レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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10.くじら島②

 レミリアが話を終えた頃、森が途切れた。

 

「亀の甲羅に都市があるって、すごい! 本当にそれで終わり?」

 

「私が見たのはそこまでよ」

 

「そのあと、どうなったのかな」

 

「知らないわ。だからいいんじゃない」

 

 木々の向こうに、朝の海が見えた。

 坂に沿って畑と家々が並び、その先には小さな港がある。

 

 潮風に、雨の匂いが混じっている。

 空は晴れていた。

 

 ゴンは迷わず、一軒の家へ向かった。

 

「ミトさん、ただいま!」

 

「おかえり、ゴン。今日はずいぶん――」

 

 扉を開けた女性は、ゴンの隣を見て言葉を止めた。

 破れた服。濡れた髪。泥だらけの靴。

 

「ゴン。その子は?」

 

「森で会ったんだ。海の向こうから来たんだって」

 

「そう」

 

 女性は短く頷いた。

 

「ゴン、薪を足して。今すぐお湯を沸かすから」

 

「分かった!」

 

「いいのかしら?」

 

「詳しい話はあと。まずは汚れを落としてね」

 

 家の奥から、石鹸の香りがした。

 

「……この島では、客人をまず風呂へ入れるのが礼儀なのかしら」

 

「少なくともうちではそうよ。さあ、入って」

 

    ◇

 

 熱い湯へ肩まで浸かった瞬間、レミリアは長く息を吐いた。

 髪から砂が落ち、肌に染みついていた潮と土の臭いが薄れていく。

 

 湯の中で指を開く。

 長いこと、握りしめたままだったらしい。

 

 風呂から出ると、脱衣籠に簡素なワンピースが置かれていた。背は翼に当たらないよう開かれ、端をかがって紐が通してある。

 

 針目は細かく、仕上げも悪くない。

 

「少し地味ね」

 

 ほかに着るものもない。レミリアは袖を通した。

 

 部屋へ戻ると、先ほどの女性が濡れた髪を見咎めた。

 

「ちゃんと拭かなかったの?」

 

「放っておけば乾くわ」

 

「駄目よ。そこへ座って」

 

 頭から布を被せられ、抗議する間もなく髪を拭かれる。

 

「私を子供扱いしないでちょうだい」

 

「子供じゃないなら、自分でちゃんと拭きなさい」

 

「……貸しなさい」

 

    ◇

 

 食卓の脇で、油がぱちぱちと弾けていた。

 薄い衣をまとった若芽が鍋へ落ちる。白い泡の中で葉が開き、青い香りが湯気に混じった。

 

「天ぷらね。好物だわ」

 

「それなら、熱いうちに座って」

 

 皿へ載ったタラの芽に塩を振り、口へ運ぶ。

 

 さくり。

 

 衣が乾いた音を立てて砕けた。若芽の香りとかすかな苦みを、油の甘さが包む。

 

 紅魔館では、咲夜がもっと薄く、形よく衣を咲かせていた。だが、こちらには摘みたての若芽にしかない香りがある。

 

「どう?」

 

「……悪くないわ」

 

 そう答えながら、もう二つ目へ箸を伸ばしている。

 

「好物なんじゃなかったの?」

 

「好物だからこそ、評価は厳しくなるのよ」

 

「じゃあ、これは?」

 

 ゴンが自分の皿から、丸い蕾の天ぷらを差し出した。

 一口かじった途端、鮮烈な苦みが舌いっぱいに広がる。

 

「苦いわ!」

 

「ふきのとうだからね」

 

「先に言いなさい」

 

「でも、うまいだろ?」

 

 レミリアは黙って残りも口へ入れた。

 

「……すごく美味しいわ」

 

 ミトは笑い、空いた皿へ揚げたてを置いた。

 

「帰る家はあるの?」

 

「ええ。妹も、友人も、従者もいるわ」

 

「きっと心配しているわね」

 

 レミリアの箸が止まった。

 

「そうね。心配だけで済んでいればいいけれど」

 

「島に船が寄るまで、うちにいればいいわ」

 

「施しを受けるつもりはないわよ」

 

「じゃあ、その分は手伝ってもらう」

 

「この私に家事をしろと?」

 

「居候するならね」

 

 ミトは笑っている。けれど、冗談を言っている顔ではなかった。

 

「……条件を聞こうじゃない」

 

「まずは、自分で使った食器を片づけること」

 

 レミリアは空になった皿を見下ろした。

 いきなり難題だった。

 

 ゴンが笑いながら立ち上がる。その背中で、壁に立てかけてあった釣竿が揺れた。

 

