周囲を見渡すため、レミリアは近くの巨木へ飛び上がっていた。
彼女が立つのは、途方もなく巨大な樹木、その枝の一本だった。
重なり合った巨木の葉に外からの光はほとんど遮られ、並の人間なら一寸先も見えないほどの闇が広がっている。だが、夜の主たるレミリアの緋色の双眸には、森の姿が鮮明に映っていた。
しかし、目の前の異様な森よりも、今の彼女には気に障るものがあった。つい先ほどまで、自分の内側に居座っていた奇妙な存在だ。そいつはレミリアの喉を勝手に使い、「大勝利!」などと間の抜けた声を上げていた。我が物顔でレミリアの肉体を支配し、棚ぼたの幸運に舞い上がっていたのだ。
だから、取り返した。
内側を覗けば、呆れるほど平凡な人間だった。
力もなければ才もない。
死に方まで間が抜けている、取るに足らない男だ。
もっとも、何者であろうと関係はない。
この身体はレミリア・スカーレットだけのものなのだから。
レミリアは小さく息を吐いた。
「……哀れね」
口にしてから、レミリアは眉をひそめた。
いま胸に抱いたこの感想は、本当に自分自身のものなのだろうか。
『スマートフォン』――男の記憶によれば、幻想郷の河童たちが作りそうな、遠くの者と言葉を交わすための道具らしい。それを歩きながら弄り、足元の穴にも気づかず落ちて死んだ。
見ず知らずの人間が一人、自業自得で死んだだけだ。
それなのに、胸の奥には、どうにも収まりの悪いものが残っている。
「まあいいわ。もう私のだもの」
そう結論づけて、レミリアは周囲を見渡した。
冷たい風が、彼女の短い水色の髪を揺らす。
ここが、どこなのか。
なぜ、自分がこんな場所にいるのか。
そして、どうやって紅魔館へ戻るのか。
レミリアは、自身の記憶を辿った。
◇
レミリアは、親愛なる友人であるパチュリー・ノーレッジの図書館を訪れていたはずだった。
とにかく暇だったのだ。あの引きこもりの賢者が何をしているのか気になって、冷やかし半分に会いに行った。
鼻腔をくすぐる、古びた魔導書のインクと紙の匂い。図書館全体を包む、ひんやりと乾いた空気。その中央の書斎にいるパチュリーは、いつになく真剣な目で、机の上に見たこともない魔導書を広げていた。分厚い表紙からは、濃厚すぎて周辺の景色が歪んで見えるような魔力が漂っていた。その中央には、いかにも魔女が好みそうな幾何学模様の魔法陣が描かれている。
「ねぇ、パチェ。その面白そうな本、ちょっと貸しなさいよ」
「やめておきなさい、レミィ。書棚の奥に紛れ込んでいたの。こんな本、私は知らない。嫌な予感がするから、触らないで」
そのあたりまでは覚えている。
だが、その先の記憶がひどく曖昧だった。
好奇心に抗えず、レミリアがその本に指先を触れた瞬間、紙面から血のような紅い光が溢れ出したのだ。
「レミィ!?」
パチュリーが椅子を蹴って立ち上がった。
「手を離して! その魔法は――」
館そのものが軋み、大図書館の空間全体を歪めるほどの魔力が吹き荒れ、レミリアの視界は真っ赤に染まった。
それから、意識は深い闇へと転落したのだ。
◇
「まったく、パチェも大概ね。危ない本なら、せめて私の目につかないところに置きなさいよ。もっと厳重に封印をかけるとか、触れない場所に隔離するとか、やるべきことはいくらでもあるでしょうに」
もっとも、厳重に封じられていれば、自分は余計に興味を持っただろう。
その点については都合よく考えないことにした。
レミリアは改めて、この異常な空間に視線を走らせた。
ふわりと身体を浮かせて上空を見上げる。
しかし、高度を上げても、幾層にも重なり合う巨大な樹葉に阻まれ、その先を見通すことはできない。見渡す限り、視界のすべてを巨大な木々が埋め尽くしている。ところどころに聳え立つのは、山と見紛うほどの巨木の幹。その根元には、底の知れない闇の谷が広がっていた。
そして、なによりも――この森は、まともではない。
パキ、と右手の闇から、不意に枝の折れる音が響いた。
レミリアがそちらに鋭い視線を投げても、そこには何もいない。
代わりに、今度は左側の藪が、まるで目に見えない巨大な足で踏み付けられたかのように、不自然に、ゆっくりと押し潰された。
(何かが、いる――?)
