木々の影から影へと、レミリアは音もなく滑るように移動していた。大気を震わせていた巨獣たちの足音は、すでに背後へ遠ざかっている。代わりに彼女を包み込んでいたのは、肌へまとわりつく湿気と、腐臭を孕んだ不気味な静寂だった。
「よくもまあ、これほどまでに不快な環境が出来上がったものね」
この大陸で出会う化け物たちは、実にさまざまだった。ただひたすらに巨大なものもいれば、自分より遥かに小さな虫もいる。大きさと危険度には何の関係もなく、生物としての尺度が、まるで出鱈目だった。
探索で汚れてきたので、水浴びでもしようかと小さな池へ立ち寄ったときも痛い目を見た。周囲を確認し、池の中に怪しい生き物がいないことまで確かめてから足を入れたというのに、脛へ全長一、二センチほどの小魚が数十匹も群がり、一斉に食らいついてきたのだ。
あれだけ入念に池を調べたにもかかわらず、これである。
透明になっていた、とでもいうのだろうか。
レミリアが呆れている間にも、小魚たちは皮膚を食い破り、そのままぐちぐちと肉の中へ潜り込もうとしてきた。だが、妖怪たるレミリアの肉体に、小魚たちは耐えられなかったらしい。しばらくすると、魚たちは体内でばたばたと暴れた末に力尽き、次々と傷口から押し出されて水面へ浮かび上がってきた。
折角なので観察してみた。円筒状のたらこ唇。その奥には、ぎざぎざとした細かな歯がびっしりと並んでいた。
「どうせ、そのまま頭まで上がってくるつもりだったんでしょうね」
そんなことが叶うはずもないが。
どうやら、この大陸の生物は皆、何かしら特殊な力を持っているらしかった。彼の記憶によれば、それらが「念」に由来するものであることは分かる。しかし、知識があるだけで、レミリア自身がその力を身につけたわけではなかった。もっとも、身につけなくても何とかなっている。そういう意味では、今すぐ必要に迫られているわけでもない。
本当に鬱陶しい場所だった。時間が進むたび、何かが起こる。しかも決まって、自分を不愉快にさせることばかりだった。
紅茶もない。
館もない。
ただただ、不快な時間だけが過ぎていく。
最初は楽しいかもしれないと、そう思っていた。近頃は本格的に身体を動かしていなかったし、ここには歯ごたえのある怪物が溢れている。だが、何事にも限度というものがある。こうも休みなく襲われては、たまったものではない。水浴びさえ、ゆっくりできないのだ。
森を抜け、外界へ通じる手がかりを見つけ出したい。そう考え、再び闇を切り裂いて進もうとした、その瞬間だった。
漆黒の翼が、ぴくりと痙攣した。
「――な、に……?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。
胸の奥底。消し去ったはずの、あの男の残滓が、まるで熱した油を注がれたように激しく沸騰し始めたのだ。
――殺せ!
――殺せ!!
――近くにいる奴を、今すぐ、骨まで叩き潰して殺せ!!!
「っ……うるさいわね……!」
レミリアは己の胸を強く掴み、その場で足を止めた。
これまでにも、彼の記憶や残滓が自分へ影響を与えている自覚はあった。しかし、その感情のほとんどは凡人らしく、安全第一で、お人好しなものだった。
吸血鬼としての気高い精神なら、こんな安っぽい感情など一瞬で握り潰せたはずだった。だが、身体に残った彼の残滓が、その殺意へ食らいつき、際限なく膨らませていた。
全身の血管が、自分の意思とは無関係に熱く脈打つ。身体の妖力が高まり、爪と牙が鋭く伸び始める。獲物を美しく狩る吸血鬼のそれではない。ただ、目の前にいる生命をずたずたに引き裂くことしか頭にない、剥き出しの獣の姿だった。
美しくない。
レミリアが最初に抱いた感情は、それだった。紅魔のカリスマたる自分が、自分を制御できない。人に恐れられるべき妖怪が、人の衝動に支配されようとしている。
何より、品がなかった。
だが、レミリアがどれほどそう考えようとも、衝動は止まらない。
殺したい!
殺したい!!
殺したい!!!
誰を?
