ゴンが帰ってきたのは、もう日が暮れた後だった。
靴も膝も泥だらけだ。肩に担いだ釣竿の先からは、空の釣り針が揺れている。
「おかえり」
ミトが台所から顔を出した。
「……ただいま」
ゴンは靴を脱ぎ、釣竿を壁へ立てかけた。
「沼の主は?」
「釣れなかった。レミリアの霧で警戒したみたい。ずっと沼の底に隠れてた」
赤い縁取りのカップが止まった。
ミトは手にしていた布巾を置いた。
ゴンが床を見る。
「期限、過ぎちゃった」
「ゴン。約束は――」
「私が釣られたわね」
二人が振り返った。
レミリアはカップを持ったまま、食卓についていた。
「異変の話?」
「私の霧で隠れたのだから、今日の沼の主は私よ」
ゴンが、目を丸くした。
「そして、その釣り竿で釣られたわ」
ミトがレミリアを見た。
「ゴンが約束を守ったと?」
「私がそう言ってるのよ」
ミトは口元を布巾で隠した。
「好きにしなさい」
ゴンが顔を上げた。
椅子の上には、洗って畳まれた服と空の鞄が置かれていた。
「いいの?」
「……明日の船、早いわよ」
「やった!」
ゴンが釣竿を掴み、階段を駆け上がっていく。
すぐに足音が戻ってきた。
「ありがとう、ミトさん!」
「先に着替えて。床に泥がついてる」
「うん!」
また足音が遠ざかった。
レミリアはカップへ口をつけた。
「ずいぶん素直じゃない」
「あなたを見習ったのよ」
ミトは笑って、床の泥を拭き取った。
◇
翌朝、港には村の子供たちが集まっていた。
ゴンは荷物を背負い、いつもの釣竿を肩に担いでいる。
「変な生き物を見つけたら、連れて帰ってこいよ」
「お土産も忘れるなよ!」
「分かってるって」
子供たちの足元を抜け、キツネグマのコンがやってきた。
ゴンがしゃがみ込むと、コンは腕の中へ頭を押しつけた。
「コンも来てくれたんだ」
コンはゴンの頬をひと舐めし、それからレミリアの方を見た。
近づいて、靴の匂いを嗅ぐ。
レミリアが手を伸ばした。
コンは逃げなかった。
「最初は、近づこうともしなかったのにね」
「私も仲良くなれたみたいね」
指先が、柔らかな毛へ沈んだ。
コンは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
港の向こうから、船の汽笛が聞こえた。
白い波を引きながら、古びた船が近づいてくる。
船が港へ着く。
船員が縄を投げ、渡し板を下ろした。
ゴンは釣竿を担ぎ直した。
「ミトさん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
ミトはゴンの襟を直した。
もう整っているのに、二度直した。
「レミリアも、またね」
「次はハンターね」
「うん!」
ゴンは渡し板を駆け上がった。
船が岸を離れる。
甲板から大きく振られた手へ、村の子供たちが両腕を振り返した。
ミトも手を振った。
船が小さくなっても、しばらく手を下ろさなかった。
◇
ゴンが島を発った翌朝、家の中は静かだった。
その日は、浜で子供たちと貝殻を拾った。
次の日は、畑の老婆に鳥除けの紐を結び直してほしいと頼まれた。
「私は便利屋ではないのだけれど」
結び終えた紐が、海風を受けて揺れた。
帰り道、潮鳴りの古木が鳴った。
幹の近くに、紙が一枚落ちていた。
端は濡れ、文字の大半は滲んでいた。
『ハンター試験』
『まだ見ぬものを追う者へ』
会場も、行き方も読めない。
「ずいぶん不親切ね」
レミリアは紙を折り、ポケットへしまった。
その夜、ミトが窓を開けた。
「明日、船が来るわよ」
「そう」
窓辺には、紅い筋の入った貝殻が置かれていた。
◇
三日目の朝、港から汽笛が聞こえた。
レミリアは食卓を片づけ、赤い縁取りのカップを洗った。
縁の欠けたところへ指を滑らせ、いつもの棚へ戻す。
「持っていかないの?」
「私のカップでしょう」
「だから訊いてるのよ」
「勝手に使わないでちょうだい」
ミトは棚のカップを見て、それからレミリアを見た。
「分かったわ」
レミリアは窓辺の貝殻を取り、ポケットへ入れた。
「世話になったわね」
「ちゃんと働いてくれたもの」
「そうね。お互い様よ」
玄関へ向かうと、ミトが後ろから襟を直した。
「気をつけて行くのよ」
レミリアは一度だけ振り返った。
「……行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
坂道を下りると、海風が翼の間を抜けた。
港には、見慣れない船が停まっている。
甲板には木箱や樽が積まれ、船員たちがせわしなく荷を運んでいた。
「ハンター試験ねぇ」
レミリアはポケットの中で、折り畳んだ紙と紅い貝殻に触れた。
「ドンも、こういう連中だったのかもしれないわね。私も受けてみようかしら」
渡し板の前に立つと、髭を生やした船長が顔を上げた。
「何だ、お嬢ちゃん」
「この船に乗りたいのだけれど」
「船賃は?」
「持っていないわ」
「じゃあ駄目だ」
「ずいぶん冷たいのね」
船長はため息をついて、木箱を指差した。
男が二人がかりで持ち上げようとし、顔をしかめている。
「あれを甲板まで運べたら、働き手として乗せてやる」
「条件は、それだけ?」
「それだけだ」
レミリアは木箱へ近づいた。
「ちょっと退きなさい」
男たちが顔を見合わせる。
「お嬢ちゃんには無理だって」
「そうかしら」
レミリアは片手で箱を持ち上げた。
渡し板が軋む。
甲板へ箱を下ろすと、船全体が小さく揺れた。
船長が口を開けたまま、こちらを見ていた。
「これで合格ね」
「……採用だ」
「試験官にしては、ずいぶん素直じゃない」
「試験官?」
「ハンター試験の話よ」
船長が眉をひそめた。
「いや、うちは貨物船だぞ」
レミリアは満足そうに頷いた。
「なるほど。もう始まっているのね」