レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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2.暗黒大陸①

 周囲を見渡すため、レミリアは近くの巨木へ飛び上がっていた。

 彼女が立つのは、途方もなく巨大な樹木、その枝の一本だった。

 

 重なり合った巨木の葉に外からの光はほとんど遮られ、並の人間なら一寸先も見えないほどの闇が広がっている。だが、夜の主たるレミリアの緋色の双眸には、森の姿が鮮明に映っていた。

 

 しかし、目の前の異様な森よりも、今の彼女には気に障るものがあった。つい先ほどまで、自分の内側に居座っていた奇妙な存在だ。そいつはレミリアの喉を勝手に使い、「大勝利!」などと間の抜けた声を上げていた。我が物顔でレミリアの肉体を支配し、棚ぼたの幸運に舞い上がっていたのだ。

 

 だから、取り返した。

 

 内側を覗けば、呆れるほど平凡な人間だった。

 力もなければ才もない。

 死に方まで間が抜けている、取るに足らない男だ。

 

 もっとも、何者であろうと関係はない。

 この身体はレミリア・スカーレットだけのものなのだから。

 

 レミリアは小さく息を吐いた。

 

「……哀れね」

 

 口にしてから、レミリアは眉をひそめた。

 いま胸に抱いたこの感想は、本当に自分自身のものなのだろうか。

 

 『スマートフォン』――男の記憶によれば、幻想郷の河童たちが作りそうな、遠くの者と言葉を交わすための道具らしい。それを歩きながら弄り、足元の穴にも気づかず落ちて死んだ。

 

 見ず知らずの人間が一人、自業自得で死んだだけだ。

 それなのに、胸の奥には、どうにも収まりの悪いものが残っている。

 

「まあいいわ。もう私のだもの」

 

 そう結論づけて、レミリアは周囲を見渡した。

 冷たい風が、彼女の短い水色の髪を揺らす。

 

 ここが、どこなのか。

 なぜ、自分がこんな場所にいるのか。

 そして、どうやって紅魔館へ戻るのか。

 

 レミリアは、自身の記憶を辿った。

 

   ◇

 

 レミリアは、親愛なる友人であるパチュリー・ノーレッジの図書館を訪れていたはずだった。

 とにかく暇だったのだ。あの引きこもりの賢者が何をしているのか気になって、冷やかし半分に会いに行った。

 

 鼻腔をくすぐる、古びた魔導書のインクと紙の匂い。図書館全体を包む、ひんやりと乾いた空気。その中央の書斎にいるパチュリーは、いつになく真剣な目で、机の上に見たこともない魔導書を広げていた。分厚い表紙からは、濃厚すぎて周辺の景色が歪んで見えるような魔力が漂っていた。その中央には、いかにも魔女が好みそうな幾何学模様の魔法陣が描かれている。

 

「ねぇ、パチェ。その面白そうな本、ちょっと貸しなさいよ」

 

「やめておきなさい、レミィ。書棚の奥に紛れ込んでいたの。こんな本、私は知らない。嫌な予感がするから、触らないで」

 

 そのあたりまでは覚えている。

 だが、その先の記憶がひどく曖昧だった。

 好奇心に抗えず、レミリアがその本に指先を触れた瞬間、紙面から血のような紅い光が溢れ出したのだ。

 

「レミィ!?」

 

 パチュリーが椅子を蹴って立ち上がった。

 

「手を離して! その魔法は――」

 

 館そのものが軋み、大図書館の空間全体を歪めるほどの魔力が吹き荒れ、レミリアの視界は真っ赤に染まった。

 

 それから、意識は深い闇へと転落したのだ。

 

   ◇

 

「まったく、パチェも大概ね。危ない本なら、せめて私の目につかないところに置きなさいよ。もっと厳重に封印をかけるとか、触れない場所に隔離するとか、やるべきことはいくらでもあるでしょうに」

 

 もっとも、厳重に封じられていれば、自分は余計に興味を持っただろう。

 その点については都合よく考えないことにした。

 

 レミリアは改めて、この異常な空間に視線を走らせた。

 ふわりと身体を浮かせて上空を見上げる。

 

