ゴンが目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。
カーテンの隙間から、赤い光が漏れた。
窓の外は紅い霧に覆われ、庭の先も見えなくなっている。
不意に、窓硝子が震えた。
「今よりこの島は、紅い悪魔の領地よ」
聞き覚えのある声だった。
ゴンは隣の寝床を見た。
掛け布団が少しだけ乱れている。
手を伸ばして触れたが、温もりはもう消えていた。
レミリアがいない。
「朝を返してほしければ、私を退治しに来なさい!」
ゴンは壁に立てかけてあった釣竿を掴んだ。
上着を引っかけ、階段を駆け下りる。
靴へ足を押し込み、そのまま森にかかる紅い霧の中へ飛び出した。
◇
毎日歩いていた森が、まるで知らない場所に見えた。
いつもなら遠くまで届く足音も、数歩進んだだけで呑み込まれた。
ゴンは鼻を利かせた。
レミリアの匂いだ。
進むにつれ、匂いが濃くなっていく。
海の方から吹く風が、頬を撫でる。
紅い霧も、それに押されて山へ向かっていた。
ただ一筋だけ、風に逆らっている。
ゴンは足を止めた。
霧が、幕を割るように左右へ開き、視界が開けた。
潮鳴りの古木の枝に、レミリアが立っていた。
翼を広げ、足元のゴンを見下ろしている。
「退治に来たにしては、ずいぶん遅かったじゃない」
「どうしてこんなことをするんだよ!」
「怪物が異変を起こすのに、理由が必要?」
ゴンは釣竿を握り直した。
レミリアの指先に、紅い光が灯った。
「私に触れられたら、あなたの勝ち。私の弾幕に当たって、動けなくなったら負けよ」
光が幾つにも分かれた。
レミリアの背後へ並んだ弾が、扇を開くように広がる。
「……分かった」
「楽しい夜になりそうね」
紅い霧の中を、紅い光が走る。
輪郭が溶けた。
ゴンは右へ跳んだ。
二つの弾が、さっきまでいた場所の左右を抜ける。
着地点へ、三つの光が落ちてきた。
足をつく前に身体を捻り、低い枝を掴んだ。振り上げた靴底を、二つの弾が掠めていく。
一発が古木の幹を叩いた。
空洞の奥で、低い音が鳴る。
次の弾が迫った。左側だけが空いている。ゴンはそちらへ飛び込んだ。
両手を地面につき、横へ転がる。頬のすぐそばで弾が砕け、土と枯葉が舞い上がった。
「逃げているだけでは、いつまで経っても届かないわよ」
「今、考えてる!」
右へ逃げれば、右へ撃たれる。左へ戻れば、左に並ぶ。
レミリアまでの距離は、少しも縮まらなかった。
ゴンは足を止めた。
「もう諦めたの?」
「違う。数えてるんだ」
飛んでくる光ではなく、まだレミリアの周りに浮かんでいる弾を見る。
沼の主と同じだ。
二つ。真ん中が空く。
三つ。真ん中に一つ来る。
「二つなら止まる。三つなら動く」
「……なによそれ」
ゴンは動かなかった。
左右を、紅い光が抜けていく。
次は、半歩ずれた。
中央の一発をかわし、そのまま前へ出る。
「レミリアの弾、数で変わるんだ」
「なら、これは?」
レミリアの指が跳ねた。
空いていた真ん中へ、弾が一つ滑り込む。
端が、空いた。
ゴンは身体を低くし、そちらへ飛び込んだ。
最後の弾が背中の上を抜け、後ろの幹で弾けた。
顔を上げる。
古木が近い。
レミリアの周りに、もう小さな弾は浮かんでいなかった。
レミリアが笑った。
「やるじゃない」
「うん。次はもっと近くまで行ける」
「次も同じだと思わないことね」
開いた翼が、紅い霧を大きく揺らした。
ゴンの背中が冷えた。
――紅符
『スカーレットシュート』
掲げた手へ紅い光が集まった。
小さな月が膨らんでいく。その周りへ中ほどの弾が並び、さらに細かな光が連なった。
当たればただでは済まないと分かるほど、綺麗だった。
ゴンは笑っていた。
「何がおかしいのよ」
「わかんないけど、綺麗だと思ったんだ」
「当たると、痛いわよ」
「うん。知ってる」
「……いいわ。そう思うなら、避けてみなさい!」
紅い月が放たれる。
ゴンは大きく左へ跳んだ。
大弾が、さっきまで胸のあった場所を通り過ぎた。
その先を、小さな弾が覆っていた。
肩から地面へ落ち、両腕で頭を庇う。
転がったすぐそばで光が弾け、袖の端が焦げた。
