レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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3.暗黒大陸②

 湿気と、得体の知れない生臭さが這い上がってくる森の中を歩く気には、到底なれなかった。

 

 足元には名も知らぬ草が生い茂り、木の幹には名も知らぬ虫が這っている。葉の裏、土の下、水たまりの表面。そのすべてが、じっと自分を見つめているような気がした。この大陸そのものが、ひとつの巨大な胃袋のようだった。

 

「……とにかく、ここから離れたいわ」

 

 背中の羽を広げ、レミリアは重なり合う梢を蹴って上空へと飛び出した。直後、視界の端で森が歪んだ。

 

 いや、森ではない。大地そのものが、のたうち回るように盛り上がったのだ。何百本もの大樹が根元からへし折れ、巻き上がった土煙の下から、陽光を浴びて邪悪に黒光りする甲殻が這い出てくる。

 

 ムカデだ。

 

 数万倍もの質量を持つ、山脈のような巨虫。背中に苔や大樹を生やしたまま蠢く、異形の怪物だった。鉄柱のごとき歩脚が一本、空中のレミリアへ向けて振り上げられる。脚は大気を押し潰し、轟音とともに振り下ろされた。

 

「まったく、醜悪だわ。無駄にでかいし」

 

 レミリアは空中で優雅に身をひねり、迫る質量をかわす。剥き出しになった甲殻の隙間に、赤黒い生肉が見えた。

 

 指先へ紅い魔力を凝縮し、その割れ目に向けて弾幕を容赦なく叩き込む。甲殻が爆砕し、裂けた肉々しい傷口から、どす黒い体液が噴水のように吹き上がった。

 

「ふふん、この程度で――」

 

 レミリアが勝ち誇ろうとした瞬間、その表情が凍りついた。

 

 巨大ムカデは傷など意にも介さず、暴れ狂い始めた。いつの間に現れたのか、飛び散る黒い体液には、別の生物まで群がり始めている。巨体がのたうつだけで、周囲には台風のごとき暴風が吹き荒れる。四散した黒い体液が、雨となってレミリアへ降り注いだ。そのうちの一滴が、ドレスの袖に触れる。

 

 じゅっ、と耳障りな音がした。

 次の瞬間、布地が溶けて消えた。

 

 それだけではない。黒い体液は露出した肌に食らいつき、狂暴な寄生虫のように、吸血鬼の肉体を溶かし始めたのだ。

 

「あ――ッ、つぅ……! 痛いッ! なによ、これ……!」

 

 喉の奥から、無様な悲鳴がせり上がってくる。

 

 自分の中に混ざり込んだ、あの男の恐怖が喉を鳴らしている。レミリアは奥歯が砕けんばかりに噛み締め、その声を無理やり喉の奥へねじ伏せた。

 

 太陽に灼かれる苦痛を何十倍にも膨れ上がらせたような、神経を直接掻き回される激痛。

 

 たまらず羽を強く打ち、巨虫の暴れる遥か上方まで一気に高度を上げた。身をよじりながら、体内の妖力を傷口へ集中させる。

 

 普段なら、腕の一本を消し飛ばされても呼吸をする間に再生する。だが、白煙を上げる傷口はじわじわと肉を侵食し続け、一向に塞がろうとしなかった。

 

「ちょ、ちょっと、どういうこと? 治らないじゃないの!」

 

 それでも、肉体の再生が少しずつ侵食を押し返し始めた。黒い体液を少しずつ中和し、焼けただれた肌を無理やり元の白さへと戻していく。

 

 レミリアが、小さく息を吐き出した。

 その安堵を切り裂くように、左肩から先の感覚が、唐突に消失した。 

 

「――何が」

 

 切断された衝撃もない。噛み砕かれた痛みもない。

 

 まるで最初からそこには何もなかったかのように、白い腕が一瞬にして紅い血煙へと変わっていた。どこかへ、持っていかれた。そうとしか思えなかった。

 

 一拍遅れて、焼けるような痛みが脳を突き刺す。

 

「――ッ!」

 

 レミリアは反射的に身体を反らし、後方へ大きく飛び退いた。失われた腕が紅い霧となってほどけ、再び形を取り戻そうとする。

 

 普段ならば一瞬で戻るはずの肉が、妙に重かった。傷口の断面に、べったりとした泥のような何かが絡みついていた。

 

 魔力とも妖気とも違う。少なくとも、レミリアの知る力ではなかった。彼だったものの記憶が、また警告のように泡立った。

 

 ――念、念能力。

 

「知識だけあっても、役に立たないわよ!」

 

 苛立ちを吐き捨てるように言った。

 同時に姿なき刃が、吸血鬼の身体を容赦なく削り取り、その肉片を持ち去っていく。

 

「小癪な……!」

 

 何かがいる。それだけは皮膚に伝わる殺気で分かる。

 

 だが、見えない。

 

 疾風のごとく空を駆ける自分が、相手の姿どころか軌道すら捉えられないなど、あるはずがない。レミリアは溢れる血を指で拭いながら、冷静に周囲の空間を睨みつけた。

 

