レミリアは近くの巨木へ飛び上がった。
途方もなく巨大な樹木の、枝の一本だった。
重なり合った巨木の葉に外からの光はほとんど遮られ、一寸先も見えないほどの闇が広がっている。
つい先ほどまで、自分の内側に奇妙なものが居座っていた。そいつはレミリアの喉を勝手に使い、「大勝利!」などと間の抜けた声を上げていた。
だから、取り返した。
内側を覗けば、呆れるほど平凡な人間だった。
死に方まで間が抜けている、取るに足らない男だ。
もっとも、何者であろうと関係はない。
この身体はレミリア・スカーレットだけのものなのだから。
レミリアは小さく息を吐いた。
「……哀れね」
口にしてから、レミリアは眉をひそめた。
この感想は、本当に自分のものだろうか。
『スマートフォン』――男の記憶によれば、幻想郷の河童たちが作りそうな、遠くの者と言葉を交わすための道具らしい。それを歩きながら弄り、足元の穴にも気づかず落ちて死んだ。
見ず知らずの人間が一人、自業自得で死んだだけだ。
それなのに、収まりの悪いものが残っている。
「まあいいわ。もう私のだもの」
そう結論づけて、レミリアは周囲を見渡した。
冷たい風が、彼女の髪を揺らす。
ここが、どこなのか。
なぜ、自分がこんな場所にいるのか。
そして、どうやって紅魔館へ戻るのか。
レミリアは、自身の記憶を辿った。
◇
レミリアは、親愛なる友人であるパチュリー・ノーレッジの図書館を訪れていたはずだった。
とにかく暇だったのだ。あの引きこもりの賢者が何をしているのか気になって、冷やかし半分に会いに行った。
鼻腔をくすぐる、古びた魔導書のインクと紙の匂い。
書斎にいるパチュリーは、机の上に見たこともない魔導書を広げていた。
「ねぇ、パチェ。その面白そうな本、ちょっと貸しなさいよ」
「やめておきなさい、レミィ。書棚の奥に紛れ込んでいたの。こんな本、私は知らない。嫌な予感がするから、触らないで」
そのあたりまでは覚えている。
好奇心に抗えず、レミリアがその本に指先を触れた瞬間、紙面から血のような紅い光が溢れ出したのだ。
「レミィ!?」
パチュリーが椅子を蹴って立ち上がった。
「手を離して! その魔法は――」
館そのものが軋むほどの魔力が吹き荒れ、レミリアの視界は真っ赤に染まった。
◇
「まったく、パチェも大概ね。危ない本なら、せめて私の目につかないところに置きなさいよ。もっと厳重に封印をかけるとか、触れない場所に隔離するとか、やるべきことはいくらでもあるでしょうに」
もっとも、厳重に封じられていれば、自分は余計に興味を持っただろう。
その点については都合よく考えないことにした。
ふわりと身体を浮かせて上空を見上げた。
しかし、高度を上げても、幾層にも重なり合う巨大な樹葉に阻まれ、その先を見通すことはできない。ところどころに聳え立つのは、山と見紛うほどの巨木の幹。
パキ、と右手の闇から、不意に枝の折れる音が響いた。
レミリアがそちらに視線を投げても、何もいない。
代わりに、今度は左側の藪が、目に見えない足で踏み付けられたように、ゆっくりと押し潰された。
(何かが、いる――?)
レミリアはふわりと高度を下げた。
巨木の幹にへばりつき、一面を緑で埋め尽くす巨大な苔の群生地。
異様に脚の多い、山のような巨体を持つ虫だった。それはレミリアなど一呑みにできる質量がありながら、この森ではただの小動物らしい。巨木の表皮を苔ごと削り取り、甲殻の顎で咀嚼している。
足元の赤黒い草むらには、木の根のような触手を無数にのたうち回らせる肉塊が蠢いている。
「悪趣味にも限度があると思うわ」
そのとき。
胸の奥が、ドクンと脈打った。
「……恐怖? この私が?」
気づけば、爪先が半歩だけ後ずさっていた。
――逃げろ。
「私の身体を、勝手に震わせるんじゃないわよ」
眉をひそめると、男の記憶が脳裏へ濁流となって流れ込んできた。
その景色が、目の前の森とよく似ていた。
人類を滅ぼす五つの災厄。
快楽と命の等価交換、人飼いの獣パプ
謎の古代遺跡を守る正体不明の球体、兵器ブリオン
殺意を伝染させる魔物、双尾の蛇ヘルベル
欲望の共依存、ガス生命体アイ
希望を騙る底無しの絶望、不死の病ゾバエ病
「……『暗黒大陸』、といったかしら」
ぽつりと零したその名は、妙に大仰だった。
「ふぅん、なるほどね」
レミリアは蠢く森の奥を睨み据え、唇の端を吊り上げた。男の恐怖が大袈裟でなかったことだけは認めよう。
けれど――だから何だと言うのか。
「退屈を殺すには、これ以上ないほどの舞台じゃない」
「いいわ。まずは、生き延び――」
そこで口を閉ざし、レミリアはフッと自嘲気味に笑った。
まるであの男のようなセリフだ。らしくもない。
「――訂正するわ。せいぜい、この私を楽しませなさい」
それでも恐怖だけは、しぶとく彼女の中に残っている。
「安心しなさいな。あなたよりは上手くやるわ」
レミリアは鼻を鳴らし、怪物の蠢く森へ足を踏み出した。