レミリアが話を終えた頃、森が途切れた。
「亀の甲羅に都市があるって、すごい! 本当にそれで終わり?」
「私が見たのはそこまでよ」
「そのあと、どうなったのかな」
「知らないわ。だからいいんじゃない」
木々の向こうに、朝の海が見えた。
坂に沿って畑と家々が並び、その先には小さな港がある。
潮風に、雨の匂いが混じっている。
空は晴れていた。
ゴンは迷わず、一軒の家へ向かった。
「ミトさん、ただいま!」
「おかえり、ゴン。今日はずいぶん――」
扉を開けた女性は、ゴンの隣を見て言葉を止めた。
破れた服。濡れた髪。泥だらけの靴。
「ゴン。その子は?」
「森で会ったんだ。海の向こうから来たんだって」
「そう」
女性は短く頷いた。
「ゴン、薪を足して。今すぐお湯を沸かすから」
「分かった!」
「いいのかしら?」
「詳しい話はあと。まずは汚れを落としてね」
家の奥から、石鹸の香りがした。
「……この島では、客人をまず風呂へ入れるのが礼儀なのかしら」
「少なくともうちではそうよ。さあ、入って」
◇
熱い湯へ肩まで浸かった瞬間、レミリアは長く息を吐いた。
髪から砂が落ち、肌に染みついていた潮と土の臭いが薄れていく。
湯の中で指を開く。
長いこと、握りしめたままだったらしい。
風呂から出ると、脱衣籠に簡素なワンピースが置かれていた。背は翼に当たらないよう開かれ、端をかがって紐が通してある。
針目は細かく、仕上げも悪くない。
「少し地味ね」
ほかに着るものもない。レミリアは袖を通した。
部屋へ戻ると、先ほどの女性が濡れた髪を見咎めた。
「ちゃんと拭かなかったの?」
「放っておけば乾くわ」
「駄目よ。そこへ座って」
頭から布を被せられ、抗議する間もなく髪を拭かれる。
「私を子供扱いしないでちょうだい」
「子供じゃないなら、自分でちゃんと拭きなさい」
「……貸しなさい」
◇
食卓の脇で、油がぱちぱちと弾けていた。
薄い衣をまとった若芽が鍋へ落ちる。白い泡の中で葉が開き、青い香りが湯気に混じった。
「天ぷらね。好物だわ」
「それなら、熱いうちに座って」
皿へ載ったタラの芽に塩を振り、口へ運ぶ。
さくり。
衣が乾いた音を立てて砕けた。若芽の香りとかすかな苦みを、油の甘さが包む。
紅魔館では、咲夜がもっと薄く、形よく衣を咲かせていた。だが、こちらには摘みたての若芽にしかない香りがある。
「どう?」
「……悪くないわ」
そう答えながら、もう二つ目へ箸を伸ばしている。
「好物なんじゃなかったの?」
「好物だからこそ、評価は厳しくなるのよ」
「じゃあ、これは?」
ゴンが自分の皿から、丸い蕾の天ぷらを差し出した。
一口かじった途端、鮮烈な苦みが舌いっぱいに広がる。
「苦いわ!」
「ふきのとうだからね」
「先に言いなさい」
「でも、うまいだろ?」
レミリアは黙って残りも口へ入れた。
「……すごく美味しいわ」
ミトは笑い、空いた皿へ揚げたてを置いた。
「帰る家はあるの?」
「ええ。妹も、友人も、従者もいるわ」
「きっと心配しているわね」
レミリアの箸が止まった。
「そうね。心配だけで済んでいればいいけれど」
「島に船が寄るまで、うちにいればいいわ」
「施しを受けるつもりはないわよ」
「じゃあ、その分は手伝ってもらう」
「この私に家事をしろと?」
「居候するならね」
ミトは笑っている。けれど、冗談を言っている顔ではなかった。
「……条件を聞こうじゃない」
「まずは、自分で使った食器を片づけること」
レミリアは空になった皿を見下ろした。
いきなり難題だった。
ゴンが笑いながら立ち上がる。その背中で、壁に立てかけてあった釣竿が揺れた。
「そういえばゴン。今日は沼の主を釣りに行ったんじゃなかったの?」
