レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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2.暗黒大陸①

 レミリア・スカーレットは、鬱蒼と茂る森の中に佇んでいた。

 彼女が立つのは地面ではない。途方もなく巨大な樹木、その枝の一本だった。

 

 夜の主である吸血鬼の目は、光を一切必要としない。

 

 太陽の光を完全に遮断するほど重なり合った巨木の葉の隙間、並の人間であれば一寸先も見えないはずの完全な暗闇。しかしレミリアの緋色の双眸は、その闇をまるで真昼のように鮮明に、いや、魔力の濃淡と生命の脈動が入り混じる妖しい世界として捉えていた。

 

 だが、その超人的な感覚よりも先に、彼女の意識を占めていたのは、自身の精神に穿たれた「奇妙な存在」だった。ほんの少し前まで、そいつはレミリアの喉を勝手に使い、「大勝利!」などと間の抜けた声を上げていた。我が物顔でレミリアの肉体を支配し、棚ぼたの幸運に狂喜乱舞していたのだ。

 

 だから、取り返した。

 

 内側を覗けば、呆れるほど平凡な人間だった。

 力もなければ才もない。

 死に方まで間が抜けている、取るに足らない男だ。

 

 もっとも、何者であろうと関係はない。

 この身体はレミリア・スカーレットだけのものなのだから。

 

 レミリアは小さく息を吐いた。

 

「……哀れね」

 

 口にしてから、レミリアは眉をひそめた。

 いま胸に抱いたこの感想は、本当に自分自身のものなのだろうか。

 

 『スマートフォン』――男の記憶から引き出した、幻想郷の河童たちが作りそうな、他者と繋がるための魔導具。それを歩きながら弄る『歩きスマホ』とやらに魂を奪われ文字通り足元すら見えなくなって、道路に開いたただの穴に落ちて死ぬ。幻想郷の最弱たる妖精ですら、これほど無様な死に方はしないだろう。あまりにもあっけなく、滑稽さすら漂う最期を遂げた男の記憶。

 

 見ず知らずの人間が一人、自業自得で死んだだけだ。

 それなのに、胸の奥には、どうにも収まりの悪いものが残っている。

 哀れみか、苛立ちか。自分でも判然としない。

 

「まあいいわ。もう私のだもの」

 

 そう結論づけて、レミリアは周囲を見渡した。

 冷たい風が、彼女の短い水色の髪を揺らす。

 死んだ男の感傷に付き合っている暇はない。

 

 ここが、どこなのか。

 なぜ、自分がこんな場所にいるのか。

 そして、どうやって紅魔館へ戻るのか。

 

 その手がかりを探るべく、レミリアは自身の記憶の糸を辿り始めた。

 

   ◇

 

 レミリアは、親愛なる友人であるパチュリー・ノーレッジの図書館を訪れていたはずだった。

 とにかく暇だったのだ。退屈に耐えかね、あの引きこもりの賢者が何をしているのか気になって、冷やかし半分に会いに行った。

 

 鼻腔をくすぐる、古びた魔導書のインクと紙の匂い。図書館全体を包む、ひんやりと乾いた空気。その中央の書斎にいるパチュリーは、いつになく目を輝かせて、机の上に見たこともない魔導書を広げていた。分厚い表紙からは、濃厚すぎて周辺の景色が歪んで見えるような魔力が漂っていた。その中央には、いかにも魔女が好みそうな幾何学模様の魔法陣が描かれている。

 

「ねぇ、パチェ。その面白そうな本、ちょっと貸しなさいよ」

 

「やめておきなさい、レミィ。書棚の奥に紛れ込んでいたの。こんな本、私は知らない。嫌な予感がするから、触らないで」

 

 そのあたりまでは覚えている。

 だが、その先の記憶がひどく曖昧だった。

 好奇心に抗えず、レミリアがその本に指先を触れた瞬間、紙面から血のような紅い光が溢れ出したのだ。

 

「レミィ!?」

 

 パチュリーが椅子を蹴って立ち上がった。

 

「手を離して! その魔法は――」

 

 館そのものが軋み、大図書館の空間全体を歪めるほどの魔力が吹き荒れ、レミリアの視界は真っ赤に染まった。

 

 それから、意識は深い闇へと転落したのだ。

 

   ◇

 

「まったく、パチェも大概ね。危ない本なら、せめて私の目につかないところに置きなさいよ。もっと厳重に封印をかけるとか、触れない場所に隔離するとか、やるべきことはいくらでもあるでしょうに」

 

 もっとも、厳重に封じられていれば、自分は余計に興味を持っただろう。

 その点については都合よく考えないことにした。

 

 レミリアは改めて、この異常な空間に視線を走らせた。

 ふわりと身体を浮かせて上空を見上げる。

 

