レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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12.くじら島④

 ゴンが帰ってきたのは、もう日が暮れた後だった。

 靴も膝も泥だらけだ。肩に担いだ釣竿の先からは、空の釣り針が揺れている。

 

「おかえり」

 

 ミトが台所から顔を出した。

 

「……ただいま」

 

 ゴンは靴を脱ぎ、釣竿を壁へ立てかけた。

 

「沼の主は?」

 

「釣れなかった。レミリアの霧で警戒したみたい。ずっと沼の底に隠れてた」

 

 赤い縁取りのカップが止まった。

 

 ミトは手にしていた布巾を置いた。

 ゴンが床を見る。

 

「期限、過ぎちゃった」

 

「ゴン。約束は――」

 

「私が釣られたわね」

 

 二人が振り返った。

 レミリアはカップを持ったまま、食卓についていた。

 

「異変の話?」

 

「私の霧で隠れたのだから、今日の沼の主は私よ」

 

 ゴンが、目を丸くした。

 

「そして、その釣り竿で釣られたわ」

 

 ミトがレミリアを見た。

 

「ゴンが約束を守ったと?」

 

「私がそう言ってるのよ」

 

 ミトは口元を布巾で隠した。

 

「好きにしなさい」

 

 ゴンが顔を上げた。

 椅子の上には、洗って畳まれた服と空の鞄が置かれていた。

 

「いいの?」

 

「……明日の船、早いわよ」

 

「やった!」

 

 ゴンが釣竿を掴み、階段を駆け上がっていく。

 すぐに足音が戻ってきた。

 

「ありがとう、ミトさん!」

 

「先に着替えて。床に泥がついてる」

 

「うん!」

 

 また足音が遠ざかった。

 

 レミリアはカップへ口をつけた。

 

「ずいぶん素直じゃない」

 

「あなたを見習ったのよ」

 

 ミトは笑って、床の泥を拭き取った。

 

    ◇

 

 翌朝、港には村の子供たちが集まっていた。

 ゴンは荷物を背負い、いつもの釣竿を肩に担いでいる。

 

「変な生き物を見つけたら、連れて帰ってこいよ」

 

「お土産も忘れるなよ!」

 

「分かってるって」

 

 子供たちの足元を抜け、キツネグマのコンがやってきた。

 ゴンがしゃがみ込むと、コンは腕の中へ頭を押しつけた。

 

「コンも来てくれたんだ」

 

 コンはゴンの頬をひと舐めし、それからレミリアの方を見た。

 

 近づいて、靴の匂いを嗅ぐ。

 レミリアが手を伸ばした。

 

 コンは逃げなかった。

 

「最初は、近づこうともしなかったのにね」

 

「私も仲良くなれたみたいね」

 

 指先が、柔らかな毛へ沈んだ。

 コンは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。

 

 港の向こうから、船の汽笛が聞こえた。

 白い波を引きながら、古びた船が近づいてくる。

 

 船が港へ着く。

 船員が縄を投げ、渡し板を下ろした。

 

 ゴンは釣竿を担ぎ直した。

 

「ミトさん、行ってきます!」

 

「行ってらっしゃい」

 

 ミトはゴンの襟を直した。

 もう整っているのに、二度直した。

 

「レミリアも、またね」

 

「次はハンターね」

 

「うん!」

 

 ゴンは渡し板を駆け上がった。

 

 船が岸を離れる。

 甲板から大きく振られた手へ、村の子供たちが両腕を振り返した。

 

 ミトも手を振った。

 

 船が小さくなっても、しばらく手を下ろさなかった。

 

    ◇

 

 ゴンが島を発った翌朝、家の中は静かだった。

 

 その日は、浜で子供たちと貝殻を拾った。

 次の日は、畑の老婆に鳥除けの紐を結び直してほしいと頼まれた。

 

「私は便利屋ではないのだけれど」

 

 結び終えた紐が、海風を受けて揺れた。

 

 帰り道、潮鳴りの古木が鳴った。

 幹の近くに、紙が一枚落ちていた。

 

 端は濡れ、文字の大半は滲んでいた。

 

『ハンター試験』

 

『まだ見ぬものを追う者へ』

 

 会場も、行き方も読めない。

 

「ずいぶん不親切ね」

 

 レミリアは紙を折り、ポケットへしまった。

 

 その夜、ミトが窓を開けた。

 

「明日、船が来るわよ」

 

「そう」

 

 窓辺には、紅い筋の入った貝殻が置かれていた。

 

    ◇

 

 三日目の朝、港から汽笛が聞こえた。

 

 レミリアは食卓を片づけ、赤い縁取りのカップを洗った。

 縁の欠けたところへ指を滑らせ、いつもの棚へ戻す。

 

「持っていかないの?」

 

「私のカップでしょう」

 

「だから訊いてるのよ」

 

「勝手に使わないでちょうだい」

 

 ミトは棚のカップを見て、それからレミリアを見た。

 

「分かったわ」

 

 レミリアは窓辺の貝殻を取り、ポケットへ入れた。

 

「世話になったわね」

 

「ちゃんと働いてくれたもの」

 

「そうね。お互い様よ」

 

 玄関へ向かうと、ミトが後ろから襟を直した。

 

「気をつけて行くのよ」

 

 レミリアは一度だけ振り返った。

 

「……行ってくるわ」

 

「行ってらっしゃい」

 

 坂道を下りると、海風が翼の間を抜けた。

 

 港には、見慣れない船が停まっている。

 甲板には木箱や樽が積まれ、船員たちがせわしなく荷を運んでいた。

 

「ハンター試験ねぇ」

 

 レミリアはポケットの中で、折り畳んだ紙と紅い貝殻に触れた。

 

「ドンも、こういう連中だったのかもしれないわね。私も受けてみようかしら」

 

 渡し板の前に立つと、髭を生やした船長が顔を上げた。

 

「何だ、お嬢ちゃん」

 

「この船に乗りたいのだけれど」

 

「船賃は?」

 

「持っていないわ」

 

「じゃあ駄目だ」

 

「ずいぶん冷たいのね」

 

 船長はため息をついて、木箱を指差した。

 男が二人がかりで持ち上げようとし、顔をしかめている。

 

「あれを甲板まで運べたら、働き手として乗せてやる」

 

「条件は、それだけ?」

 

「それだけだ」

 

 レミリアは木箱へ近づいた。

 

「ちょっと退きなさい」

 

 男たちが顔を見合わせる。

 

「お嬢ちゃんには無理だって」

 

「そうかしら」

 

 レミリアは片手で箱を持ち上げた。

 

 渡し板が軋む。

 甲板へ箱を下ろすと、船全体が小さく揺れた。

 

 船長が口を開けたまま、こちらを見ていた。

 

「これで合格ね」

 

「……採用だ」

 

「試験官にしては、ずいぶん素直じゃない」

 

「試験官?」

 

「ハンター試験の話よ」

 

 船長が眉をひそめた。

 

「いや、うちは貨物船だぞ」

 

 レミリアは満足そうに頷いた。

 

「なるほど。もう始まっているのね」

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