「森が変だったから、様子を見にいったんだ。そしたらレミリアがいたんだよ」
「私が迷子だったように言わないでちょうだい」
「沼の主は?」
「明日またやる。まだ七日あるから」
ミトの笑みが薄れた。
「何の話?」
レミリアが尋ねると、ゴンは釣竿を手に取った。
「沼の主を釣り上げたら、島を出ていいって、ミトさんと約束したんだ」
「私はまだ、賛成したわけじゃないわ」
「でも約束だろ?」
「どこへ行くの?」
「ハンター試験を受けに」
「ハンター?」
「珍しいものを見つける人だよ。誰も行ったことのない場所とか、見たこともない生き物とか。みんな、自分で追いかけるものを決めるんだ」
「あなたは何を追いかけるの?」
「父さんがハンターなんだ。父さんがオレを置いてまで夢中になったものが、どんなものなのか知りたい。だから、まず同じハンターになってみたいんだ」
食器の触れ合う音がした。
ミトが伏せた器を拭いている。その手だけが、先ほどより少し速く動いていた。
同じ器を、二度拭いている。
レミリアは、その手から目を離した。
「ずいぶん曖昧な職業ね」
「そうかな?」
「追いかけるものまで、自分で決めるのでしょう? なら、その試験は何を試すのかしら」
ゴンは目を瞬いた。
「さあ?」
レミリアは呆れ、ミトは深くため息をついた。
布巾の下で、器がようやく伏せられた。
◇
翌朝、レミリアは食器を洗わされていた。
「どうして客人の私が、こんなことをしなくてはいけないのかしら」
「居候だからよ」
「昨日は客人だったでしょう」
「一晩泊まったら居候」
ミトは取り合わず、洗い終えた皿を布巾で拭いていく。
レミリアは泡のついた器へ指を滑らせた。
力を入れれば簡単に割れそうで、怪物を扱うよりよほど気を遣う。
それなのに、指は迷わなかった。
皿洗いは初めてだった。
「洗ったものは、そっちへ伏せて」
「分かっているわよ」
「その割には、一枚も置かれてないけど」
「今、完璧に洗い上げているところでしょう」
水を切った皿を、言われた場所へそっと置く。
それを見届けたミトが、次の器を寄越した。
どうやら一枚で許すつもりはないらしい。
◇
ゴンの家に翼の生えた客人がいるという話は、朝食を終える頃には島中へ広まっていた。
ミトに頼まれた籠を届けに村へ出ると、道で遊んでいた子供たちが一斉に振り返る。
「本当に羽が生えてる!」
「触ってもいい?」
「駄目よ」
子供たちは離れない。
背後へ回り、角度を変え、陽を透かした翼の色に歓声を上げている。
一番小さな子が、恐る恐る翼の先へ手を伸ばした。
レミリアが振り返ると、その手が引っ込む。
「……一度だけよ」
小さな指が、翼の縁へ触れた。
「つるつるしてる」
「もう少し気の利いた言葉をかけないとモテないわよ」
次の瞬間、残りの手までいっせいに伸びてきた。
「一人ずつになさい! 皆でこられると鬱陶しいわ!」
籠を届け終える頃には、レミリアの後ろへ五人の子供がついていた。
◇
三日もすると、食卓には決まった席ができた。
「それ、私のよ」
「昨日からね」
「私に一番似合っているもの」
「欠けてるから使ってなかっただけなんだけど」
「では、私が使ってあげるわ」
ミトは笑い、赤い縁取りのカップへ茶を注いだ。
外へ出るたび、ミトは「夕飯までには帰っておいで」と言った。
レミリアは「誰に命令しているの」と返した。
夕飯に遅れたことはなかった。
ゴンは朝になると沼へ出かけ、日が傾く頃に戻ってきた。
一度、レミリアも様子を見に行った。
浅瀬の岩陰で、ゴンは半日、身動きひとつせずに水面を見ていた。
「今日は?」
「近くまで寄せたけど、逃げられた」
「昨日よりは進んだのね」
