レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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11.くじら島③

 ゴンが目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。

 

 カーテンの隙間から、赤い光が漏れた。

 窓の外は紅い霧に覆われ、庭の先も見えなくなっている。

 

 不意に、窓硝子が震えた。

 

「今よりこの島は、紅い悪魔の領地よ」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 ゴンは隣の寝床を見た。

 掛け布団が少しだけ乱れている。

 手を伸ばして触れたが、温もりはもう消えていた。

 

 レミリアがいない。

 

「朝を返してほしければ、私を退治しに来なさい!」

 

 ゴンは壁に立てかけてあった釣竿を掴んだ。

 上着を引っかけ、階段を駆け下りる。

 

 靴へ足を押し込み、そのまま森にかかる紅い霧の中へ飛び出した。

 

    ◇

 

 毎日歩いていた森が、まるで知らない場所に見えた。

 いつもなら遠くまで届く足音も、数歩進んだだけで呑み込まれた。

 

 ゴンは鼻を利かせた。

 

 レミリアの匂いだ。

 進むにつれ、匂いが濃くなっていく。

 

 海の方から吹く風が、頬を撫でる。

 紅い霧も、それに押されて山へ向かっていた。

 ただ一筋だけ、風に逆らっている。

 

 ゴンは足を止めた。

 

 霧が、幕を割るように左右へ開き、視界が開けた。

 

 潮鳴りの古木の枝に、レミリアが立っていた。

 翼を広げ、足元のゴンを見下ろしている。

 

「退治に来たにしては、ずいぶん遅かったじゃない」

 

「どうしてこんなことをするんだよ!」

 

「怪物が異変を起こすのに、理由が必要?」

 

 ゴンは釣竿を握り直した。

 レミリアの指先に、紅い光が灯った。

 

「私に触れられたら、あなたの勝ち。私の弾幕に当たって、動けなくなったら負けよ」

 

 光が幾つにも分かれた。

 レミリアの背後へ並んだ弾が、扇を開くように広がる。

 

「……分かった」

 

「楽しい夜になりそうね」

 

 紅い霧の中を、紅い光が走る。

 輪郭が溶けた。

 

 ゴンは右へ跳んだ。

 二つの弾が、さっきまでいた場所の左右を抜ける。

 着地点へ、三つの光が落ちてきた。

 

 足をつく前に身体を捻り、低い枝を掴んだ。振り上げた靴底を、二つの弾が掠めていく。

 

 一発が古木の幹を叩いた。

 空洞の奥で、低い音が鳴る。

 

 次の弾が迫った。左側だけが空いている。ゴンはそちらへ飛び込んだ。

 両手を地面につき、横へ転がる。頬のすぐそばで弾が砕け、土と枯葉が舞い上がった。

 

「逃げているだけでは、いつまで経っても届かないわよ」

 

「今、考えてる!」

 

 右へ逃げれば、右へ撃たれる。左へ戻れば、左に並ぶ。

 レミリアまでの距離は、少しも縮まらなかった。

 

 ゴンは足を止めた。

 

「もう諦めたの?」

 

「違う。数えてるんだ」

 

 飛んでくる光ではなく、まだレミリアの周りに浮かんでいる弾を見る。

 沼の主と同じだ。

 

 二つ。真ん中が空く。

 三つ。真ん中に一つ来る。

 

「二つなら止まる。三つなら動く」

 

「……なによそれ」

 

 ゴンは動かなかった。

 左右を、紅い光が抜けていく。

 

 次は、半歩ずれた。

 中央の一発をかわし、そのまま前へ出る。

 

「レミリアの弾、数で変わるんだ」

 

「なら、これは?」

 

 レミリアの指が跳ねた。

 空いていた真ん中へ、弾が一つ滑り込む。

 

 端が、空いた。

 

 ゴンは身体を低くし、そちらへ飛び込んだ。

 最後の弾が背中の上を抜け、後ろの幹で弾けた。

 

 顔を上げる。

 

 古木が近い。

 レミリアの周りに、もう小さな弾は浮かんでいなかった。

 

 レミリアが笑った。

 

「やるじゃない」

 

「うん。次はもっと近くまで行ける」

 

「次も同じだと思わないことね」

 

 開いた翼が、紅い霧を大きく揺らした。

 ゴンの背中が冷えた。

 

――紅符

 

『スカーレットシュート』

 

 掲げた手へ紅い光が集まった。

 

 小さな月が膨らんでいく。その周りへ中ほどの弾が並び、さらに細かな光が連なった。

 当たればただでは済まないと分かるほど、綺麗だった。

 

 ゴンは笑っていた。

 

「何がおかしいのよ」

 

「わかんないけど、綺麗だと思ったんだ」

 

「当たると、痛いわよ」

 

「うん。知ってる」

 

「……いいわ。そう思うなら、避けてみなさい!」

 

 紅い月が放たれる。

 

 ゴンは大きく左へ跳んだ。

 

 大弾が、さっきまで胸のあった場所を通り過ぎた。

 その先を、小さな弾が覆っていた。

 

 肩から地面へ落ち、両腕で頭を庇う。

 転がったすぐそばで光が弾け、袖の端が焦げた。

 

 大弾は森の奥へ消えていった。

 

