った。

 

 やがて、水の流れる音が聞こえてきた。

 岩の隙間から湧いた水が、小さな泉を作っている。木々が重なり、朝の光はまだ届いていない。

 

 森の動物たちは、泉から距離を置いていた。

 枝の上から。茂みの奥から。

 

 一人の少女が、泉のそばへしゃがみ込んでいた。

 服はひどく汚れ、ところどころ破れている。濡らした手で髪についた砂を落としていた。

 

 背中には、紅い翼がある。

 

 ゴンは風下から近づいた。

 少女は振り返らない。手が届きそうなところまで来ても、気づいた様子はなかった。

 

「お姉さん、誰?」

 

    ◇

 

 声をかけられるまで、レミリアは少年に気づかなかった。

 

 濡れた髪を頬に貼りつかせたまま、ゆっくり振り返る。

 黒い髪を逆立てた少年が、すぐ近くへしゃがみ込んでいた。

 

 長旅の疲れで、注意が鈍っていたのだ。

 そういうことに違いない。

 

「……まず、呼び方は悪くないわね」

 

「何してるの?」

 

「汚れを落としているのよ」

 

「全然落ちてないよ。くさいし」

 

 少年の鼻が、もう一度動いた。

 

「森の動物が、みんなお姉さんを見てる」

 

「私は高貴だから。気になるのも分かるわ」

 

「気になるっていうより、警戒してるみたいだ」

 

 レミリアは枝の上へ目を向けた。

 

 小さな獣が身を固くする。その目が隣の少年へ移ると、尖っていた耳がわずかに下がった。

 茂みの奥にも、別の目がある。

 

「ここはどこかしら」

 

「くじら島だよ」

 

「変な名前ね」

 

「島がくじらの形をしてるから」

 

「そのままじゃないの」

 

「お姉さんは、どこから来たの?」

 

「海の向こうよ。とても遠いところ」

 

「船は?」

 

「乗っていないわ。透明な生き物が集まって、川みたいに空を流れていたの。そこに運ばれてきたのよ」

 

「空を?」

 

「ええ」

 

 少年は疑うより先に、レミリアの翼を見た。

 

「じゃあ、飛べるの?」

 

「見れば分かるでしょう」

 

「飛んでみせてよ」

 

 レミリアは答えなかった。

 

 背中の翼が一度だけ開く。

 落ち葉が転がり、泉の水面に細かな波が立った。

 

 レミリアは水面を見た。

 

「……スカートの中でも覗く気かしら」

 

「覗かないよ?」

 

 少年は首を傾げた。

 

 木々の隙間から、朝日が差し込む。

 細い光が泉を横切り、レミリアは反射的に手を引いた。

 

「日の光、嫌いなの?」

 

 続けざまに問われ、レミリアは少年を睨んだ。

 

「日焼けすると嫌だもの」

 

「そっか。お姉さんの肌、真っ白だもんね」

 

「この島に、人はいるの?」

 

「いるよ。人のいるところまで案内する」

 

「そう。なら、先に名乗っておきましょう」

 

 レミリアは汚れた裾を摘み、わずかに持ち上げた。

 

「レミリア・スカーレットよ。あなたは?」

 

「オレはゴン」

 

「ゴンね」

 

 雨の匂いがした。

 この島のものではなかった。

 

「ねぇ、今日は雨が降るのかしら?」

 

「ううん。晴れると思うよ、安心して。こっちだよ、レミリア」

 

 ゴンは立ち上がり、コンを呼んだ。

 だが、キツネグマは動かなかった。レミリアとの間に距離を置いたまま、低く鼻を鳴らしている。

 

「じゃあ、またあとで」

 

 ゴンはそれ以上呼ばず、森へ入った。

 レミリアもあとへ続く。

 

 二人が通ると、枝の上の気配が息を潜めた。

 茂みの奥で葉が揺れ、それきり止まる。

 

 しばらく歩いたところで、ゴンが足を止めた。

 

「静かにして」

 

「何よ、急に」

 

 ゴンは森の奥へ耳を澄ませている。

 レミリアも口を閉じた。

 

 遠くに波の音がある。

 その下から、低い音が響いた。

 

 獣の咆哮に似た音が、地面と木々を震わせながら森を渡っていく。

 レミリアは翼を広げた。

 

「何かいるわね」

 

「違うよ。そうだ!」

 

 ゴンは獣道を外れ、木々の奥へ入っていく。

 

「見せたいものがあるんだ」

 

 ゴンは倒木を跨ぎ、垂れ下がった蔓を持ち上げてレミリアを通した。

 濡れた下生えが脛を叩く。

 

 ゴンは振り返らずに進んでいく。

 やがて木々が疎らになった。

 

 枝をかき分けた先に、一本の古木が立っていた。

 幹の半分が空洞になり、太い根が地面を這っている。

 

 ゴンは幹へ手を当てた。

 

「潮が満ちると、この木が鳴くんだ」

 

「木が?」

 

 レミリアも幹へ手を添えた。

 低い震えが、掌から腕へ伝わってくる。

 

「随分と大きいわね」

 

「昔からあるらしいんだ。この島の長老なんだよ」

 

 小さく地面が震えた。

 

「根の下に穴があって、海まで続いてるんだ。潮が入ると音がする」

 

「入ったの?」

 

「何度か。でも途中から狭くなって、進めなかった。のぞいてみる?」

 

 根の間に、子供一人がようやく通れそうな穴が開いている。

 

「なら、私が――」

 

 レミリアは身をかがめかけ、幹へ手をついた。

 

「どうしたの?」

 

「……羽が当たるわね」

 

 古木がもう一度、低く鳴った。

 

  ◇

 

「ところで、この島に風呂はある? やっぱり臭うかしら」

 

「少しね。宿なら島の中心にある。たまに行商人が使うんだ。今なら、山菜の天ぷらも出るよ」

 

「いいじゃない。山菜の天ぷらは大好物よ」

 

「でも、お金は持ってるの?」

 

 レミリアの手が、破れたドレスのポケットへ伸びた。

 何も入っていない。

 

「……無一文よ」

 

「じゃあ、泊めていいかミトさんに聞いてみる」

 

「ミト?」

 

「オレを育ててくれた人だよ」

 

 ゴンは人里の方角を指差した。

 

「うちまで案内するよ」

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