 しかし、どれほど飛び上がっても、重なり合う巨大な樹葉の天井――樹冠の果ては見えない。空間の距離感そのものが狂っている。いや、「広い」などという生温い言葉では、この異常さを到底表現しきれない。

 

 見渡す限り、視界のすべてを巨大な木々が埋め尽くしている。ところどころに聳え立つのは、山と見紛うほどの巨木の幹であり、その根元に広がるのは、底の知れない闇の谷だ。地平線の感覚すら狂っている。自分がどれほど高い場所に立っているのかさえ、目測では判断がつかなかった。

 

 そして、なによりも――この森は、まともではない。

 

 パキ、と右手の闇から、不意に枝の折れる音が響いた。

 レミリアがそちらに鋭い視線を投げても、そこには何もいない。

 代わりに、今度は左側の藪が、まるで目に見えない巨大な足で踏み付けられたかのように、不自然に、ゆっくりと押し潰された。

 

(何かが、いる――?)

 

 静寂のなかに潜む気配を探るべく、レミリアはふわりと高度を下げた。

 巨木の幹にへばりつき、一面を緑で埋め尽くす巨大な苔の群生地。

 そこは堆積した腐葉土によって、地上の森と変わらない奇妙な生態系を成していた。

 

 さっそく遭遇したのは、異様に脚の多い、山のような巨体を持つ虫だった。それはレミリアなど一呑みにできる質量がありながら、この森ではただの小動物、あるいは無害な草食獣にすぎないらしい。巨木の表皮を苔ごと削り取り、甲殻の顎でガリガリと咀嚼している。

 

 遥か上空、雲の合間を悠然と回遊するのは、竜ともトカゲともつかない、ヘドロ色の鱗を持つ異形。鱗は有害なガスを放つように鈍く光り、裂けた口元からは赤黒い酸の霧を吐き出しながら、天空の支配者として君臨している。

 

 さらに、足元の赤黒い草むらには、木の根のような触手を無数にのたうち回らせる肉塊が蠢いている。その表面には、何十もの「人間の眼球」に似た器官が、ぎょろぎょろと不規則に回転していた。

 

「悪趣味にも限度があると思うわ」

 

 そのとき。

 

 レミリアの胸の奥――男の残滓が沈んでいるあたりが、にわかに激しく脈打ち始めた。

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 

「……恐怖? この私が?」

 

 気づけば、爪先が半歩だけ後ずさっていた。

 ――逃げろ。

 

 胸の奥底から突き上げてきたのは、なりふり構わない生存本能。

 レミリア自身の肉体の主導権を力ずくで奪おうとするほどの、純粋な絶望。

 

「私の身体を、勝手に震わせるんじゃないわよ」

 

 不快感に眉をひそめた瞬間、男の記憶が脳裏へ濁流となって流れ込んできた。その地獄の景色が、いま目の前にある異様な生態系と完全に合致する。男のいた世界で、空想の物語として描かれていた、人類を滅ぼす五つの理不尽。その記憶のスクリーンには、おぞましい「厄災」の姿が克明に写し出されていた。

 

 快楽と命の等価交換、人飼いの獣パプ

 謎の古代遺跡を守る正体不明の球体、兵器ブリオン

 殺意を伝染させる魔物、双尾の蛇ヘルベル

 欲望の共依存、ガス生命体アイ

 希望を騙る底無しの絶望、不死の病ゾバエ病

 

 かつて人類がその「外側」へと挑み、ことごとく惨敗して持ち帰った、生存を許さない絶対的な絶望。

 

「……『暗黒大陸』、といったかしら」

 

 ぽつりと零したその名は、妙に大仰で、ひどく悪趣味な響きだった。

 

「ふぅん、なるほどね」

 

 レミリアは怪しく蠢く森の奥を睨み据え、不敵に唇の端を吊り上げた。男の恐怖は本物だ。魂の底から彼女の肉体を震わせるほどに。

 

 けれど――だから何だと言うのか。

 

「退屈を殺すには、これ以上ないほどの舞台じゃない」

 

 思い通りにならない世界、自分を脅かすかもしれない未知の脅威。これほど彼女の血を沸かせ、退屈という最大の敵を追い散らしてくれる玩具が、他にあるだろうか。

 

「いいわ。まずは、生き延び――」

 

 そこで口を閉ざし、レミリアはフッと自嘲気味に笑った。

 まるであの男のようなセリフだ。らしくもない。

 

「――訂正するわ。せいぜい、この私を楽しませなさい」

 

 レミリアは胸の奥深くに沈んだ、男の「残滓」へと、ほんの少しだけ意識を向けた。それでも恐怖だけは、しぶとく彼女の中に残っている。

 

「安心しなさいな。あなたよりは上手くやるわ」

 

 返事の代わりに、胸の奥の震えがほんのわずかに静まった。

 レミリアは鼻を鳴らし、怪物の蠢く森へ足を踏み出した。

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