 顔を上げた先で、二発目が膨らみ始めていた。

 さっき逃げた場所には、三つの小さな弾が並んでいる。

 

 真ん中の一発が、ゴンを向いていた。

 

 喉がひゅっと鳴った。

 同じ跳び方では、今度こそ当たる。

 

 もう撃たせられない。

 レミリアを捕まえないと。

 

 最初の大弾が海へ落ちた。

 

 押し返された波が、岸へ戻る。

 海水が根の下の穴へなだれ込み、地面が震えた。

 

 よろけてついた掌へ、震えが走る。

 さっきとは違う。

 

 波が変わった。

 

 ゴンは古木を見上げた。

 レミリアの頭上を越えて、一本の枝が伸びている。

 

 肩に釣竿が当たった。

 ゴンは立ち上がり、竿を構えた。

 

 まだだ。

 

 二発目の大玉が、ひとまわり大きくなった。

 レミリアの紅い瞳は、ゴンを捉えたまま。

 

 まだ鳴らない。

 

 ゴンは竿を振った。

 錘が弾列の上を越え、釣り糸は霧に紛れる。

 

 古木は、まだ鳴らない。

 

 錘が霧の中を落ちていく。

 釣り糸が、ゆっくりと伸びきった。

 

 レミリアの手の中で、二発目の紅い月が脈打つ。

 ゴンは竿を握ったまま動かなかった。

 

 まだ――

 

 潮鳴りの古木が、雷に打たれたように鳴った。

 

「何よ、今の――!?」

 

 反射的に、紅い月が放たれた。

 

 錘が枝へ巻きつく。

 同時に、ゴンは地面を蹴って竿を引いた。

 張りつめた糸に引かれ、身体が地面を離れる。

 

 紅い月が、真下を通り過ぎた。

 

 枝を支点に、弾列の外へ大きく弧を描く。

 古木の幹へ片足をつける。

 

 蹴る。

 

 竿が手を離れた。

 

 伸ばした指先が、レミリアの手首へ触れ、そして掴んだ。

 

 紅い月が、すべて止まる。

 大きな光も、小さな光も、ほどけて消えていく。

 

 ゴンは空いた手で枝を掴み、大きく息を吐いた。

 

「……届いた」

 

 古木が、まだ低く鳴っている。

 

「私の負けね」

 

「すっごく怖かった」

 

「当然でしょう。私は幻想郷の怪物なのよ」

 

 ゴンは枝から飛び降りた。

 

「古木が鳴ると――、知ってたの?」

 

「信じてた。ずっと見てきたから」

 

「負けるわけね」

 

「ねぇ、なんで異変を起こしたの」

 

 レミリアは、しばらく答えなかった。

 

「私が、ただいまと言ったのよ」

 

「うん」

 

「お人好しの人間ではなく、怪物だと知らしめる必要があるわ」

 

 ゴンは古木の根元から、レミリアを見上げた。

 

「レミリアは、みんなを食い殺したいの?」

 

「そうじゃないわ」

 

 そこで、レミリアの言葉が止まった。

 

 ゴンは焦げた袖を持ち上げた。

 

「さっきの、初めて見た。怖かったけど、キレイだった」

 

 足元には、ほどけた弾の名残が漂っている。

 

「オレは今、レミリアを退治したんだよね」

 

「……そうなるわね」

 

 レミリアは少し考え、口元へ手を当てた。

 

「妖怪は、人間に退治されるものなのよ。だから、今日負けたのは仕方ないわ」

 

「うん」

 

「幻想郷では、妖怪を退治した後は、みんなでお酒を飲むの」

 

「オレはまだ飲めないよ!」

 

「とにかくわいわい騒げばいいのよ」

 

 レミリアが指を鳴らした。

 

 木々の間から、紅い霧が離れていく。

 家々の屋根からも、港からも、細い筋となって空へ昇った。

 

 朝がやってきた。

 

    ◇

 

 ミトは玄関先で待っていた。

 釣竿を担いだゴンと、その隣を歩くレミリアを見つける。

 

「おかえり」

 

 レミリアが足を止めた。

 今度は、目を伏せなかった。

 

「ただいま」

 

 霧の晴れた坂道から、村の人々が集まってきた。

 網を肩へ引っかけた男がいた。

 

「あの霧は、あんたがやったのかい」

 

「見事なものでしょう」

 

「見事じゃないよ。朝の漁に出そびれたじゃないか」

 

「朝は返してあげたでしょう」

 

「島じゅう大騒ぎだったよ」

 

「異変だもの。騒がしくなければ意味がないわ」

 

 港から魚が運ばれ、庭へ長机が並んだ。

 鍋の中で油が弾け、揚げたての天ぷらが次々と皿へ載っていく。

 

 レミリアは、揚げたての天ぷらへ手を伸ばした。

 ミトが皿を取り上げる。

 

「つまみ食いしないの」

 

「妖怪を退治した後は宴会と決まっているのよ」

 

「だったら、みんなが揃うまで待ちなさい」

 

 レミリアは鼻を鳴らし、ゴンを見た。

 ゴンは釣竿を担いだまま、村人たちに囲まれている。

 

「この子は、怪物にも好かれるのよ」

 

 ミトが振り返った。

 レミリアは、天ぷらをつまんだ。

 

「私がそうだもの」

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