周囲には誰もいない。
誰でもいい。
とにかく、誰かを殺さなければならない。
レミリアは近くの水面へ目を向けた。
先ほどまで泳いでいた小魚は、すでに死に絶えている。
しかし、水面にはまだ生命が映し出されていた。
目を紅く染め、血管を浮かび上がらせ、爪を鋭く伸ばした少女。
それは、レミリア・スカーレットだった。
右手の爪が、自らの首へかかる。
まずい。
レミリアがそう思うよりも、衝動は強かった。
――殺せ。
爪が、自身の首を掻きむしった。
血飛沫が飛び散り、地面とドレスを汚す。首の肉が削れ、そしてすぐに再生した。殺意は思考を奪い、彼女を最も原始的な攻撃へ駆り立てていた。
がり、がり、がり、がり。
「あぅ……っ、あたたたっ! ちょ、ちょっと、痛い……!」
命に関わるような傷ではない。
痛みも、耐えられないほどではなかった。
だが、痛くないわけではない。
「と、止めないと……!」
レミリアは周囲へ赤い霧を散布した。
何らかの能力によるものであることは確かだった。
近くにいるのか。どこかで、自分を見ているのか。
霧を薄く伸ばし、周囲を探索していく。彼の知識によれば、これは念における「円」と呼ばれる技術に近いらしい。
じっとりとした風が吹き抜ける。
だが、見つからない。
◇
それは、眠っていた。
近くに、奇妙な生命の気配を感じ取った。
強い力を持っている。
とてつもない肉体だ。
それなのに精神に、あまりにも大きな隙間がある。
これほどまでに肉体と精神がアンバランスな生物がいるのだろうか。
まあいい。
蛇はそう思い、能力を使った。
殺意を伝染させる。
生物同士を殺し合わせ、最後には自分で自分を殺させる。
蛇はそうして死んだ獲物を漁ることを、日常としていた。
見事に引っかかった。
あとは待つだけだ。
そう考えた蛇は、静かに地面の下へ潜っていった。
◇
駄目だ。見つからない。
レミリアは、少し焦っていた。
手の動きは、完全に自分の制御を離れつつある。
がり、がり、がり、がり。
首を引っ掻く動きは止まらない。自分の精神の一部までもが、殺せ、殺せとけたたましく叫んでいる。眠っている耳元で、ひたすら目覚ましを鳴らされ続けているような不快感だった。しかも、その音はどんどん大きくなっていく。どうやら、殺意は一定ではない。何かをきっかけに、倍々に増えている。
彼の残滓が、自分にここまで強い影響を与えるものだろうか。
彼を取り込んだときのように、レミリアは意識をさらに深く沈めた。
すると、殺意が膨れ上がる中心に、何かがいることに気づいた。
殺せ。殺せ。殺せ。
「分かりやすいったら、ありゃしないわ」
頭の中に、針のように小さな蛇が群がっていた。
小蛇たちは、思考を司る場所へ牙を立てている。彼の記憶がざわめくたび、殺意が膨れ上がった。
「こいつらね」
レミリアは身体を赤い霧へ変えた。
皮膚も、骨も、血肉も、頭部を形作っていたすべてが崩れ、無数の赤い粒子となって宙へ散る。すると、霧へ変わらなかった小さな蛇たちが、頭部のあった場所からぼとぼとと地面へ落ちていった。
蛇たちは地面の上でうねうねと身をよじっている。
「これも、念能力ってわけね」
そう思い、レミリアは霧を集め、再び元の姿へ戻った。
その瞬間だった。地面の上で蠢いていた蛇たちが、一斉に消えた。
「え?」
次の瞬間、頭の中で何かが蠢いた。
戻っている。
小さな蛇たちは、再び頭部の内側へ転移していた。
霧化によって肉体から追い出しても、元の姿へ戻れば、また頭の中へ現れる。
同時に、殺意が再び膨れ上がった。
――殺せ。
レミリアの右手が、また自らの首へ伸びる。
「本当に、しつこいわね……!」
霧になって追い出しても、元の姿へ戻ればまた現れる。
頭部を形作るたび、蛇も一緒に戻ってくる。
「――ああ。頭があるから駄目なのね」
こうなれば、やりたくはないが、仕方がない。
霧化では傷つけられなかった。ならば、頭部ごと妖力で焼けばどうなるか。
右手に紅い魔力を集める。
やがて、血のように赤い投槍が形作られた。
――スピア・ザ・グングニル
「こんなこと、したくないんだけど……」
そして、躊躇なく突き刺した。
紅い閃光が弾けた。
頭部が内側から吹き飛び、血と骨と赤い霧が周囲へ撒き散らされる。
同時に、何かが燃えるような音がした。
小さな蛇たちが、頭部ごと妖力に焼かれていく。
やがて最後の一匹が燃え尽きると、彼の殺意は嘘のように消えた。
頭部を失ったレミリアの身体は、そのまま力なく倒れ伏した。
◇
能力によって獲物の頭へ仕込んだ蛇たちが死んだ。
蛇の経験では、初めてのことだった。
そして驚くべきことに、その獲物はまだ生きていた。
何が起きたのか。確かめたいという気持ちはあった。
だが、蛇は慎重だった。
だから、静かにその場を後にした。
獲物を仕留められなかったのは残念だ。
だが、ここは暗黒大陸。
蛇もまた、この地に生きる生命のひとつに過ぎなかった。
◇
しばらくして、レミリア・スカーレットはゆっくりと起き上がった。
グングニルで吹き飛ばした頭部はすでに再生し、見た目だけなら、いつも通りのお嬢様姿に戻っている。
レミリアは首を回し、軽く肩を鳴らした。
「やかましい音だったわね」
レミリアは耳の奥を確かめるように、小指を入れた。
彼の記憶も、ようやく落ち着きを取り戻したらしい。
「自分の頭の中に、あんなものがいたなんてね。本当に、この大陸は何でもありだわ」
レミリアは額へ手を当て、わずかに顔をしかめる。
「どうやって入れられたのやら」
――念能力。
彼の記憶が、そう答えた。
「そんなことは分かりきっているのよ。他に情報はないの?」
――
何も浮かんでこない。要するに、わからないということだ。
「なんでそうなるのよ……」