 血の匂いを追おうとしたが、ここは乱気流の渦巻く遥か上空。

 匂いは一瞬で四散し、標的を絞り込めない。

 

 気配を探る。

 空を漂う小さな生き物たち。その中に、空気を切り裂く微かな流れが混じっている。

 

 ひとつではない。いくつもあった。

 それらはレミリアの周囲を、凄まじい速度で旋回していた。

 

「鳥……?」

 

 直感した瞬間、周囲の景色がわずかに歪んだ。

 雲と青空の境界を、鳥の群れが滑るように飛んでいる。

 

 だが、それはレミリアの知る鳥ではなかった。

 

 羽根が周囲の色を完全に同化させているのだ。青空の中では青く、雲を背にすれば白く、遥か下の森を見下ろせば濃い緑に。翼の縁だけが、研ぎ澄まされた刃のように薄く光っていた。

 

 小さな身体でありながら、音さえ置き去りにする速度で旋回し、一羽一羽の翼には奇妙な力がまとわりついていた。

 

 一羽が横切る。レミリアの肩が消えた。

 

 別の影がかすめる。髪が千切れ、ドレスの袖ごと肉体の一部が消失する。削られた箇所から紅い霧が散り、肉の再生は阻害されたままだ。

 

 存在そのものの輪郭を、薄い彫刻刀で少しずつ削り取られていくような、薄気味悪い感覚。 

 

 男の記憶の底から、切迫した恐怖だけが浮かび上がった。

 ――逃げろ、相手の念能力が分からない。

 

「逃げる、この私が。冗談じゃないわよ、黙ってなさい!」

 

 レミリアは、その不快なノイズを強引に押し込めた。理解できないものに縋る趣味などない。

 

 レミリアの全身から、紅い霧が爆発的に噴き出した。

 

 かつて幻想郷を覆った紅魔異変のそれとは違う。レミリアの全身から噴き出した紅い霧が、じわりと周囲の空を呑み込んでいく。

 

 鳥たちは警戒もせず、なおも直線的な鋭い軌道で突っ込んできた。何羽かが霧を切り裂き、レミリアへと肉薄する。

 

 だが、その瞬間。

 霧の微粒子が、鳥たちの身体にびっしりと付着した。鳥の動きに合わせて、紅い霧の密度がわずかに揺らぐ。

 

 一羽、二羽、十羽、二十羽、三十羽。

 

 まだいる。空の至るところに、網の目のように潜んでいた。

 

「もう、何羽いるのよ……!」

 

 血の霧の中で、レミリアは傲慢に唇を吊り上げた。目論見は成功した。翼が霧を切り裂くたび、透明に近い羽毛の隙間へ、吸血鬼の赤が染み込んでいく。レミリアは紅霧の結界の中で、不敵に笑った。

 

「まっ、知恵比べは私が上だったみたいね。所詮は小鳥かしら。丸見えよ」

 

 異変を察知した鳥の群れが一斉に旋回し、散り散りに逃亡を図る。だが、すべてが遅すぎた。

 

 レミリアは右手を天高く掲げた。

 

 失われた左腕は、まだ戻っていない。脇腹も抉れ、頬には生々しい裂け目が刻まれたままだ。それでも、その緋色の瞳から気高い光は失われていない。

 

 逃げ道など、初めから残すつもりはなかった。

 

「獄符」

 

 周囲の魔力が、一気に沸点に達する。霧に混じった彼女自身の血が、細く、鋭く、無数の針へと変貌を遂げていく。

 

 一本一本が、肉を穿つ杭のように赤い。それらは鳥たちのあらゆる退路を塞ぐように、精密な幾何学模様を描いて虚空へ整列した。

 

「千本の針の山」

 

 次の瞬間、紅い針の山が空を押し潰した。無数の針が、逃げ惑う鳥の群れへあらゆる角度から殺到する。上昇しようとした先。高度を落とした先。旋回した先。そのすべてに、すでに紅い死の針が配置されていた。

 

 一羽が貫かれた。続いて二羽、十羽、二十羽。

 

 紅い針が翼を裂き、胴体を穿ち、その命を刈り取っていく。鳥の群れが、骨の奥を震わせるような甲高い悲鳴を上げた。

 

「鳥ごときが……。思い知ったかしら」

 

 勝ち誇ろうとした、そのときだった。

 レミリアは決め台詞を悠長に考えていたというのに。

 

 縫い留められたはずの鳥たちが、血を流しながらも、磁石に引き寄せられるように一つに集まり始めた。まるで最初から、群れ全体でひとつの巨大な生命体だったかのように。

 

「ちょっと。なによ、これ……! 合体なんて聞いてないわよ!」

 

 骨が重なり、肉が融け合い、翼が幾重にも折り畳まれてより巨大な一対の翼へと作り替えられていく。やがて、レミリアの数倍はあろうかという、巨大な異形の怪鳥が姿を現した。

 

 融け合った肉の表面を、血のような赤斑が覆っていた。怪鳥は目の前の吸血鬼を一呑みにすべく、闇のような大口を開けて突進してきた。

 