「そういえばゴン。今日は沼の主を釣りに行ったんじゃなかったの?」

 

「森が変だったから、様子を見にいったんだ。そしたらレミリアがいたんだよ」

 

「私が迷子だったように言わないでちょうだい」

 

「沼の主は?」

 

「明日またやる。まだ七日あるから」

 

 ミトの笑みが薄れた。

 

「何の話?」

 

 レミリアが尋ねると、ゴンは釣竿を手に取った。

 

「沼の主を釣り上げたら、島を出ていいって、ミトさんと約束したんだ」

 

「私はまだ、賛成したわけじゃないわ」

 

「でも約束だろ?」

 

「どこへ行くの?」

 

「ハンター試験を受けに」

 

「ハンター?」

 

「珍しいものを見つける人だよ。誰も行ったことのない場所とか、見たこともない生き物とか。みんな、自分で追いかけるものを決めるんだ」

 

「あなたは何を追いかけるの?」

 

「父さんがハンターなんだ。父さんがオレを置いてまで夢中になったものが、どんなものなのか知りたい。だから、まず同じハンターになってみたいんだ」

 

 食器の触れ合う音がした。

 

 ミトが伏せた器を拭いている。その手だけが、先ほどより少し速く動いていた。

 同じ器を、二度拭いている。

 

 レミリアは、その手から目を離した。

 

「ずいぶん曖昧な職業ね」

 

「そうかな?」

 

「追いかけるものまで、自分で決めるのでしょう? なら、その試験は何を試すのかしら」

 

 ゴンは目を瞬いた。

 

「さあ?」

 

 レミリアは呆れ、ミトは深くため息をついた。

 布巾の下で、器がようやく伏せられた。

 

    ◇

 

 翌朝、レミリアは食器を洗わされていた。

 

「どうして客人の私が、こんなことをしなくてはいけないのかしら」

 

「居候だからよ」

 

「昨日は客人だったでしょう」

 

「一晩泊まったら居候」

 

 ミトは取り合わず、洗い終えた皿を布巾で拭いていく。

 

 レミリアは泡のついた器へ指を滑らせた。

 力を入れれば簡単に割れそうで、怪物を扱うよりよほど気を遣う。

 

 それなのに、指は迷わなかった。

 皿洗いは初めてだった。

 

「洗ったものは、そっちへ伏せて」

 

「分かっているわよ」

 

「その割には、一枚も置かれてないけど」

 

「今、完璧に洗い上げているところでしょう」

 

 水を切った皿を、言われた場所へそっと置く。

 それを見届けたミトが、次の器を寄越した。

 

 どうやら一枚で許すつもりはないらしい。

 

    ◇

 

 ゴンの家に翼の生えた客人がいるという話は、朝食を終える頃には島中へ広まっていた。

 ミトに頼まれた籠を届けに村へ出ると、道で遊んでいた子供たちが一斉に振り返る。

 

「本当に羽が生えてる!」

 

「触ってもいい?」

 

「駄目よ」

 

 子供たちは離れない。

 背後へ回り、角度を変え、陽を透かした翼の色に歓声を上げている。

 

 一番小さな子が、恐る恐る翼の先へ手を伸ばした。

 レミリアが振り返ると、その手が引っ込む。

 

「……一度だけよ」

 

 小さな指が、翼の縁へ触れた。

 

「つるつるしてる」

 

「もう少し気の利いた言葉をかけないとモテないわよ」

 

 次の瞬間、残りの手までいっせいに伸びてきた。

 

「一人ずつになさい! 皆でこられると鬱陶しいわ!」

 

 籠を届け終える頃には、レミリアの後ろへ五人の子供がついていた。

 

    ◇

 

 三日もすると、食卓には決まった席ができた。

 

「それ、私のよ」

 

「昨日からね」

 

「私に一番似合っているもの」

 

「欠けてるから使ってなかっただけなんだけど」

 

「では、私が使ってあげるわ」

 

 ミトは笑い、赤い縁取りのカップへ茶を注いだ。

 

 外へ出るたび、ミトは「夕飯までには帰っておいで」と言った。

 レミリアは「誰に命令しているの」と返した。

 

 夕飯に遅れたことはなかった。

 

 ゴンは朝になると沼へ出かけ、日が傾く頃に戻ってきた。

 

 一度、レミリアも様子を見に行った。

 浅瀬の岩陰で、ゴンは半日、身動きひとつせずに水面を見ていた。

 

「今日は?」

 

「近くまで寄せたけど、逃げられた」

 