「うん。あいつ、風が山から吹くときだけ浅いところへ来るみたいなんだ」
食事をしながら、ゴンはその日に見つけたことを話した。
主が潜む場所。水面へ上がる時間。餌へ食いつく前に、何度まわりを探るのか。
ゴンの話を聞くうちに、レミリアまで主の癖を覚えていった。
「だったら、先に逃げ道を塞げばいいでしょう」
「それだと警戒して出てこないと思う」
翌日も、その翌日も、ゴンは主を釣れなかった。
それでも帰ってくるたびに、昨日とは違う何かを見つけていた。
◇
島へ来て六日目の午後、レミリアは浜で拾った貝殻の籠を抱えていた。
「やっぱり、これが一番」
隣にいた少年が、紅い筋の入った貝を籠の上へ置く。
「あなたたち、私に似ていれば何でもいいと思っていない?」
「だってレミリア、赤が好きだろ?」
「嫌いではないわ」
「ほら」
得意そうに言われ、レミリアは鼻を鳴らした。
少年が、揺れる翼を見上げる。
「レミリアって、吸血鬼なんだよな」
「そうよ。恐ろしい怪物よ」
「ふうん」
少年はそれきり興味を失い、次の貝を拾い上げた。
「じゃあこれは? これも赤いよ」
雨粒が、少年の頬へ落ちた。
「雨だ!」
子供たちは籠をレミリアへ押しつけ、それぞれの家へ駆けていく。
「ちょっと、これは誰が持って帰るのよ!」
返事はなかった。
土の匂いが立つ。
その中に、この島にはない匂いが混じった。
――透明な傘。
レミリアは足を止めた。
籠の上で、紅い貝殻が雨に濡れている。
「……帰らなくちゃ」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
籠を抱え直し、坂を上る。
ミトの家の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり。ずいぶん濡れたわね。先に拭いてきて」
「分かったわ」
濡れた上着を脱ぎ、籠を台所へ置く。
手を洗い、自分の席へ座り、赤い縁取りのカップへ手を伸ばした。
指が、縁へ触れる寸前で止まる。
「どうしたの?」
ミトが鍋をかき混ぜながら尋ねた。
屋根を叩く雨音が、急に近くなった。
鍵の回る音がした。
――今日、ミトの家の扉を開けた自分と同じように。
まさか。
「レミリア?」
「……何でもないわ」
カップを取り、茶を飲む。
間もなく玄関が開いた。
「ただいま!」
泥だらけのゴンが、釣竿を抱えて立っていた。
「今日は?」
「もう少しだった。明日で最後だ」
「おかえり。ゴンも先に着替えてきなさい」
「うん!」
夕飯が並ぶと、ミトは何も言わず、自分の皿の天ぷらをゴンの皿へ移した。
レミリアは両手でカップを包んだまま、それを見ていた。
◇
夜更けには、雨はやんでいた。
窓の端には紅い貝殻が置かれている。椅子の背には借りた上着が掛かり、枕は自分が眠りやすい向きへ直してあった。
目を閉じる。
また、鍵が回った。
似ているのは、帰ったときの安堵だけだった。
レミリアは目を開けた。
窓辺の貝殻が、月明かりに濡れたように光っている。
手を伸ばしかけて、やめた。
昼間の少年の声が蘇った。
『レミリアって、吸血鬼なんだよな』
『ふうん』
窓を開け、身を乗り出す。
夜気に、雨の匂いが残っていた。
◇
潮鳴りの古木は、濡れた枝を低く鳴らしていた。
その根元から見下ろすと、島の家々に小さな明かりが残っている。
「ふうん、ですって」
レミリアは牙を覗かせた。
「ずいぶん舐められたものね」
小さな手を、海へ差し出す。
一筋の紅が指先からこぼれ、潮風の中でほどけた。
霧は崖を下り、森へ入り、眠る家々の屋根を呑み込んでいく。
「私は、レミリア・スカーレット」
翌朝、くじら島に朝は来なかった。