 レミリアはその突進をかわした。そして横に周り、その図体に向かって、思い切り殴りつけた。吸血鬼の肉体によるパンチ。ただでは済まない……はずだった。

 

 巨鳥は吹き飛ばされたが、すぐに空中で制動し、構わずレミリアを捕食しようと巨大な口を開けた。

 

 硬い。合体した巨鳥は、それまでの鳥とはまるで違っていた。生命力も、肉体の強度も、桁違いに跳ね上がっている。

 

「往生際が悪いわね。それでも私を喰らうつもり? ずいぶん欲張りさんじゃない。……なめるんじゃないわよ!」

 

 レミリアは紅い光の尾を引き、怪鳥の正面から消えた。次に姿を現したときには、すでにその懐へ潜り込んでいた。

 

 暗黒大陸の生物がいかに理不尽であろうとも、彼女自身もまた、その理不尽を体現する怪物なのだ。

 

 右手へ強烈な妖力を込める。

 手のひらに紅い投槍が形作られる。

 その穂先から漏れる魔力が、空気を細かく震わせた。

 

 ――スピア・ザ・グングニル

 

「心臓を貫きなさい!」

 

 空気を爆裂させ、紅い槍が放たれた。怪鳥は超常的な反応速度で首をひねり、槍の軌道から逃れた。

 

 ――はずだった。

 

 かわしたはずの槍が、怪鳥の心臓を追うように空中で折れ曲がる。紅い軌跡が、稲妻のように翻った。魔槍は怪鳥の背後へ回り込み、その胸部を激しく穿ち抜く。

 

 血と肉が弾け、大穴が開いた。

 

 それでも怪鳥は止まらなかった。胸から血煙を噴き上げたまま闇のような大口を開き、なおもレミリアを呑み込もうと突進してくる。

 

「しぶといわね……! おまえはもう終わりなのよ!」

 

 だが、グングニルもまた、一度貫いた程度では止まらない。

 紅い槍は意思を持つ蛇のように急旋回し、再び怪鳥の巨体へ襲いかかった。

 

 二度、三度、四度。

 

 翼の付け根を裂き、腹を抉り、首の根元を穿つ。それでも動き続ける怪鳥の体内を、魔槍は急所を探り当てるように徹底して貫いていく。四度目の穿孔とともに、怪鳥の全身から力が抜けた。

 

 激しい血煙を引きながら巨体が傾き、轟音とともに森の深部へ落下していった。

 

「四回も往復するなんてね。心臓が四つあったのかしら。生命体としての出来がめちゃくちゃね……」

 

 レミリアは呆れたように肩をすくめた。

 

 その直後、先ほどまで滞っていた肉体の再生が、嘘のような速さで始まった。失われた左腕が紅い霧から再構成され、抉れた脇腹が塞がる。頬に刻まれていた裂け目も消え、白い肌が元の完璧な美しさを取り戻した。

 

「あら、そういうカラクリね。倒してしまえば消える。念能力とやらも、大したことないじゃない」

 

 身体が完全に元へ戻ったことを確認し、ゆっくりと高度を下げる。だが、怪鳥が落下した場所に、その姿はすでになかった。

 

 レミリアの攻撃によるものではない、生々しい傷跡。巨大な爪で引き裂かれたような痕。地面そのものを、ひと掬い持ち去られたような大穴。

 

 それらだけが、森の一角に残されている。

 落下してから、ほんの数秒しか経っていない。にもかかわらず、怪鳥の巨体はすでに、別の捕食者たちに食い尽くされていた。

 

 レミリアの背筋を、冷たいものが走る。

 その直後、森が不気味に共鳴し始めた。

 

 遠くから、山が動くような地鳴りが響く。地面の下で、巨大な何かが身をよじる。空のさらに上では、雲を裂くほどの影が旋回を始めていた。怪鳥の死骸と、飛び散った血の匂いに引き寄せられたのだ。

 

「……本当に、長居はできないわね」

 

 胸の奥で、まだ溶け切っていない男の残滓が激しく叫んでいる。

 ――隠れろ。早く、そこから離れろ。

 

 あまりにも耳障りだった。

 

「余計なお世話なんだから……!」

 

 苛立ちを露わにしながら、周囲へ展開していた紅霧を引き戻した。無視しようとしても、男の恐怖は胸の奥にこびりついて離れなかった。遠くで、またひとつ地鳴りが響く。

 

「わかってるわよ! もう!」

 

 内なる警告に従ってレミリアは羽を畳み、木々が作り出す漆黒の影へ滑り込むように降り立った。男が隠れろと叫ぶ理由も、分からなくはない。

 ーー遠くから、地面を揺らす巨大な足音が近づいてくる。

 

「なんてところなのかしら……。面倒は嫌いだわ」

 

 吐き捨て、ふっと皮肉げに唇の端を吊り上げる。

 

「……まあ、私がおとなしくしてあげられるかは、怪しいけれどね」

 

 紅い悪魔の姿は、血の匂いだけを残して森の闇へ消えた。

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