静寂のなかに潜む気配を探るべく、レミリアはふわりと高度を下げた。
巨木の幹にへばりつき、一面を緑で埋め尽くす巨大な苔の群生地。
そこは堆積した腐葉土によって、地上の森と変わらない奇妙な生態系を成していた。
さっそく遭遇したのは、異様に脚の多い、山のような巨体を持つ虫だった。それはレミリアなど一呑みにできる質量がありながら、この森ではただの小動物、あるいは無害な草食獣にすぎないらしい。巨木の表皮を苔ごと削り取り、甲殻の顎でガリガリと咀嚼している。
遥か上方、巨大な枝々を縫うように悠然と回遊するのは、竜ともトカゲともつかない、ヘドロ色の鱗を持つ異形。鱗の隙間から濁ったガスを漏らし、裂けた口元から赤黒い酸の霧を吐き出しながら、我が物顔で枝々の間を泳いでいる。
さらに、足元の赤黒い草むらには、木の根のような触手を無数にのたうち回らせる肉塊が蠢いている。その表面には、何十もの「人間の眼球」に似た器官が、ぎょろぎょろと不規則に回転していた。
「悪趣味にも限度があると思うわ」
そのとき。
胸の奥――男の残滓が沈んでいるあたりが、ドクンと脈打った。
「……恐怖? この私が?」
気づけば、爪先が半歩だけ後ずさっていた。
――逃げろ。
胸の奥底から突き上げてきたのは、なりふり構わない生存本能。
「私の身体を、勝手に震わせるんじゃないわよ」
不快感に眉をひそめると、男の記憶が脳裏へ濁流となって流れ込んできた。その地獄の景色が、いま目の前にある異様な生態系と不気味なほどよく似ていた。
人類を滅ぼす五つの理不尽。
快楽と命の等価交換、人飼いの獣パプ
謎の古代遺跡を守る正体不明の球体、兵器ブリオン
殺意を伝染させる魔物、双尾の蛇ヘルベル
欲望の共依存、ガス生命体アイ
希望を騙る底無しの絶望、不死の病ゾバエ病
「……『暗黒大陸』、といったかしら」
ぽつりと零したその名は、妙に大仰で、ひどく悪趣味な響きだった。
「ふぅん、なるほどね」
レミリアは怪しく蠢く森の奥を睨み据え、不敵に唇の端を吊り上げた。男の恐怖が大袈裟でなかったことだけは認めよう。
けれど――だから何だと言うのか。
「退屈を殺すには、これ以上ないほどの舞台じゃない」
レミリアは躊躇なく森の奥へと足を向けた。
「いいわ。まずは、生き延び――」
そこで口を閉ざし、レミリアはフッと自嘲気味に笑った。
まるであの男のようなセリフだ。らしくもない。
「――訂正するわ。せいぜい、この私を楽しませなさい」
レミリアは胸の奥深くに沈んだ、男の「残滓」へと、ほんの少しだけ意識を向けた。それでも恐怖だけは、しぶとく彼女の中に残っている。
「安心しなさいな。あなたよりは上手くやるわ」
そう言い聞かせると、胸の奥に残っていた震えが、ほんのわずかに静まった。
レミリアは鼻を鳴らし、怪物の蠢く森へ足を踏み出した。