大弾は森の奥へ消えていった。
顔を上げた先で、二発目が膨らみ始めていた。
さっき逃げた場所には、三つの小さな弾が並んでいる。
真ん中の一発が、ゴンを向いていた。
喉がひゅっと鳴った。
同じ跳び方では、今度こそ当たる。
もう撃たせられない。
レミリアを捕まえないと。
最初の大弾が海へ落ちた。
押し返された波が、岸へ戻る。
海水が根の下の穴へなだれ込み、地面が震えた。
よろけてついた掌へ、震えが走る。
さっきとは違う。
波が変わった。
ゴンは古木を見上げた。
レミリアの頭上を越えて、一本の枝が伸びている。
肩に釣竿が当たった。
ゴンは立ち上がり、竿を構えた。
まだだ。
二発目の大玉が、ひとまわり大きくなった。
レミリアの紅い瞳は、ゴンを捉えたまま。
まだ鳴らない。
ゴンは竿を振った。
錘が弾列の上を越え、釣り糸は霧に紛れる。
古木は、まだ鳴らない。
錘が霧の中を落ちていく。
釣り糸が、ゆっくりと伸びきった。
レミリアの手の中で、二発目の紅い月が脈打つ。
ゴンは竿を握ったまま動かなかった。
まだ――
潮鳴りの古木が、雷に打たれたように鳴った。
「何よ、今の――!?」
反射的に、紅い月が放たれた。
錘が枝へ巻きつく。
同時に、ゴンは地面を蹴って竿を引いた。
張りつめた糸に引かれ、身体が地面を離れる。
紅い月が、真下を通り過ぎた。
枝を支点に、弾列の外へ大きく弧を描く。
古木の幹へ片足をつける。
蹴る。
竿が手を離れた。
伸ばした指先が、レミリアの手首へ触れ、そして掴んだ。
紅い月が、すべて止まる。
大きな光も、小さな光も、ほどけて消えていく。
ゴンは空いた手で枝を掴み、大きく息を吐いた。
「……届いた」
古木が、まだ低く鳴っている。
「私の負けね」
「すっごく怖かった」
「当然でしょう。私は幻想郷の怪物なのよ」
ゴンは枝から飛び降りた。
「古木が鳴ると――、知ってたの?」
「信じてた。ずっと見てきたから」
「負けるわけね」
「ねぇ、なんで異変を起こしたの」
レミリアは、しばらく答えなかった。
「私が、ただいまと言ったのよ」
「うん」
「お人好しの人間ではなく、怪物だと知らしめる必要があるわ」
ゴンは古木の根元から、レミリアを見上げた。
「レミリアは、みんなを食い殺したいの?」
「そうじゃないわ」
そこで、レミリアの言葉が止まった。
ゴンは焦げた袖を持ち上げた。
「さっきの、初めて見た。怖かったけど、キレイだった」
足元には、ほどけた弾の名残が漂っている。
「オレは今、レミリアを退治したんだよね」
「……そうなるわね」
レミリアは少し考え、口元へ手を当てた。
「妖怪は、人間に退治されるものなのよ。だから、今日負けたのは仕方ないわ」
「うん」
「幻想郷では、妖怪を退治した後は、みんなでお酒を飲むの」
「オレはまだ飲めないよ!」
「とにかくわいわい騒げばいいのよ」
レミリアが指を鳴らした。
木々の間から、紅い霧が離れていく。
家々の屋根からも、港からも、細い筋となって空へ昇った。
朝がやってきた。
◇
ミトは玄関先で待っていた。
釣竿を担いだゴンと、その隣を歩くレミリアを見つける。
「おかえり」
レミリアが足を止めた。
今度は、目を伏せなかった。
「ただいま」
霧の晴れた坂道から、村の人々が集まってきた。
網を肩へ引っかけた男がいた。
「あの霧は、あんたがやったのかい」
「見事なものでしょう」
「見事じゃないよ。朝の漁に出そびれたじゃないか」
「朝は返してあげたでしょう」
「島じゅう大騒ぎだったよ」
「異変だもの。騒がしくなければ意味がないわ」
港から魚が運ばれ、庭へ長机が並んだ。
鍋の中で油が弾け、揚げたての天ぷらが次々と皿へ載っていく。
レミリアは、揚げたての天ぷらへ手を伸ばした。
ミトが皿を取り上げる。
「つまみ食いしないの」
「妖怪を退治した後は宴会と決まっているのよ」
「だったら、みんなが揃うまで待ちなさい」
レミリアは鼻を鳴らし、ゴンを見た。
ゴンは釣竿を担いだまま、村人たちに囲まれている。
「この子は、怪物にも好かれるのよ」
ミトが振り返った。
レミリアは、天ぷらをつまんだ。
「私がそうだもの」