 しかし、高度を上げても、幾層にも重なり合う巨大な樹葉に阻まれ、その先を見通すことはできない。見渡す限り、視界のすべてを巨大な木々が埋め尽くしている。ところどころに聳え立つのは、山と見紛うほどの巨木の幹。その根元には、底の知れない闇の谷が広がっていた。

 

 そして、なによりも――この森は、まともではない。

 

 パキ、と右手の闇から、不意に枝の折れる音が響いた。

 レミリアがそちらに鋭い視線を投げても、そこには何もいない。

 代わりに、今度は左側の藪が、まるで目に見えない巨大な足で踏み付けられたかのように、不自然に、ゆっくりと押し潰された。

 

(何かが、いる――?)

 

 静寂のなかに潜む気配を探るべく、レミリアはふわりと高度を下げた。

 巨木の幹にへばりつき、一面を緑で埋め尽くす巨大な苔の群生地。

 そこは堆積した腐葉土によって、地上の森と変わらない奇妙な生態系を成していた。

 

 さっそく遭遇したのは、異様に脚の多い、山のような巨体を持つ虫だった。それはレミリアなど一呑みにできる質量がありながら、この森ではただの小動物、あるいは無害な草食獣にすぎないらしい。巨木の表皮を苔ごと削り取り、甲殻の顎でガリガリと咀嚼している。

 

 遥か上方、巨大な枝々を縫うように悠然と回遊するのは、竜ともトカゲともつかない、ヘドロ色の鱗を持つ異形。鱗の隙間から濁ったガスを漏らし、裂けた口元から赤黒い酸の霧を吐き出しながら、我が物顔で枝々の間を泳いでいる。

 

 さらに、足元の赤黒い草むらには、木の根のような触手を無数にのたうち回らせる肉塊が蠢いている。その表面には、何十もの「人間の眼球」に似た器官が、ぎょろぎょろと不規則に回転していた。

 

「悪趣味にも限度があると思うわ」

 

 そのとき。

 胸の奥――男の残滓が沈んでいるあたりが、ドクンと脈打った。

 

「……恐怖? この私が?」

 

 気づけば、爪先が半歩だけ後ずさっていた。

 ――逃げろ。

 

 胸の奥底から突き上げてきたのは、なりふり構わない生存本能。

 

「私の身体を、勝手に震わせるんじゃないわよ」

 

 不快感に眉をひそめると、男の記憶が脳裏へ濁流となって流れ込んできた。その地獄の景色が、いま目の前にある異様な生態系と不気味なほどよく似ていた。

 

 人類を滅ぼす五つの理不尽。

 

 快楽と命の等価交換、人飼いの獣パプ

 謎の古代遺跡を守る正体不明の球体、兵器ブリオン

 殺意を伝染させる魔物、双尾の蛇ヘルベル

 欲望の共依存、ガス生命体アイ

 希望を騙る底無しの絶望、不死の病ゾバエ病

 

「……『暗黒大陸』、といったかしら」

 

 ぽつりと零したその名は、妙に大仰で、ひどく悪趣味な響きだった。

 

「ふぅん、なるほどね」

 

 レミリアは怪しく蠢く森の奥を睨み据え、不敵に唇の端を吊り上げた。男の恐怖が大袈裟でなかったことだけは認めよう。

 

 けれど――だから何だと言うのか。

 

「退屈を殺すには、これ以上ないほどの舞台じゃない」

 

 レミリアは躊躇なく森の奥へと足を向けた。

 

「いいわ。まずは、生き延び――」

 

 そこで口を閉ざし、レミリアはフッと自嘲気味に笑った。

 まるであの男のようなセリフだ。らしくもない。

 

「――訂正するわ。せいぜい、この私を楽しませなさい」

 

 レミリアは胸の奥深くに沈んだ、男の「残滓」へと、ほんの少しだけ意識を向けた。それでも恐怖だけは、しぶとく彼女の中に残っている。

 

「安心しなさいな。あなたよりは上手くやるわ」

 

 そう言い聞かせると、胸の奥に残っていた震えが、ほんのわずかに静まった。

 レミリアは鼻を鳴らし、怪物の蠢く森へ足を踏み出した。

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