ゴンが最初に気づいたのは、静けさだった。
夜明け前、釣竿を担いで森へ入る。
ゴンは足を止め、柔らかな土へ目を向けた。
獣の足跡が、海辺へ向かう途中で大きく曲がり、森の奥へ引き返している。少し離れたところにある別の足跡も同じだった。
「あっちに何かあるのかな」
隣にいたキツネグマのコンが、木々の向こうを見たまま鼻を鳴らす。
その方角から、海風が吹いた。
「……知らない匂いだ」
動物たちが避けた方角へ進むと、森が途切れ、西の海岸へ出た。
濡れた砂の上に、小さな靴跡がある。波打ち際から森へ向かって続いていた。
「流されてきた人かも……!」
ゴンは靴跡を追い、もう一度森へ入った。
やがて、水の流れる音が聞こえてきた。
岩の隙間から湧いた水が、小さな泉を作っている。木々が重なり、朝の光はまだ届いていない。
森の動物たちは、泉から距離を置いていた。
枝の上から。茂みの奥から。
一人の少女が、泉のそばへしゃがみ込んでいた。
服はひどく汚れ、ところどころ破れている。濡らした手で髪についた砂を落としていた。
背中には、紅い翼がある。
ゴンは風下から近づいた。
少女は振り返らない。手が届きそうなところまで来ても、気づいた様子はなかった。
「お姉さん、誰?」
◇
声をかけられるまで、レミリアは少年に気づかなかった。
濡れた髪を頬に貼りつかせたまま、ゆっくり振り返る。
黒い髪を逆立てた少年が、すぐ近くへしゃがみ込んでいた。
長旅の疲れで、注意が鈍っていたのだ。
そういうことに違いない。
「……まず、呼び方は悪くないわね」
「何してるの?」
「汚れを落としているのよ」
「全然落ちてないよ。くさいし」
少年の鼻が、もう一度動いた。
「森の動物が、みんなお姉さんを見てる」
「私は高貴だから。気になるのも分かるわ」
「気になるっていうより、警戒してるみたいだ」
レミリアは枝の上へ目を向けた。
小さな獣が身を固くする。その目が隣の少年へ移ると、尖っていた耳がわずかに下がった。
茂みの奥にも、別の目がある。
「ここはどこかしら」
「くじら島だよ」
「変な名前ね」
「島がくじらの形をしてるから」
「そのままじゃないの」
「お姉さんは、どこから来たの?」
「海の向こうよ。とても遠いところ」
「船は?」
「乗っていないわ。透明な生き物が集まって、川みたいに空を流れていたの。そこに運ばれてきたのよ」
「空を?」
「ええ」
少年は疑うより先に、レミリアの翼を見た。
「じゃあ、飛べるの?」
「見れば分かるでしょう」
「飛んでみせてよ」
レミリアは答えなかった。
背中の翼が一度だけ開く。
落ち葉が転がり、泉の水面に細かな波が立った。
レミリアは水面を見た。
「……スカートの中でも覗く気かしら」
「覗かないよ?」
少年は首を傾げた。
木々の隙間から、朝日が差し込む。
細い光が泉を横切り、レミリアは反射的に手を引いた。
「日の光、嫌いなの?」
続けざまに問われ、レミリアは少年を睨んだ。
「日焼けすると嫌だもの」
「そっか。お姉さんの肌、真っ白だもんね」
「この島に、人はいるの?」
「いるよ。人のいるところまで案内する」
「そう。なら、先に名乗っておきましょう」
レミリアは汚れた裾を摘み、わずかに持ち上げた。
「レミリア・スカーレットよ。あなたは?」
「オレはゴン」
「ゴンね」
雨の匂いがした。
この島のものではなかった。
「ねぇ、今日は雨が降るのかしら?」
「ううん。晴れると思うよ、安心して。こっちだよ、レミリア」
ゴンは立ち上がり、コンを呼んだ。
だが、キツネグマは動かなかった。レミリアとの間に距離を置いたまま、低く鼻を鳴らしている。
「じゃあ、またあとで」
ゴンはそれ以上呼ばず、森へ入った。
レミリアもあとへ続く。
二人が通ると、枝の上の気配が息を潜めた。
茂みの奥で葉が揺れ、それきり止まる。
しばらく歩いたところで、ゴンが足を止めた。
「静かにして」
「何よ、急に」
ゴンは森の奥へ耳を澄ませている。
レミリアも口を閉じた。
遠くに波の音がある。
その下から、低い音が響いた。
獣の咆哮に似た音が、地面と木々を震わせながら森を渡っていく。
レミリアは翼を広げた。
「何かいるわね」
「違うよ。そうだ!」
ゴンは獣道を外れ、木々の奥へ入っていく。
「見せたいものがあるんだ」
ゴンは倒木を跨ぎ、垂れ下がった蔓を持ち上げてレミリアを通した。
濡れた下生えが脛を叩く。
ゴンは振り返らずに進んでいく。
やがて木々が疎らになった。
枝をかき分けた先に、一本の古木が立っていた。
幹の半分が空洞になり、太い根が地面を這っている。
ゴンは幹へ手を当てた。
「潮が満ちると、この木が鳴くんだ」
「木が?」
レミリアも幹へ手を添えた。
低い震えが、掌から腕へ伝わってくる。
「随分と大きいわね」
「昔からあるらしいんだ。この島の長老なんだよ」
小さく地面が震えた。
「根の下に穴があって、海まで続いてるんだ。潮が入ると音がする」
「入ったの?」
「何度か。でも途中から狭くなって、進めなかった。のぞいてみる?」
根の間に、子供一人がようやく通れそうな穴が開いている。
「なら、私が――」
レミリアは身をかがめかけ、幹へ手をついた。
「どうしたの?」
「……羽が当たるわね」
古木がもう一度、低く鳴った。
◇
「ところで、この島に風呂はある? やっぱり臭うかしら」
「少しね。宿なら島の中心にある。たまに行商人が使うんだ。今なら、山菜の天ぷらも出るよ」
「いいじゃない。山菜の天ぷらは大好物よ」
「でも、お金は持ってるの?」
レミリアの手が、破れたドレスのポケットへ伸びた。
何も入っていない。
「……無一文よ」
「じゃあ、泊めていいかミトさんに聞いてみる」
「ミト?」
「オレを育ててくれた人だよ」
ゴンは人里の方角を指差した。
「うちまで案内するよ」