「昨日よりは進んだのね」

 

「うん。あいつ、風が山から吹くときだけ浅いところへ来るみたいなんだ」

 

 食事をしながら、ゴンはその日に見つけたことを話した。

 主が潜む場所。水面へ上がる時間。餌へ食いつく前に、何度まわりを探るのか。

 

 ゴンの話を聞くうちに、レミリアまで主の癖を覚えていった。

 

「だったら、先に逃げ道を塞げばいいでしょう」

 

「それだと警戒して出てこないと思う」

 

 翌日も、その翌日も、ゴンは主を釣れなかった。

 それでも帰ってくるたびに、昨日とは違う何かを見つけていた。

 

    ◇

 

 島へ来て六日目の午後、レミリアは浜で拾った貝殻の籠を抱えていた。

 

「やっぱり、これが一番」

 

 隣にいた少年が、紅い筋の入った貝を籠の上へ置く。

 

「あなたたち、私に似ていれば何でもいいと思っていない?」

 

「だってレミリア、赤が好きだろ?」

 

「嫌いではないわ」

 

「ほら」

 

 得意そうに言われ、レミリアは鼻を鳴らした。

 少年が、揺れる翼を見上げる。

 

「レミリアって、吸血鬼なんだよな」

 

「そうよ。恐ろしい怪物よ」

 

「ふうん」

 

 少年はそれきり興味を失い、次の貝を拾い上げた。

 

「じゃあこれは? これも赤いよ」

 

 雨粒が、少年の頬へ落ちた。

 

「雨だ!」

 

 子供たちは籠をレミリアへ押しつけ、それぞれの家へ駆けていく。

 

「ちょっと、これは誰が持って帰るのよ!」

 

 返事はなかった。

 

 土の匂いが立つ。

 その中に、この島にはない匂いが混じった。

 

 ――透明な傘。

 

 レミリアは足を止めた。

 籠の上で、紅い貝殻が雨に濡れている。

 

「……帰らなくちゃ」

 

 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。

 籠を抱え直し、坂を上る。

 

 ミトの家の扉を開けた。

 

「ただいま」

 

「おかえり。ずいぶん濡れたわね。先に拭いてきて」

 

「分かったわ」

 

 濡れた上着を脱ぎ、籠を台所へ置く。

 手を洗い、自分の席へ座り、赤い縁取りのカップへ手を伸ばした。

 指が、縁へ触れる寸前で止まる。

 

「どうしたの?」

 

 ミトが鍋をかき混ぜながら尋ねた。

 屋根を叩く雨音が、急に近くなった。

 

 鍵の回る音がした。

 ――今日、ミトの家の扉を開けた自分と同じように。

 

 まさか。

 

「レミリア?」

 

「……何でもないわ」

 

 カップを取り、茶を飲む。

 間もなく玄関が開いた。

 

「ただいま!」

 

 泥だらけのゴンが、釣竿を抱えて立っていた。

 

「今日は?」

 

「もう少しだった。明日で最後だ」

 

「おかえり。ゴンも先に着替えてきなさい」

 

「うん!」

 

 夕飯が並ぶと、ミトは何も言わず、自分の皿の天ぷらをゴンの皿へ移した。

 レミリアは両手でカップを包んだまま、それを見ていた。

 

    ◇

 

 夜更けには、雨はやんでいた。

 

 窓の端には紅い貝殻が置かれている。椅子の背には借りた上着が掛かり、枕は自分が眠りやすい向きへ直してあった。

 

 目を閉じる。

 また、鍵が回った。

 

 似ているのは、帰ったときの安堵だけだった。

 レミリアは目を開けた。

 

 窓辺の貝殻が、月明かりに濡れたように光っている。

 手を伸ばしかけて、やめた。

 

 昼間の少年の声が蘇った。

 

『レミリアって、吸血鬼なんだよな』

 

『ふうん』

 

 窓を開け、身を乗り出す。

 夜気に、雨の匂いが残っていた。

 

    ◇

 

 潮鳴りの古木は、濡れた枝を低く鳴らしていた。

 その根元から見下ろすと、島の家々に小さな明かりが残っている。

 

「ふうん、ですって」

 

 レミリアは牙を覗かせた。

 

「ずいぶん舐められたものね」

 

 小さな手を、海へ差し出す。

 一筋の紅が指先からこぼれ、潮風の中でほどけた。

 

 霧は崖を下り、森へ入り、眠る家々の屋根を呑み込んでいく。

 

「私は、レミリア・スカーレット」

 

 翌朝、くじら島に朝は来なかった。

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